第15話
亜由美に断って、少しだけ席を外す。
裕作は自宅に戻ると二階に駆け上がり、木箱を手に事務所に戻った。
たったこれだけのことで、何キロも走った直後のように息が切れた。
「お待たせしました」
息を整えながら、亜由美の向かいに腰掛ける。
「いえ、それは?」
無表情で木箱を見つめる亜由美に、裕作は
「縁切りに使用するものです。これを使えばあなたの縁について何か分かるかもしれません」
そこまで言って気がついた。
勢いに任せて縁切りハサミを持って来てしまったものの、今日初めて出会った相手に縁切りハサミの存在を教えて良いものだろうか。
急に不安に思い始めた裕作は、
「——ただし、一つだけお願いがあります。あなたの縁を調べる間、私が良いというまで目を閉じていて頂けませんか」
と急いで付け加えた。亜由美はこくりと頷いて
「分かりました。絶対に目は開けません」
と言って、早々と目をつぶってしまった。
裕作は慌てて木箱を開けてハサミを取り出す。良いというまで目を閉じている、なんて簡単に破れてしまいそうな約束でさえこの人は必ず守ってくれる、そう思わせるだけの誠実さが亜由美にはあった。
縁切りハサミを手に、裕作は亜由美を見つめる。
亜由美の身体からは蜘蛛の糸のように細く頼りない縁が数本伸びていた。
だけど、どんなに目を凝らそうともその儚いほんの数本の糸意外に縁は見えてこない。
こんなに少ないはずがない。
どんなに人付き合いが苦手な人でも、完全に人との関わりを避けて生きることは出来ないのだから。
とすれば、失ってしまった縁は縁切りハサミでは見えないということだろうか。
記憶喪失とはいえ、時間経過とともに自然に薄れた縁とは違って突然切れてしまった縁ならば、ハサミを使えば切れ端が見えるのではないか——その裕作の読みは、どうやら外れてしまったようだ。
数本の糸は記憶喪失の後で出会った人達との縁だろう、数少ない縁のうちの1つに「神田裕作」の文字があった。
残念ながら、失われた亜由美の縁の手掛かりは得られそうにない。
右手のハサミがやけに重く感じられた。
裕作は緩慢な動作でハサミを木箱にしまってコーヒーを口に含むと、何か方法はないものだろうかと目を閉じた。
そのまま思考に沈もうとした時、やっと亜由美の存在を思い出し、弾かれたように目を開けた。
亜由美は約束通り目を閉じたままで、変わらずそこにピンと座っていた。
「すみません、只野さん。もう目を開けて頂いて結構です」
裕作の声を合図にゆっくりと亜由美の瞼が開いた。
眩しそうに少し眉を顰める姿に裕作の中で申し訳なさが募る。
「あの——」
裕作は少し言い淀んだ後で
「大変申し訳ないのですが、只野さんが記憶を失われる前のご縁についての手掛かりを得ることはできませんでした。せっかくご依頼頂いたのに、誠に申し訳ございません」
と一息に伝えて深々と頭を下げた。
裕作にとっては永遠にも感じられた一瞬の沈黙の後で、亜由美はそうですか、と川に石を投げるように言葉を落とした。
顔を上げた裕作の前には、相変わらず無表情の彼女がいた。
少なからず落胆があるだろうに全く見た目に表れない研ぎ澄まされたガラスが今の裕作には有り難かった。
「ありがとうございました。どうにか思い出せるように自分で頑張ってみます。あの、それで今日の料金はおいくらでしょうか」
「料金なんてとんでもありません。何もお力になれませんでしたから、お気になさらないで下さい」
ぶんぶんと顔の前で手を振る裕作となかなか引き下がらない亜由美とで暫く押し問答になったが、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
という亜由美の言葉でやり取りは終わり、それでは私はこれで失礼します、とそのまま亜由美は立ち上がった。
「——あの、私の方でも何かできることを探してみます。ですから、またお会いできませんか」
事務所を出ていくピンとした背中に向かって裕作の口から発せられた言葉に、何を隠そう裕作自身が一番驚いていた。
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