第31話
「その後、何かお変わりはありませんか?」
飲み物とつまみを一通り注文した後で、裕作が口を開いた。
亜由美はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、残念ながら。特に変わったことはありません。強いて言えば——」
「強いて言えば?」
裕作が少し身を乗り出すと、亜由美はさらに大きく首を振りながら
「本当に大したことではないんですけど。
家の整理をしていると、比較的最近旅行カバンを使用したような形跡があって。
そういえば、病院で記憶喪失の診断を受けて最初に家に帰ったとき、不自然なくらい家に食べ物がなかったんです。
だから、もしかしたら記憶を失う直前に長いこと家を空けていたのかな、という気がして」
と言って肩をすくめ、何の手掛かりにもならなくて申し訳ないのですが、と付け加えた。
「申し訳ないなんて、そんなこと仰らないでください。
今みたいな小さな気づきの積み重ねが記憶を取り戻すきっかけになるかもしれません。
今日こうしてわざわざお時間作っていただいたのも、こういう話をするためですし。
むしろ私の方こそ、特に進展も無いのにお呼びだてしてしまって」
裕作は、そう言いながらちらりと鞄の方に目をやった。
中には紐付け針が入っている。
今回は針の先端にキャップもつけて、準備は万端だ。
「そういえば、先ほど『病院で記憶喪失と診断を受けて最初に家に帰ったとき』と仰っていましたが、只野さんはどういった経緯で病院に行かれたんですか?救急車で運ばれたとか?」
店員が運んできたつまみと飲み物に口をつけながら裕作が尋ねると、亜由美は虚をつかれたように目を見開いて、やがてその目を細めながら答えた。
「いえ、自分で病院に行ったんです」
「ご自分で?」
「はい。ある朝目覚めたら、ここがどこで自分が誰なのか、何も分からなかったんです」
「——えっと、それはどこで?あ、つまり目覚めた場所は一体どこだったのかという質問なのですが」
「自宅です。目覚めたときは見知らぬ場所だと思っていて、あとで身分証の住所を見てあれが自宅だと知ったんですけど」
「なるほど」
「それでどうしたものかとしばらくは家の中で途方に暮れていたのですが。とりあえず外に出てみたらすぐ近くにコンビニがあったので、店員さんに最寄りの病院を聞いて、自分で病院に行って」
「病院の先生もさぞかし驚かれたでしょうね」
「ええ、なかなか信じてもらえなくて大変でした。そもそも私自身も混乱していて上手く説明できなかったのもありますが」
ふと裕作の頭に疑問が浮かんだ。
「スマホは?スマホはお持ちではなかったのですか?スマホがあれば誰かの連絡先とか登録されているかと思うのですが」
「それが、どれだけ身の回りを探してみても見つからなくて。記憶喪失になる前に無くしてしまったのかもしれません。今は新しく契約したものを使っているんです」
「そうですか」
小さく落胆の色を示す裕作を見ながら、亜由美がふと声を漏らした。
亜由美の顔に目を遣って驚いた裕作は思わず「えっ」と声を上げて、それを誤魔化すように「私、なにか変なこと言いましたか?」と急いで亜由美に尋ねた。
これまでロボットのような表情しか見せなかった亜由美が、笑っていたのだ。
「すみません。なんか今さらだな、と思って。これだけ訳の分からない依頼をして、こんなにお世話になっているのに、こんな大切な情報もまだちゃんとお伝えしてなかったんだなと思ったら、なんだか可笑しくなってしまって」
「ああ、確かに。そうですね」
口元を手で隠しながら静かな笑い声を上げる亜由美に、裕作も表情を崩した。
ひとしきり笑った後で亜由美は「ちょっとお手洗いに」と席を外した。
その隙にと、裕作は鞄から紐付け針を取り出してポロシャツの胸ポケットに入れた。
初めて見た亜由美の笑顔に、驚きと嬉しさが込み上げるとともに、この人の力になれるように頑張ろうと改めて気を引き締める。
「さあ、お願いだから上手くやってくれよ」
と裕作は胸ポケットに手を当てて呟いた。
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