心の給水
伊賀谷 雄
第1話 駅伝
箱根駅伝3区の後半に差し掛かった頃、彼の身体には異常が起きていた。
足が地面に触れるたび太腿の筋肉を直接引っ張られるような痛みがはしり、張り裂けそうになる。
脚を引きずった時もあった。
途中で脚を伸ばすために止まった時もあった。
しかし、彼は前に進むことをやめない。
なぜならここで前に進むのをやめてしまえば、太腿の痛みよりもずっと痛むものがあるからだ。
【箱根駅伝一週間前】
「2区、野場」
ピリッとした空気の食堂に監督の野太い声が響いた。俺は不思議だった。
大会に向けての部活のミーティングなんて、毎回のように行われてる。
なぜ、いつもより緊張した雰囲気に包まれているのか。
なぜ、普段ミーティングでもおどけているような人達が、今回だけは固唾を飲んで見守っているのか。
そんな真面目な姿勢ができるなら普段からしとけよと思った。
「はい」
このチームのエースである野場が少し上ずった声をだし、ゼッケンを貰うために席を立ち、固く握られた拳があらわになる。
野場は試合で緊張をするようなタイプではない上に、エースである以上レースなんて山ほど出場しているはず。
なぜそんなに緊張しているのか分からなかった。普段は本気じゃないのか。いつもとは大きく違う雰囲気に苛立ちを感じた。
「3区、西島」
俺の名前が呼ばれた。
「はい」
席を立って、ゼッケンを貰った。
「駅伝は初めてらしいな、緊張してないか」
監督が不安そうな顔をして尋ねる。
「いえ、自分の走りをするだけです」
「そうか、頼んだぞ」
肩を強くたたかれた。
監督の話が一通り終わった後、4年の物重がにこやかな笑顔をして、大学生の男性とは思えないほどの甲高い声で話しかけてきた。
「1年から箱根なんて凄いな!頑張れよ!」
「はい、頑張ります」
物重は4年間で一度も大舞台に立てなかった選手だ。そんな人がなぜそんなヘラヘラした顔をして話しかけてきたのか、悔しくないのか。これまで本気で取り組んでいなかったのか。
俺は昔から足が速く、小学校の持久走では一度も1位を譲ったことはなかった。
だからこの足で食っていく。そういう気持ちで陸上に取り組んでいた。
中学、高校は陸上部に形だけは所属していた。
強いと言えるようなチームではなかったからチーム練習なんて一切参加しなかった。1分、1秒、でも早くなるためにずっと一人で練習していたし、離れた場所の記録会やレースも1人で参加していた。
もちろん練習に参加しないこととか、勝手なことをしていることを指摘されたこともあったが結果を出せば何も言われなかった。
当たり前だ。
そういう世界だから。
駅伝に出てくれないかと懇願されたこともあったが、弱小なんだからどうせ地区で敗退するし、チームの人達は、「お金がかからないから陸上を始めた」だとか「球技ができないから陸上部に入った」だとか適当な理由で陸上部に入っていて、本当にやる気があったのか疑問だった。
だからすべて「トラック種目専門だから」とか「アスファルトでスピード出すと足に負担がかかるから」だとか適当な理由をつけて断ってきた。
強いと言われる大学に入ってから変わったことがある。
周りに強い選手がたくさんいた。だから1秒でも速くなるために練習は積極的に参加し、速い人たちに食らいついた。今回、駅伝で走るのも速い人たちに食らいついていくためだ。
しかし、本当にやる気があるのか疑問だったのは変わりがなかった。
「箱根に出れば有名になれるぞ」だとか「大手企業の実業団に入りたい」だとかそんなことばかり話していて、内心イライラしていた。
そんなことを考える暇があったら、1秒でも速くなることを考えろよと思った。
ミーティングが終わり、雨の日にジョグをしてびしょびしょに濡れ、外に乾かしていたランニングシューズを取りに寮の外に出る。冬真っ只中ということもあり冷たい空気が身に染みる。体を冷やさないために早く戻らないと。そんなことを思いながら寮の壁に立てかけているシューズを取りに行った時だった。
誰かが泣いている声が聞こえた。
泣き声の音はすぐ近くにあったが、寮の角が死角になっていて、姿は確認できなかったものの誰の声であったのかはすぐに分かった。
あの特徴的な甲高い声は一人しかいない。
物重だ。
甲高い声で時々しゃくり声をあげ、その声は冬の乾燥した空気によく響いていた。
こちらの気配に気づく余裕すらないようだった。
その声を聴くたび、胸がキュッと絞られるような感じがした。とても良い気分とはいえなかったので、すぐに離れようとしたのだが、まるで氷の上に裸足で乗ってくっついてしまったようにその場を動けなかったので、しばらく聞き入っていた。
【箱根駅伝当日】
寒々とした青い空の下、続々と2区の選手たちが中継所にやってきた。
襷を受け取る場所に並ぶとエースである野場が見えてきた。
あんなにきつい顔をしているのを見るのは初めてだ。綺麗だったフォームは大きく体勢を崩し、口を大きく開け、もがきながらもこちらに向かって進み、襷を両手でしわがないほどピンと伸ばし、差し出てきた。
その真ん中を掴み取り、襷を肩にかけ走り出す。前の西川大学とは20メートルくらい離れていた。3区の西川大学の選手は俺より10000メートルの持ちタイムは速い。ここで勝てばまた一つ成長できる。そう思い500メートルくらい走った頃には追い付き、ちょうどいいペースだったから後ろについていった。
14キロあたりを通過した時、前の西川大学の選手のペースが落ちたので、ペースを上げて前に出ようとしたとき、身体に異変が起きた。
太腿に電気が走ったような痛みが生じた。
気のせいだと思いそのまま走り続けたが、痛みは足を地面に設置する度に大きくなっていき、たまわず大きくペースを落とした。
足のストライドはどんどん小さくなっていき、普段のジョグのようなペースになっていく。
前に視線を向けると、既に小粒のように小さくなった西川大学の選手の背中と、給水地点が見えた。
給水地点には一週間前寮の隅で泣いていた物重先輩の姿があった。
給水地点の眼の前を通る。
彼は今どんな顔をしているのだろうか。
きっと情けない走りをしている俺に怒っているに違いない。俺に怒りを飛ばすに違いない。
そう思ってたが、それは大きな間違いだった。
「大丈夫か!西島!」
物重先輩が心配そうな顔をしてこちらに声をかけ、水を差し出す。
その水を受け取り、容器を上に傾け喉に流し込む。水を返すとき申し訳なく思い、顔を合わせられることができず、顔を下に向けると、
物重先輩のボロボロのランニングシューズが目に入った。
つい最近販売されたばかりのランニングシューズの側面にはたくさんのシワができていた。靴の底は見えなかったが、きっと底が大きく削れてるに違いない。
みんな本気でやっていた。
俺がいままで気づかなかったのは、彼らが優しく、俺がそれに気づいていなかったからだ。
きっと悔しい姿を目の前で見せなかったのは、恥ずかしいとかではなく、駅伝を走るメンバーにプレッシャーを与えたくなかったからだ。
一見ふざけたことを言っているように見えることも、チームの雰囲気を良くするため。
比べて俺はどうだ。
傲慢で全く周りを見ていなかった。いや、見ようとしていなかった。
今ここで走っているのもチームの先輩が練習で引っ張ってきたからだ。そして先輩を支えた人達はたくさんいる。
中学、高校の練習は一人でやってきたと言ったが、遠くの記録会やレースの手続きをしたのは、栄養を考えて料理をしてくれたのは、試合や記録会を運営したのは、靴や練習着を買ったのは…
俺じゃない。
間接的に様々な人たちに支えられてここまで来た。だからこそ、多くの人が見ているこの箱根駅伝という大舞台で立派な走りをしなければならない。
そのチャンスは物重先輩らではなく、俺がつかみ取った。俺は走るだけが取柄だ。だからここで1分、1秒でも速くこの襷をたくさんの人に支えられた仲間につながなければならない。だから駅伝に選ばれた人達はあんなに緊張していた。
しかし、現実は非情だ。
今更それに気づいたところでこの足が治ることはないし、ペースを上げられるわけでもない。
何人抜かれただろうか。頼む、これ以上俺の前に出ないでくれ。必死に涙をこらえる。
沿道に俺の家族がいた。父、母、弟。
本当であれば一瞬にして通りすぎて気づかないだろうが、視界にはっきりと入った。
父は突然遠くの記録会に出ると言っても、文句ひとつ言わず、連れて行ってくれた。
陸上に必要な道具も買ってくれた。ちゃんとお礼を言ってないであろう俺に。
母は栄養学などの本をわざわざ買って、その本を参考に料理を作ってくれた。誕生日のケーキを買ってくれたとき、身体に悪いから要らないと言い放った俺に。
弟は俺にすごいと言ってくれた。学校のマラソン大会の練習に付き合ってほしいと言われても、まったく付き合わなかった俺に。
しばらく走っているのか、歩いているのか分からないペースで走ると、4区の選手が大きく手を振っているのが見えた。
最後に気力を振り絞り、襷を肩から外した。その襷は受け取った時とは違い、とても重たく感じた。この重さは汗の重さだけではないことは今ならはっきりと分かる。
腕をちぎれそうなほど伸ばし、襷を渡した。4区の選手は襷を大きく掲げ颯爽と走り出していった。救護班に抱えられ選手の待機場所に向かう。
待機場所には付き添いのチームメイトがいた。
「西島、そんな泣くなって、今度は脱水になるぞ」
痛ぇ、痛えじゃねえか、ちくしょう。
その優しい冗談は、冬の冷たい風より体の内側に突き刺さり、より一層俺に涙を流させた。
しゃくり声が大きくなる。
その声は冬の乾燥した空気によく響いていた。
心の給水 伊賀谷 雄 @ikaya-yuu
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