無題のテキスト

彼方灯火

第1話 ○

 椅子に座りながらゆらゆらと身体を揺すぶる。それが僕が仕事をするときの癖だった。したがって、全然真面目に仕事をしていないといえるような気もしたが、そういう評価をするのは、仕事というものがどういうものか分かっていない人間だ。下手に大人に染まることがなかった者には、むしろ評価されると思う。


 目の前に小さなディスプレイがあった。小さいといっても、目より小さいわけがない。この種のものは、必ず人間の身体に合うようにデザインされている。それに対して、人間は何かのためにデザインされているわけではない。地球環境に適した姿にデザインされていると捉えられなくもないが、特定の目的を持ってデザインされているわけではないという点で、人間が生み出した道具とは異なる。


 キーボードを叩いて、文章を翻訳していく。僕の仕事は、ある言語で書かれた文章を、ほかの言語に翻訳することだ。職業の名前で言ってしまえば、翻訳家と呼んでも良い。けれど、今では僕たちのような人間を翻訳家と呼ぶ者はほとんどいない。翻訳という作業がそれだけ一般的になったからだ。コンピューターを使えば、誰でも翻訳をすることができるようになった。


 翻訳の価値が相対的に下がったから、翻訳家が自分たちの地位を守るためには、特殊な技能を持っている必要が生じた。その特殊な技能というのは、結局のところ、芸術的な何かということになる。普通に翻訳するだけでは価値がないから、芸術的な何かが求められる。現代では、翻訳とはそういうものになった。


 僕が翻訳しているのは、日本語で書かれた古代のテキストで、それをコンピューター言語に置き換えている。どうしてそういう作業が必要なのか、僕にはいまいち分からない。大方の予想はつく。しかし、依頼されたことに対して、僕はあまり深く突っ込まないことにしている。知っても仕方がないからだ。仕事の目的や結果を気にする者がいることは知っているが、どうしてそのようなことが必要なのか、僕には理解できない。とりあえず、仕事をすればお金が貰えるのだ。それならそれで良いではないか、と思ってしまう。


 と、思うのは、実は嘘で、僕はお金が嫌いだ。


 本当に嫌いだから、お金の管理をすべて相方に任せてしまったくらい。


 彼女はお金の扱いは上手くはないが、少なくとも、僕ほどお金アレルギーではない。


 想像することに特別な力があるのか分からないが、たった今思い浮かべたその相方が部屋のドアを開けて、僕の机までコーヒーを運んできた。彼女の方を見向きもせず、僕は口だけでお礼を述べる。彼女は暫くの間僕の傍に突っ立っていたが、やがてその場で一回転すると、口笛を吹きながらステップを踏み始めた。


「どういうつもり?」僕は相変わらず口だけで質問する。


「この踊りで、大地を振動させて、地震を起こして、地球ごと破壊しよう、というつもり」


「面白い」


「一緒にやる?」


「僕はキーボードを叩く力が強いから、それでも充分振動を起こすことができると思うんだ。よければ、君のステップに合わせて文章を打とうか?」


「いいね」


 特


 に


 意


 識


 す


 る


 わ


 け


 で


 は


 な


 い


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 れ


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 章


 は


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 め


 な


 け


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 ば


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 味


 が


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 ッ


 セ


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 ジ


 と


 い


 う


 も


 の


 に


 与


 え


 ら


 れ


 た


 宿


 命


 な


 の


 だ


 。


 一通り踊り終えて部屋を出て行こうとする彼女の後ろ姿を、僕はようやくちらと窺った。彼女は部屋の中なのに帽子を被っている。それはときどき彼女に見られる傾向で、確率として三十パーセントくらいの頻度だった。髪がそれなりに長いから、帽子を被るとその分美しさが際立つ。上から押さえられることで、下へ流れる力が強まるせいではないかと僕は分析している。


 僕の視線に気づいたのか、それとは関係がないのか、ともかく彼女がこちらを振り返った。


 一度、ウインク。


「どういうつもり?」僕は同じ質問を繰り返す。


「終わったら、ちょっと買い物に行こうよ」


「どうして?」


「食材が足りなくて」


「食べなければいいんじゃないかな」


「君がそれでいいなら、いいけど」


「うん、いいよ」


「でも、買い物に行きたい気分だから、行こう」


「行ってらっしゃい」


「行くからね」


「ふーん」


「三十分後に出発」


 三十分で残りの仕事が終わるだろうかと考えている内に、彼女は部屋を出ていってしまった。


 仕方がないので、僕は再びキーボードを叩く作業へと戻る。


 このキーボードが、文字を打つためのものではなく、音を奏でるためのものであれば、もう少し面白かったのに、と僕は少しだけ考えた。これは単なる思いつきで、僕は自分が音を奏でるよりも、文字を打つのを好んでいることを知っている。


 このキーボードと同じように、彼女はデザインされた存在だ。彼女のボディは人間を模倣して作られている。ここで、ボディについてはともかく、それでは精神はどうなのかという疑問が生じるかもしれないが、その問題に踏み込むと複雑になるから、踏み込まないことにしよう、と僕は一人で決める。


 実のところ、僕は、僕に精神なるものが存在するのか、未だに分かっていない。

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