陶酔と狂乱③
――覚悟を決めて、鍵を開ける。
勝負はきっと、五秒とかからない。
「…………っ」
引き戸の向こうにいる藤原紫貴も、罠だと警戒しているのだろう。しばらくは空気が凪いでいた。
――それが変わったのは、引き戸が細く開かれてから。
「みつけた」
隙間から咲弥を視認した藤原紫貴は、一気呵成に扉を全開にすると携えた刃物を振り
「きとうさく――、!?」
が、それも真っ赤に濁った視界に阻まれる。
引き戸が開かれる死角に潜み、相手が咲弥に向かって殺到するだろうという予測の元に、注目の外に免れていた俺――その手が顔面に被せた、咲弥の
一瞬の、しかし決定的な動きの滞りは、致命傷となった。
「がッ……!?」
短くも助走をつけた咲弥の飛び蹴りが、容赦なく腹部に突き刺さる。
吹き飛ばされた藤原紫貴はソファの背もたれの上を跳ね、転がり、そして意識ごと床に落ちた。
「せーこー!」
したり顔で咲弥は飛び跳ねる。曲がりなりにも同じ学校の生徒を蹴り飛ばしてする反応ではない。お嬢さんは相当肝が太くて細かいことを気にしない
「ね? 言ったとおりだったでしょ?」
「まあそうなんだが……」
……咲弥の作戦はこうだ。
刃物を持っていようと――たとえ拳銃を所持していたとしても、どんな武装していようが
ならば簡単。頼りの視覚を塞いで隙を作り、出し抜けばいいだけのこと。結果的に、猪突猛進な彼女には効果覿面だったようだ。
「しっかし……」
一介の女子高生に出刃包丁を持たせて特攻だ。友達すらまともに殴ったことがあるかどうかも分からない少女相手に、とても正気の沙汰とは思えない。
そして、なにより狂気じみているのが――。
「ここ、三階だぞ……」
このマンションは、一階がエントランスと駐車場を兼ねており、一〇一号室は二階からとなっている。窓は、鍵目がけて破壊されていた。
明らかに少女が身一つで昇ってきたにしては高すぎる。そして直前まで通話していたのだから、あまりにも早すぎる。
ならばこの下に、事件の犯人である吸血鬼がいるかもしれない――空想と割り切るには現実的なイメージに、背筋が凍る。吹き込んできた秋風の冷たさが、余計にそのイメージを強固にした。
その時、
「…………?」
ふわり、と香る花の匂い。
季節的にキンモクセイか? とも思ったが、なにか違う気がした。
藤原紫貴のつけていた香水だろうかと目を向けてみれば、咲弥が窓辺に歩み寄っていた。
「不思議な気分だわ」
歌うような、朗らかな声音。まるで踊るように優雅な仕草で、壊されたガラスの縁をなぞる。
当然のことながら、たおやかな指先からは赤い血が滴った。
「人から殺意を向けられるのって、凄くドキドキするのね――」
それをチョコレートのように舐め取りながら。
「――まるで、恋をしてるみたい」
うっそりと、咲弥は赤面して微笑んでいた。
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