まるで迷い込んだ野良猫のように

異端者

前編 懐いた野良猫

 朝――最初、何かの間違いだと思った。

 僕、高山行人たかやまゆきとは同じベッドの上のを確認する。

 彼女は下着姿で隣に寝ていた。

 ベッドの脇には脱ぎ散らかした衣類が散乱している。

 彼女、北見秋穂きたみあきほは同じ会社の先輩だ。年は自分より2歳上の26歳……のはずだ。

 すらりと伸びた長身に肩まであるストレートの黒髪で容姿が良く、仕事もできるので社内での評価は高い――が、今はそんなことは問題ではない。

 問題は、自分のアパートの部屋の同じベッドでなぜ彼女が寝ているのかということだ。

 僕は昨日の行動を反芻する。昨日はちょうど大きな仕事が片付いて、社内の同じ部署のメンバーと飲みに行こうという話になったが、それ以上思い出せなかった。

 駄目だ。こうなったら直接聞くしかない。僕は遠慮がちに彼女を揺さぶった。

 それでも起きない。だんだんと揺さぶりが乱暴になる。

「ん……ちょっと、何? もう少し寝かせて……」

「いや、北見さん……どうしてこんな所で寝てるんですか!?」

 僕は少し声を荒げて言った。

「どうしてって……行人君が言ったんでしょ? 私が帰るのが面倒だと言ったら、じゃあ僕の部屋に来ますか、って」

 は!? 僕はそんなことを言ったのか!?

 思い出そうとして見たが、完全に忘れているのか記憶になかった。

「だからって、独り暮らしの男の部屋に泊まるなんて――」

「もしかして、昨日何かあったかと期待してる?」

 彼女はそう言うと、悪戯っぽく笑った。

 僕は自身の心臓の鼓動が聞こえてくるような気がした。何かって――記憶にないけど、まさか北見さんと!?

「残念でした~。昨日、行人君はすぐに寝ちゃったから、添い寝しただけで~す」

 はあ……残念。

 でもまあ、彼女の下着姿が見られただけでも良しとするか。白い肌にピンクの下着、スレンダーな体系の割に出てる所は出てる。これだけでも男なら垂涎ものだろう。

「そんなにがっかりしなくても……いっそのこと、試してみる?」

「いえ、出社時間もあるので結構です」

 僕は丁重にお断りをした。プライドの欠片もない中年オヤジだったら、その場の勢いに任せて――となるのかもしれないが、幸い僕には自制心があった。

「え~ひょっとして、迷惑だった?」

「別に……迷惑じゃないですが。来たかったら、来てもらっても構いませんよ。どうせ彼女も居ませんし」

 出社する支度をしながら、受け流すつもりで言った。

 この時はまだ、この一言があんなことになるとは思ってもいなかった。


「今日はお鍋の材料を買ってきたから、これで作るね」

 あれから、2ヶ月程経った。

 僕はあの時の適当な返事を少し後悔していた。

 あの後、彼女は本当に来るようになってしまった。

 それも気が向いたらその時に突然来るのだ。最初の頃は驚いたものだった。

 彼女は台所に立って、鍋の準備をしている。

 鍵は既に渡してあった。いつだったか、冷え切った体でドアの前で待っていたのでせめて中に入れるように渡してしまったのだ。

 我ながら不用心極まりないが、あの時は適切だと思ったのだ。

 台所で鍋がぐつぐつと煮える音が聞こえてくる。

「あの……大丈夫なんですか?」

 この質問は何度目だろう。もう回数を数えることすら忘れてしまった。

「いいのいいの! ……私がしたいからしてるんだし」

 彼女ははっきりとそう言った。


 正直、僕と彼女の関係はよく分からない。

 押しかけ女房といえばそうなのかもしれないが、彼女には恋人が居た。

「私ね……振られちゃった」

 ある日、彼女はそう言った。ポテトチップスを食べながら、なんでもないことのように言った。

「ああ、別に良いんじゃないですか? 男なんて他にも居ますよ」

 そう答えながら、自分はその候補に入っていないだろうという確信があった。

 彼女は会社では敬語を常に使っていたが、僕の部屋ではほとんどタメ口だった。しかし、僕は彼女と一線を引くように敬語で話していた。

 なぜ彼女が僕の所に来るのか――それは一向に分からなかった。


 彼女は鍋敷きの上に煮えたぎった鍋を置いた。

「冷めないうちに早く食べましょ」

「いただきます」

 僕は彼女の作った料理を食べ始めた。

 美味い。適当に自炊して作った物とは大違いだ。

 彼女も食べ始めたので、2人ともしばらくは無言で食べ続けた。

「あの……」

「ん? 何?」

 僕は彼女が食べ終える少し前に声を掛けた。

「どうして、僕の所なんですか?」

 今日こそ聞かなければならない。そう思いつつ先延ばしにしていた言葉だった。

「行人君は、私のことが嫌い?」

「いえ、好きとか嫌いとかでは無くて……」

 僕は言葉に詰まった。

 確かに、彼女のことは嫌いではない。だが、だからといってこんな関係がいつまでも続くものだろうか。

「じゃあ、迷惑?」

「いえ、それも違います」

 なんというか、腑に落ちない。それをどう言えばいいのか、自分でもよく分からなかった。

「……でも、こんなこと続けていたら、誤解されませんか?」

「誤解? されても別にいいんじゃない?」

 彼女は平然とそう言った。

 どうやら問題だと思っていないようだ――少なくとも彼女の方は。

「彼氏と別れたのも、これが原因だったりしません?」

「あ、あれは向こうが勝手なルールばかり押し付けてきて、嫌だって言ったら別れようってなったの。……別にここのことは話してないから」

 彼女は悪びれる様子もなく言った。

 本当に、そうだろうか? 彼氏も彼女が他の男の家に大した用事もなく出入りしていて、気分次第で泊まっていくと知ったら気を悪くするに決まっている。


 彼女は泊っていく時は同じベッドに寝ていた。来客用の布団どころか寝袋さえないので必然的にそうなった。

 そんな時、彼女は僕に向かって悪戯っぽく笑ってこう言うのだ。

「襲いたくなったら、構わないからね」

 ――と。

 僕には彼女の心理は分からない。それが本気なのか冗談なのかさえ分からない。

 それでも、その口車に乗ってはいけない――そう言い聞かせて自制していた。


「――それで、今度はその人と付き合うことになって……聞いてる?」

「あ……はい」

 いつの間にやら、物思いにふけっていたようだ。

 その間に、彼女は新しく付き合うことになった彼氏の説明をしていたようだ。

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