怪人アベノマスク面
木村直輝
前編
馬鹿と
――日本のことわざ――
俺は初めてマスクをつけた。
通称アベノマスクと呼ばれている、アレだ。厚生労働省から各世帯に二枚ずつ配布された布マスク、それが届いたのを機に、俺はついにマスクデビューを果たした。
世界的に大流行している新型コロナウイルス感染症は、この日本でも猛威をふるっている。どれだけ正しく周知されているかはさておき、その名をその影響力を、もはや知らない者はいないだろう。
そして、そんな感染症の対策として、マスクもまた大流行している。もともと日常的に見かけるくらいには浸透していたが、今ほど、すれ違う人のほとんどがマスクをつけているというほどではなかった。
とは言え、それぞれの手元口元にマスクが行き渡たり始めたのはつい最近のことだと思う。爆発的な需要の急増加により、二月ごろから供給不足が始まり、一般的であった使い捨てのマスクはあっという間に店頭から姿を消してしまったのだ。希少な小さき物たちは、人々をまるで幻の動物を狩るハンターのように駆り立て、多くのドラックストアには開店待ちの大行列が発生した。しかし、その供給不足が手作りをはじめとした布マスクの台頭へと繋がり、使い捨てマスクの製造数増強など様々な要因が功を奏して、徐々にではあるものの供給不足がほんの少しずつ解消され始めている。
――二〇二〇年。世は、
そんな時代の中、俺はつい昨日までマスクをつけていなかった。
まるで、廃刀令のご時世に刀を携えていた侍のように。まるで、このご時世に携帯電話を持たない若者のように。俺は、この大マスク時代にいて、マスクを着けずにいたのだ。
マスクなんてつけても意味がないから、なんて明瞭で論理的な理由があったわけじゃない。俺にはマスクの効果を論じるほどの知識も興味もないし、みんながつけているのだからつけることが正しいんだろうと思う。それでも俺は、ただの一度もマスクをつけなかった。
その理由を、この気持ちをなんと言えばわかって貰えるだろうか。
一言で言うと、『恥ずかしかった』のだ。
例えばだ。これはあくまでも、例えなのだが……。
学校で授業中に先生から「わかる人は手を挙げて」と言われた時に、手を上げるのが恥ずかしいというような心理がわかるだろうか? 経験はなくとも、そういう心理を
むしろ良いことだとわかっていても、それがなぜだかはばかられる、気が引けてしまう、『恥ずかしい』と思ってしまう。そんな経験はないだろうか? そんな気持ちがわからないだろうか?
俺にはそういう気持ちがある。それで何度も、色んなものから逃げてきた。色んなものを見捨ててきた。そして、何度も自業自得の嫌な気分にさいなまれてきた。
マスクもそうだった。俺はマスクをするのがなんとなく『恥ずかしい』と感じていたのだ。だから俺は、今日までかたくなにマスクをつけずに生きてきた。
だが、総理大臣がマスクの全世帯配布を表明してから一カ月以上が経ち、賛否両論や紆余曲折を経て、ついに俺のもとにもマスクが届いた。それをきっかけに、今度は『届いたのに使わないのもなんだから』というこれまた非積極的な理由で、つけないことによる『恥ずかしい』から逃げるように、俺はマスクをつけ始めたのである。
思っていたほど小さくはなかったが、決して大きくはない。一般的に市販されているマスクは基本的に大きめなので、それに比べると小さい印象を受けるが、多くの人は最低限口と鼻を隠すことができそうな大きさだった。だが、洗うと縮むという性質と、何度も洗って使うという想定を考慮すると、少し小さいようにも思える。
なんにせよだ。俺は今日、初めてマスクをつけて外出している。
相変わらずテレワークなど導入されていない職場で働く俺は、ガラガラの電車に揺られ、今日もガタンゴトンと出勤し、今はガタンゴトンと帰路についている。
今じゃ行きも帰りも座って電車に乗ることが出来るようになったが、立っていようが座っていようが、特にやることがないということは変わらなかった。
俺は、手持ちぶさたで、スマートフォンの画面を指で撫でまわしていた。右手の親指だけが退屈しない電車内。
「オイ! なんで子供だけマスクしてねぇんだよ!」
急に俺の耳に入ってきた不愉快な
「親はしてんだからマスクあんだろぉ! 子供にもさせろよぉ!」
「すっ、すいません……」
中年くらいの男が、席に座った子連れの女性に絡んでいる。男の言う通り、母親と
言い返すでもなく、おびえた様子で頭を下げる女性に、男の文句が止まる様子はない。
「……」
もやもやとした不快な何かが、俺の中で急激に渦を巻き始めた。
ここで立ち上がって、あの男を止めるのがきっと正しいことなのだろう。できるのならそうしたいと、俺は思った。でも、やはり、『恥ずかしい』と言う気持ちが俺を強く引き止める。俺は内から噴き出すもやもやに全身をさいなまれて、ただ座り尽くしていた。
俺はそういう人間だ。そもそも、ここで立ち上がったって、どうやってあの男を止めるのだろうか。俺は無力だ。俺には何もできない。俺には、俺は……。
その時、俺の向かいに座っていた女性が立ち上がった。二十代くらいの、若い女性だ。マスク越しにもわかるくらいの綺麗な顔立ちのその女性が、立ち上がったと思ったら男たちの方へ歩いて行った。
「ねぇ、お姉ちゃん。これ、可愛くないですか?」
「ぁあ? なんだアンタ?」
急に現れた女性に、男は面食らいつつも、相も変わらず不愉快な声で言葉を吐き出したが、女性は男の方を見向きもしない。
しゃがみこんで、席に座っておびえていた少女と目線を合わせ、小さなハンカチを見せている。
「これ、可愛くないかなぁ?」
「……かわいくない……」
「ほんとぉ?! 困ったなぁ……」
女性は苦笑しながら立ち上がると、ハンカチを手際よく懐にしまった手で、携帯用のアルコールスプレーとゴムひものようなものをもてあそび始めた。そうしながら女性は、少し大きめの独り言のような調子で続ける。
「この可愛いハンカチで簡易のマスクを作ってあげたら、喜んでつけてくれるかと思ったのに……」
そう言うと、彼女は母親と思しき女性に体を向け、言った。
「大変ですよね? 小さい子って、マスクをつけるとすぐずらしちゃったり、触った手で無意識に目をこすっちゃう子とかいて……。マスクをつけてた方が、逆に危なかったりしちゃう……」
「……えっ。あっ、ああ……、はい……」
面食らった様子でかろうじて返事をする女性から、彼女は少しの間を置いて、視線を移す。今度は男の方に向き直り、彼女は再び口を開いた。
「感染が拡大しないように、世のため人のために行動を起こすなんて、お兄さん、カッコイイです! でも、中々うまくいかないですよね? 私の可愛いハンカチで簡易マスク作戦も失敗しちゃったし……。うまくいかないと、どうしても
「おっ、おう……」
「でもほら、小さい子って大人よりもマスクしてると耳が痛くなっちゃったり苦しくなっちゃったり、無意識にマスクを触っちゃって余計に感染しちゃったりして危ないから、難しいんですよね……。お兄さん、せっかく世のため人のために動いたのに、それでこの子が余計にマスク嫌いになっちゃったりしたらもったいないし、悲しいし……。せっかく世の中をよくしようって素敵なお気持ちと行動力を持ってらっしゃるのに、それが逆効果になっちゃうのは、私、悲しいです……」
「……おっ、おう。そうか……。そうだな……。俺も、ちょっと……、そうだな……」
男はそういうと、ぎこちない動きで近くの席まで歩いていき、ドカッと座って大人しくなった。
「ごめんなさい。お騒がせしちゃって。……バイバイ」
女性はそう言って、最後に女の子に手をふると、もといた座背の方に戻ってきた。途中、電車の揺れでふらっとよろめいたものの、彼女がまとう凛としたたたずまいが揺らぐことはなかった。
彼女は俺の正面の席まで戻ってくると、見とれてしまうほど綺麗な所作でそこに座った。俺は彼女を見つめる。とても美人だった。そう、美人だった。
さっきの男だって、美人の彼女にあんな風に言われたから大人しくなったのだろう。俺が同じことをしたって、恐らくああはならなかったはずだ。女の子だってもっと警戒して、返事さえしてくれなかったかもしれない。母親も、怪しい男がさらに増えたと、我慢ならなくなって逃げだしたかもしれない……。
結局、持ってる奴だけが上手くやれる世の中なんだ。美人だから、才能があるから上手くいって、自信もついて、だから行動することが出来て、もっと上手くいく。そういう循環の中にいるんだ。彼女みたいな人間は。持って生まれた人間は。逆に俺みたいな持っていない奴は、真逆の悪循環の中にいる。だから、マスクでもしてこの汚い顔を隠して、ひっそり隅っこにいるのがちょうどいいんだ。胸糞の悪い話だ。
そんなことを考えながら、目の前の女性のことを見ていると、彼女は俺の視線に気づいたのか顔をあげた。目が合うと、その目が細められた。微笑んだのだ。俺は目を伏せる。
胸糞悪い。胸糞悪い。胸糞悪いが、単純だ。俺はドキッとしてしまった。美人に微笑みかけられて、悪い気がしなかったのだ……。結局、そうなんだ……。結局……。
世の中は単純で、残酷だ。
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