九鬼龍作の冒険 湖西の亡霊
青 劉一郎 (あい ころいちろう)
第1話 一
ここは、安曇川署の留置所内である。ひとりの女が突然眼を開けた。
「鳥・・・」
の声が、耳の奥に聞こえたのである。聞き覚えのある・・・鳴き声だった。
ピー、ピックル・・・
女は再び眼をつぶった。ここに入って七日目だった。
そういえば、ここに入ってからずっとその鳥の鳴き声を聞いていたような気がした。
(いや・・・)
女にはずっと以前から聞き覚えのある鳴き声だった。けっして苛立つ鳴き声ではなく、気持ちの休める鳴き声だった。
(ああ・・・もう何年も前から、私の傍にいて慰めてくれているような気がする)
八日ほど前である。安曇川に一人で引っ越して来た。
「ほど・・・」
今の女には時間の感覚がいつの間にか消えかかっていた。女はまた眼をつぶった。つぶって、何を求めているのか自分でも分からないが、ここに来てよく眼をつぶるようになっていた。
その時、琵琶湖からの冷たい風が吹いて来ていた。榊原美津江はタウンジャケットの襟を立てた。この先の角を西に曲がって五軒目が、彼女の家だった。
その家には、今は誰もいない。彼女だけだった。
「榊原美津江さんですね・・・」
黒い背広を着た男たちが三人いて、女を取り囲んだ。瞬間、女には戸惑いを覚え、
(この人たちは・・・誰?」
不快な気分になった。だが、彼女は頷いた。
美津江の昔からの自宅は大津市にあり、河川敷にある五六軒の団地の中に平屋の古い家であった。今は・・・美津江、彼女だけであった。そこに、一年ほど前までは、彼女の母君子がいた。今は誰もいない。
「お母様・・・のことでお聞きしたい・・・」
と、がっしりとした五十代の男が訊いて来た。
美津江の眼に一瞬緊張が走った。男たちはその様子を見逃さなかった。
その後、美津江は留置所に留め置かれた。彼女が仕事に行っている間に、大津市内の自宅の捜査が行われ、損壊された女性の肉片がいくつも見つかったのである。本来大津署に移されるべきなのだが、被疑者の精神状態を考えて、安曇川署に留置していた。異例と言える。
安曇川へは美津江が一人で来た。母はいつの間にかいなくなっていた。そのことについて、近所の人から何も言われることはなかった。古い町内で、何代も前から住んでいるのだから、榊原の家に誰がいるのか知らないはずはなかったのだが・・・誰もわざわざ問い詰めには来なかった。
美津江に近所付き合いはあった。美津江は愛想のいい子で、道で人と顔を合わすと笑顔で頭を下げたし、こんにちは、と普通の挨拶もした。多くはないが友だちもいたし、学校でも運動場で休み時間一人で走り回ったりしていた。
母君子は、家の中では厳しく口やかましい人で、よく勉強しろ、と娘に言った。医学部に入れ、と耳をふさぎたくなるくらい言い、美津江を責め続けた。
君子は外に出るのを嫌う人だった。日々の買い物も余分なものは買わず、帰り際知っている人に会っても話すこともなかった。家で一人、娘が帰って来るのを待ち、勉強させた。口答えは許されなかった。
そんな母に、美津江は一度も反抗しなかった。なぜだか、彼女にも分からない。母の言葉には絶対的な力強さが感じられた・・・・とか言いようがなかった。
とにかく、美津江は九年間従い、医学部の試験には落ち続けた。
そして、彼女は看護師になったのだが、吹き込まれた医学という言葉からか、その仕事を止めた。今は、安曇川の道の駅で働いていた。
ここに来てからも、榊原美津江は人に会いたくなかった。
(一人になりたかった・・・)
のである。そして、そのことを誰にも邪魔をされたくなかったのだった。
安曇川では、彼女は心休まる日を過ごしていた。彼女は長い間医者になるために・・・母君子に・・・そういわれるままに勉強をしていた。
「ふぅぅぅ」
美津江は深い吐息を吐き、空を見上げた。
「この鳴き声は・・・」
その声の主を探した。
「アッ!」
彼女は小さな声を上げた。すると、二三回まわり、自分がここにいるのを教えてくれた。軟そうな指の先には、マゼンダ色の鳥が気持ち良さそうに飛び回っていた。彼女は手を振った。
(あの変わった色の小鳥を見たのは・・・)
彼女にははっきりとした記憶がなかった。でも、
(あの変わった小鳥は・・・私を励ましているように・・・)
きっと、そうに違いない。あの赤紫色の輝きが、そう人の気持ちを勇気づけるのかも知れない。
二十分の休憩が終わると、
「よし・・・」
美津江は力強く声を掛け、立ち上がった。また、刑事たちの尋問を受けなくてはならない。彼女は母君子の損壊は認めた。しかし、
「母を殺してはいません」
美津江の言葉は頑なで力強く、何度この言葉を言ったことか・・・。ここには状況証拠は何もなかった。血の付着したナイフもなかったのである。それに、美津江の説明にはいくつかの無理があり、捜査員の誰もが美津江の言うことを信じてはいなかった。審問に当たった健次も女性刑事も手を代え、尋問するものを代えた。何とか口説き落とし、ここまでに至った真相を突き止めようと試みたのだが、今も彼女は、殺してはいませんの、いつ点張りだった。
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