背徳は蝉時雨のように

阿久津 幻斎

【序章】

第1話 蝉時雨

 二〇二二年七月二十二日。アブラゼミとミンミンゼミが一斉に鳴き始める午前六時過ぎ。中学最後の夏休みの前半がスタートして一日が経った。そんな中、僕は母から〝コンビニで卵を買う〟という重要な任務を命じられている。早く買ってこいと言われたので、ひどい寝癖のまま家を出てきてしまった。一つ上の姉と、たまたま休みが被った父も家にいるというのに何故僕なのか。理由は明白だ。僕がなんでも言うことを聞くからである。早めに夏休みの宿題を終わらせて、高校受験の為に勉強しなければいけないのに。でもまあ、逆らうと色々と面倒なので、いつもにこにこしながら素直に言うことを聞くようにしている。自己防衛の一つだ。

 僕の家はドがつく程の田舎ではないものの、一番近いコンビニまで約一キロはある。住宅街を少し進むと、今は使われていない畑がある。昔、よく姉と一緒に昆虫採集をして遊んだ思い出の場所だ。少し前まではカマキリやカエルなどが沢山いたが、最近はすっかり見なくなった。

 ここを斜めに横断すると近道になるので、生い茂る雑草を足で器用に掻き分けながら進んだ。

 畑を抜けた瞬間、目の前をシャボン玉がふわりと横切った。ふと前を見ると、幼稚園ぐらいの女の子が家の前で母親と一緒にシャボン玉で遊んでいた。それを見て、正直僕はむっとした。幸せそうだったからだ。人並みの幸せを目の当たりにすると腹が立つ。無意識に顔が険しくなっていたことに気づいて、僕は俯き気味で早歩きをしながら親子の横を通り過ぎた。朝からなんとも言えない劣等感を感じた。

 そのまま少し歩いて大きな道路に出た。左側には、小学校と中学校が並んで建っている。僕が通う中学校だ。この道をずっと真っ直ぐ進むと老夫婦が経営している昔ながらの酒屋があるので、その角を右に曲がる。さらに進んで一つ目の信号を左に曲がれば最寄りのコンビニだ。最寄りといいながらも結構遠い。

 黒いスキニーと黒い長袖ロンTの裾に猫じゃらしの残党をくっつけたまま、やっとの思いでコンビニに着いた。夏の暑さのせいか普段よりも道のりが遠く感じた。自動ドアが冷房の人工的な涼しさと共に僕を店内へと歓迎する。

「いらっしゃいませ」

 入店BGMと共に半ばオートで発せられる聞き慣れたセリフを尻目に、僕はそそくさと卵だけを取りレジへと向かう。

「ありがとうございます。またお越しくださいませ」

 涼しい顔の店員が丁寧にお辞儀をした。僕は、どうも、と小さくお礼をして卵のパックだけが入ったビニール袋を手に取り、流れた汗が乾く間もなく自動ドアへと向かった。

 ——よし、早く帰ろう。

 無事に任務を遂行して一歩外に出ると、ムワッとした湿気を帯びた空気が僕の身体中を覆った。まだ午前中なので肌を焼き付ける程の強い日差しではないが、油断していると夏の太陽は瞬く間に人間を殺す凶器と成る。

 夏休みだからと無駄に張り切って早起きしたせいか普段よりも足取りが重い。鉛のような足を引き摺り、蝉の大合唱を聴きながらようやく家に辿り着いた。ポケットから鍵を取り出し慣れた手つきでガチャリと鍵を開け、玄関のドアを開ける。外に向かって開くタイプのドアなので、家の中の空気が外に向かって流れ出てくる。玄関には、夏に合うように最近新しく買ったレモンの香りの芳香剤を置いているので、爽やかな香りがする——筈だった。

 鼻腔を擽るツンとした臭いは、柑橘のそれではなかった。

「……生臭い」

 頭からサーっと血の気が引いていく。何の匂いかはすぐに分かった。震える両足でリビングへ続く廊下を歩く。リビングのドアは半開きになっていて、部屋の明かりは消えていた。ふと足の裏に生暖かい感触が伝わる。反射的に目をやると、赤黒い液体が開いたドアの隙間から廊下へと漏れていた。

 喉から肺にかけてのびる気管がギュッと締まるのを感じながらなんとか息を吸う。壊れそうな程強く脈打つ心臓のまま、震える手で開きかけのドアを開けた。

「……何だこれ」

 目の前に広がる異様な光景を見て、僕は何故だか分からないが冷静になった。リビングのレースカーテン越しの朝日で部屋の中は視認できた。一面血の海だった。一気に思考が駆け巡る。強盗か?いや違う。部屋が荒らされた形跡がない。怨恨?誰が。もう一度部屋を見渡す。さっき僕に任務を命じた母さんは、白い革張りのソファに横たわっていた。僕は息を止めたまま、ゆっくりと近づいた。血溜まりを踏む音が静かなリビングに響く。

 母さんの口には、切り落とされた自身の拳が詰め込まれていた。顎が外れている。両目には長い五寸釘のようなものが刺さり、頭蓋は大きく陥没していた。アキレス腱は切られ、胸には大きくバツを書くように、深く切り裂かれた傷跡があった。その側に転がる父も同じような殺され方だった。もう、跡形もなかった。

 ——姉さん。そうだ、姉さんがいない。

 一階を隈無く探したがいなかった。きっと二階に隠れているんだ、そう思った。血で濡れた靴下のせいで滑って転がり落ちそうになりながら必死で階段をかけ上り、勢いよく姉さんの部屋のドアを開けた。

 ——僕は変わり果てた姉さんの姿を見て、瞬きすらできなかった。

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