馬鹿野郎、私は生きているぜ

白浜 台与

第1話 馬鹿野郎、私は生きているぜ

「馬鹿野郎、俺は生きてるぜ」


今よりうんと若い頃に見た映画「パピヨン」の主人公のセリフ。


無実の罪で終身刑となった男、パピヨンが孤島から何度も何度も脱走を図り失敗した時、死にそうな時にスティーブ・マックイーン扮する彼が呟く台詞だ。


昨日は一日寝逃げをしたせいか入眠剤を飲んでも夜中一時半に起きてしまい寝付けず今に至る。


首と脳天がズキズキして食べては吐く。今夜の眠剤飲んだら苦しみは終わるぞ。と解ってても相当苦しい。


このレベルの辛さの時に決まって呟くのが上記の「馬鹿野郎、俺は生きてるぜ」


である。


自分一人の面倒を見るのがそろそろ無理そうになってきたので今この時だけ書いておきます。


(昨年末の入院以来もう一人で意地張るの無理かなあ、と半ば諦め)


4歳の園児の頃から人が怖かった。友だち、ではなく攻撃してくる個体と判断して必ず吐く。泣いて助けを求めた。


保育士は私を叩いて「こんな我儘な子になっちゃダメ」と晒し、親は笑って「被害妄想」と済ませた。


行楽行きで車に乗っては吐き、他人に警戒を解かない私を「いちいち外に遊びにも行けない」と親は持て余し、一時期祖父の元に預けた。


園児から小学校低学年まで何回自家中毒で病院に運ばれたか判らない位。たぶん50回以上は行ったんじゃないか?


祖父は私がどんな悪戯をしてもタクシーの中で吐いても決して私を叱らなかった。


祖父の家の中では自分は守られている。と安心感があり症状は起こさなかった。


小学校では一学年ごとに一人だけ友だちを作らるようにはなった。が、クラス替えでそれは終わる。


たまに畑に突き落としたり頭に石を投げてくる攻撃してくる男子が2.3人は居たがほとんどは優しくいい子たちであった。


やがて中学生になると急に試験、部活等のストレスに晒され帰宅後ソファに倒れ込んで起き上がれなくなり、急な吐き気が再開する。同級生に対する恐怖も増し、動悸が起こる。


今ではパニック症状と言われるそれであるが平成元年頃にはそのなような症状を起こす生徒への対処法が出来ていなかったのだろう。


当時29才の担任は「甘えを治せ、人に心を開け」と指導するだけ。

それから自然発生的に無視が始まり私は週に2日は休む半分不登校状態となった。


当時商売をしていた母は「特待生になってもらって学費をケチる当てが外れた」と私の心の問題については徹底無視した。


店の資金繰りしか頭に無い人だったから私にお金をかけたくなかったのだろう。心療内科が無い時代なので隣町の精神科で診てもらうのは田舎町ではすぐ噂になる。


今では決して言えない四字で「お願い、早く普通になれ!」と叱りつける以外何の処置も無かったし、私が園児の頃から仕事と浮気に逃げて小さい私を布団で窒息させて泣かせて喜んでいた父に助けを求めるのは無理だ。


高校受験を前に「お前の漫画の読み過ぎのせいだ」と悪態をつきながら眼鏡を作ってはくれた。


なんとか地元の公立に合格して高校生活が始まったが中学での評判が広まってか近寄って来るクラスメイトは無く、とうとう授業中の教室でパニック発作を起こすようになり苦しくなりかけると挙手してトイレの個室に逃げ込むようになった。


なんで、なんでつまずいてばかりなんだろう…とトイレの個室で一人泣き、保健室に行く回数も増えた。


店の資金繰りが厳しくなって母が方々に借金するようになったので大学進学はもう諦めていた。


「美容師学校か看護学校に入ってもらってあんたみたいな面倒くさい子放り出す」


と小学生の頃から繰り返し母は言っていたから。


なんとか高校は卒業して人に慣れるためコンビニや店員のバイトを始めたが金銭を遣り取りする客はもっと怖い。


金の為、と頑張り過ぎては吐き気でトイレに籠るを繰り返しバイトは半年ぐらいしか続かず。


19の頃、唐突に父が死んだ。きっと母の精神的圧迫に耐えられなくなったのだろう、


20歳の時教習所に通って失敗して何度も泣きながら車の免許を取得した。


パニックを起こす若者の扱いに慣れているベテランの教官に「ちゃんと見てれば、運転は怖くない。踏んで、走る」という優しい指導に励まされて仮免6回、実技一回で合格した。


その頃のバイト先の歯科医院の院長は精神医学を学んでいた人だったため、


「まずはやるべき事を覚えて、ゆっくりとでいいから」


と電話応対も事務仕事も少しずつ慣れ、仕事の初歩の対人スキルはそこで身につけた。


まずは自我を保って、笑顔でやんわりとした障壁を作る。


乗り物酔いも手の震えも次第に無くなっていった。


その歯科医院も不景気で閉院となるが芥川龍之介や五木寛之等の本をたくさん貸してくれた院長には感謝している。


父が亡くなり鬱状態になっていた母が痛みを訴えるので病院に連れて行くと癌だった。半年後に母は亡くなり借金も保険金で返した。


その後で働きながら学校に通わせてくれる病院に仕事を見つけて就職する。


介護の現場だったので肉体的にハードだったが精神的には楽だった。一人面倒くさいヘルパーの先輩はいたけど。


その頃から不眠症と高血圧になり、主任の紹介で初めて精神科クリニックに通うようにる。


「あなた鬱よ」と眠剤と安定剤を処方される。


看護学校に通うようになって遅まきながら同級生と青春もどきを謳歌する。


実習に入る頃から安定剤の量が増える。


精神薬飲みながら実習受ける同級生が何人かいた。


何とかかんとか看護学校卒業。資格を得る。就職してひとり夜勤で何度かパニック起こして慣れるまで昼勤にしてもらう。風当たりは強かった…


半年後、喘息発作と幻覚が見えるようになって安定剤の量さらに増える。婦長がいつも心配そうに見てくれていた(汗)


安定剤の飲み過ぎでトイレの個室で倒れ、幻覚、幻聴強くなる。


「精神的な事で退職なんて聞いた事ない」と事務長に散々悪態つかれたが自主退職。


看護職から離れて思い切って沖縄に行き、そこで観光の仕事を得て働いていた四年間は精神薬いらずだった。


けれど、接客中に笑顔を無くして自分の鬱はちゃんと治療しなければ治らない。と地元に帰る決意をする。


クリニックに通院しながら菓子工場などなるべく対面を避ける仕事してきたが…幻覚と幻聴が酷くなって大きな病院に診てもらおう、と行った先で初めて


統語失調症と抑うつで入院が必要と言われ、3ヶ月の入院の後手帳を取り、十一年間通院しながら生きてます。


ああ、統合失調症だったのか…と主な症状を聞いて子供の頃からの不調を生まれて初めて自分で受け入れた。


自分の場合は人と仲良くなろうとすると症状が悪化する傾向があるので…


寂しいけれど自分の面倒しか見切れないんだ。


と割り切って心と体を平静に保とうとしてます。


ネットの上でもチャットは怖い。SNSでも仲良くなれそうな人に自分からお別れしてしまう。


コロナ禍最初の年にTwitterを初めたけれど、文字が理性を壊すクラックコードのように脳内に入って来る感覚が怖くなって3ヶ月で辞めたの計2回、


親しくなりかけたユーザーさんにとある事で怒っている事を伝えて縁切りした事をきっかけにSNSをしない事に決めました、


彼女によく似た環境の近所のマダムから「この立ち直れない屑」と罵られたのが本当の所です。すぐに血尿が出て情緒不安定になりました。なんとか入院しないで済んだけれど。


ユーザーさんの作品読んで母親にされてきた事がフラッシュバックして死にたくなり、怒りを伝えなければ自分を保てなくなっていたんだ。


あの時は本当に八つ当たりでした。すいません。


今こうして不眠で頭痛に耐えながらもなんとか読者さんへの暇つぶしを提供する事で、


疫病だの戦争だの叩きだの世の中にはびこる全ての悪意に対して…


「馬鹿野郎、私たちは生き残ったぜ」


と冒頭の脱獄囚のように宣言してやることでやっとマスク緩和出来そうな今日まで、なんとか一人で生きている。


補足


作品は何とかしたいが、いざ売り込むとか応募するとかの段階で急に人との関わりが増えるのが本当に本当に怖いんだ。


状態が悪化するから。


誰からも拾ってもらえないクズ物書きだけれど、編集者と関わって本を出版して幸せになれる時代か?

と自問したら残念ながら、虚飾で飯を食う時代は終わったのでそれは難しいと思う。


できれはいい人と出会えればいいんですけどね。


せめて嵯峨野の月とスイハンジャーだけは好きに書かせて下さい。


この記事を書き終えた今、やっと頭痛が取れました。


長い病歴を読んでくれてありがとうございます。


もう隠すのには疲れました。


これからは無理せず体調と相談しながら書き進めてあきます。


必要ならば一区切り付けて

書くのをやめる。

を選択肢に入れました。











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馬鹿野郎、私は生きているぜ 白浜 台与 @iyo-sirahama

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