十一話
黒と灰色だけの、薄暗い建物……それとカビ臭さと得体の知れない悪臭……。監獄棟は何度か訪れたことはあるが、それでもやはり慣れる場所ではない。薄気味悪く、不衛生なところに放り込まれるなど、自分だったらいつまで耐えられるだろうか。
「ホリオーク様の命で来た。エゼル・ライトに話を聞きたいのだが」
通路を進んだ先の小部屋にいた獄吏に言うと、事務作業の手を止め、俺に顔を向けた。
「エゼル・ライト……ああ、先日来た女か。あれは一番下にいるよ」
そう言うと獄吏は椅子から立ち上がり、壁にかかった鍵の束を取る。
「付いてこい」
手を振って促した獄吏の後を俺は付いていく。ろうそくの明かりだけの長い通路を進み、最初の鉄の扉に着くと、獄吏は慣れた手付きでその鍵を開け始める。
「ところで、あの女は一体何をやらかしたんだ?」
「聞いていないのか?」
カチャ、と音を立てて解錠すると、獄吏は俺を先に進ませてから扉を閉め、内側から施錠して進み始めた。いちいち鍵をかけないといけない決まりらしい。面倒だが脱獄を防ぐためには必要な手間か。
「厳重に警備しろと、それだけしか聞かされていない。見た感じ、凶悪犯には見えないし、近衛師団の制服を着ているところだと、機密情報でも盗んで見つかったのか?」
地下への階段を下りながら、俺は首を横に振った。
「いいや、彼女は犯罪を犯したんじゃない」
「それじゃあどうして独房に入れられた。ここは監獄棟だぞ。犯罪者が来るところだ」
俺は説明に困った。獄吏が詳しい話を教えられていないのは、おそらく混乱を広げたくないという上の判断だろう。邪神が逃げたという事実は、まだ公表する段階ではないと考えているのかもしれない。だったら俺がここで教えてしまうのはよくないか……。
「まあ、複雑な事情があってね。一言では説明できないが、彼女が犯罪者じゃないことだけは明言しておく」
獄吏は不服そうな目を向けてきたが、次にはすぐに笑みを見せた。
「……そうか。下っ端の俺なんかには教えられないほどの事情があるってわけか。じゃあお互いのためにも、話はここまでにしておこう」
察してくれた獄吏はそれ以上は何も聞かず、黙って案内を続けた。勘のいい相手でよかった。
鉄格子が並ぶのを横目に地下一階を突き進み、次の扉を開けて地下二階への階段を下り終えると、獄吏は足を止めた。
「目的の女はこの最奥だ。通路に沿って行けば着く。俺はここにいるから、終わったら声をかけてくれ」
そう言うと獄吏は通路脇の小さな詰め所に入っていった。すでに中にいた同僚に声をかけると、早速おしゃべりに興じ始めた。あれならそんなに急がなくても大丈夫そうだ。エゼルにはゆっくりと話を聞くとするか――俺は言われた通り、通路に沿って最奥を目指した。
地下二階には独房が多いようだったが、その中に犯罪者はまだ見当たらない。ほとんどは地下一階にいるのか、またはエゼルのために移動させられたのか……。ろうそくの小さな明かりを頼りに、静まり返った通路を黙々と歩き進むと、ようやく最奥の独房が見えてきた。そこの壁にだけは二つの燭台がかけられ、側の独房を煌々と照らし出していた。あそこにエゼルはいるようだ。俺ははやる気持ちを抑えつつ、静かにそこへ近付いた。
「……エゼル」
鉄格子の向こうへ呼びかけると、奥の壁に背を付け、膝を抱えてうずくまる人影があった。そして俺の声に反応してわずかに顔を上げた。
「……ノーマン?」
疲れた表情が見る見る驚きに変わっていく。
「よお」
俺は笑顔で返した。
「どうして、いるの……?」
「ホリオーク様のご命令でな。ちょっと話を聞きに来た」
深緑の瞳がじっと俺を見つめてきた。
「だからあの時、ホリオーク様のお側にいたのね。配置換えをしたとは聞いていたけれど、まさかホリオーク様付きになっていたなんて……」
「悪い。言いそびれていた」
エゼルには俺の配置換えは伝えていたが、それがどこなのかは言い出せずにいた。表向きはホリオーク様の護衛兵だが、本当はエゼルの監視役だ。必然的にホリオーク様のお側にいることは少なくなる。それを指摘されるのを俺は恐れ、今まで言えていなかったのだが、そこには少なからず、後ろめたさもあったと自覚している。
「お前を拘束するのは本当に辛いことだった……すまない」
「私達は命令に従うしかない立場よ。あなたは何も悪くないわ。恨んだりなんかしないから安心して」
わずかに微笑んだエゼルに、俺の胸はちくりと痛んだ。
「……それにしても、独房に入れるなんてな。エゼルを犯罪者扱いしやがって……。体の調子は平気か? ひどい扱いは受けていないか?」
「大丈夫よ。こんな狭いところだけど、食事は温かいものを持ってきてくれるし、数日に一度は沐浴もさせてくれるの。ノーマンが思うほど悪い待遇じゃないわ。でも欲を言えば、こんな薄っぺらい布じゃなくて、毛布かベッドがあれば、毎日ぐっすり眠れると思うけれど」
そう言いながらエゼルは傍らに置いてあった大きな布を持ち上げて見せた。全身を十分に包める大きさではあるが、全体的に薄汚れ、ところどころに穴も開いている。この地下二階は肌寒く、どこからか隙間風も吹き込んでくる。そんな環境で薄布一枚だけでは、確かに満足には寝られないだろう。
「後で俺が頼んでみる」
「そんなつもりで言ったんじゃないわ。私に気を遣わないでいいから」
「だがお前は本来、ここに入れられる理由はないんだ。寒さに耐えて寝なければいけないことも――」
「理由はあるわ。皆、私のことが怖いのだから……」
抱える膝に顎を乗せると、エゼルはこちらを上目遣いに見据えてきた。
「私には本当に、邪神が付いているの?」
「……説明を受けたのか」
エゼルは小さくうなずく。
「ホリオーク様直々に。嘘を言う方ではないとわかってはいるけれど、やっぱり、未だに信じられなくて……。ねえノーマン、これは本当だと思う?」
ホリオーク様は神々と会話をされる唯一の方。その方がそう言うのであれば、我々もそう信じるしかない。ホリオーク様も軽軽におっしゃっているわけではないだろう。だからエゼルを拘束したのだ。そうするだけの確信を得ているから。しかし――
「……俺には、わからない」
神の気配を感じられない俺には、エゼルの前で本当だと言い切ることはできない。すべてはホリオーク様のお言葉だけなのだ。自分の目や感覚で確かめられればはっきりと言えるのだろうが……自分なりの判断を下すためには、本題に移ったほうが早いようだ。
「わからないが、もしそうだとしても、それをエゼルが招いたとまでは思いたくない。お前は被害者なんだと、俺は証明したい。そのために今日は来たんだ。ホリオーク様のご命令でな」
俺は鉄格子をつかみ、聞いた。
「邪神について、何か話すことはないか」
エゼルは首をかしげた。
「邪神なんて、私は、何も……」
「本当に、言うべきことはないんだな」
「ないわ……言うことなんて……」
心なしか口調が弱い。だが視線はしっかりとこちらに向いている。俺はそれを受け止め、言った。
「じゃあ、お前の部屋を調べても、問題はないな?」
これにエゼルが一瞬、視線を泳がせたのを俺は見過ごさなかった。
「どうして、私の部屋なんかを……?」
「ホリオーク様に俺は、エゼルが邪神と何らかの接点がないかを調べるように言われている。ないと言うなら、その真偽を確かめるためにお前と関係する場所を徹底的に調べないといけない」
「ちょっと待って。私に邪神が付いていることと部屋を調べることが、どう関係するというの?」
「その説明は聞いていないのか? これは一つの可能性だが、お前に邪神が付いたのは、お前自身が邪神を呼び込んだという見方もあるんだ。つまり邪神に祈りを捧げたんじゃないかとな」
「私が、呼び込んだ……?」
驚き、呆然とした顔でエゼルは呟いた。
「その物証や痕跡がないかを、俺はこの後調べに行かなければならない。……エゼル、もう一度聞くぞ。邪神について、ここで話しておくことはないか」
エゼルは宙を見つめ、何とも複雑な表情を浮かべていた。驚きや不安、葛藤が同時に重なっているようだった。その耳に俺の声が届いているかは怪しい。
「エゼル」
鉄格子をガンっと叩き、俺はエゼルの目をこちらへ向けさせた。
「話しておきたいことがあるなら、今、ここで言ってくれ。俺を信じて……」
エゼルの揺れ動く瞳が俺を見つめてくる――多分、邪神に関してエゼルは隠していることがあるのだろう。そしてその証拠が自分の部屋にあるのだ。だから調べると言った俺にわずかな動揺を見せた。だがそれならそれでもいい。禁じられている邪神信仰をしていたのなら、ここではっきりと告白してほしい。そうすれば調査役を任せられた俺にもやりようがある。ホリオーク様にはエゼルと邪神との関係はないと言えるし、部屋の証拠も密かに隠しに行ける。こんなことが知れたら、確実に処分を受けることはわかっている。ひどければ俺も鉄格子の中で過ごす羽目になるかもしれない。けれどエゼルを守れるのは俺しかいないのだ。邪神に付かれた上、それを崇拝していたとなれば、独房から生きて出るのは絶望的だろう。それをわかりながら調査を全うするなど、俺にはできないし、やりたくもない。好きな女を救えない後悔など、俺は味わう気はない。エゼル、信じてくれ。信じてすべてを話してくれ。俺はお前を救いたいんだ……!
無言の気持ちを目で伝え続ける俺をエゼルはしばらく見つめていたが、おもむろにその表情はふっと和らいだ。そして小さな息を吐き、口を開いた。
「……話したいことなんて、何もないわ」
何もないはずはない。言うべきことがあるはずだ――
「俺が、部屋を調べてもいいのか?」
「それがあなたの任務でしょう? 好きなだけ調べて」
エゼルは口角をわずかに上げ、言った。だがその表情には諦めが見える。
「俺を、信じられないか」
これにエゼルは小首をかしげた。
「ノーマン、あなたは私にとって唯一信じられる友人よ。今も、これからも、それは変わらない」
「それなら、話してくれないか。お前の胸の内を」
一度、二度と瞬きをし、微笑んだ顔でエゼルは言った。
「何もないのに、話せないわ」
エゼルには俺の思いが伝わらなかった。見えている結果を、受け入れるつもりか……。
「そうか……じゃあ、部屋を調べに行かせてもらう」
俺は鉄格子から手を離した。
「次に会いに来るまで、元気でいろよ」
またエゼルの顔が見られるかは正直わからないところだ。これが最後とは思いたくないが――俺は独房から離れ、通路を戻った。
「ノーマン」
不意に呼ばれ、俺は振り返る。
「……どうした」
壁際にいたエゼルは俺をのぞくように鉄格子の側まで来た。
「私、上手く笑えていたかしら……」
最後になるかもしれない時に、まったく、おかしなことを聞いてくるものだ――俺は呆れつつ答えた。
「まだまだ下手くそだ」
「そう……」
残念そうに、だが少しだけ笑みを見せながらエゼルは鉄格子から離れていった。あんな中途半端な笑顔を最後にしてたまるか――俺は強い決心を心に抱き、監獄棟を後にした。
一度王宮へ戻ってから、俺は予定通りエゼルの家へ向かった。部屋を調べるに当たり、ホリオーク様は若い衛兵を一人手配してくれた。俺一人では時間がかかるだろうと気を遣ってのことだろうが、俺には邪魔でしかない。エゼルの様子から、部屋に邪神に関するものがあるのは濃厚だ。もしそれを先に見つけられでもしたら、エゼルを救うことは困難になってしまう。それを避けられたとしても、俺が証拠を隠すところを絶対に見られてはいけない。そうなれば俺も終わることになる。手早く、瞬時の判断が必要になるだろう。
「お待ちしてました」
到着すると、初老の男性が声をかけてきた。
「あなたが大家か?」
「はい。言われた通り、鍵を持ってきました」
大家の差し出した鍵を受け取り、俺は家の玄関に近付いた。
「あなたはここで待っていてくれ。……じゃあ入るぞ」
俺は隣の衛兵に声をかけ、鍵を開けた。木製の扉が小さな音を立てながら開く。エゼルのこの家には何度も来ているが、こうして中まで入るのはこれが初めてだ。いつもは玄関まで見送るだけでさっさと帰っていた。友人とはいえ女の一人暮らしの家にずかずか入り込むのは何だか気が引けたのだ。エゼルにも招待されたことはなく、今思えば隠し事があるから家に入れるつもりなど毛頭なかったのだろうが、初めてここに入ることに、俺は若干の緊張を覚えている。本当ならこんな形じゃなく、もっと別の形で入りたかったが……。
入ってまずあるのは、窓からの陽光に照らされた居間だ。正面に机と椅子、その奥に台所がある。どこも物が整頓され、掃除もされているようだ。エゼルの真面目さがうかがえる。左にも部屋があり、のぞくと机とベッドが見えた。こちらは寝室か。この平屋の小さな家は居間と寝室の二部屋だけのようだ。見た感じ、ごく普通の部屋だ。邪神を信仰しているような様子も雰囲気も見当たらない。それはそうか。窓があるのに堂々と邪神に関する物を飾るわけにもいかない。外から誰の目が見ているともわからないからな。となると、やはりどこかに隠しているのだろう。見られてはまずい邪神に関するものを。俺がもし隠すなら、玄関から丸見えの居間より、左の寝室内のほうが安全に思えるが――
「では僕はあっちの部屋を……」
若い衛兵は勝手に寝室を選び、行こうとする。その肩を俺は咄嗟につかんで止めた。
「まっ、待て。お前はこの部屋を調べろ。あっちは俺が見る」
「はあ……わかりました」
怪訝な表情と返事をして、衛兵は方向を変えて居間に戻った。止めたはいいが、寝室を選んだのは俺の勘でしかない。間違った選択をした可能性もあるが……迷っても仕方がない。とにかく、早く見つけ出して俺が隠してやらないと。
衛兵が早速台所付近を探し始めたのを確認して、俺は寝室に入った。ここは居間よりも狭く、奥の壁に付けるようにベッドがぴったりと納まっている。その手前に並んで、引き出しの付いた小さな机が置かれていた。こう狭い部屋だと、隠せる場所も限られるだろう。まずは奥のベッドから調べることにした。
整えられた毛布をめくり、枕をどかして敷布をはがしてみる。何か挟まっていたりということはなさそうだ。次にベッドの下や裏を確認するが、こちらも何もない。寝具には隠されていないようだ。続いて俺は机を調べにかかる。
そこには大分溶けたろうそくや、インク、ペンが置きっぱなしになっていた。机の表面にはインクの汚れもあり、エゼルが日常的に使っているのが見て取れる。一体何を書いているのだろうか――俺は引き出しを開けてみた。
「……手紙か」
並ぶ筆記用具の横に、同じ形と色の手紙が紐でまとめられ束になってしまわれていた。それを手に取り、俺は紐をほどいて手紙を見てみた。
「……アルバート? 誰だ……」
どの手紙を見ても、差出人はすべてアルバートという人物だった。俺以外に友人がいるとは聞いていないが、それが男の名というのも気になる……まさか、友人ではなく、それ以上の――そこまで考えて俺は思考を止めた。今はそんなことを気にする時ではない。私的な感情で集中を途切れさせるな。とにかく中身を確認するんだ。
一番上にあった封筒を開け、俺は中の便箋を取り出して読んでみた。内容は近況報告に、エゼルへの叱咤激励が大半を占めている。かなり強い言葉だ。予想していたような甘い言葉は一言も出てこない。そして最後に「父より」という文字を見て、俺は納得と同時に安堵した。そうか。アルバートというのはエゼルの父親の名だったのか。まったく、馬鹿な想像をしたものだ。
胸の中で苦笑いしながら、俺は他の手紙にも目を通してみた。内容的には最初のものとほとんど変わらず、父親の厳しくも優しい眼差しが感じられる文章が続く。そこで俺はふと気付いた。どの手紙も、締めくくりの文は必ずこう書かれていた。
『我々の神へ、祈りを忘れるな』
我々の神とは、一体どの神を指しているのだろうか。我々……自分とエゼル、親子共通の神とも読めるし、人間すべてに対しての神とも読める。どう解釈すればいい。父親はエゼルが信仰する神を知って、この文を書いているのだろうか……。
別の手紙に具体的に書かれているかもしれない――俺はまだ開けていない封筒の束に手を伸ばした。するとその指先に硬い感触があり、俺はその封筒を取った。触って確認すると、中に小さな円形の、ごつごつしたものが入っているようだ。すぐに封筒を開けて取り出してみると、それは木彫りの何かの紋様だった。中央に珠があり、その周囲につたが這っている。この紋様、最近どこかで見た気が――
「……!」
思い出した。ホリオーク様に見せていただいた本だ。俺はカーラムリアには疎いから、多少は知っておこうかとホリオーク様に聞いた時、神々について書かれた本を見せていただいたのだ。俺達がよく知る神とその神紋がずらりと描かれた中に、このつたの神紋も確かにあった。クロメアという邪神のものとして……。
「エゼルは、やはり……」
「あっ!」
突然の大声に、俺は持っていた木彫りの神紋を引き出しの中に落としてしまった。まさか見られたのか――そんな焦りが先立ち、俺は慌てて引き出しを押し戻し、居間へ目を向けた。しかし、衛兵の姿は見えなかった。
「おい、どうかしたのか」
声をかけると、机の向こう側から衛兵の顔がのぞいた。
「す、すみません。棚の瓶をどかしたら、急にねずみが出てきたもので……」
俺が見つけたものには、まだ気付いてもいないようだ。
「ねずみくらいで大声を出すな。驚くだろうが」
「本当、すみません」
低い姿勢で謝りながら、衛兵はまた棚を調べ始めた。驚かせやがって――俺は安堵しながら再び机に向き合った。
エゼルが隠していたものは、やはり邪神に関するものだった。その神紋を持っているなど、邪神を信仰しているとしか考えられないだろう。だが、それは封筒に入っていた。父親からの手紙に。その文章には毎回『我々の神へ、祈りを忘れるな』と書かれている……父親は、エゼルの信仰する神を知っているのかもしれない。神紋も、父親が送ったものだとすれば、邪神への祈りを容認しているとも取れる。そうなると我々の神とは、邪神のことを指し、父親もエゼル同様、邪神を信仰している……? もし親子でなんてことだったら最悪だ。エゼルへの疑いが続けば、その父親にも調査が伸びてしまうかもしれない。俺一人で二人を守り切れるのか? ……いや、まずはエゼルを救うことだけを考えろ。邪神とは無関係だと断言できるように証拠を持ち去らなければ。
俺は再び引き出しを開け、先ほど落とした神紋を探す。が、手前には見当たらない。奥へ転がったか。手を差し入れ、探ってみる。すると指先が引き出しの最奥にコトンと突き当たった。それに俺は違和感を覚えた。この引き出し、やけに奥行きが浅い。それと指先が当たったところが少し動いたような……。
俺は引き出しをのぞき込み、奥を見てみた。……先ほど落とした神紋のすぐ後ろに、引き出しの幅とほぼ同じ大きさの木箱がある。隠すものがあるなら、いかにもな箱だ。俺は引き出しをぎりぎりまで引いて、現れた木箱を机に載せた。
鍵も装飾もない、底の浅い質素な木の箱だ。何が入っているのか……そっとふたを持ち上げた。その中には、直前に見つけた神紋と同じものがいくつも入っていたが、少し違うのは、それらが欠けていたり、割れていたりしていることだ。どうやらこの箱は、傷付いてしまった神紋をしまっておく箱のようだ。信仰している以上、簡単には処分できないというところか。しかし、数が多いな。ざっと見て二十個はある。手に取ってよく見てみると、どれも彫り方が同じに見える。おそらく一人の者がこの全部を作ったのだ。そしてそれは父親である可能性も……。
「そちらは何か見つかりましたか?」
居間からの声に、俺は自分の体で木箱を隠し、向こうから見えない位置に立って言った。
「いや、何もだ。そっちは」
「同じです。何もありません」
「隅々まで調べてくれ。ここが終わったら俺もそっちへ行く」
衛兵が頭をかきながら壁の棚を調べるのを見て、俺は手元の木箱に目を戻した。これらは絶対に残せない――神紋をわしづかみ、俺はそれを上着のポケットへ入れた。入り切らない分も他のポケットに入れ、不自然に膨らまない程度に分散させ、どうにかすべての神紋を隠すことができた。この後に処分すれば、エゼルと邪神をつなぐ証拠はなくなり、その疑いも消えるはずだ。一安心……と言いたいところだが、ここへきて懸念が生まれた。手紙を書いた父親だ。
もし俺の想像が本当だったら、父親も邪神を信仰しているのだとしたら、そのまま放っておくことはできない。いつエゼルとつながってしまうか危険極まりない。万が一そうなった時、エゼルとの親子関係を俺が隠すのはさすがに荷が重い。そうなる前に、父親には確認に行ったほうがいいかもしれない。だが俺はエゼルから家族の話を聞いたことがほとんどない。厳しく育てられたと聞いたくらいで、何人家族で生まれはどこで、何という場所で育ったのかすらわからない。どうしたものか。監獄棟のエゼルに聞きに行ってもいいが、あの諦めた様子で素直に俺に教えてくれるだろうか……。
考えながら視線を落としたところに手紙の束があった。……まだ全部に目は通していない。よく読めば父親の住む場所の手掛かりが書かれているかも――小さな望みに懸け、俺は未読の手紙を開けていった。注目するのは冒頭に多い近況報告の部分だ。稼ぎがよかった、鼻風邪をひいた、久しぶりに料理をした……日常の他愛ないことがよく書かれているが、それがどこで起こっているのかはわからない。親子での手紙で書く必要もなく、当然だが。
それから数通の手紙を読むも、場所の手掛かりは出てこず、手紙も残り少なくなり、エゼルに聞きに行くことを考え始めた時だった。
「……あった」
それは十三通目に読んだ手紙に書かれていた。
『――夕食に新しく出来た食堂へ行ってみたが、あんなに濃くて下品な味付けはアンリスの料理とはとても言えない』
アンリス――城下からはそれほど遠くない小さな町だ。半日ほど歩けば着ける距離にある。エゼルの故郷は意外に近かったようだ。そこに父親が住んでいるはず――俺は手紙をしまい、念のため残りの手紙にも目を通してみた。だがアンリスと書かれているのはこの一通だけだった。邪神についても、具体的な言葉を使ったものはなく、信仰している神が何なのか文面からはうかがえない。この内容なら隠す必要はないだろう。俺はその中から一通だけ抜き取り、懐に入れてから、木箱と共に引き出しに戻した。これでエゼルは救える。だがそれを徹底するには、父親に会わなければならないだろう。早いうちに――俺は頭の中で次の予定を組み立てた。
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