プロジェクト九尾 現代編

梅木百草

第1話 神隠し

 二〇二三年 三月一五日。


 栃木県那須郡那須町の温泉地である那須湯本温泉近くにある殺生石と呼ばれる岩が割れた。この殺生石は、九尾の狐が姿を変えたものと伝えられている岩で、これを源翁心昭という曹洞宗の僧侶が祓ったと言う伝承がある。


 この日の下野新聞によれば、那須湯本温泉に来ていた複数の観光客が真っ白な狐を見たという記事が載っている。摩訶不思議なことに、その狐は観光客の前で煙のように消えたということだ。



 二〇一九年 十月一九日


 茨城県の丁度真ん中に位置する笠間市。

 昔話に事欠かない歴史のある街で、狐にまつわる昔話が多く、狐の街とも言える。


 地元の笠間中学校に通う志田雄二も、小学生の頃、佐白山で怪我をした野生の子狐を保護した事があり、狐は身近な動物だと感じている。狐はあまり人には懐かないようだが、保護した子狐は雄二にとても懐いてしまい、なかなか野生に帰ろうとしなかった。そんな事もあり、狐好きになった雄二は、小学生時代、笠間稲荷神社の狐塚に遊びに行っては、狐の石像の頭を撫でたりしていた。


 今日は、毎年十月に開催される笠間稲荷神社の菊まつりの初日。


 雄二は、反抗期真っ只中の生意気盛りの中学二年なので、普段は親に反発ばかりしているが、この日ばかりは特別で、家族全員で祭りを楽しむ事にしている。菊まつりは、笠間稲荷神社の近所に住んでいる志田家毎年の恒例行事なのだ。

「ちょっとお兄ちゃん、そんな速く歩かないでよ!!」

 小学五年生の妹の翠が後ろで叫んでいるが、お祭りでテンションの上がっている雄二は、妹の言葉を無視し、溢れかえる人をかき分けるようにどんどん神社の奥へと入って行った。

 父と母も、勝手を知る神社なので、あまり心配せずに雄二を先に行かせた。

 両親は、広い境内の至る所に趣向を凝らして飾られた素晴らしい菊を見ても、風情を全く感知しない雄二が感動するとは一ミリも思っておらず、その辺で遊んでいてくれた方が助かると思っているのだ。そして、それは正しい。


 雄二は調子に乗って神社の奥へと走って行った。


 詰め掛けた人々の喧騒で、すでに妹の声は聞こえない。そして、妹も僕を追いかけるのを諦めたようだ。

 観光客の脇をすり抜けて、雄二は目的地へとひた走る。

 笠間稲荷神社は、古くからこの地域を見守る神社で、創建は第三六代孝徳天皇の御代の六五一年だという。実に立派な神社で境内も広い。本殿以外にも様々なものがあるので観光客にも楽しい神社だろう。

 そして、稲荷神社ということからも狐にまつわる話の多い神社だ。

 菊まつりでは、神社の至る所に菊が飾られる。その最奥には、菊人形を展示する端鳳閣がある。毎年家族で菊人形を見るのが志田家のルーティンだ。菊人形と言うのは、やたらリアルな人の蝋人形に菊で作られた服を着せるもので、これは一見の価値がある。菊自体に興味はない雄二も、菊人形を毎年楽しみにしている。

 飾られた菊などほとんど見ずに、神社の奥の方まで来てしまった雄二は、ふと立ち止まった。このまま端鳳閣まで行くと、みんなが来るまでかなり待つ事になる。であれば、本殿裏の狐塚で時間を潰そうと決めた。


 雄二は、御本殿の脇を抜けて狐塚に向かった。


 笠間稲荷神社の本殿裏にある狐塚は、多くの狐の石像が見守っている塚で、塚そのものは溶岩の塊を何個も繋ぎ合わせたような塚で、山の形をしており、高さは二メートルくらいある。何故か二匹の狐の石像が埋め込まれていて、それほど規模の大きいものではないが、雄二は、小さい頃からここが神社の中で一番気に入っている。

 どういう訳か気持ちが落ち着くし、愛嬌のある狐が沢山いるから見ていて飽きない場所だ。

 文化系の部活に入り、普段から運動していないせいか、例年より若干疲れた気もするが、家族よりも十五分は早く狐塚に到着しただろうと思う。

 多くの狐に囲まれた狐塚は、いつも通り本殿の裏手にちょこんとあった。

 今日は祭りで多くの人が来ているので、人でごった返しているかと思いきや、ラッキーなことに今の時間帯は二十代の女性が二人見ているだけだった。その女性たちも、狐塚の写真を撮り終えていなくなったので、雄二は、これ幸いと狐塚へとダッシュした。

 ふふふ。数分は一人で見られるぞ。

 などと思いながら、狐塚に着いた雄二は、狐塚の前に集う狐たちを何気なく見た。

 狐たちは白いものもいれば黒いものいて、黒い狐は、数は少ないものの大きくて石で造られており、白い狐は、陶器製で手乗りサイズの小さいものが多く、黒い狐よりも圧倒的に数が多い。

 黒も白も一体一体に個性があり、雄二は、中央付近の愛嬌のある顔をした白い狐が気に入っている。この平和な笑みはいつ見ても癒される。ただ、他の狐よりも小さいので、大きな狐に隠れてしまい、いつも見え辛い位置にいる。


 ふと、雄二はこの狐を見やすくしようと思った。


 塚の周りを見回すと、運よく観光客もいない。

 よし、今だ!!と心の中で叫び、しゃがみこむと、素早く数体の白い狐を入れ替えた。お気に入りの狐は非常に見やすい位置にきた。ニコッと笑った顔は喜んでいるようにも見える。

 同じような狐が沢山いるし、ほんの数体しか動かしていないので、これなら誰も分からないだろうと、雄二は満足そうに頷いた。そして、塚の周りをゆっくりと回り、お気に入りの狐の見え方を確認した。思惑通りその狐はどこからも見やすくなっていた。


 ただ、さっきから何か違和感を感じる。何だろう?


 周りを見ても、いつもの神社が脇にあるだけで、特に変わった所はない。首を傾げながら少し歩いて、ようやくその違和感の正体が分かった。

 さっきまで溢れるようにいた観光客が、この周辺からいなくなっていたのだ。

 多くの観光客らが行き交っていた境内に、今は誰一人として歩いていない。十月だというのに風も非常に緩く感じる。一体何が起こっているのか検討もつかない。

 雄二の心は一気に恐怖に支配され、全身に寒気が走った。

 まさか、あの白い狐の像の位置を勝手に変えたからこんな事に…

 一方でそんな事があるのか?とも思うが、他に理由が見当たらない。僕の頭の中に、あんな事やらなければ良かったという後悔の念が聚合する。そして、雄二は心の中で盛大に「僕のバカ!!」と叫んだ。

 一縷の望みにすがって神社の本殿へ周ってみたが、やはり、観光客はおろか人間という人間がいない。

 やっぱりあれが悪かったのだと反射的に思い、狐の像を元に戻すため、走って狐塚に戻った。しかし、最悪なことに、あの愛嬌ある白い狐とその周りの狐の像を見ても、最早どこをどう入れ替えたのかが分からない。

 これで、僕は冷静さを完全に失ってしまった。

 よせばいいのに、いくつかの白い狐を、それらしい位置に何度も入れ替えてしまった。当然の結果として、狐たちの配列は余計に酷くなった。気づいた時には、愛嬌のある狐の周りにいた白い狐たちは、もう元には戻らないほど、向きも含めて入れ替わってしまっていた。

 焦ってドツボにはまってしまう典型的な転落劇を自演し、僕は、肩を落としてゆっくりと立ち上がった。

 頭に血が上りすぎて、生まれて初めて立ち眩んだ。このまま倒れてしまいたかったが、この程度の眩みでは倒れられないようで、雄二は、ため息混じりに境内を見やった。

 狐塚も神社も何事もなかったかのように目の前にあるが、やはり、人間だけはどこにもいない。もう目に入るもの全てが夢だと思いたい。


 僕は、世の中にはやってはいけない事が確実にあるのだと、今更ながらに思った。


 近くの佐白山だって、全ての井戸を見ると不幸が起こると言われている。だから友達との総意で未だにあそこの井戸の数は数えていない。そう言えば、近くの難台山にも南北朝時代の戦いで多くの武将の首を洗った首洗いの滝があり、そこもあまりいい噂は聞かない。そういう曰く付きの場所で余計な事をすると、今の僕と同じようになるに違いない。

 歴史ある神社に禁忌があるのは、ごく当たり前の事なのだ。

 しかもここは狐を祀った神社だ。謂れは信じるに足ると言うことだろう。僕は、髪の毛をぐしゃぐしゃにしながら、狐塚から少し離れた地べたに腰を下ろした。体育座りの膝小僧に頭を埋め、ない頭でこれからどうしようかと考えた。しかし、何をどう考えても解決策は浮かんでこない。あまりにどうにもならないので涙すら出ない有様だ。

 このままこの神社から出ても、どこまでも人がいなければ何の解決にもならない。


 この詰んだ状況に、何度目かの大きなため息をついて、僕は、今一度狐塚を見た。


 普段であれば、狐塚は大きくも小さくも感じないが、今は山のように大きく見える。

 ん?と思い、雄二は二度見した。

 いや、確実に大きい。本当に山のようだ。一瞬、僕が小さくなったのかと思ったが、周りの建物の大きさは変わっていないので、狐塚が大きくなったようだ。

 思わず立ち上がって、僕は、身体を回転させながら周りを見た。うまく言い表せないが、何かが変わったように思う。いや、確実に空気感が変わっている。

「うわっ!!」

 僕は、いきなり何かに引っ張られた。

 雄二はその力に抵抗したものの、足が勝手に狐塚へと進んでいく。ザッザッザと小石の擦れる音がして、どんどん狐塚が近づいてくる。いつもは何とも思わないが、大きくなった狐塚は、すこぶる不気味に見える。

 先程までの生ぬるい風が止み、極端に音が聞こえにくくなった。

 この環境の変化に、雄二の心の奥底からどす黒い不安が湧き出て、全身に鳥肌がたった。自分の足音にびくついてしまう有様だ。それでも、恐怖となんとか向き合って、雄二は狐塚からは目を離さないようにした。目を離した瞬間、何かとんでもない事が起きそうな気がするのだ。


 とうとう、僕は狐塚まであと数メートルというところまで歩いて来た。


 巨大になった狐塚の迫力は異様だ。ダイダラボッチを間近で見る気分になる。

 狐塚を形成する岩の中に埋わった二体の狐の首に掛けられた真っ赤な前掛けが、突然、風もないのに脈打つように動き始めた。まるで真っ赤な血で染まる臓物のようだ。それだけでも気味悪いのに、いよいよ、僕の後ろに何かの視線というか、蠢く何かの存在を感じた。

 もう恐ろしくて怖くて、後ろなど振り返りようがない。

 この恐怖に耐えられる中学生なんているはずがない。もし、ダークファンタジー系のRPGのボス敵みたいなのがいたら、絶対に意識を保てない自信がある。それなのに、僕の耳は聞きたくもない音を覚知した。他の音は聞き辛いのに、荒い息遣いと複数の足音だけはよく聞こえるのは何故だろうか?


 僕の頭の中に、多足ムカデの妖怪や多足悪魔のブエルのような怪異の映像が駆け巡る。


 どれだけ楽観的に考えても、後ろにいるのは少なくとも人間ではない。タタッタタッと、これだけ高速で小刻みに動ける人間などいるはずがないからだ。

「助けてくれ!!」と大声で叫びながら逃げたいが、どういう訳か、周りの空気が異様に重く、まるで水中にいるように感じる。前にも横にも進める感じがしない。

 気づけば、周りの様子さえも変わっていた。

 今の今まで煌々と照っていたはずの太陽はどこに隠れたのか、周囲は夜のように暗くなっている。そして、いつ焚かれたのか、僕は沢山の篝火に囲まれていた。太陽の代わりに篝火が狐塚を照らしている。

 すると、狐塚にも動きがあった。

 狐の像に掛かっていた二つの真っ赤な前掛けがゆっくりと外れて、宙空に浮かんだのだ。前掛けはいつの間にか二つの臓器となって、狐塚の前で静かに脈打ち始めた。


 もう気持ち悪いやら怖いやらで、よく気絶しないものだと自分でも感心する。


 僕の後ろでは、足音の数を増やしながら、何かが飛び跳ね始めた。

 これはもう普通に考えて、僕は助からない。こうなればヤケクソになろうというものだ。勇気を振り絞って、僕は少しだけ首を後ろに回した。目端に、はっきりとではないが、何かの動物が何匹も飛び跳ねたり歩いたりしているのが見えた。僕は、大きく息を吐いて、若干だけ胸を撫で下ろした。

 グロくて大きな妖怪が立っていなくて良かったと思ったが、そもそも、これは安堵して良いレベルの事なのだろうか?

 目端に映った黄色い毛とあの大きさ。あれは、恐らく狐だ。それが闇に蠢きながら何匹もいた。

 タタッ…ストスト…

 土の上を素早く動く足の音がひっきりなしに聞こえる。

 目の前の狐塚にも更に動きがあった。

 狐の像の前に浮かぶ真っ赤な二つの臓器が、五メートルはあろうかという狐塚の天辺へとゆっくり上がっていった。突然、その臓器から血が溢れ出てきて、ぴちゃぴちゃと音を立てて滴った。その滴った血が狐塚に当たり、方々に飛び散る。当然、僕の顔にも跳ねた血が当たった。気持ち悪いが、手もうまく動かないので、僕は、顔に跳ねてくる血を拭く事ができないまま立っているしかなかった。

 薄目で様子を見ていると、臓器から滴る血が、真っ黒な塚を赤に染め始めた。

 こんなエグい物を見せられれば、自ずと精神は限界に達する。雄二は、思わず狐塚から目を背けた。しかし、今度は、何かの匂いを感じた。

 何の匂いだろう?

 その匂いは、鮮やかに僕の鼻を刺激した。何というか、今の今まで嗅覚の存在を忘れていたかのようにすら感じる。いや、忘れていたのかもしれない。鼻に入って来た匂いは、鉄のような血の匂いでも狐の獣臭でもなく、やけに甘ったるく感じるけど、心地の良い匂いだった。

 花のようにも砂糖のようにも感じる不思議な甘い匂いは、雄二の心に少しだけ余裕をくれた。

 今しかないと思った僕は、思い切って「だ、誰かいる?」と大きな声を出してみた。しかし、予想はしていたものの、無常にも応えは返ってこなかった。どうやら、釧路湿原の中心で助けを呼ぶようなものだったようだ。

 たった一人取り残された世界で、目に見えて状況は悪くなっていく。

 雄二は、純粋に人間に会いたいと思った。同種が一人でもいれば、その安心感は計り知れない。あのくそ生意気な妹の顔でさえ、きっと天使に見えるだろう。「お兄ちゃん、早く行きすぎ!!」とか言って、蹴りの一つでも入れてほしいくらいだ。


 突然、ミシミシッ。ゴリゴリッと巨大な音が響いた。


 僕は慌てて目を開き、狐塚を見た。

 狐塚を固めている真っ黒で溶岩のような石たちが、それぞれ鳴動して、大きく揺れていた。各々が揺れる度に石の擦れる音が、巨大な音場を作っていく。音は徐々に大きくなっていき、大きくなる度、雄二に恐怖が刷り込まれていく。

 鳴動による揺れは一定で、狐塚の上に浮かぶ脈打つ二つの臓器と同じリズムを刻んでいる。

 しばらくすると、塚を構成する黒い石達が剥がれ落ち始め、あれよあれよと言ううちに塚は消え去った。地面に剥がれ落ちた黒い石たちは、すぐに動き始めると、いくつかのグループに分かれてくっつき始めた。


 しばらくすると、くっついた石たちのいくつかが、地面から宙空に浮き上がり、複数の球体状の巨石へと収束していった。

その時、巨大な揺れがあり、雄二は倒れそうになった。こんな時に地震だろうか?

 などと思っていると、更なる揺れが雄二を襲った。

 うわっ。これは大きい!!

 いきなり襲ってきた大きな横揺れに、雄二は、今度こそ足を取られて倒れそうになった。手をぐるぐる回して身体を安定させたので、何とか倒れずに済んだ。

 手が動かせて良かったと思う。僕はついでに顔についた血を袖で拭った。

 それでも足は動かない。そんな動けない雄二とは真逆に、後ろの狐たちの足音はどんどん軽快になってくる。ザザッザザッという足を擦る音がいやでも耳に入る。中には、何が楽しいのか大きく飛び跳ねている狐までいるようだ。


 もう、何なんだよ、こいつら…と、口にしかけた愚痴を何とか飲み込んで、雄二は宙空に浮かぶ球体を見やった。なんだかんだで十数個はある。


 五メートルほど上空に浮いている赤い臓器から滴っていた血が、とうとう蛇口から出る水のように大量に溢れ出た。地面に当たってビチャビチャと嫌な音を立てる。

 恐怖で震えが止まらない。

 自分の脳の処理能力を超える事ばかりが続くので、雄二は、頬を両手で思い切り引っ叩いた。痛みで少し頭がはっきりとしただろうか?

「どうにかしてくれよ。もう…」

 あまりの恐怖に、誰か気づいてくれと、どさくさに紛れて少し大きめに言ってみたが、やはり人間は誰も返事をしてくれない。それどころか、人間の返事の代わりに、後ろから鋭い野獣の咆哮が聞こえた。だいぶ怒っている様子だ。この怒り方からすると、自分に静かにしていろと言っているのだろう。

 狐に怒られた雄二はしゅんとしたが、一方で人間様のプライドもあって、狐のくせにと口を尖らせて小さく「ふんっ」と言うと、狐に足を蹴られた。どうやら、ここの狐は思ったよりも地獄耳のようだ。


 ようやく横揺れが収まってきた。塚を構成していた石が、完全に複数の球体に集約されたようだ。


 狐たちは、「ああぁああー」という人間の悲鳴のような鳴き声をあげた。人間がずっと襲われ続けているように聞こえ、心が落ち着かないが、彼らが喜んでいる事だけは何故だか分かる。

 すると、宙空に浮いている球体状の巨石たちが、ゆっくりとではあるが、バラバラに上へ下へと動き始めた。

 三、四個の巨石が上昇すると、その巨石同士がぶつかり合って固まり、頭のような形を形成した。いや、これはもう完全に頭だ。すでに大きな耳、瞳、鼻、口まで今にも動き出しそうなほど正確に形作っている。実にノーブルで美しい狐の顔だと、思わず見入ってしまう。

 それを見た狐たちも、一段と大きい咆哮を上げて興奮し始めた。

 他の球体状の巨石達もぶつかり始め、それぞれに身体や手足を順々に形作っていった。巨大な狐の像が今まさに目の前で組み上がっていく。美しい顔つきも目立つが、最も目を引いたのは、とてつもなく大きな尻尾だ。

 最も多くの巨石たちがぶつかってはくっつき、ついには頭よりも遥か高く、体の倍はあろうかという長さになった。

 身体を形成する部位が完成してはくっつくという事を繰り返し、ついには巨大な狐の像が完成した。

 大量の血をびちゃびちゃと溢しながら浮かんでいた二つの臓器が、その完成した狐象の胸の辺りにゆっくりと降りてきた。

 狐による黒魔術の儀式かと言いたくなるこの異様な空間に、僕は圧倒された。心は未だ恐怖に支配されているが、目は狐の像から離せない。

 真っ赤な臓器は、脈打ちながら巨大な狐の像の胸の中へとゆっくり吸い込まれていった。川のように流れる夥しい血で、狐の像の胸から下は、血が滴り、真っ赤に染まった。

 その余りに気持ちの悪い見た目に、雄二は思わず目を背けた。

 このまま何も見ないでいたいが、これに向き合わないといけないと何故か思えたので、僕は仕方なく、『狐の像よ。消えろ!!』と、都合のいい願望を心の中で唱えながら目を戻した。しかし、像は、当たり前のように目の前に屹立し、更なる変化を遂げていた。


 狐の像の至る所に艶のいい黒い毛が生え始め、像の毛が生えた部位を覆っていた石は、瘡蓋のように次々と剥がれて下へと落ちていった。


 結局、大きな黒い狐の姿になるのかと、雄二が嘆息していると、真っ黒な毛に覆われた頭部に真っ赤な目が浮き出てきた。その目の鋭さときたら、アニメ史上最恐のイタチであるノロイかよと愚痴りたくなる鋭さだった。しかも光っている訳でもないのに、何故か若干眩しく感じる。

 ほとんどの部位の石が剥がれ落ちると、凄まじく大きな黒い狐が姿を現した。狐は、まず口で大きく呼吸をすると、小さく手足を動かした。そして、全身を使って伸びをすると、頭の遥か上にまで突き出ている大きな尻尾を盛大に揺らした。尻尾に付いていた血が大量に飛び散って、地面を濡らした。

 身の丈五メートルはあろうかという図体。この真っ赤な鋭い目。もう、一介の人間ではこんなのからは逃げられない。

 恐怖の沸点を超えた雄二の体の震えが止まらない。自分が余計なことをしてこの狐の封印を解いてしまったのだとすれば、人類のみんなに謝らなくてはいけない。


 人類の皆様ごめんなさい。

 

 指を組んだ手を胸の辺りに持ってきて謝罪していると、遥か頭上の真っ赤で威圧的な目が、ゆっくりと雄二を見下ろした。

 鋭すぎて怖いが、意外にも理知的な目は、とても動物の目には見えない。とは言え、人の目と同じ感じもしない。表現下手な自分があえて言うならば、あれは超越者の目だ。こんな超越者が人間と争いを選択した時、人類は相手になるのだろうか?

 古代史から現代史まで、どこを見回してもこのような超越者が人間を攻撃したという話は聞かない。いや、古事記や日本書記などには少し載っていたかもしれない。とすれば、昔の人々はこんな存在とコミュニケーションを取り、場合によっては戦っていたのだろうか?今の人間にこの狐に対抗する術があるのかは甚だ疑問だが。

 巨大な黒い狐は、「うううぅう」と小さく唸った。

 そして、雨に降られたように血でびしょびしょになった身体を盛大に揺らした。辺り一面に大量の血を撒き散らされる。この狐の目の前にいた雄二は、その血をモロに被り、服が血でびしょびしょになった。

 鉄臭い匂いが、服から鼻に入る。卒倒しそうだ。

 黒い狐は、満足そうに「ふぅぅぅう」と唸ると、巨大な尻尾を舌で舐めて、形を整え始めた。後ろの狐たちは、いつの間にか静かになっていた。

 しばらくすると、黒い狐はその尻尾を整え終わり、ソプラノ歌手のような高い声で一鳴きした。その鳴き声は桁違いの音圧で、雄二は腰が砕けて尻餅をついてしまった。

 最新の音響兵器を誰よりも早く体験した気分だ。ただ、恐ろしくも綺麗な鳴き声ではあった。

 雄二がお尻を叩きながら立ち上がると、黒狐は非常に満足そうな顔をしていた。あの大きな尻尾の手入れがうまくいったのかもしれない。

 漆黒の狐は、毛並みがツヤツヤして神々しく、立派な尻尾は艶めき、尻尾を振る度に柔らかい毛の一つ一つが麦の穂のように揺れた。このような立派な尻尾を持っている狐はきっと名のある狐に違いない。ただ、妖怪に詳しい友人は、狐の妖怪は、尾の数が多いほど格が高いと言っていた。と言う事は、この狐は格が低いのだろうか?

 そんなことを考えていると、興奮したのか、後ろの狐達の一部が小刻みにジャンプして鳴き声を上げた。瞬間、黒い狐は犬歯を剥き出しにして小さく唸った。すると、後ろの狐達の足音がピタッと止まって、鳴き声も止んだ。

 凄い統率力だ。やはりこの狐は名のある狐だと思う。


 ん?と思った瞬間、僕は、先ほど嗅いだ甘い匂いを感じた。


 まじかと思ったが、この巨大な黒い狐からあの甘ったるい匂いがする。このずっと嗅いでいたくなる匂いが、この黒い狐の匂いだったとは信じ難いが、事実そうなのだから仕方がない。クラスの女子からも時折こんな匂いがするが、あれは香水の匂いなので根本的に違うようにも思える。


 ついに、黒狐が一歩前に進んだ。


 品定めするようにこちらを見て、目を上に下に動かす。さっきまではこの真っ赤な目が恐怖でしかなかったが、その鋭く神のような奥深い目に魅入られそうになる。この黒狐には言い表せないようなノーブルさが漂っている。

 黒狐が低い声で唸ると、後ろにいた狐たちが素早くやってきて僕を囲んだ。

「ちょっ!!僕は美味しくないよ!!」

 突然囲まれて怖くなった雄二が叫ぶと、お前なんか食べるか!!とばかりに、怒りの鳴き声で狐たちに罵倒された。この狐たちは、僕の話していることが分かるのだろうか?だとすれば余計な事を口走れない。

「ごめんなさい」

 素直に謝ると、狐達は鳴くのを止めた。一匹が僕の足に頭を擦り付けると、他の狐もそれに続いた。最後に、白い子狐が雄二の背中から肩に飛び乗った。そしてその子狐が雄二の首をペロッと舐めた。

「ひっ!」反射的に声が出る。

 このまま首を齧られたらと思うと、背筋が寒くなる。瞬間、雄二は子狐に首を甘噛みされた。何となく、そんな事をするはずないだろ!!と、怒られているような気がする。

 巨大な黒狐を含めた狐たちは、何故か僕を攻撃してこない。もしかすると、彼らの一連の行動は、僕に対する挨拶だったのかもしれない。そう思うと、子狐には悪いことをしたと思えた。子狐はまだ肩に乗っていたので、ごめんなさいと頭をさすってみた。すると、頭を擦り付けてきた。まあ、許してくれたと解釈しよう。

 頃合いとみたのか、黒狐が小さく鳴くと、狐達は僕の周りに整列した。子狐も慌てて列に入った。一匹の白い狐が前に出て、黒い狐に向かって鳴き声を発した。その鳴き声に黒い狐は頷いた。

 何を説明したのだろうか?

 白い狐が列に戻ると、巨大な黒い狐が雄二に顔を近づけてきた。黒狐の鼻先が僕の顔の目の前に来た。鼻だけで僕の頭よりも遥かに大きい。生暖かい呼吸が顔に当たると同時に、あの甘ったるい匂いがする。いい匂いだけど怖い。

 色々な感情が入り乱れて、頭がクラクラする。

 黒い狐が顔をずらすと、鋭い犬歯が丁度目の前にきた。こんなのに貫かれたら一瞬にして地獄行きだ。すると、黒狐の巨大な舌が雄二の顔を軽く舐めた。何を確かめているのだろうか?不思議に思いながら、僕は、気絶しないように気を保った。

 次に、黒狐は鼻で僕の顔を何回か突いた。実は遊ばれているのかもしれない。

 例え遊ばれていたとしても、こちらは何もできない。何しろこちらから見ればこの黒狐は超存在だ。こんな超存在を、昔の人は神と言ったのだろう。そして、彼らと争いのないよう、事あるごとに祀ってきた。やはり昔から続いている事には意味があるのだ。とすれば、神隠しというものは本当にあり、こんな形でいなくなってしまう事なのかもしれない。今まさに、僕は神に隠されている。

 再び対話の姿勢をとった黒狐は、頭を少し揺らしながら両前足を僕の横に置いた。狐の手の毛が頬に触れた。毛は柔らかくて、相変わらず甘い匂いがする。


 これからどうなるのだろう?


 ここまで殺されなかったとはいえ、黒狐が何をしたいのかが分からない以上、その覚悟はしておかなければならない。神様のいる場所で不遜な行為はしてはいけないと、昔から両親にきつく言われていた。何でも、昔から雄二の一族は笠間に住み、決して土地の神には逆らわない事と伝わっていると言う。

 今更ながらそんな事を思い出した。

 黒狐が、初めに鳴いたのと同じくらい大きな鳴き声をあげた。

 雄二は、腰を落として吹っ飛びそうになるのをこらえた。音圧で逆立った髪の毛が元に戻るよりも前に、周りの狐たちが後ろへと下がっていく。最後に残ったのは白い子狐だった。よく見れば、あのお気に入りの狐と同じ顔をしている。小狐は僕の周りを一周すると、何故か僕の足首を甘噛みして後ろに下がった。そして、彼らの存在を感じなくなった。


 今、この空間には巨大な黒狐と僕しかいない。


 僕は最後の審判を迎えたのだろうと思う。

 相変わらずこの場は、風もなく、生暖かい空気に包まれている。音といえば、黒狐の呼吸音が耳に入る全てだ。


 黒狐は巨大な尻尾をピンと立てた。その尻尾が僕に巻き付ついた。


 雄二は身動きできなくなって、呼吸も苦しくなった。このままでは窒息した上、圧死してしまう。そう思ったが、どうなるものでもない。相手はもはや神とでもいうべき存在で、自分がどうこうできる事はない。

 尻尾の圧力はどんどん強くなり、思考力も徐々低下してくる。


 ああ…ここで僕は終わりなのか…


 そこで、僕の記憶は終わった。


 気がつくと、僕は狐塚の横に倒れていた。辺りは真っ暗で、観光客はおろか神社の人たちも見当たらない。一体今が何時なのかも分からないが、あの黒狐は僕を見逃してくれたらしい。

 ゆっくりと立ち上がり、僕は、夢見心地で自分の家へと歩いた。

 神社を出て、向こうに通行人が見えた時は嬉しくて、その通行人に思わず抱きつきそうになったくらいだ。それを自重できたのは今思えば奇跡だ。


 最悪なことに、家は大騒ぎになっていた。


 警察から近所の皆まで家に揃って僕の事について話し合っていた。非常に入りにくかったが、僕は家に入って皆に頭を下げた。狐の事もあり、この時何を言ったのか覚えていないが、ひたすら謝ったのは覚えている。

 雄二は、あった事を丁寧に説明した。

 事の次第を説明しても誰も信じてはくれない気もしたが、ありのままを話した。警察も両親もそれを聞いて唖然としていたが、笠間という土地だった事もあってか、皆は否定も肯定もしないで聞いてくれた。

 数日後。誘拐はなく、僕が神社で迷っていたという事でこの話は落ち着いた。


 雄二は普通に学校に通い、いつもの日常を取り戻していった。

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