事の起こり①



「……以上で、今回の報告は終わりです」

「うん。ありがとう、大和やまとくん。しかしながら、貴方達も苦労したね。まさか相手が聴覚に訴えかけるタイプ――しかも鼓膜を破るような騒音ではなく、催眠術みたいなタイプだったなんてさ」


 形ばかりの報告書に目を通しながら、俺の雇い主は苦笑を浮かべる。そばかすが乗った頬が、ぽってりと赤らんだ。


 切れ長の一重もそうだが、あのセーラー服のような目が覚める美しさとは異なり、いっそ親しみやすい風貌だ。若白髪が多すぎて逆に染めたという銀髪アッシュグレーは様になっているが、それもあくまで着ているスポーティなジャージと同じく、一般的なファッションの範疇に収まっている。

 美人ではない……と言い切るのははばかられるが、少なくとも俺の判断基準においては、地に足のついたオーラなだけ付き合いやすい。


「即死性がなかっただけマシなのかな。いやでもまな板の鯉にされたのだから、時間は些末事か」


 ……などと言いつつ、不思議と目を惹かれる風格を帯びており、日本ではいざ知らず、海外のファッション誌では表紙を飾れそうという意味では、なんだかんだ彼女も存在感がある。


「で? あれはどんな『変質』だったんです?」

「ああ、概ね大和くんが報告書にまとめてくれたとおりさ。声の波長と会話のテンポやスピードで、相手の集中状態を撹乱する? みたいな」


 無駄な思考は忘却の彼方に追いやって、話の筋へと舞い戻る。


「聞いた感じだと、認知シャッフル睡眠法みたいだ。実際、会話の中身も大したことなかったみたいだし。それと、あの部屋自体にも手が加えられていたみたいでね。まともな照明もなくて暗かったのも、反響する壁材にされていたのも、睡眠の暗示をより強めるためだったようだ」


 悪魔の胃袋とは、比喩でもなんでもなく事実だったわけだ。

 そしてまんまと転がり込んだ俺は、まな板の鯉どころか活け造り済みだっただろう。


「あの【エス】は加害性こそ低かったものの、既に自身の母親と、新聞が溜まっていたことを気にかけた配達員を一人、餌食にしている」


 悪魔――人喰いの怪物は、通称【エス】と呼ばれている。


 【エス】は病んだ心に従って、体を変異させる。

 今回の副島そえじま麟太郎りんたろうで言えば、介護疲れによるうつ病、それに起因する睡眠障害が、彼をただの人間から怪物と呼ぶべき存在に変えてしまった。


 人間の細胞は入れ替わる。心臓や神経といった例外を除けば、一番遅い骨でも約五ヶ月で入れ替わるのだから、半年後にはほとんど別人のようになっていると表しても過言ではないだろう。個々で差はあれど、傷が治ったり老いたりするのは、体の機能のおかげだ。

 そう、【エス】は脳からの命令で、成長期の幼子に匹敵する変貌を遂げる――その際、是が非でも必要とするのがエネルギー、もといカロリーだ。特に体を作るなら、動物性タンパク質が相応しいだろう。


 ……ここまで来れば、誰しも分かる謎解きだ。


 だから人を食べる。

 非売品タダで手に入り、食い甲斐のあるグラム数は、それこそ喉から手が出るほど欲しいだろう。心を病み、追い詰められた末に麻痺した人格は、どうしようもない空腹の解決に、築き上げてきた倫理を捨てる。


 この辺りはもっときちんとした説明があるのだが、不真面目は中途半端にしか覚えていないので、もっぱら実動での解体専門の門外漢なのだった。


「ほんと、間一髪だったよ。咲弥さくやちゃんが虫の知らせを受けてなかったら、車を出すのが遅れてたからね」


 人の命の危機だったと言いながら、コミカルに肩をすくめる雇い主。この人は葬式で泣くのだろうか……という疑問が頭をよぎるが、一銭にもなりはしない。背に腹は代えられないように、命も金には代えられない。生きていて賃金が支払われているのなら、俺も文句は言えないのだった。


「私としては、たかだか部分変質を相手にして、後れを取るほど大和くんが不運とは思えなかったけど、用心するに越したことはなかった。今回の反省点だ。相手の『変質』が、不眠気味の咲弥ちゃんには通じなかったのも幸いしたしね」


 全身に及ぶもの、副島麟太郎のようにあくまで身体の一部分に留まるもので、『変質』も種類が分かれる。前者が必ずしも危険なわけではないが、『全身変質』は身体能力そのものも向上している場合が多い。

 『部分変質』の【エス】をあなどっていたわけではないが、軽んじていたわけでもなかった。だからこそ、わざわざ足を運んだという事実が信じられなかった。


「……あいつが、ですか?」


 咲弥――あの古風なセーラー服をまとった、鮮烈な黒を思い起こす。


「そうだよ? 夜は用事があったらしいけど、その後に直行で駆けつけてくれてね。刀は後から持ってくる手筈だったけど、刀は大和くんが持ってるのを使うから構わないって取り下げて、身一つで向かったんだよ」


 高く買われていると辟易するよりも先に、そのことが気になった。

 仲間想いと呼べるほど、あいつはまともな奴じゃない。俺に「死んでほしくなかった」のは本当かもしれないが、予想は所詮しょせん予想に過ぎない。考えても詮なきこと。どうせ今は、一般的な同僚の関係でしかない。気にしすぎるのは心に毒だ。


「まあそのことに関して、雇い主である私の監督不行き届きは問われても、大和くんが気に病む必要はない。貴方がやるべきなのは、うちのもう一つのお仕事だよ」

「……へいへい」

「うん。いいお返事だ。今日もよろしく頼むよ」


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