第8話

祐作の言葉にキョトンとした表情を浮かべた父は、次の瞬間には袋を持っていない方の手で祐作の頭をポンポンとしながらワハハと豪快に笑った。

「偵察じゃないぞ、祐作。さっきので終わりだ。」

「え?」

終わり?いつの間に——?

「え、じゃない。見てただろ。俺がハサミで切るところ」

「え、あのチョキン?」

「そう、あのチョキンだ」

「でもあれは空振りだったじゃない。何も切れてなかったよ」

「そうか、祐作はまだ見たことないもんな。あそこにな、縁があったんだよ。俺はそれをハサミで切ったんだ」



失望と言うには大げさだったが、それでも裕作は十分にがっかりした。

縁切りは他の誰にもできない凄い仕事なんだ、特殊で複雑で誰にも真似できないような職人技に違いない、そう思っていた。

チョキン。祐作が抱いていた縁切り屋に対する理想と好奇心が切れた音がした。

それでもまだ、チョキンの後の父の不審な行動にあっと驚く職人技が隠されているのではないかと期待して尋ねた。



「ハサミで切った後は何をしていたの?なんか変な動きしてたよね?」

「ああ、あれはな、切った後の縁の端を結んでたんだ」

「結ぶ?」

首を傾げる祐作に父が説明してくれた。

「縁はな、切りっぱなしにしておくと、悪い縁を引き寄せてくっついちまうんだ。だからな、切った縁の端は悪い縁とくっつかないように処理しとかなきゃいけねえ。ああ、もちろん依頼人の方だけじゃなくて縁切り相手の方もだぞ。まあ、処理っていってもただの『固結び』だけどな」

ハサミで切って固結び。それだけ——?



この日の出来事は、まだ中学生だった祐作から縁切り屋に対する憧れを奪い取るには十分で、かろうじて唯一残っていた「縁が見えるようになる」という特殊能力に対する期待も、高校生の頃に酔っぱらった父が放った「ハサミを持ちゃあ誰にでも見える」の一言で完全に打ち砕かれてしまった。

さらに悪いことに、縁切り作業自体に魅力が感じられないだけではなかった。

縁切りの前には、どんなに納得いかない内容であろうと真面目に依頼人の相談に乗らなければならない。

縁切りの後には依頼人から理不尽なクレームを受けることだってある。

そのくせ、誰からも称賛されることもなければ感謝されることもない。

なぜなら、縁切り屋が仕事を終えた時にはもう依頼人は誰との縁を切って貰ったのかを覚えていないのだから。

縁切り屋は裕作が想像していた何倍も地味で、何十倍も孤独で、何百倍も報われない仕事だった。

ああ、そうか。もしもこれから縁切り屋の仕事を始める人がいたら、真っ先にこう伝えるべきだ。

やめておいた方がいいんじゃない、と。



縁切り事務所を併設しているだけでも特異なのに、築70年程の瓦屋根の木造二階建ての自宅は、最近になって新築戸建てが増えてきたこの団地では明らかな違和感を放っていた。

ポストを確認して玄関の鍵を開け、建て付けが悪くなってきている引き戸に少し力を込めると、ガラガラとやかましい音を立てた。

誰もいないことは分かっていながら形式上の「ただいま」を呟いて家に上がる。

古い日本家屋特有の少し涼しく湿ったような空気を纏うこの家が裕作はわりと気に入っていた。

真っ直ぐに台所に向かうと冷蔵庫を開けてビールを手に取り、プルタブをひねった。

ぷしゅっという音が小気味良い。そのまま一気に缶の半分程を飲み干して、ふうと長い息をついた。



いつか縁切り屋の仕事に誇りを持てる日が来るのだろうか。この仕事をやっていて良かったと心から思える日が。

世の中に縁切りを必要とする人達がいることは事実だ。それは認める。

虐待やDVから解放されるため、ストーカーから逃れるため、浮気相手のことを忘れるため。理由は様々だが切った方が幸せになれるであろう縁は確かにある。

しかし、こういう本当に縁切りが必要そうな人に限って自分から縁切りしようとは考えないようで、見るに見兼ねた家族や友達に引きづられるようにして裕作の元にやってくるケースがほとんどだった。



一方、戦に向かう将軍のように自信たっぷりに事務所の扉を叩く依頼人に限って、本当に縁切りする必要があるのだろうかと疑いたくなるような内容ばかりだ。

縁切りを軽く捉えすぎている。そんなに簡単に切っていい縁なんて一つもないのに。

切った方が良いであろう縁はあっても簡単に切って良い縁はない。縁ってそういうものじゃないのか。



ハサミでチョキン。実際は小学生にだってできそうな程簡単に切れることを知っているからこそ、こんなにも反発したくなるのかもしれない。

とにかく軽々しく縁切りを申し込んでくる依頼人のことを裕作はどうしても好きになれなかった。

今回だってそうだ。べつに太って禿げヅラでやたら偉そげだから気に食わないっていうわけじゃない、——たぶん。



いつの間にか空になったビールの缶をぐしゃりと握りつぶしてひょいと投げると、缶は吸い込まれるようにゴミ箱におさまった。

「ナイスシュート」

無駄に明るい声を上げてみる。

ねばねばした苦味だけが口に残った。

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