十話

 紺碧の世界、心地よい揺らぎ、頭上を気付かずに通り過ぎていく無数の生き物達の影。肌寒くなければ最高の居場所になっただろうが、残念ながらあまり体力は持ちそうにない。もう少ししたらまた別の場所へ移らなければ。それまではできるだけ力を蓄え、地ならしとして邪魔な人間を消しておこうか。


 それにしても驚いたものだ。成長を待ちわびていたあの人間が、まさか私を信仰していたとは。それが私の糧となり、やがて自分に返ってくるとも知らないのだろう。だがそれも好都合だ。心に穴を開けた後、命が馴染みやすいかもしれない。私が消したあの女兵士も、そういった情報を引き出してくれた意味では、無駄に邪魔な存在ではなかったようだ。これはいい兆候かもしれない。


 さて……少しだけのぞいてみようか。遠隔視聴は弱ったこの体には大きな負担になり、短い時間しか続けることはできないが、女兵士の時のような状況になっていないとも限らない。私の計画のためには、体が辛くても定期的に見ておかなければ――私は黒い岩陰に寄り添い、両目を閉じて意識をトラッドリアの自分の気配へ飛ばした。


 黒かった視界が、次第に明るさを増していく――ここは、建物の中か。よく見る景色に似ている。が、今日は見慣れない人間が目の前に立っている。ローブを着た赤毛の男と、人間の中では豪奢な服装をした威厳を感じさせる男の二人。共に表情に険しさがある。その視線が向くのはこちら……何を話している?


「なんてことだ……ホリオーク、すぐにこの者を拘束しろ。さらに犠牲者を出すわけにはいかない」


「承知いたしました――」


 拘束だと? ふん、こざかしい人間は他にもいるようだ。私の分身まで幽閉されてはたまったものではない。邪魔者めが。手出しは許さない――二人の人間に照準を合わせ、私は力の一部をトラッドリアへ飛ばそうとした。だがその時、頭上を影がさえぎったのを感じ、何気なく視線を上げた。するとそこには、見知った顔がこちらを見下ろす姿があった。


「私の領域に隠れ潜むとは、いい度胸じゃないの」


 背景と溶け込みそうな紺碧の髪をなびかせ、カイラは不敵な笑みを浮かべた――誰にも見つからないとは思っていなかったが、この場所で、よりによって海を司るカイラとは。状況的に分が悪すぎる。ここはひとまず逃げるしか――


「逃がすものか!」


 私が岩陰から飛び出そうとした瞬間、周囲の海水がうねり、急激な海流が巻き起こった。面倒な。こちらは弱った体だというのに……だが、こんなところで足留めされるわけにはいかない……!


 海流に翻弄されかけながらも、私は懸命に泳いで海上に浮かび上がった。視線の先には緑の陸が見える。あそこまで行けば、この状況の悪さも――


「っうぐ!」


 突然全身が締め付けられ、思わず声が漏れた。見下ろすと、私の体には生き物のようにうごめく海水がぎゅうぎゅうと密着していた。手足や胸を圧迫し、自由を奪ってくる。……カイラの力にかかれば、海水を自在に操るなどお手のものか。


「逃げ込む場所を間違えたようね」


 海中からふわりと浮き上がってきたカイラは海面に足を着くと、まるで地面を歩くようにそのままこちらへ近付いてきた。


「それにしても、海底に隠れるなんて苦しくなかったの? 私はともかく、あなたじゃ息が続かないはずだけど」


「続かなければ、続くように変わればいい」


「……なるほど。あなたは生命を司っていたのだったわね。それにしては泳ぎがお粗末だったけど」


 小馬鹿にした目が見つめてくる――力を蓄えるために、必要最低限のことしかしなかっただけだ。全力を出せる状態ならば、すぐにもカイラなど振り切っていただろう。


「残念だけど、もう終わりよ」


 冷めた声が言った。


「……そのようだな」


 私はわざと笑みを見せて言った。ここで終わらせるなど、させるものか……。


「笑う余裕はあるのね……それなら、幽閉する前に教えてくれない? あなたはトラッドリアで何をしようとしていたの?」


 私は黙っていた。まだ誰も、私のすることには気付いていないらしい。


「一人の人間に気配を残しているそうね。その人間に何かするつもり?」


 聞かれても黙り続けていた。そのうちカイラの目が吊り上がるのがわかった。わかりやすいやつだ。


「これ以上黙るなら、苦しんでもらうけど」


 そう言うと、私を締め付けてくる海水の塊が、準備運動でもするように波打ち始めた。


「私が短気だっていうこと、知っているでしょう」


「そうなのか。それは初耳だ」


 私が笑うと、カイラはこちらを睨みながら鼻を鳴らした。


「それなら覚えておいて。私を怒らせれば、この海すべてがあなたを襲うということをね。……さあ答えて。あちらで何をしようとしていたの?」


 この広大な海に襲われては、さすがに私も助かりそうにない。答えないわけにはいかないか――


「……遊んでいただけだ」


「それだけ……?」


「ああ。人間という生き物は興味深い。我々とは異なる命だが、似ている部分が多くある。ここから観察しているだけでは、あまりに物足りなく思えたのだ」


「物足りないから、殺したというの?」


「そうしてわかることもある。他の者には理解できないだろうが」


 これにカイラは明らかな嫌悪を見せた。


「あなたは……やはり何も変わっていないようね」


「あんな塔に閉じ込められたまま、どう変われるというのだ」


「自分のしたことと向き合う時間を、私達は与えたのよ」


「綺麗事を……。考えの違う私を牢死させようとしていたくせに」


「人間の命を好き勝手にしておきながら、自分が死ぬのは嫌だというの? 救いようがない……あなたはこれからも、人間の命をもてあそぶのね」


 怒りをたたえた眼差しがこちらを睨み据える――感情的にさせられたようだ。カイラの意識は私にしか向いていない……。


「あなたが死んでも、きっと誰もとがめないでしょうね。でもそれだと単なる死で終わってしまうわ。私達は、あなたの変化を待つ。どれだけ時間が経とうと、命が尽きる寸前まで待ち続ける……だから戻ってもらうわ。自分と向き合える環境に」


 カイラがゆっくりと近付いてくると、体を囲む海水が揺らめき、徐々に締め付けが強くなり始めた。このまま圧迫して、私の意識を失わせてから幽閉するつもりか……。あんなところ、二度と戻ってやるものか。変化を待つと言うが、私に会いに来て話した者などほとんどいない。本音では皆、息絶えるのを待っているのだ。同調しない厄介者は早く消えろとばかりに……。そうしないのは、ただ体裁を気にしているだけだ。本当に、綺麗事が好きなやからだ。それを私が、綺麗に壊してやろう――


「……なっ!」


 カイラが驚いた声を上げた。その足には黒い手が絡み付いている。……上手く捕らえられたようだ。


「クロメア! こんな真似をするなら、手加減はできない!」


 そう言うと、海水の締め付けが一際強まった。呼吸が、苦しい……が、まだだ!


「はっ……」


 黒い手はカイラの足を海中に引きずり込み、同時にもう一体がその黒い体をカイラの背中にのしかからせた。


「どいて! 放して!」


 黒い二体の力と重さで、カイラの体はだんだんと海中に沈み始める――彼女の意識をそらしながら急遽創った生命体だが、思ったより役に立ってくれた。しかし予定外に力を使ってしまったか。


「くっ……クロメア! 逃がさな――」


 締め付ける海水がしぶきを上げ、私の骨を砕かんばかりに圧迫してきた。まるで鉄板に挟まれているよう……もう、呼吸もできない――限界を感じた時、カイラの顔を黒い体が覆ったのが見えた。即席の生命体は人の形から自由に姿を変形させると、首に絡まり、カイラの呼吸を妨害する。


「うっ、くう……!」


 もがくカイラだが、全身に絡み付かれ、その重さに耐えられず、とうとう頭まで海中に沈められた。すると、私を締め付けていた海水が不意に緩んだと思うと、見えない壁が壊れるかのように塊は崩れ、そのまま流れ落ちていった。と同時に支えのなくなった私の体も海へ落ちた。音を立てて海中に沈む……節々が痛い。まったく、余計な体力を使わせてくれたものだ。


「クロ……メア……!」


 苦しげな声が聞こえて視線をやると、下方でもがくカイラが見えた。先ほど言っていたように海中での呼吸は問題ないようだったが、私の創った生命体に未だ絡み付かれ、かなりてこずっている。二体の重さで浮かび上がれないのか、その体は少しずつ沈み、やがてカイラの姿は青く暗い海の底へと消えていった。……自分の領域で休んでいろ。


 私は海面に顔を出し、辺りの様子をうかがった。特に変化は見られない。ここでの騒ぎにはまだ誰も気付いていないようだ。だが物音に敏感な動物達がすでに知らせている可能性もある。万全の状態になるまで潜みたかったが、他にいい隠れ場所も思い付かない。カーラムリアに長居するのは、もはや危険か……。


 陸まで静かに泳ぎ、私は側にあった木の陰にひとまず隠れた。そして頭上に広がる枝葉の隙間から、光の溢れる高い青空を見据えた――予定を早め、あちらへ渡るしかないようだ。先ほどはカイラ一人だったからどうにか逃げ切れたものの、複数人に見つかればそれも難しい。再び幽閉されたら、もう私に逃げる機会は訪れないだろう。隙を見るなら、やはり今しかなさそうだ。


 私は両目を閉じ、集中すると、自分の内側に力を注ぎ込んだ。体内が熱を帯びる。そして背中に新たな感覚が生まれると、私はそれを思い切り広げた。着ている衣を破り、漆黒の翼が風を起こした。鳥のものと何ら変わらない、立派な翼だ。我ながら上手く変化が行えたようだ。翼の動きを二、三度確認し、私は再び青空の果てを見据えた。


 この視線の先には、トラッドリアへ渡るための唯一の門があるのだが、高層域にあるため、それを直に見た者は神と呼ばれる我々でも少ない。そもそも渡る理由もないわけで、わざわざ時間を割いて見に行く物好きもいないのだが。それでも行こうとなると、鳥のように空を飛ばなくてはたどり着けない。だから私は自ら命を作り変え、こうして翼を生やしたのだ。それができない者は、有翼兵に頼み運んでもらうことになる。有翼兵とは文字通り、翼を持った兵士で、普段は高所の見回りを行うが、何か起これば迅速に移動できる高機動兵でもある。彼らが門も見回っている可能性も考えられるが、所詮兵士だ。私より力が劣る者なら、どうにか対処はできるだろう。……では、行くか。


 木の下から出た私は、眩しい空を見上げ、生やしたばかりの漆黒の翼をはばたかせた。その風で周囲の草花を揺らしながら、私の両足は地面から離れた。……これが、飛ぶという感覚か。体がふらふらと安定せず、すぐには慣れないが、悪くはない。門までは順調に飛べるだろう。そこをくぐれば、世界はトラッドリアに変わる。待ち望んだ、最初の一歩……。そのもう一つの世界で、私はやつらに復讐を果たす。幽閉されていた裏で、密かに作った依代を使って。それさえあればトラッドリアは私の意のままだ。人間を支配できれば、カーラムリアの衰退は免れない。それと共にやつらも消え去るのだ。私にした仕打ちを後悔しながら――金色の風をとらえた私は、それに翼を乗せ、一気に上空へと飛び上がった。

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