第43話 ジャスティーヌ襲来の前夜
私はアルフォンスに願い出て、呼び寄せてもらった言語学者とともに屋敷に帰った。
昨日、侍女長のローザは当初クリスタルの専属侍女、今はマノンの補佐に当たってもらっているミレイを連れてきた。
「明日、マノンさんを買い出し要員として使いに出してもよろしいでしょうか」
ローザの横にいるミレイが私にそう願い出た。
「私の姉が来ることを承知で言っているということは、君は……マノンに何かしら不信感を抱いているということか?」
「はい」
彼女が思いの外あっさりと頷いたことに少なからず驚いたが、ローザは彼女を信頼しているのだろう、ただ黙って見守るのみだ。
「クリスタル様はマノンさんに反対の言葉を教えられているのではないかと思いましたが、確信はありませんでした。しかしクリスタル様がお怪我された時の状況で疑惑がより深まりました」
「ああ。あの報告だな。侍女のルディーが事故直後を見たという」
ルディーは、クリスタルが踊り場まで落ちた時、上からマノンが下りてくるのを目撃したと言う。マノンはクリスタルが彼女の背を追って階段を下りたと言うのだから、クリスタルの後から下りて来てはおかしい。
「はい。ルディーは、マノンさんがクリスタル様を突き落とした瞬間を目撃したわけではありませんので、彼女が犯人だと断言することはできません。だからこそクリスタル様に直接確かめたいのです。しかしマノンさんがいる限り、必要以上の接触は難しいです。明日なら買い出しを理由に、マノンさんをクリスタル様から引き離すことができます」
「私から尋ねてもいいが」
するとミレイは首を振った。
「クリスタル様にとってマノンさんはこの屋敷での、いえ、この国での心のより所になっていると思います。それを旦那様が、まだ疑惑の段階でクリスタル様に不安感を抱かせるような発言をなさるのは好ましくありません」
「分かった。では私が適当な理由をつけてマノンに指示しよう」
「ありがとうございます」
ミレイが確かめたいことは二つ。一つは言葉。もう一つは、私が当初用意していた服を見せた時の反応だ。
マノンは、クリスタルの指示により私が用意した服を趣味が合わないからと全部処分するようにと言ったそうだ。場の空気に気が付いたクリスタルが、全部を三枚に変更し直したらしい。奇妙な提案を不審に思い、ミレイはそれを処分させず、いつかの時のためにと彼女の部屋に保管していたとのこと。
「侍女がクリスタルに贈った菓子の件もそうだが、彼女が人を不快にするようなことを口にするというのは、ずっと不可思議に思っていた。もしかしたら言葉の行き違いがあるかもしれないと考えてはいたが、君の報告を受けて、アルフォ――王太子殿下に言語学者を要請した」
言葉の行き違いがあったと言うのならば、その原因はマノンしかない。しかし、クリスタルが唯一心を許していたのは彼女だけのように見えた。だからクリスタルを傷つける存在であってほしくなかったというのが本音ではある。だが、そのせいで目を曇らせてしまったのは完全に自分の失態だ。
「マノンの父、マルセル・オランジュはグランテーレ国の政権を批判したが、呆れるほどの人格者で、個人を憎むような人間ではなかった。だが、家族もそうだとは限らないな」
私は重いため息をつく。
「もし反対の言葉を教えられていたとしたら、私の気付かぬ所で彼女はずっと嫌がらせを受けていたということなのか」
「はい。マノンさんからの指示を受けて味の薄くなった料理をさらに薄く、低くなった湯浴みの温度をさらに低く、ご自身が要請していたことになります。悪意ある花言葉を持つお花を部屋に飾られたことなどもそうですが、ご本人が不満を訴えなければ誰にも察することができないような人から見えないものです」
「悪質だな」
「はい。一方で、もし感情的に何度も訴えかけていたならば手に負えない厄介な人間に見えたことでしょう。どちらの行動を取っても良い状況ではありません。クリスタル様は味も温度も一度だけお願いされましたが、それ以降は不満を口にされることはありませんでした。しかしルディーの報告を受けてこれ以上、静観するべきではないと思ったのです」
そういえばクリスタルは料理を口にして一瞬止まった時があった。ヘルムートに改善を願い出たのに改善されていなかったどころか、余計に悪化していたからか。
「湯浴みの温度に関しては、さすがにそれ以上低くするわけにはまいりませんでしたので、マノンさんに警戒されるのを覚悟で温度を上げさせていただきました。クリスタル様のご様子を見ていたら、自分の判断は間違っていないと確信しました」
「そうだな。第一、入浴はそれまでその温度で何度も入っている。熱いと感じたなら、二度目から願い出るはずだ」
「はい。一方、湯に手を入れたマノンさんはわずかに眉をひそめていました。低くなっていないと思ったことでしょう」
ミレイを湯浴みの補助に付けて良かったということだ。
それにしてもクリスタルには背中を押された感覚があったはず。しかし誰にも相談しなかったのは、希望を願い出ても改善されなかった経緯があったからなのか、あるいはマノンだけには相談していたのか。それとも彼女の生い立ちによるものか。
何にせよ、言葉が通じないとは言え、彼女に頼られる人間になりきれなかった自分を腹立たしく思う。
「君はいつからマノンを不審に思っていた?」
「クリスタル様がサンティルノ語でご要望をおっしゃるようになった頃から少し違和感を覚えていたのですが、明確に不審に思ったのは宝飾品を選んだ日以降です。クリスタル様はお高い物を選びたくはなかったのでしょう。一番の高級品だと知って青ざめていらっしゃいましたから。その傍らでマノンさんが薄ら笑いを浮かべていたのです」
なるほど。本人が青ざめているのにそれを面白がっていては、不審に思うのも無理はない。
「マノンさんとご相談されていましたし、もしかしたら間違った方向に誘導されたのではと思いました」
「そうか」
「はい。旦那様もご助言なさっていませんでしたので、クリスタル様はさぞかし気まずい思いをされたことでしょう」
モーリス、ローザ、ミレイからどこか批判めいた目で見つめられている気がする。
こちらのほうがきまりが悪くなって、私は一つ咳払いする。
「とにかく明日だ。できるだけ早く言語学者とともに家に戻るから、クリスタルと姉のことを頼む」
「はい。かしこまりました」
彼らは態度を改めて礼を取った。
そうして今日という日を迎えたわけだが、ミレイにわずかに開かせておいた扉から聞こえてきた身勝手な内容に、感情を含まない淡々とした言語学者の言葉ながら、血が沸騰するような激しい憤りを感じた。途中、モーリスに腕をつかまれなければ何度飛び出していたことだろう。
「あなたの顔が苦しみと屈辱に歪むその日まで!」
マノンのその言葉にモーリスの手を払って私は中に入った。
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