【パイロット版】ストロベリィ・チョコレヱト・カァニバル
羅田 灯油
起きて見る悪夢
――扉を開けると、粘ついた空気が糸を引いたような気がした。
さながら、とろけたチョコレートのよう。暗澹たる暮らしの闇は、生活臭も重く淀ませる。空気はすっかり凍てついていた。俺はそのまま靴を脱がず、一歩一歩廊下を進んだ。
招かれざる客にもかかわらず、床材が軋む様子は一向にない。忍び足をしているとはいえ、玄関にあった車椅子が通っても悲鳴一つ上げないだろう。ところどころ剥げた壁紙に対し、廊下の床はリフォームしてそう時間が経ってないのか、真新しく見受けられた。
真新しい廊下には、これまた真新しい睡眠に耽るお巡りさんが、いち、にい、さん、しい、ご。気が抜けない今、数えるのが片手で済んで助かった。
最初に異常を聞きつけた勤勉で不運な人と、二人一組で突入した人と、それが戻ってこないと知って一層装備を整えて突入した二人一組の人。
無礼を承知で跨いで、奥へと更に進む。
言い表すならば、悪魔の食道。
そして辿り着いたのは、色々あって見覚えのある近代的な引き戸だった――ここから先が、悪魔の胃袋というわけだ。
「……ああ、警察の方ですか?」
引き戸を開けると、かさついた響きが出迎えた。
「――――」
「ああ、違うのですね」
なにか
言いようのない
違和感が
「……お前が
しかし、あまりにも些細な曖昧模糊に気を取られている暇もなく、招かれざる客を家の主人が出迎えた。
「そうです。私が、副島麟太郎です。
警察でないとすると、やはり、殺し屋とかでしょうか。
いまいち想像がつかないので、的外れなことを言っていたら、すみません」
「近いようで遠い」
部屋の中にいたのは、ごく普通の成人男性だった。歳の頃は壮年くらいか。電動ベッドの足元で、もたれかかるようにうずくまって膝を抱えている。
「ああ、そうでしたか。
当たらずといえども遠からず、それでも構いません」
あくまで一般論だが、壮年期に当たる四十代五十代といえば、働き盛りと言われる年代だ。定年が後ろ倒しになった昨今、少し古めかしいイメージかもしれないが、重要なポストに就いて精力的に働いているという意味では同じだ。
「来たのが、警察でも殺し屋でも、構わないんです……なにせ私は、」
しかし男性の
染められていて然るべきまだらな白髪。ひび割れた唇。皺が深く刻まれた目元の隈、その黒が、薄暗い部屋の中でも特に目立つ。
「母を――殺して、しまったのですから」
電動ベッドの上。
黒ずんだシミの中央に横たわっていたのは、かつて人だった肉片の集合体。
「離れて一人暮らしをしていた母が、
認知症だと診断されて、
介護を必要とするまで、
そう時間はかかりませんでした。
それから先は、介護と仕事、
二足の草鞋を履く生活になりました。
慣れないなりに、両立してきたつもり……
でしたが、
辛くて、辛くて、
食事も喉を通らなくなって、
うまく眠れなくなって、
うつ病だと診断されました。
いわゆる、介護疲れって奴です」
それは懺悔というより、法廷で罪状を述べる様子に似ていた。
「特に、眠れないのが、辛かったです。
起きたら、母の介護をしなければならない。
布団の中にいる時だけが、私だけの時間でした」
不眠の影響だろうか、なにより焦点のぼやけた瞳が、男の味わった絶望の深さを物語っていた。
「けれど、それでも、
理由があったにせよ、
やはり私は、母を殺すべきでは、ありませんでした。
辛かった、楽になりたかった、
ただ、静かに眠りたかったは、理由になりません」
声色もくぐもった低さで、抑揚がない。のったりとした速度で、口を挟みづらいと一瞬でも思ってしまったのが――運の尽きだった。
「私は……罰して、ほしかった」
情動が紙より薄い。迷える子羊のようなか弱さだが、この壮年男性は見かけによらず、武装をした警官を無力化している。状況を鑑みれば、事態は一刻を争うのだと頭の中で警鐘が鳴った。
「だから、私は、
貴方が罰してくれるのであれば、
それで、
それで……」
「残念ですけど、生憎と俺なんかじゃあんたの罪は裁けない。告解は閻魔様にでも……って、告解はキリスと、きょ」
ぐりん、と。
「ああ、結構時間、かかりましたね」
視界がぼやけ、ひずむ。
絵画に水を垂らして、絵具が滲み、紙の繊維が吸ってふやけた時のような光景。
「な、――――」
頭が重い。四肢は鉛もかくやと自由を失い、屈した膝をつく。衝撃で吹き飛んだ眼鏡が床を転がった。
――――眠い。
「あのお巡りさん達よりも、耐性かなにかが、あったのかもしれませんね……それも、今はどうでもいい、ですが」
頭蓋を内側から震わせるような、ふわふわとした音の響き。
長時間電車に揺られている時か、あるいは朝礼で校長先生の長話を聞いている時を思わせる。
「やっと、自由になれたのに、
邪魔するだなんて、酷い人達ですよね……。
私が、介護に苦しんでいた時には、
誰も、助けてくれなかったというのに」
そうか、声か。
この母親殺しは、会話の速度や声の響きで人をおぞましい眠りへと導く怪物か。
「その声で、母親も殺したってことか……っ」
「……結構、というのは、撤回しましょう。
かなり、貴方は楽になるのが、遅いらしい」
可哀想に、と怪物は白々しくのたまう。
「いいじゃないですか。
私には、一向に手に入らなかった尊い眠りを、
貴方達に、無償で、与えているのですから」
「だから『眠らせた連中を貪り食っても許される』とでも?」
「……貴方は、殺し屋ではなく、悪魔祓いですか?」
「近いようで、とお、い」
より正確に言うのなら、殺し屋でも悪魔祓いでもなく、特殊な解体専門業者なのだが。
「まあ、いいです。
そろそろ私も、お腹が空いて、
致し方ありませんので。
六人食べたら、腹の虫も収まるでしょうし」
強がるが、
眠れば死。極寒の雪山よりも分かりやすい
「マぅ、った……な……」
――それでも、命綱の武器は死んでも手放さない。
睡魔の責め苦に喘ぎながら、ひと握り残された矜持がギリギリの縁で持ち堪える……しかし、それもかなり厳しい。
「まず、一番脅威になりそうな、貴方から、食べましょう。
その手に持っているものは、
素人目から見ても、
あまりに危険だ」
指先一つ動かせず、
食指が伸びる。
人間と変わらない、しかし人間ならば忌避する食人を求めるほどに人間離れしてしまった怪物が、俺の血を、肉を味わおうと舌なめずりをする。
その時――、
「ぁ?」
――するり、と引き戸が開かれた。
「ヤマト」
独特なイントネーション。そんな名前の呼び方をする奴を、俺は一人しか知らない。
「死んでる? 死んでない?」
涼やかな声だった。ドロドロと
足音に視線を這わせれば、薄暗い部屋に黒い少女が佇んでいた。
今時古風な黒いセーラー服に、傷みのない黒く艶やかなロングヘア。濁りのないまっさらな黒は、あまりにも
「死ん……れ、ねぇ……」
「滑舌は死んでるじゃない。あははは」
干支一周は年上の人間に対して、この口の聞き方だ。いっそ安心感すら覚えてしまうのは、彼女の傍若無人ぶりにも馴染んできてしまった証拠だろうか。
それとも、やっと来た助け船に安堵しているのか――。
「じゃあ、コイツはボクが
家の主が、鮮烈な闖入者を睨みつける。
「マナーが、なってないじゃないか。
こんなことで、叱られるほど、
君も幼くないだろう。
そんな奴より、
まずは家の主人に挨拶するのが、
先決じゃあないのかな?」
「…………」
言葉面だけ見れば、若人の無作法を咎めているだけに思われるが、部屋を充満する殺気が、そんな殊勝なものではないと否定していた。
「嫌な目だ。
『年上を敬え』などと、
老害じみたことは言わないが、
だからといって、
軽蔑の眼差しを問答無用で向けられれば、
誰だって心をささくれ立たせるだろうさ。
それともやはり、
君くらいの年代の女の子になると、
オジサンってものは、
軽蔑するのがスタンダードになるのかな?」
「…………」
「その制服、
私にも、見覚えがあるよ。
確か、かなりのお嬢様学校のはず。
だというのに、その態度、
流石に良くないんじゃないかな?
礼儀作法にも、とても厳しいと聞く。
そもそも、女子高生がこんな夜遅く、
赤の他人の家に上がり込んでいること、
それ自体が問題だ。
自分がなにをして、
軽蔑しているらしい私から、
なにを指摘されているのか……
とっくに分かっていても、
おかしくないんじゃないかな?」
「…………」
「答えもなし……か。
それとも、まだ子供だから眠いとかかな?
悪いことは言わない。
早く帰ってくれると、私も助かる」
「臭い」
端的な罵倒。それともただ事実を述べただけか。
血生臭い怪物は図星だったのか、血相を変えて目を血走らせる。
「眠れ……眠れ眠れ眠れ
眠れ眠れ眠れ眠れ眠れ
眠れ眠れ眠れ眠れ眠れ
眠れ眠れ眠れ眠れ眠れ
寝ろ寝ろ寝ろ寝ろ寝ろ
寝ろ寝ろ寝ろ寝ろ寝ろ
寝ろ寝ろ寝ろ寝ろ寝ろ
寝ろ寝ろ寝ろ……!」
滾る感情を努めて鎮めているが、しかし怒髪天を衝いた様は火を見るよりも明らかだ。追い打ちをかける睡魔の誘惑に、俺のまつ毛は癒着する寸前だった。
「夜の
あくびをし
目をこすり
垂れたよだれを拭い
重力に身を任せて
目蓋を閉じ
枕に頭を預け
寝具に
安らかに
静かに
ゆるやかに
羊を数え
舟を漕ぎ
夢見心地で
泥のように
寝息をこぼし
寝言を呟き
寝返りを打ち
いびきをかいて
小さな死を
夜だけの死を
日ごとの死を
死ぬまでの死を
お前に……!」
「うるさい」
ざん、と。
目が覚めるような光が、真一文字に横切った。
咲き誇る大輪の赤い花。
「臭くてウザいうえにうるさいとか、眠らせる気さらさらないじゃない」
少女の手に握られていたのは――日本刀。
黒髪をたなびかせたセーラー服の少女が、日本刀で怪物を一刀両断する。使い古された伝奇小説でも、こんなベタな構図はなかなかないだろう。
ねとり、と擦れた膝に粘つく感触は、夏の陽射しに溶けたチョコレートを思わせた。
何度も見てきた光景に、人道的な感覚はとうに麻痺している。怪物を相手取るため、人でありながら怪物となった俺の足元に、怪物の新鮮な生首が転がる。赤いそれは、椿の花を思わせた。
「そうか、彼女は――」
死が命に追いつく間際、
「――夢を、見ないのか」
怪物はそんな戯言をかすかに呟いて、俺の意識は限界に達した。
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