愛してるってクリームソーダの泡みたいにパッと消えてく幻想じゃない?

中嶋怜未

小説&エッセイ集

愛してるってさ、クリームソーダの泡みたいにパ

ッと消えてく幻想じゃない?

お金があっても、学歴があっても、顔が良くても、言葉選びが

最悪なら全部台無しだよね。

このエッセイ集で私が語りたいのは、私が四年間かけて研究してきた「直接的な

言葉を用いらずに、恋愛感情を表現する」について。

まず、どうしてこのことを研究しようと思ったのかというと、高校生の時に百田

尚樹さんの『永遠の0』を読んで、とあるセリフがとても美しいと思ったから。

直接的な言葉を用いらずにって言ってるのに、美しいなんて言葉を使っちゃうの

はいかがなものかしら、なんて思うけれど、まぁ長々とした感想は、そのセリフを

まず読んでもらってからにしよう。

主人公の《祖父は、祖母を愛していると言っていましたか》という問いに伊藤は、

《愛している、とは言いませんでした。我々の世代は愛などという言葉を使うこと

はありません。それは宮部も同様です。彼は妻のために死にたくない、と言ったの

です》と答えたのだ。

それには「愛してる」と同じ意味があるのだそうだ。

これらのセリフから、この研究は生まれた。

愛しているというのは、いつから広まった言葉なのだろう。けれど、そんな言葉

などなくても愛おしい気持ちは人間太古の昔から持っていたに違いない。愛してい

るというのは、様々で複雑で時に、心臓を握られたように苦しくさせ、けれど最後

は必ず太陽が心に移ってきたかの如く、温かくしてくれる感情を一言で表すために

作られた言葉だろう。

「好き」「大好き」「愛してる」現実だったら嬉しい言葉だが、文章にしてしまう

と途端に安っぽく感じてしまう。だって、様々な登場人物がその人に恋をしたり、

恋という感情に気づくまでの心情の移り変わりやバックボーンが見れるのは、物語

の中だけなのにたったそれだけで終わらせてしまっていいのってなるんだもの。

あなたもっと色々考えていたじゃない。もっと詩的に心情を語っていたじゃない。

なのになんでそんな気持ちを伝える大事な場面で、安っぽい言葉に頼っちゃうのよ。

ってなることが多かった。

こんなに偉そうなことを語っているけれど、実際研究してみて思う. 。直接的な言

葉を使わないようにするってめっちゃ難しい…… 。

突き詰めることができたのかと聞かれたら、できていないと答えるだろう。たっ

たの四年じゃ、経験も語彙力も知識も足りなすぎる。

「愛しているなどの直接的な言葉を使わない」というのは「私なりの愛してるの

訳を考えること」である。ということは、様々な愛についての価値観を考えなけれ

ばならないし、経験も必要になってくる。作品を書いていて、「あ、去年の作品とは

ちょっと違う考え方しているかもな」と思ったりするから、これからもきっと変わ

っていくだろう。だからたったの四年じゃ突き詰められる研究ではないのだ。私は

一生をかけて「私なりの愛しているの訳」を考えていくだろう。

だけどまずは、たかが四年、されど研究を始めた貴重な四年間の結果をこの本で、

発表させてもらおうと思う。

還る日

一幕一場

舞台中央、和夫の三十七回忌の法事が

行われている。全員が手を合わせ、静か

にお経に聞き入っている。

お経が終わる。千絵、顔を上げて首を

かしげる。お経が終わり、それぞれ宴会

の準備をするために、席を立つ。

千絵この遺影の人は誰なの?今

日は誰の法事なの?

千絵、父親を捕まえ、遺影を指さし

て聞く。

治そうだな、千絵ももう中学生に

なったんだから、お前の実のお

じいさんのことを教えなきゃ

いけないなぁ。

あの人は和夫さんといって、戦

争で亡くなった俺の実の父親

だよ。

千絵嘘でしょ?…… あの人が本当

のおじいちゃんなら、今までお

じいちゃんだと思っていた人

は誰なの!?お母さんは……

このこと知ってるの?

治あぁ。結婚する前挨拶に来た時、

母さんには話したんだ。さすが

に結婚するんだから、内緒にし

ておくわけにもいかないだ

ろ?

千絵じゃあ、なんで私には話してく

れなかったの?ひどいじゃ

ん!!私、おじいちゃんの孫な

んだよ?

子供のお前には、説明したってわ

からないだろなんて言えず、治は

言葉を濁してしまう。いくら千絵

が中学生になったといっても、こ

の先を話してもいいのだろうか。

と治、黙り込む。すると、二人が

来ないことに痺れを切らした継

男が、「早く来いよ」と三人に催

促する。継男についてきて、玉緒

も様子を見に来る。

千絵おじいちゃんは…… 誰なの?

継男、父親に聞いたのだなと悟り、話

始める。

祖父俺は、和夫さんの弟だ。元々は

養子に出されていたんだが、兄

貴が戦死したと分かったとき、

家を守るためにおばあちゃん

と再婚したんだ。

千絵わけわかんない。おじいちゃん

は本当に私のおじいちゃんじ

ゃないの!?なんでそんなこ

とが起こったのよ。

祖父あの時代では珍しいことじゃ

なかったんだよ。

千絵、玉緒と継男を交互に見て頼む。

千絵ねぇ、教えて欲しいの。和夫さ

んのことも、おじいちゃんがど

うして私のおじいちゃんとし

ているのかも。

継男、玉緒に話してやってくれという

ように頷く。

千絵と祖母、中央に移動する。

祖母私が嫁いできたのは十五の頃

だった。

暗転。

若き日の和夫と、玉緒が畑仕事をして

いる。長椅子を縁側に見立てて用意す

る。和夫、鍬を振るう手を止めて、和

夫が玉緒の方を向く。

和夫玉緒が嫁に来て、まだ半年か。

なんだか、随分前から一緒にい

るような気がするな。

玉緒そうですね。まだ半年しか経っ

ていないなんて驚きです。

和夫生活には慣れたか?無理し

てるんじゃないか?

玉緒もう、和夫さんは心配性なんだ

から。大丈夫ですよ。私だって、

農家の生まれなんですから。

和夫だって、お前に何かあったら、

俺一人でやっていける自信な

いし、『頼りない夫なんてもう

嫌だ!』って愛想つかして出て

いかれたら困るんだよ。

玉緒そう思っているのなら、もっと

しっかりなさってはどうです

か?

和夫…… ごもっともです。

二人、顔を見あって笑いあう。

玉緒あ、そういえば和夫さんと父は、

知り合いだったんですね。私と

のお見合いもその縁で決まっ

たんですか?

和夫ん?…… まぁ、そうだな。玉緒

の御父上とは地主つながりの

知り合いでな。いつだったか、

年頃の娘がいるのだと玉緒の

写真を見せられたんだ。それで

……

玉緒それで?

和夫一目で気に入って、俺から御父

上にお見合いをさせて欲しい

と頼み込んだんだ。

玉緒そんなにも和夫さんが、私を気

に入ってくれていたなんて…

和夫あの時、『この子と結婚する』

って直感したんだ。家族になれ

て、幸福感は増すばかりだよ。

だから、出て行かれては困るん

だ。

玉緒和夫さん。

照れながら二人して微笑みあってい

るところに、一部始終を見ていた和

夫の幼馴染で、親友である龍二が割

り込んできた。

龍二お熱いねぇお二人さん。まだ昼

間なんですけど?

和夫龍二!聞いていたのか…… 何

の用だよ。

龍二別に?家の手伝いがちょっと

暇になったんで、新婚さんを冷

やかしに来ただけだよ。悪かっ

たなぁ、いいところだったのに

邪魔して。どう、玉緒さん。和

夫、ちゃんと優しくしてくれ

る?

玉緒はい!とっても優しいです。本

当に私にはもったいないくら

いの旦那様で。

龍二へーー、女の子と一度も付き合

ったことがないあの和夫がね

ぇ。玉緒さん、和夫に飽きたら

いつでも俺のとこに来ていい

から。

和夫龍二!!

玉緒もう、和夫さんをからかわない

であげてください。あ、いまお

茶をお出ししますね。

龍二あ、玉緒さん。悪いんだけど、

これでお茶菓子に、饅頭かなん

か買って来てくんないかな。

龍二、懐から小銭を出して玉緒に渡

す。快く引き受けた玉緒は、二つ返

事で出かけて行った。

玉緒を見送る二人。玉緒をわざと遠

ざけたような気がして、和夫は審

に思う。和夫、龍二に座るよう促

しながら話す。

和夫何か…… あるのか?

龍二兄貴が愛子に会いに行ったら

しい。最近、ちょくちょく会い

に行っては、交際を迫ってるみ

たいなんだ。ただ、何度言って

も断られるから、俺に当たり散

らしてくるんだよ。

和夫愛子さんは、まだ龍二が好きな

んじゃないのか?だから、断

ってるんだよ。お前だって本当

は好きなんだろ?

龍二終わったことだ。

終わったことだと言いながら、ち

ゃっかり気にして、自分に愚痴を

こぼしに来たのは誰だと、呆れた

ように和夫は龍二を見る。

龍二俺は、しょせん消耗品だ。親に

も結婚するなと言われてる。そ

んな俺が、役に立つ時が来たら

しい。お前のとこにも来ただ

ろ?明日、徴兵検査を行うから

集合場に来いという手紙が。

和夫あぁ。でも、龍二は消耗品なん

かじゃない、

龍二消耗品だよ、次男だからな。戦

争に行って死ぬために生まれ

てきた。長男を生かすために。

和夫まだ死ぬって決まったわけじ

ゃないだろ?

龍二死にに行くようなもんだろ。新

聞も、ラジオもみんな『日本が

勝ってる』って謳ってるけど、

一般の若い男も兵士になんて、

負けを認めてるようなもんじ

ゃないか。軍の奴らとは違う、

付け焼刃の俺たちに一体何が

できるってんだ。

和夫愛子さんは、絶対悲しむ。

龍二…… でも、俺と結婚しても愛子

は幸せにはなれないよ。

和夫このまま、兄貴に取られてもい

いのか?あんな男にか!?

龍二お前の弟だったら…… 継男君

だったら、こんなに苦労しなか

ったのにな。いま、いくつにな

ったんだ?

話を逸らした龍二は、和夫を見ようと

しない。

和夫先月で十一歳になった。生まれ

てすぐ養子に出したから、なか

なか会えないけど、たった一人

の年の離れたかわいい弟だ。名

前も俺がつけた。

龍二たった一人の肉親だもんな。

和夫あぁ。玉緒と継男。二人とも俺

の大切な宝だ。もちろん、龍二

だってそうだぞ。

龍二和夫…… 俺、和夫のためなら命

だって惜しくないよ!!

和夫やめろよ。男に抱き着かれても

嬉しくない!

笑って立ち上がる龍二。「そろそろ行

くわ」と言いかけたところに玉緒が戻

ってくる。

玉緒遅くなってすみません!な

かなかお饅頭売ってなくて…

… もう、お帰りになるのです

か?あ、今急いでお出しします

から……

龍二あぁ、いいって!二人で食べ

てくれよ。実は、あんまり腹減

ってないからさ。じゃあ…… そ

ろそろ行くわ。

龍二、二人の家を後にする。ふ

と立ち止まり振り返ると、遠目

に仲睦まじく話す和夫たちが見

えた。

龍二和夫、お前はやっぱり特別なん

だよ。だけど俺は…… 。

龍二、荒らしく去っていく。

和夫と玉緒、中央に移動し、話始める。

和夫明日、徴兵検査に行ってくる。

朝から呼び出されてるから、い

つもより早く朝食を用意して

くれないか?

玉緒はい、わかりました。

和夫ついにこの日が来たんだな。玉

緒、悪いんだが荷物をまとめて

おいてくれないか?

玉緒…… 行ってしまうのですか?

和夫そうだな。ただ、兵士になるた

めの規定が決まっているとは

聞いたことがある。たぶん健康

状態のことだろうから、俺は問

題ないだろう。

玉緒…… 。

本当は戦争に行って欲しくないが、

そんなことを言うわけにもいかず、

玉緒は和夫の顔を見ることができ

ない。

暗転

一幕二場

和夫が徴兵検査に行っている間に、買

い物を済ませた玉緒は家路を歩いて

いた。そこで知り合いである、栞とば

ったり出会い立ち話を始める。

栞あ、玉緒さん。お久しぶりね、

旦那さんは元気?

玉緒えぇ、とっても元気よ。きょう

は、徴兵検査に行っているの。

栞私の夫もよ。感激だわ、お国の

役に立てるなんて。誇らしいわ

…… ねぇ、玉緒さんもそうでし

ょ?

玉緒え…… そ、それは……

栞まさか、旦那さんが戦争に行く

こと、反対してるわけじゃない

わよね?

玉緒やっぱり…… いけないことで

しょうか?

栞信じられない…… それ、大きな

声で言うもんじゃないわよ。非

国民だって、ひどい目に合うで

しょうからね。

玉緒大切な夫を失いたくないと思

うことが、何故いけないことな

のでしょうか?

栞お国のために命を捧げられる

ことが、日本人にとって誇らし

いことなの。男の人は、戦争に

行って命を散らしてなんぼな

のよ。それを悲しむなんて、馬

鹿げてるわ。

玉緒それでも私には理解できない

です。栞さんは、他の奥さんた

ちにとっては、夫が戦争に行く

ことは名誉なことかもしれま

せんが、私にはそうは思えませ

ん。国を作る人々を殺して、一

体何が残るというのですか?

栞あ、あなたが何を言ってるのか

分からないわ。『男が国を守り、

女が家を守る』それが当たり前

なのよ。

栞、そそくさと立ち去る。玉緒、栞

の後姿を見つめた後自分も歩き出す。

徴兵検査を終えた龍二と和夫が歩い

ている。和夫の前を歩く龍二、その

後ろを暗い顔をした和夫がとぼとぼ

と、ついていく。

龍二ついに俺も戦争に行くなんて

な。やっと俺も誰かの役に立て

るらしい。死んで初めて誰かの

役に立つなんて、ほんと笑っち

まうよな。

龍二海の向こうのことなんて何に

も知らん。考えたこともなかっ

た。そんなどこかも知らない国

で、誰も知らない場所で、死ん

で来いってか…… 。和夫、お前

はどこに飛ばされると思う?

一体、何人が自分を覚えていて

くれると思う?

一体だれが自分の死を悲しん

でくれると思う?

和夫…… 。

和夫龍二…… 。

龍二和夫、一体何千何万の魂が、遠

い遠い国でさまよい続けると

思う?

和夫…… 。

龍二誰かの『特別』になりたかった。

予備でも、消耗品でもなくてさ。

俺は神様に選ばれなかったん

だ。だから戦争に行かされる。

和夫それは違う!!

龍二そうなんだよ。でも、和夫も戦

争に行くなんてな。お前は『特

別』だと思ってたのに。長男だ

しさ。一緒な部隊だといいな。

龍二は嬉しそうに振り向いたが、黙っ

て見つめ返してくる和夫を見て、彼

が戦争に行かなくて済んでしまった

ことを察した。

龍二まさか…… 行かないのか?

和夫行けないんだ。

龍二やっぱり、お前は特別だ。俺と

は違う!お前は望まれて生

まれてきた。誰かに必要とされ

て生きてきた。長男だし、嫁も

いる。戦争にも行かなくて済ん

だ。神様に選ばれた、特別な奴

なんだよ。

和夫違う!!俺は特別な奴なん

かじゃない。俺は選ばれなかっ

たんだ。命より大切な家族を、

背が小さいからって守ること

もできない。こんな恥ずかしい

ことがあってたまるか。死ぬの

は怖い。でも、俺のせいで家族

が馬鹿にされ、屈辱を受けるほ

うがもっと怖い。

龍二…… 。

和夫龍二、生き延びることを喜ぶの

が正しいのか、戦争に行けない

惨めな自分を恥じることが正

しいのか、俺にはわからないん

だ。玉緒になんて言えばいい。

どんな顔して帰ればいいんだ。

龍二…… 神様なんて、いるはずない

よな。俺たちが、国が崇めてい

るのは天皇陛下だもんな。そり

ゃあ、どんなに願っても叶えて

くれるはずがない。どんな願い

もな…… 。

和夫…… 愛子さんのことを言って

るのか?

龍二…… 。

和夫このままでいいのか?

龍二、何かを決心したように和夫の肩

を掴む。

龍二頼みがある…… 。

暗転。

和夫、とぼとぼと家に帰ってくる。

和夫ただいま…… 。

玉緒おかえりなさい!結果はど

うでした?

和夫背が小さいから、不採用だそう

だ。笑っちまうよな。体はこん

なにも健康なのに、背が小さい

から役に立たないなんて……

夫が役立たずで、がっかりした

だろ?

玉緒私の夫が役立たずなわけあり

ません!あなたは、あなたにし

かできないことをやるために

生かされたんです。

和夫誰に?神なんていない。俺た

ちが崇めているのは天皇なん

先ほど龍二が言っていたことを、思い

出しながら和夫は言った。

玉緒…… 。

和夫特別な人間ってのは、人の命を

何とも思わなくなるらしいな。

そんな奴らと同じにされるの

はごめんだ。

玉緒あなたは、特別な人です。

和夫特別じゃないって言ってるだ

ろ!!こんな惨めな俺のど

こが特別なんだ。どこが選ばれ

た人間なんだ!

玉緒あなたは、私にとって特別な人

なんです。私を気に入ってくれ

て、私を気遣ってくれて、私を

妻にしてくれました。

和夫…… 。

玉緒あなたとだから夫婦になった

んです。…… 本当は、あなたが

戦争に行かなくて済んで、安心

しています。

和夫え…… ?

玉緒妻失格ですね。でも、あなたに

死んで欲しくないんです。今の

幸せが、ずっとずっと続いて欲

しいんです!

栞に責められたことを思い出し、和夫

の顔を見ることができない玉緒は、和

夫に背を向け続ける。

玉緒やっぱり私は…… 間違ってい

るでしょうか?

和夫…… 間違ってない。俺だって、

玉緒と一緒にいたいって思っ

てるから。

玉緒、和夫に勢いよく抱き着く。和夫、

玉緒を抱きしめ返す。

玉緒あ…… 、夕飯の用意しますね。

和夫あ、あぁ…… 。

しばらくして我に返った玉緒は、照

くさそうに家の中に戻っていく。和夫

も、その後ろをついていく。

一幕三場

少し照明を落とす。祖母と千絵が出

てくる。

祖母龍二さんが戦争に行った七年

後、私は二回の流産を経験して、

やっと待望の男の子である治

を生んだの。

千絵愛子さんは?愛子さんはど

うなったの?

祖母治が生まれて一段落した私た

ちは、龍二さんからの伝言を伝

えるために、愛子さんのお屋敷

を訪ねて行ったの。

祖母と千絵退場。

愛子のお屋敷を訪れた和夫と玉緒は、

庭で花に水やりをしている愛子を見

つける。

和夫愛子さん、お久しぶりです。

愛子まぁ、和夫さん。お久しぶりで

すね、その方は奥様ですか?お

子さんまで…… 。遅くなりまし

たが、ご結婚にご出産、おめで

とうございます。

玉緒いえいえ、ありがとうございま

す。

和夫愛子さん、龍二は戦争に向かい

ました。今日お伺いしたのは龍

二に頼まれた伝言を、愛子さん

にお伝えするためなんです。

意を決したように切り出した和夫

の言葉に動揺し、愛子はじょうろを

落としてしまう。それに構わず愛子

は和夫に詰め寄り、次の言葉を催促

する。

愛子龍二さんが私に!?なん

て?

和夫『忘れられない青春をありがと

う』とそう言っていました。

愛子彼も、私と同じ気持ちでいてく

れているんですね。彼と別れて

から私の時間は止まったまま

です。だって、嫌いで別れたわ

けじゃないんですもん。

玉緒龍二さんは、お嫁さんを取る気

はなかったそうです。親に反対

されているからって言っては

いましたが、本心はきっと…… 。

愛子私を忘れられないからだって、

期待してもいいですよね。本当

に不器用な人ね、私も彼も。私

の両親は彼をすごく気に入っ

ていて、国民学校を卒業すると

同時に結婚するはずだったん

です。けれど、『名家のお嬢様

と家督を継ぐ資格のない次男

が釣り合うわけがない。代わり

に長男と結婚しないか』と彼の

ご両親に言われ、断ったら破談

になってしまったんです。

和夫俺と龍二と愛子さんは、同級生

でな。本当にお似合いの二人だ

った。

愛子彼のご両親と、お兄様からは今

でも結婚しないかという手紙

が届きます。

玉緒最悪…… なんて家族なの。龍二

さんの縁談を破談させたくせ

に、どういう神経してるのよ。

愛子ふふっ…… 言いますね。誰に結

婚を申し込まれても、お受けす

ることはできません。結婚した

いと心から思えた人に出会

ってしまってるから、他の人と

結婚できる気がしないんです。

お二人なら、私の気持ちを分か

ってくださいますよね?

和夫はい、もちろんです。

愛子彼が帰ってきたら、私から結婚

を申し込もうと思ってます。女

から言わせたんだから、絶対に

『うん』と言わせてみせるわ。

和夫えぇ、あいつは帰ってきます。

きっと帰ってきますよ。

愛子ありがとうございます。

「では」と愛子に一礼して、和夫と玉

緒は帰る。

暗転。

家に戻ると、継男が訪ねてくる。

継男あ、兄貴、義姉さん。こんにち

は。

和夫おぉ、継男!!大きくなった

ぁ、婚礼の時以来か?で、急

にどうしたんだ?

継男こっちに少し用があったんだ

けど、思ったより早く済んだか

ら、せっかくだし二人に会って

帰ろうと思ってさ。

玉緒まぁ…… わざわざありがとう

ございます。お疲れでしょう、

ゆっくりしていったください

ね。

継男いえいえ、義姉さんの顔を見た

ら疲れなんて吹っ飛びました

よ。

和夫おっ、本ばかり読んでたお前が、

いつの間にそんな軽口を叩け

るようになったんだ?成長

したなぁ。

継男からかうなよ。

玉緒ふふっ、本当に仲いいですね。

継男さんは今何をなさってい

るのですか?

継男国民学校を卒業してからは、家

の畑仕事など両親の仕事を手

伝っています。

和夫よく働いてくれるから、とても

助かってると御両親からの手

紙にも書いてあったよ。

玉緒天国のお母さまたちもきっと

誇らしいでしょうね。息子二人

が、こんなにも立派に育ったん

ですから。

継男いやいや、まだまだですよ。…

… あ、この子が手紙に書いてあ

った継男君ですね?義姉さ

んに似て、顔立ちが整ってるな

ぁ。

和夫おい、半分俺の血も混ざってる

んだぞ。

継男んーー、眉毛は兄貴似かもな。

和夫そこだけかよ!!

治泣き出す。

玉緒あらあら、ちょっとあやしてき

ますね。お茶も用意してきます。

継男あ、ありがとうございます。

玉緒の後姿を見送り、和夫は継男に縁

側に座るよう促すし、二人で座る。

和夫どうだ?そろそろ継男もい

い年だろ。縁談の話を見つけて

きてやろうか。

継男いや…… 俺はいいよ。

和夫なんだよ、遠慮すんなって。そ

れとも他にいい人がいるの

か?

継男それは…… 。

継男は、先ほど家に入っていった玉緒

の方をちらりと見た。

和夫…… 養子に行ったんだから、そ

の家を繁栄させなければだめ

だ。俺が戦争に行った後のこと

を考えて、嫁を取らせないつも

りでいたが俺は行けかったし、

お前には藤田家の長男として

……

継男余計なお世話だ。

和夫でもそれが元々の約束だった

んだ。藤田さんは、そのために

お前を養子にしたんだから。

継男自分が惚れた人と兄貴は結婚

できたのに、なんで俺にはそう

させてくれないんだ。

和夫でも、お前が惚れてる相手って。

継男無理なことはわかってる。だか

ら、俺は一生独り身でいいんだ。

和夫、何も言わずに置きっぱなしにな

っている鍬を拾う。

和夫玉緒がお茶を用意してくれて

るだろうから、先に入っててく

れ。俺は、これ片付けてから行

くよ。

継男わかった。

継男の後姿を見送った後、ため息をつ

く和夫。そこに役人が訪ねてくる。

役人失礼します!

暗転。

家の中で、治をあやす継男と玉緒。そ

こに和夫が入ってくる。

継男兄貴、遅かったじゃないか。

和夫悪い…… 。玉緒、ちょっと席を

外してくれないか。継男と二人

っきりで話したいんだ。

先ほどとは違う雰囲気を纏った兄を

見て、何かを察した継男は無意識に

正座へと座り直していた。

玉緒はい。

席を立ち、部屋を出る玉緒。襖が閉ま

るのを確認して、和夫は継男の前に胡

坐をかいて座った。

和夫玉緒にはまだ話していないが、

龍二が戦死したと前に手紙で

話したろ。日本の戦況はますま

す悪くなっていってるんだと

思う。お前だって気づいてるだ

ろ?新聞に書かれている日

本の勝利は嘘だと。

継男何が言いたいんだ?

和夫、胸ポケットから赤い紙を取り

出し、継男に見せる。

継男赤紙…… なんで今更。

立ち上がる和夫。

和夫さぁな。前線に立つ兵士じゃな

くて、衛生兵として呼ばれたっ

てことは、看護師じゃ足りない

くらいけが人が出てるってこ

とだろ。継男、俺が死んだら玉

緒と再婚して、家督を継いでく

れ。勝手なことはわかってる。

でも、玉緒に惚れてるお前なら

二人を守ってくれるだろ?

継男ふざけるなよ!!義姉さん

の気持ちはどうなる!義姉

さんをなんだと思ってるん

だ!

立ち上がり、和夫の胸倉をつかむ継男。

和夫は優しくその手を払い、遠い目

をしながら空を見上げた。

和夫継男が生まれてすぐ両親を亡

くし、お前も養子に取られちま

った。寂しさを紛らわすため、

学問にも仕事にも力を入れた

お影で、気づけば周りに人が絶

えなかった。そんな俺を、龍二

は特別な奴だと言った。最後に

分かれる間際も…… 。俺はそれ

が大嫌いだった。

継男龍二さんは兄貴が羨ましかっ

たんだよ。

和夫『特別』の何がいいのかわから

なかった。でも俺が徴兵検査に

落ちて荒れてた時、玉緒が「あ

なたは私の特別な人」だって言

ってくれたんだ。龍二のそれと

はまったくの別物だった。俺が

ずっと欲しかった家族の温か

さがそこにあったんだ。

継男…… 。

和夫玉緒はこうも言った。「あなた

にしかできないことがある」と。

今がきっとその時なんだ。

継男行かせない。尚更行かせられな

い。俺が代わりに行くから、兄

貴はずっと義姉さんのそばに

いろ。

和夫俺はもう十分生かされた。ここ

で逃げたら先に死んでいった

奴らに顔向けできない。…… 幸

せな夢だった。ずっと続かせる

つもりだったけど…… この先

の夢は継男、お前が見ろ。いい

夢も悪い夢も、二人と一緒に。

お前にしか頼めないんだ。

和夫、部屋を出てズボンを履き、シャ

ツを着替えながらゲートルと、靴を持

ってくる。

継男義姉さんが悲しむぞ。

和夫悲しんだって仕方ない。

「玉緒、こっちに来てくれ」と玉緒を

呼ぶ和夫。玉緒が急いで部屋に駆け

込んでくる。

和夫これ…… 。

軍服を着た和夫と、こちらを一向に

見ようとしない継男を見比べて固まる

玉緒。

玉緒に、和夫が赤紙を渡す。

玉緒行かないで下さい!!私は

あなたを失った後、こんなに小

さな息子を抱えて生きていけ

る自信がないんです。聞いたこ

とがあります。醤油を飲むと熱

が出て、赤紙を逃れられると。

玉緒が和夫に抱き着き、行かないでく

れと縋りつくが、和夫はそれに答えて

くれない。

和夫二人のことは継男が守ってく

れるから。

玉緒、継男の方を振り向くが、あきら

めきれず尚も食い下がる。

玉緒嫌です!あなたじゃないと

…… 。

和夫玉緒、見送ってくれ。夫の晴れ

舞台だ。俺にしかできないこと

があるんだろ?

玉緒はそれ以上何も言えなった。和夫

の顔が、まるで憑き物が取れたかのよ

うに、すっきりとした顔をしていたか

らだ。これで彼は自責の念から解放さ

れるのなら、これ以上食い下がること

はできないと腹をくくり、無理やり笑

顔を作って和夫を見送る。

玉緒帰り道を忘れないでね…… 。

玉緒にかける言葉が見つからず、無

言で部屋を出ていく継男。続いて玉

緒も部屋を出ていく

二幕一場

祖母『和夫さんがフィリピン島で戦

死した』という手紙が届いたの

は終戦から二か月前、六月のこ

とだった。

千絵二か月前!?あとちょっと

だったのにね。

祖母悲しむ暇もなく、すぐに私は継

男さんと再婚し、新たな生活が始ま

った。

祖母はそのころのことを鮮明に覚

えている。祖母が目を向けた先には、

洗濯物を干している若いころの自

分と、縁側で本を読んでいる継男。

祖母と千絵退場。

玉緒継男さんは本がお好きなんで

すね。和夫さんが、本を読んで

いるところを見たことがなか

ったから、なんだか新鮮です。

継男これ、兄貴にもらった本だよ。

玉緒え!?

継男俺が持ってる本は、全部兄貴が

学生の頃に読んでいた本を、譲

ってもらったものなんだ。

玉緒そうだったんですね…… 本好

きだったんだ。

継男さぁ、好きかどうかはわからな

いな。勉強のために読んでたの

かもしれないよ。俺は一人で本

を読んでいる時間が好きだけ

ど、兄貴は勉強もできた上に運

動もできて、一日中畑仕事を好

んでやってた人だから、知識を

得るためだけに、本を読んでい

たんじゃないかな。

玉緒本当に、非の打ちどころがない

人ですね。和夫さんは。

嬉しそうに微笑みながら洗濯物を干

す玉緒を見て、やはり自分は和夫の

代わりにはなれないのだと悟り、黙

って本を閉じる。

継男なぁ、ね…… 玉緒さん。本当は、

俺が兄貴の代わりに行けばよ

かったって思ってるんだろ?

玉緒え?

隊長ごめんください!

和夫と同じ部隊で、働いていた兵士

が訪ねてくる。

玉緒はい、どちら様ですか?

森あなたが玉緒さんですね。僕は、

和夫さんと同じ部隊で働いて

いて、衛生兵仲間だった森です。

きょうは、『妻に渡してほしい』

と、和夫さんに頼まれたものを

お渡ししたく、お邪魔させてい

ただきました。

継男兄が?あ…… 僕は和夫の弟

で、継男と申します。

森初めまして。お二人のことは、

和夫さんがよく嬉しそうに話

していました。『息子と、弟と、

妻は俺の宝だ』と。

森は懐から和夫の軍事手帳を取り

出し、玉緒に渡す。

森これを…… 。中に、和夫さんが

お二人に宛てた遺書が入って

いるはずです。

玉緒…… ありがとうございます。

中身を確認した玉緒は、軍事手帳を強

く胸に押し当てた。

玉緒夫の最期はどうでしたか?

苦しんでいましたか?

森それは、僕にもわからないので

す。沖縄戦に入るころには食料

の配給もなくなり、病院内にも

マラリアが充満していて、まる

で地獄絵図のようでした。食べ

物も足りないし、毎日のように

同胞たちが餓死やマラリアで

命を落としていく。いよいよ僕

たちも、見捨てられて死ぬんだ

なぁと思っていた時、軍から撤

退命令が出たんです。

玉緒夫は撤退命令が出たときには、

まだ生きていたということで

すか?

森はい。少し腹の調子が悪いと話

していましたが、とても元気で

した。なのに、彼は船に乗る直

前で帰国することを拒否した

んです。手帳の紙を一枚破いて、

その場で遺書を書き僕に、手帳

ごと渡して病院の方へ走って

いきました。止めなければいけ

なかったのに、その時の僕には

どうしてもできなかったんで

す。

継男なぜですか?なぜ兄を止め

てくれなかったんですか?

森彼は、まるで肩の荷が下りたと

いうような、そんなすっきりと

した顔をしていたんです。うま

く言えませんが、引き留めては

いけない気がしたんです。本当

に申し訳ありませんでし

た!!…… 彼は生きなきゃな

らなかったんだ!

森は号泣しながら膝をつき、これでも

かというくらい地面に顔を押し付け

た。

継男申し訳ないじゃないですよ!

兄貴は帰ってこれたんだ。そし

たら義姉さんと…… 。

玉緒…… 森さん。夫の遺志を尊重し

てくださり、本当にありがとう

ございました。彼は誰が何と言

おうと、帰ってこなかったと思

います。最初から帰る気なんて

なかったんですよ。本当に、生

きて帰ってきてくださり、あり

がとうございました。おかげで、

夫の最期の姿を知ることがで

きましたし、この手帳も届けて

いただくことができました。

玉緒、頭を下げる。森を責めることは

できない。先ほど自分が言ったように、

和夫は最初から帰るつもりがなかっ

たのだと思う。それを受け入れること

が和夫の妻としての、最期の役目だ。

継男…… すみませんでした。兄が決

めたことですもんね。森さんは

何も悪くありません。

森そう言っていただけて、とても

救われました。では…… そろそ

ろ失礼させていただきます。自

分の家族にも早く会いに帰ら

なければ、和夫さんはきっと怒

るでしょうから。

冗談めいて笑った森は、玉緒たち

に敬礼し自宅へと帰っていった。

暗転。

二幕二場

畑仕事をしている玉緒のもとに、愛

が訪ねてくる。

愛子玉緒さん、お久しぶりです!

玉緒愛子さん!よかった…… ご

無事だったんですね。御自宅の

方も無事

ですか?

玉緒は愛子に縁側に座るよう促し、二

人で座りながら話し始める。

愛子はい、蔵に爆弾が落ちて半壊し

ましたが、他は無事です。今は

家の一部を開放して病院とし

て使ってもらっているんです。

玉緒まぁ、それは皆さん助かると思

います。病院にも爆弾を落とさ

れて、ほとんど使えなくなって

しまいましたから。

愛子…… 終わってしまったんです

ね。大切な人を返してくれない

まま、戦いが終わってしまった。

玉緒…… 。

愛子戦争のために命を散らした、兵

士の一人にすぎないとほかの

人は言うかもしれない。でも、

私にとってはたった一人の特

別な人だった。彼を、返して欲

しい!言いたいことが沢山

あったんです。

玉緒お気持ちは痛いほどわかりま

す。和夫さんは特別な人だった。

和夫さんと過ごす毎日は光り

輝いていました。本当に…… 幸

せだった。

たまたま本を読もうと部屋に入って

きた継男が、縁側のガラス戸が開いて

いたことによって、玉緒と愛子の話を

聞いてしまう。

玉緒和夫さんは、私が心底惚れこん

だ、素敵な人でした。一生忘れ

ることはないです。彼と過ごし

た七年間は、宝物です。彼以外

を夫とは認めない。

玉緒の言葉にショックを受ける継男。

そのまま部屋を出て行ってしまう。継

男が聞いていたとはつゆ知らず、話を

続ける玉緒。

玉緒そう思っていたんですけど…

… 。

愛子継男さんに惹かれ始めている

のですね?

玉緒…… 。

黙ってうなずいた玉緒が何を悩んで

いるのか、愛子はすぐに分かった。

愛子いいと思いますよ、私は。人生

で、たった一度しか恋をしては

いけないと、決まってるわけで

はないのですから。幸せになっ

てください玉緒さん。幸せにな

る権利は、みんな平等にあるん

ですよ。

玉緒でも、私は継男さんの前で、和

夫さんじゃなきゃ嫌だと言っ

てしまったんです。

愛子じゃあ、早く訂正しないと。今

すぐ。

玉緒い、今すぐ!?

愛子はい。…… ふふっ、玉緒さんを

見ていたら前に進まなきゃい

けない気がしてきました。今の

日本は早く復興しようと、無理

をしてる気がするんです。傷が

いえていないのに、なんでもな

い気がして無理やり前に進も

うとしている。私は、取り残さ

れたような気分だったんです。

自分だけが前に進めていない

ような、進みたくないような…

… 。

玉緒そうですね。確かに無理してる

気がしますよね。

愛子でも、私は無理に進まないこと

にします。いつか、また彼に会

えるまでに言いたかったこと

を、まとめておこうと思います。

そうやって生きていくのも、悪

くないと思うの。

玉緒いいと思いますよ。

一俺はもったいないと思うなぁ。

愛子と玉緒が微笑みあっていると、ど

ことなく顔が、龍二に似ている男に声

をかけられた。いつの間に入ってきた

のだろうか。

愛子一さん…… 。龍二さんのお兄様

です。

玉緒この方が…… 。

愛子が耳打ちで男の正体を教えてく

れた。彼は確か、愛子にしつこく言

い寄っていた男だということを思い

出した玉緒は、慌てて愛子を帰そう

とした。

玉緒愛子さん、ここにいちゃダメで

す。すぐ帰ってください!

愛子はい。ありがとう、玉緒さん。

愛子は急いで屋敷に戻っていった。一

は愛子を追わず、玉緒を見ている。

玉緒あの、なにか?

一何かとはひどいな。和夫、死ん

だんだって?残念だったな

ぁ。未亡人になっちまったんだ

ろ?かわいそうだから俺が

もらってやるよ。嫁に来い。

玉緒は?私は…… 。

困惑する玉緒に近づいて、腕を掴もう

とする一。すると継男が間に入って、

それを阻止した。

継男人の妻に何をする。

一なっ、再婚してたのかよ。早す

ぎるだろ!和夫に何の情もな

いのか。

継男あんたにはわからないだろう

な!沢山の責任を背負う人

間の気持ちなんて。龍二さんが

一体どんな気持ちで愛子さん

と別れたと思う!?どんな

気持ちで戦争に行って亡くな

ったと思う!?

一そんなのわかりたくないね。あ

いつは、俺のためだけに生まれ

た消耗品なんだよ。跡継ぎであ

る、俺のためだけに。

継男あんたは当主の器じゃない。

一…… お前だって、和夫が死なな

かったら永遠に二番手だった

んだぞ。本家に帰ってくること

は、できなかったはずだ。お前

は運が良くてよかったな。

継男…… !!

思わず一に殴りかかりそうになる継

男。そこに玉緒が止めに入った。

玉緒だめです、継男さん!!…… 一

さん、もうお帰りになってくだ

さい。

一はっ!言われなくてもそう

するよ。

ぶつぶつと文句を言いながら家に戻

っていく一。彼の後姿が見えなくなっ

たのを確認し、二人して安堵のため

息をついた。

玉緒助けてくれて、ありがとうござ

いました。

継男いや、いいんだ。…… こんなに

早く結婚することになって、本

当にすまない。それも、好きで

もない男となんて。

玉緒待ってください。確かに私は、

継男さんの前で『和夫さんじゃ

ないと嫌』だなんて、ひどいこ

とを言いました。でも、違うん

です。

継男いいよ、わかってるから。人生、

そんなにうまくいくわけない

もんな。俺が玉緒さんに惚れて

るからって、玉緒さんも同じ想

いを抱いているとは限らない

もんな。

玉緒あの、継男さん…… 。

継男日が暮れてきた。もう家に入ろ

う。

家に入っていく継男。何も声をかける

ことができず、玉緒も継男の後に続い

て、家に入った。

暗転。

二場三場

ちゃぶ台に肩ひじを乗せて、本を読ん

でいる継男を横目で見ながら、朝食

後のちゃぶ台の上を片付ける玉緒。

玉緒その本…… 、どんなお話です

か?

継男ん?あぁ、水兵とその水兵の

幼馴染である、女性との恋を描

いた恋愛小説だよ。

玉緒継男さん、恋愛ものも読むんで

すね。前は時代ものを読んでい

ましたよね。それも面白いです

か?

継男あぁ、面白いよ。玉緒さんも読

む?

玉緒本を読むのは苦手で…… 。

継男そうなんだ。でも、本当に恋愛

ものは面白いよ。成功した恋愛

の話を読んでると、自分も成功

するんじゃないかって思えて

くるんだ…… あと、この作者書

き方にすごくこだわっていて

ね、『好き』という言葉を極力

使わないようにしてるんだ。で

も、確かな愛情があることが伝

わってくる。

玉緒すごく楽しそうですね。本のこ

とを語ってる継男さん、すごく

生き生きしていますよ。とって

も素敵だと思います。継男さん

のお話は、知的でとても為にな

ります。もっと聞かせてくださ

い。

継男いいよ。どんな話がいい?

玉緒継男さんのこと、継男さんが気

に入っている本のこと、他にも

もっと。

継男俺のことばっかりだね。兄貴み

たいに外で遊んでこなかった

から、本で読んだ雑学ばかりに

なるけどいい?

玉緒はい!どんなお話でもいい

です。

玉緒と肩を並べて、沢山の話を聞かせ

る継男。玉緒は嬉しそうにその話を

一生懸命聞いている。

祖母と千絵、二人を微笑ましそうに見

つめながら話始める。

千絵おじいちゃんと、おばあちゃん

仲良しだね!

玉緒えぇ、継男さんは年下とは思え

ないくらいしっかりしていて、

沢山のことを教えてくれたし、

私にとってもよくしてくれた

わ。私は、和夫さんのことなの

も知らなかった。何も知らない

まま、二度と会えなくなってし

まったから、継男さんのことは

ちゃんと知りたいと思ったの。

千絵この時にはおじいちゃんのこ

と、大好きになってたんだね。

玉緒そうね、だけどお互いにもやも

やとした気持ちを抱えたまま、

何も切り出せずにいたの。でも、

ある時…… 。

治が泣く声。玉緒が一生懸命あやすが、

ちっとも泣き止まない。継男も読ん

でいた本を閉じ、治の様子を見に来る。

玉緒どうしたのかしら…… 。

継男珍しいな、おとなしい治がここ

まで泣き叫ぶなんて。

玉緒継男さん、抱っこしてあげてく

れませんか?私じゃダメみ

たいで。継男さんが抱っこした

ら、泣き止んでくれるかもしれ

ないですし。

継男…… 俺は、その子には触れるこ

とができない。

玉緒どうして?

継男俺は、玉緒さんに初めて会った

時から惚れてたんだ。でも、玉

緒さんは兄貴のお嫁さん。二人

は本当にお似合いだった。もち

ろん、二人の間を引き裂きたい

とは思ったことはないよ。でも、

兄貴が本当に羨ましかった。兄

貴に向ける想いと同じものが、

俺に向いてくれればどんなに

嬉しいかって…… そればかり

考えてた。

玉緒とは和夫との婚礼の時に初めて

出会った。幼心ながらにも、この人と

結婚したい。と淡い恋心を抱いたこと

を今でも覚えている。年月が経ち、再

び彼女と会った時想いは爆発した。

兄貴の家に顔を出した自分をとても

恨んだ。

継男けれど、兄貴は亡くなった。で

も俺は生き残って、ずっと恋焦

がれていた人と結婚した。だけ

ど、望んでいたものとは違うん

だ。俺は、玉緒さんの気持ちを

無視した再婚をしたかったわ

けじゃない。なんだか、兄貴か

ら奪ったような気がして、腑に

落ちないんだ。このままの気持

ちで治に触れることはできな

いよ…… 。

玉緒どうして、私の気持ちを無視し

た結婚だと決めつけるんです

か?私は、こんなにもあなた

に惚れこんでいるというのに。

継男え…… 、でも、夫は兄貴以外認

めないって。

玉緒まぁ。盗み聞ぎするなら、最後

までちゃんと聞いていってく

ださらないと。確かに、『和夫

さん以外は認めない』と、そう

思ってました。…… 継男さんと

和夫さんは全く違う。和夫さん

は、よく話す人で畑仕事をして

いる時も、家事をしている時も、

ずっと話しかけてくれました。

逆に継男さんは寡黙な人で、あ

まり話しません。

継男ごめん、つまんない男で。

玉緒いいえ、継男さんと過ごす静か

な時間は、とても心地いいです。

継男さんといると安心します。

継男そういってくれて、とても嬉し

いよ。でも、俺に兄貴の代わり

が務まるかどうか…… 。

玉緒和夫さんの代わりになって欲

しいなんて思っていません

よ?継男さんは継男さんで

す。私は、継男さんと新しい夢

を見ていきたいんです。私と、

継男さんと、治の三人で。私た

ちと家族になってください。

継男は和夫に、「夢の続きはお前が見

ろ」と言われたことを思いだした。

継男兄貴の代わりにじゃなくて、俺

が俺として夢の続きを見るよ。

俺の家族と一緒に。

玉緒え?

継男これからもよろしく、玉緒さん。

…… 治を、抱っこしてもいいか

な?

玉緒あ、いつの間にか泣き止んでた

みたい…… もちろんです!!

継男、玉緒から治を受け取る。

継男重いな、ずしんとくるよ。

玉緒私たちで守っていきましょう。

継男あぁ。兄貴が俺の名前に込めて

くれたように、家を繁栄させ未

来に受け継いでいって見せる。

微笑みながら空を見上げる二人。

暗転。

二幕四場

千絵和夫おじいちゃん、なんで帰っ

てこなかったんだろ。

祖母さぁ、どうしてでしょうね。き

っとまっすぐな人だったから、

傷ついた同胞たちを置いては

帰れないと思ったのかもしれ

ないわね。

千絵おばあちゃんは和夫おじいち

ゃんを愛してたんだよね?

今のおじいちゃんのことは?

祖母あの頃、愛してるなんて言葉は

なかったけれど、今も変わらず

それと同じ気持ちよ。継男さん

も同じ。二人とも、私の特別な

人達だわ。

千絵は、祖母の幸せそうな横顔を見

て安心した。

千絵と祖母は下がる。

祖父が座布団を二つ持ってきて縁側

に置き、持ってきた座布団の一つに座

る。

祖父千絵、ちょっと来てくれ!

祖父が別の部屋にいる千絵を呼ぶ。

千絵どうしたの?

祖父少し、和夫さんのことを話さな

いか?ここに座って。

祖父に促され、千絵は座布団に座った。

祖父が軍事手帳を懐から取り出し、

千絵に渡す。

千絵和夫さんの軍事手帳?ハガ

キと…… これがあの。

千絵が中身を確認すると、和夫が戦地

から送ってきたハガキと、遺書が入っ

ていた。

祖父その紙が、仲間と別れる直前に

書いた遺書だ。

千絵『後を頼む』まっすぐで、ブレ

のないきれいな字だね。どんな

気持ちでこれを書いたんだろ。

千絵、祖父に軍事手帳と遺書を返す。

祖父それを見たとき、俺に宛てたも

のだとすぐに分かった。でも、

納得いかなかったよ。帰れるは

ずだったのに、自分の惚れた女

と、息子を俺に託して逝っちま

うなんてさ。けど兄貴にとって、

帰ってくるという選択肢は存

在しなかったんだろうな。

千絵あのさ、聞いてもいい?義理

の息子である、お父さんのこと

はどう思ってる?

祖父もちろん、俺の大切な息子だと

思ってるよ。

千絵お父さんはおじいちゃんのこ

と、すごく尊敬してるって前に

言ってたよ!

祖父それは嬉しいな。俺と治は、親

子よりも深い絆で繋がってる

と思うんだ。初めて治を抱っこ

したとき、兄貴に託されたから

なんて理由だけじゃなくて、た

とえ親だと認めてくれなくて

も大切に育てていこうって決

めたんだ。

千絵じゃあ…… 私のことは?

祖父血のつながりなんて関係ない。

千絵は大切な、たった一人の孫

だよ。

祖父と千絵、微笑みあう。

千絵ねぇ、お父さんは和夫おじいち

ゃんのこといつ知ったの?

祖父小学校四年生の時だったかな

ぁ。

千絵随分早く知ったんだね。

祖父実は俺が教えたわけじゃない

んだ。その頃、戦争で父親を亡

くした子供たちを集めて、学校

側が『お前の父親は戦争で亡く

なった兵士だ』って教えていた

らしい。本当、ありがた迷惑な

ことだったよ。

千絵それで、お父さんはショック受

けてた?

祖父ショックというか、何が何だか

訳がわからないって感じだっ

たかな。

祖父は、治が慌てて学校から帰ってき

たときのことを思い出していた。自分

と治の会話が蘇ってくる。

声だけの回想。少し照明を落とす。

治俺のこと、今までどんな気持ち

で育ててきたの?

継男どんな気持ち…… 。俺の息子だ

って育ててきたし、それはこれ

からも変わらないよ。

治本当?俺、父ちゃんの子供と

して、これからも生きてってい

い?

継男当たり前だろ。けど、これだけ

は忘れないでほしい。兄貴はお

前が生まれたことをすごく喜

んでいたんだ。長男として、『家

庭を治める』という思いを兄貴

がお前の名前に込めてつけた

んだ。お前は、俺たちの宝だよ。

治改まって言われると照れちゃう

うよ。俺ってすごく幸せ者なん

だな。

回想終わり。

千絵お父さんはちゃんと受け止め

たんだね。でも、和夫おじいち

ゃんは本当になんで帰ってこ

なかったんだろう。

祖父兄貴は背が足りなくて、前線の

兵士として戦えなかったこと

をずっと気にしてた。自分の代

わりに戦って、傷ついた同胞た

ちを、見捨てられなかったんじ

ゃないかな。律儀で、まっすぐ

な男だったから。その代わり兄

貴は、心も未来も、信頼する家

族に託した。千絵の命には兄貴

の想いがたくさん詰まってる。

千絵私の命に?

祖父そう。だからこれからも、兄貴

からの命のバトンを繋げてい

くんだ。

千絵わかった!

祖父兄貴の命はこれからも繋がっ

ていく。だから千絵、受け止め

切れないかもしれないけど、兄

貴を…… 和夫おじいちゃんが

守った命だということを忘れ

ないでくれ。

千絵うん!どっちのおじいちゃん

も大好きだよ。ずっとずっと私

の中に和夫おじいちゃんがい

る。絶対に忘れたりしないよ。

千絵の答えを聞いた祖父は、嬉しそう

に微笑み縁側の外に目を向けた。

祖父ここから外を見ていると、帰っ

てきた兄貴に会えるような気

がして、お盆の夜はいつもここ

にいるんだ。いつだったか、愛

子さんが家を訪ねてきたとき、

龍二さんが夢に出てきたと話

してくれたことがあったんだ。

『ただいま』とそう言っていた

と。せっかく千絵も兄貴のこと

を知ったんだ。そろそろ帰って

くるんじゃないかな。

千絵私も会いたいな。夢でもいいか

ら会いに来てほしい。

治千絵、ここにいたのか。

千絵あ、お父さん。お父さんは、

おじいちゃんのこと尊敬して

るって前に言ってたよね。

治は照れくさそうに頭をかきながら、

祖父の隣に座った。

治あぁ、尊敬してるよ。子供のこ

ろから親父の背中を見て、俺もこ

んな男になりたいってずっと思

ってきたんだ。まだまだ追いつけ

ないけどな。

祖父そんな立派な男じゃないよ。あ

の時は、あんな偉そうなことを

言ったけど本当は、俺が義理の

父親だって知られるのがずっ

と怖かった。お前に拒絶される

んじゃないかと思ってな。

治拒絶なんてするわけないだろ。

親父は、俺のことずっと大切に

してくれてたじゃないか。あの

時担任が俺に教えなかったら、

今でも気づかなかったと思う

よ。親父とは、親子以上の絆が

あると思ってるんだ。

祖父俺もそう思ってるよ。まさかお

前も、同じ気持ちでいてくれて

いるとは思わなかった。

千絵喧嘩とかしなかったの?

治喧嘩か…… あ、チャンネル争い

はよくしたよな!

祖父そんなこともあったなぁ。よく

玉緒さんに、兄弟みたいだって

笑われてた。

千絵本当に仲が良かったんだね!

祖父治が受け入れてくれたおかげ

だよ。そう思うとやっぱりあの

時、治に知られたのはよかった

のかもしれんな。あの時、やっ

と本当の家族になれたんだっ

て思った。

千絵これからもずっと、ずっと家族

だよ。

治うん。二人が俺の父親だってこ

と誇りに思ってるよ。…… さぁ、

もう遅いから千絵寝よう。

千絵うん!おじいちゃん、おやす

み。

祖父お休み。

暗転。

その夜、千絵は夢を見た。

千絵なんで私、こんなところに?

ちゃんと部屋で寝たはずなん

だけどな。もしかして、これは

夢?

そこにボロボロになった和夫が現れ

る。

和夫はぁ、はぁ…… 吐き気もするし、

腹も痛い。熱も出てきたみたい

だ。やっぱり、マラリアにかか

ったみたいだな…… 船に乗ら

なくてよかった。

ふらふらになった和夫は、沢山の患者

が横たわる病室の中央にへたり込ん

だ。

千絵和夫おじいちゃん!?私、お

じいちゃんの最期の記憶を夢

で見てるんだ。ちょっと隠れた

ほうがいいよね?

千絵、和夫に見つからないように隠れ

る。

和夫ここは地獄か?働いてると

きは、生きるのに必死で何も思

わなかったけど、ほんとにひど

い景色だ。国のために戦った兵

士たちになんていう仕打ちを。

ごめんな、戻ってきたけど、食

料も衛生用品も何もないんだ。

だけど、最期まで一緒にいるか

ら。お前たちが迷わず家に帰れ

るように、俺が連れて帰ってや

る。

返事はない。生きているのか、死んで

いるのか分からない同胞たちに向か

って和夫は語りかけた。和夫もいつ

こと切れるかわからない。限界なん

てとっくに来ていた。餓死寸前なう

えに、マラリアに侵されてしまって

いるのだから。とうとう意識も朦朧

としてきた。

和夫…… 龍二。

朦朧とした意識の中、和夫は龍二の幽

霊を見た。そろそろお迎えが来たら

しいと悟る和夫。最後の力を振り絞

って立ち上がり、龍二に近づく。

和夫龍二、一緒に故郷へ帰ろう。愛

子さんがお前の帰りを待って

るぞ。お前に頼まれた伝言は、

ちゃんと伝えたからな。

龍二、微笑んで頷く。

龍二俺、気づいたんだ。俺が欲しか

ったものは、誰かの特別だった

んだ。俺はもうそれを手に入れ

てた。…… 帰らなきゃな、愛子

のところに。道案内頼んでいい

か?長く日本を離れていた

から、迷ったら大変だ。

和夫任せとけ。

龍二が一枚の手紙を和夫に手渡す。

龍二そういえばこれ落ちてたぞ、家

族写真。大切なものなんだろ?

和夫…… これ、玉緒が送ってくれた

ものなんだ。玉緒に、継男に、

治。みんな俺の宝だ。…… ごめ

んなみんな、まだ帰れないんだ。

和夫は写真を愛おしそうに見つめ、写

っている家族に語り掛けた。

和夫全く、いい人生だった!まぁ、

孫の顔を見れないのは残念だ

が、お盆には還れるから。けれ

どそれなら、いつか孫が俺のこ

とを知ったときに帰りたいな。

何年かかってもいい。この手に

抱きしめたい。

龍二、ゆっくり消えていく。

千絵、飛び出してきて和夫に話しかけ

る。

千絵おじいちゃん!和夫おじい

ちゃんでしょ?私、おじいち

ゃんの孫で千絵っていうの。な

んでこんなところにいるのか、

私にもわからないんだけど…

… 。

和夫はいきなり現れた千絵を見て、驚

くことなく笑って言った。

和夫ここはね、俺が千絵に見せてる

夢なんだ。この後俺は力尽きて

死ぬ。俺の最期をどうしても千

絵に見てもらいたかったんだ。

千絵どうして私に?

和夫んーー、「おじいちゃん頑張っ

たよ」っていうのを見て欲しか

ったからかなぁ。

千絵もうなにそれ、ほんとにそんな

理由?

冗談めかして答える和夫につられて、

思わず千絵は笑ってしまう。

千絵どうしてあの時みんなと一緒

に帰らなかったの?

和夫マラリアにかかってたんだ。腹

痛かったし、熱も出始めた頃だ

ったから残ることにしたんだ

よ。やっと生き残れたのに、俺

が船に乗ることで全滅したら、

死んでも死にきれんしな。

千絵そうだったんだ……

和夫霊体になった俺は海を渡り、山

を越えて戦没者たちの魂を、還

るべき所へ還してきた。千絵が

俺のことを知ってくれたから

やっと還ってこれたんだ。

千絵どうして私が知らないとダメ

だったの?

千絵の問いに、急に真面目な顔になっ

た和夫が、千絵の目を真っ直ぐ

見て言った。

和夫人は、俺たちを英霊と呼び崇め

てる。でも俺たちは、ただの人

間だ。命がけの戦いで修羅と化

そうが、最期は人間として死ん

だんだ。千絵が俺を知るという

ことは、みんなが和夫という男

を覚えている証拠なんだ。千絵

がここへ還るための道しるべ

だったんだよ。

千絵そっか…… なんだか嬉しいな。

和夫やっと最後の願いを叶えるこ

とができた。千絵にずっと会い

たかったよ。大切な孫だからね。

…… 時を超えても、家族への想

いは変わらない。みんなそうだ

よ。どこにいても、どんな最期

でも必ず家族のもとに還って

くる。俺達には『特別』な絆が

あるから。これからもずっと見

守っているよ。

千絵うん!みんなおじいちゃん

の帰りを待ってたんだよ。

和夫ただいまみんな!

空のかなたを見て和夫は叫んだ。

千絵ただいま千絵。生まれてきてく

れて、ありがとう。

千絵の頭を優しく撫でる和夫。その姿

がだんだんぼやけていく。

ゆっくりと暗転。

朝、朝食を食べに行こうとしていた治

を千絵は捕まえる。

千絵お父さん、お父さん!昨日の

夢にね、和夫おじいちゃんが出

てきたんだよ!!

治え…… 本当か!?親父!

お袋!千絵の夢に和夫さん

が出てきたって!

祖父と祖母が千絵たちのもとにやっ

てくる。

祖父それはすごいなぁ。やっと帰っ

てきてくれたのか。

祖母和夫さんはなんて言ってた?

千絵『時を超えても家族にへの想い

は変わらない。俺たちには特別

な絆があるから。これからもず

っと見守ってる』って言ってた

よ。おじいちゃん、マラリアに

かかってたんだ。みんなに移し

たくなくて、船に乗らなかった

んだって。今まで帰ってこれな

かったのは、戦友たちの魂を変

えるべき所へ還してきたから

だそうだよ。

治ほんとに律儀な人だな。そうか

…… マラリアに。

祖母なかなか帰ってこないから、道

を忘れちゃったのかと思った

わよ。自分にしかできないこと

をやり遂げたのね

6 祖父兄貴、俺達もう孫が生まれて

おじいちゃんだな。時がたつの

は本当に早いよ。この家は、人

も増えてでかくなった。これか

らもずっと、みんなで守ってい

くよ

祖母さぁ、和夫さんのことちゃんと

お迎えしましょう?ほら手

を合わせて。」

治が妻を連れてきて、全員で手を合わ

せる。

全員おかえりなさい!

千絵お疲れさまでした。命を繋げて

くれてありがとう。

『永遠の0』に影響受けた『還る日』

福井県ジュニア文学優秀賞をいただいた『還る日』は『永遠の0』に影響され書

いた作品だった。

『永遠の0』は特攻兵として戦死した祖父について姉弟で調べていく物語だ。私

には二人の曽祖父がいる。二人は実の兄弟だ。曾祖母は一番最初に兄と結婚し、

彼が戦死した後、養子に出ていた弟を呼び戻し結婚したそうだ。

その時代には珍しいことじゃなかったのだろうが、私としてはなぜ曽祖父が家に

は二人いるのだろうと不思議でたまらなかった。だから私も調べてみようと思った。

二人の関係性、曾祖母との関係性、祖父と曽祖父達の関係性、私が生まれるまでの

家族についてを調べ、その結果出来上がったのが『還る日』だった。

半分ノンフィクション。半分は私の理想と想像が詰まったフィクション。

だけれど、不思議なのは助かったはずの曽祖父が、船に乗る直前で姿を消したと

いう話は、ノンフィクションだということ。

この事実がより一層和夫という存在をミステリアスにしてくれた。彼にしか分か

らない。彼しか知らない真実。けれど、私の曽祖父ならきっとこうかもしれないな、

という想像で話の続きは書くことに決めた。このことについての答え合わせは、私

があっちの世界に行ったときに聞くとしよう。

宮部久蔵は臆病者?では私の曽祖父達は?

『永遠の0』で特攻兵として戦死した、主人公の祖父・宮部久蔵は臆病者として最

初は描かれていた。私の曽祖父は衛生兵。正直、特攻兵のように取り上げてもらえ

ることがない兵士だった。だからといってそれを残念に思ったことなどない。一番

残念なのは、曽祖父が帰ってこれなかったことだから。

衛生兵を当時調べた時、衝撃を受けたことを覚えている。

七十歳を迎えた元衛生兵が、もう時効だろうと思って告白させて欲しいと、衛生

兵だった自分が何を行っていたのかを話した記事を読んだのだ。

それはとてもジュニア文学賞に出す作品として書ける内容ではなかった。

その方の話では、衛生兵は米軍兵や、先住民を捕虜にし生きたまま内臓を取り出

したり、薬の実験台にするなどひどい拷問を行っていたそうだ。

その時は信じられなかったが、高校生の時有志だけを集めて、父親が戦争を生き

抜き、また支給された手帳や亡くなった兵士たちから失敬した軍事手帳に日記をつ

けていたという方からお話を聞ける機会を頂いた時に、私は衛生兵の話をした。本

当に当時はこのようなことが行われていたのだろうか、と。

彼は、それは事実だろうと言った。彼の父親の日記には、敵国の赤子を刀で刺し

たときの感覚や後悔やトラウマなどについても事細かく書かれていたそうで、敵国

の兵士や住民に対する虐待は、本当にあった出来事だと突き付けられた。

自分達が行った残虐な殺戮を戦後永遠にトラウマとして苦しむ元兵士たちは、彼

の父親を含め多くいたそうだ。

曽祖父も…… というのは私には分からないし、曾祖母も分からないだろう。私達

は戦争の美しい部分だけ(尊い兵士たちの命が犠牲になった、彼らは英霊だという

ような)しか知ろうとしていない気がする。それは私も同じで、この当時はそれが

受け止められず、というより自分の家族が進んで人を虐待していたなんて思いたく

なくて、『還る日』ではそういう描写を描くことは無かった。

誰も知らない曽祖父達の裏側を想像して描くより、曾祖母や祖父、叔母たちが知

っている二人を描いたほうがいい。そのほうがずっとリアルに描けると思ったのだ。

それに、私は戦争小説を書きたかったわけではない。あくまで戦時中を生きた私

の家族の話をしたかっただけ。

祖父や、曾祖母から話を聞いていた祖母の話を元に、兄・和夫さんをまっすぐで

明るく心優しい青年とし、弟・継男さんは穏やかで、物静かだが兄と同じく優しい

青年という風に書いていくことにした。

和夫さんの性格については、叔母も聞かされていないようで全て私の想像で書い

たが、継男さんについては叔母や、祖父から聞いた人物像を元にしてかき上げてい

だ、一男さんは叔母が言うには「おばあちゃんが愛していたか、と言うのはは

っきり聞いたことは無いけれど、あのおばあちゃんが黙ってついていった人なのだ

から、きっとそういうことなのよ」という人だそうだ。曾祖母は優しいけれど、は

っきりと主張をする女性だったのは私もなんとなく覚えている。そんな曾祖母が文

句も言わず従っていたのだから、きっと私の想像した彼と当たらずと雖も遠からず

なのかもしれない。

私の作品、歌詞とかから着想を得がち

ここからはセリフを取り上げながら解説していこうと思う。

私の作品は『還る日』だけではなく、色んな作品における話なのだが、ドラマ

や歌詞から着想を得がちだ。だから今までの作品を読み返すと「あ、この時あのド

ラマにハマっていたんだな」とか、「あの曲好きだったんだろうな」ということがよ

くある。

『還る日』はサザンオールスターズさんの『蛍』や長渕剛さんの『CLOSE YOUR

EYES 』『YAMATO 』などの影響を強く受けている。

『蛍』の歌詞にある、

「なんのために己を断って魂だけが帰りくるの?」

という部分から着想を得たのは、題名である『還る日』。還るという漢字にはある

べき所へ帰還するという仏教的意味があると、高校生の時宗教の先生が教えてくれ

た。

私は、戦死した兵士たちが帰る場所は靖国神社ではなく、愛する家族が待つ家だ

と考えている。

ただ、私には命を懸けて国を守るという気持ちが未だに分からない。生きたいの

に、愛する人にまた会いたいのに、自ら死の道へ飛んでいくなんて追い詰められた

ら誰でもできてしまうのだろうか。

しかし、仲間を守りたいから、そばにいたいから、国のためだから、で死を選ん

だと書くと、とても曖昧で共感できにくくなってしまうようだ。私の小説を高校生

の間添削してくれていた叔母が、

「誰かが死ぬ物語は、死ぬ理由がはっきりしていなければならない」

と言っていた。

実はここに載せている『還る日』は最初に書いた小説から数えると、三回ほど直

した作品なのだ。朗読劇として作った『還る日』とは、和夫がなぜ船に乗らなかっ

たのかの理由が違ってくる。

なぜ書き直したのか。それは、最初に書いたように、共感を得られなかったし私

としても納得のいく理由ではなかったからだ。

最初の理由は、「傷ついた仲間を見捨てることが出来なかったから、帰れるはずの

船に乗らなかった」というものだったのだが、息子も生まれたばかりで、奥さんの

ことをとても大切にしていて会いたいのにもかかわらず、死を待つだけの仲間たち

のそばにいることを選択するだろうか。戦地からやっと生きて帰れるという場面で、

人間は格好をつけることが出来るだろうかと、疑問に思ってしまった。

確かに、本当にそうした理由で戦地に残ったとしたらとても美しい物語だろう。

物語は魔法のようなものでなんでも有りにすることが出来る。けれど、実際にあっ

た出来事の中で、それはいくら何でも出来過ぎだよ。というような書き方をすると

途端にリアリティが無くなり安っぽい文章になってしまう。

特に人間の心情は。

確かに語らずとも想像してほしい、という書き方も必要だが物語は現実と違って

キャラクターたちの心情が絶対に語られる。想像してほしいに行きつく前に、その

前の文章でキャラクターたちの性格や考えをきちんと固めなければ、「いや、わから

んけど!?」というようなことが起こってしまう。

彼の心境は、皆さんに想像してもらいたい。ということが難しいのが、死が題材

にしていて、さらに戦争小説の場合だと思う。

恋とは違って敵や味方に追い詰められた時の心情なんて、経験したことなどない。

経験したことのない気持ちは想像で書くしかないが、死に関しては想像すらも難し

から私は『還る日2』では(直した『還る日』をこう呼んでいる)和夫さんの

死に明確な理由をつけることにした。川の水を飲んだことにより、マラリアにかか

り病死したと。こうしたことによって、次に紹介する『あいすくりーむ』と繋げる

ことができ、表現の幅が広がったし、なおかつリアリティが増した。

変えたのは、和夫の死の理由だけではない。物語のキャラクターたちが、「戦争は

嫌だ」「戦争で死にたくない」という気持ちを言葉にするようになっている。

この時代ではよろしくないことなのかもしれないが、キャラクターたちにはっき

りと心情を語らせたことで、現代を生きる人たちにも共感しやすく、それぞれのカ

ップルたちに感情移入ができる作品になっているのではないかと思う。

p41 祖父「ここから外を見ていると、帰ってきた兄貴に会える

ような気がして、お盆の夜はいつもここにいるんだ」

このセリフは『蛍』の

「闇に飛び交う蛍に連れられ君がいた気がする」

という歌詞から考えた。本来、お盆の時期に蛍が飛び交うことなどないだろう。蛍

が見られるのは五月の終わりから六月中頃まで。だから、お盆の時期の話であるこ

の作品には蛍が飛び交う描写を書けなかった。

お盆の時期にふと外や家族たちが座っている座敷の隅に、当たり前のように先祖

たちが立っていたら、座っていたらと考えたことは無いだろうか。

p41 千絵「私も会いたいな。夢でもいいから会いに来てほしい」

それが、目を凝らしてみようとすると消えてしまうような幻であってもいい。

ただ、もう一度故人に会いたいと思ったことは無いだろうか。このセリフたちに

は、私の願望が詰まっている。私も千絵ちゃんのように、曽祖父や曾祖母に会

いたい。会って、二人の話を聞いてみたい。曽祖父に、「会いたかったよ」と

言ってもらえたとしたら、なんて嬉しいことだろうかとこのシーンを書いてい

る時は、心底千絵ちゃんが羨ましかった。

p24 玉緒「帰り道を忘れないでね…… 」

このセリフには、『CLOSE YOUR EYES 』の

「私の胸の中へ帰っておいで気高いあなたの勇気を抱きしめたい」

という歌詞を聴いて、どれだけ遠くに行ってしまったとしても、あなたが帰っ

てくるところは私が待つ家ですよ、という意味を込めている。

帰ってきて欲しい、でも帰ってくる確率は無いに等しいからせめて靖国神社

とかではなく、私のところへ…… というのが乙女心ではないだろうか。本当に兵士

たちは「死んだら靖国で会おう」ということを信じていたのか、というのはまた違

った話になってくるので、あくまで私は乙女心だけの話をする。

『還る日』が『永遠の0』と違うのは、主人公サイドの女性たちが、戦争に行く

ことが男の務め、誇りだと思っていないところだ。何度も言っているが、行って欲

しくない、私のそばにいて欲しいという気持ちをはっきり示していている。

この気持ちは、私だったらどう思うだろうという想像で書いたものだが、やはり

愛する人には死んでもらいたくない。死んでしまうなら私の目の届くところで、と

結婚しているなら尚更思うだろう。

私の知らないところで勝手に野たれ死なないで。

それが本心だけれど、それができないのがこの時代だというのだから残酷だ。こ

んな時代だとしても恋の花は咲くのだから、例え真実ではないかもしれないけれど、

フィクションにしてでも恋した事実は残していくべきではないかと思う。

p25 和夫「俺はもう十分生かされた。ここで逃げたら先に死ん

でいった奴らに顔向けできない。…… 幸せな夢だった。ずっと

続かせるつもりだったけど…… この先の夢は継男、お前が見ろ。

いい夢も悪い夢も、二人と一緒に。お前にしか頼めないんだ」

自分で書いておいてなんだが、私はこのセリフが一番好きだ。

玉緒さんの和夫さんへの愛が分かるセリフが、「帰り道を忘れないで」なら、和夫

さんの玉緒さんへの気持ちが一番わかるのはこのセリフだろう。

一目ぼれした女性と結ばれ、兵役を身長が足りないということで逃れることが出

来てしまったことを恥じていたけれど、それも妻に支えられたおかげで乗り切り、

ようやく子宝に恵まれてこれからという時だったはず。

できることならずっと一緒に居たかった。もうそれが当たり前だと思いつつあっ

た。けれどそれを阻む一通の赤紙。普通なら泣き叫んで、気がおかしくなっても仕

方ないと思うけれど、やはり一度兵役を逃がれたことを気にしていたんだなと思う。

男としての使命を果たす時が来たのだと、気をしっかり保てているのは玉緒さん

と過ごした、夢のような時間があったから。長男として生まれ、両親も直ぐに亡く

なり、弟も養子に行ってしまい寂しい思いを隠して生きてきた和夫さんが、唯一甘

えることが出来た女性だったのだろう。だから、彼女のためなら死ぬことも怖くな

いのだ。

でも実際自分がいなくなってしまったら、玉緒さんは大変になってしまう。だか

らこそ、自分と同じように彼女を想っている弟に彼女を託すことにした。もう絶対

に帰ってくるつもりが、この時点から彼にはなかったのだろう。

死ぬと分かっているから、どんなに愛した女性だとしても他の男に譲れたのだ。

本来なら自分も子育てをして、玉緒と一緒に歳をとって生きていけると夢見てい

た。けれど、その夢は名前の通り弟に継いでもらうことにしたのだ。弟ならきっと

玉緒も息子も大事にしてくれる。継男さんを信じる兄の思いも同時に分かるセリフ

になっている。

和夫さんはとても正直で、情に篤い人だから気を緩めるとすぐに直接的なことを

言わせそうになってしまう。

けれど、それでは彼の玉緒さんを想いながら丁寧に紡いできた言葉たちが無駄に

なってしまうような気がして、戦時を舞台にした小説というのもあり直接的な言葉

は使いたくない、と徹底して書いたのを覚えている。

p39 継男「兄貴が本当に羨ましかった。兄貴に向ける想いと同

じものが、俺に向いてくれればどんなに嬉しいかって…… それ

ばかり考えてた。」

兄と同じ人を好きになってしまったことをずっと悔やみ、けれどその想いを

断ち切れずにいた継男さん。好きになることは悪いことじゃないはずだ、と割り切

れるようになっていた時に急にその想い人を兄から引き受けることになってしまっ

分の気持ちと玉緒さんの気持ちが違うかもしれないことに罪悪感を感じながら

も、それでも好きな人と一緒になれたことを冷静を装いつつ純粋に喜んでいること

が見て取れる彼が私は可愛くていじらしくて、書いていてたまらなかった。

玉緒さんがいる場所には必ず一緒に居るし、盗み聞きだってしてしまう。玉緒さ

んが愛した兄のようになりたくて、でもなれなくて苦しくて、本当に愛おしい坊や

である。

私は確か、この時十歳以上離れた相手に片思いをしていた。その後すぐ別の人と

お付き合いをしたので、凄く好きだった相手ではなかったのだろうが、継男さんが

玉緒さんに思っていた気持ちと同じように、その片思いしていた相手にも思っても

らえたら嬉しいな、なんてそんな子供っぽい考えでこのセリフは生まれた記憶があ

きな人に好きになってもらえる奇跡と、本当に好きになれる人に巡り合える奇

跡どちらがより難しいのだろう。きっと同じくらいに難しいのだな、と今なら思う。

継男さんが欲しかったのは、長男の座でも名誉でもない。たった一人、自分が愛

した女性からの愛だったのだ。決して兄から奪いたいわけではないけれど、もし、

彼女の愛が自分に向けられていたら…… という不毛な想像くらいは許してほしい。

という不器用な彼の、精一杯の愛情表現が詰まったセリフになっている。

『還る日』エッセイ

「私にとっての男を立てるとは、わがままを言ってみ

ることである」

「女性であるならば、男を立てて生きなければならない」

ってのは、だれが決めたんだろうと思うけど、その精神は私の魂に深く刻み込まれ

ている気がするんよ。パパ側のおじいちゃんは亭主関白で、おばあちゃんが身の回

りの世話をなんでもやっていたし、姉さん女房であるママも、仕事をしながら家事

を完璧にこなしてしまう人なんだよね。

そういう男に尽くす女性の中で、それを当たり前だと思いながら育ってきたから、

私もやっぱり完璧主義の考えになってきちゃうんよ。ママみたいに片づけや掃除を

完璧にすることはできないけどね。

それでも一人暮らしをしていく中で、仕事とまでは言えなくても学業や、バイトと

家事の両立がそれなりに出来てしまうようになって、早四年よ。

その中の一年は、他人と一緒に暮らしていたけど、家事はほとんど私がやっていた

くらい、「尽くす女」がやれちゃうんだって気づいたんだよね。

それが自分の首を絞めることになるとは、思いもしなかったんだけどさ。

私の中の良い女って、「自分を持っていて、自分でなんでもできちゃう女性」なん

だって最近気づいた。それが『還る日』にも影響しているんだけどね。

玉緒さんって、なんでもできるじゃん。家事も仕事も育児もそれなりにこなして

るじゃんね。プラス、「夫が兵役に行くのは誇らしい!夫は英霊になった万歳!」

みたいな時代でも、玉緒さんは自分の考えをつき通して流されずに生きていくのよ。

いや、そりゃお前が書いたからねって言われたらおしまいだけどさ。

私自分の理想とか、考えとかをキャラたちに重ねたり言わせたりしちゃいがちな

んだけど、彼らは生きてると思ってるんだよね。言わせてると思ってたけど、結局

こっちが、彼らの言いたいことを書かされている、的な?これを憑依型っていうの

かもしれないね。

だから、

「玉緒さんはきっとこういう服が好きな人で、こんな考えを持ってると思うよ」

って、友達を紹介するみたいに話しちゃうんだよ、ごめんね。

まぁ、そんなことは置いといて。

玉緒さんは、高校二年生の私が描く理想の女性だったんだと思う。夫が亡くなっ

たと思ったらすぐに彼の弟と再婚することになって、それでも彼女は自分の中で気

持ちを切り替えて、どんどん強く前に進んでいく。

何ならモヤモヤくよくよしている継男さんを優しく受け止め、背中を押してあげ

る。高校生の私は彼女のような包容力がある女性になりたかったんじゃないかな。

前置きが長くなったけど、私の「男を立てる」についての考えは、包容力が鍵と

なってくるんですよ。

さっきも言ったけど、私の思ういい女って、「自分を持っていて、自分でなんでも

できてしまう女性」なのね。そういう女になりたいって、努力したわけ。就活もあ

ったし、こういう文字を書くことを生業にしているわけだし、自分の発言とか生き

方に自信をもっていこうって。

小説を書くって、やっぱり自分の考えが反映しちゃうものだし、私の作品は特に

哲学的な話をしてることが多いから、自然と考え方ができてしまったのね。それを

他人に押し付けることはしないけれども。

それに加えて一人暮らししているわけだから、自立もできているわけ。それでそ

こに性格と遺伝からくる「尽くす女」が足されると、私が今まで付き合ってきた男

性たちは、私をお母さんか家政婦さんのように扱うようになってしまうみたい。

ね、首絞めちゃってるでしょ。

いい女って、頼らない、信じないということではなかったんだよね。それがきっ

と玉緒さんと私の違い。それに気づけたのは本当に最近のことだけど。

自立って、奢りたいって言ってくれている人に対して頑なに割り勘を貫くことで

もないし、一緒に生活している空間で役割分担を一切決めず自分で背負い過ぎるこ

とでもないんだよね。それは私の中の「男を立てる」につながってくるんだけども。

結局男を立てるって、自分が本気で好きで、この人に格好つけさせたいと思えな

いとできなくない?あと自分の心の余裕があるとき。格好つけてもらって、ドヤ

顔している彼を「うんうん、素敵、ありがとう」ってにこにこ顔で受け止められる

余裕を持てる相手じゃないとできないんだよ。

そしてそれが包容力にもつながってくるわけ。男の人も馬鹿じゃないから、「あ、

今持ち上げてもらってるな」ってことに気づくんだって。しれっと持ち上げてくれ

て、ドヤ顔してる自分を可愛いがってくれる。それも包容力の一つで、そこに惹か

れるんだそうだよ。

だから何でもかんでも自分を犠牲にしてまで受け入れることが包容力ではなくて、

余裕があるからこそ生まれる、女性特有の、自分の子供っぽいところを受け入れて

くれそうな愛が本当の包容力なんだろうね。

その余裕って、信じるとか頼るとかに関わってくるんだけど、自分でなんでもや

ってしまうんじゃなくて、自分でできないところは認めて甘えて、少しのわがまま

を言ってみることが私にとっての「男を立てる」になるんじゃないかなと思う。

だってそれができなかったから壁を作ってしまっていたわけなんだから、素直に

自分と向き合ってくれる男性に対しては、私も素直に甘えてみようと思う。そうす

れば、「私に出来ないことをあなたはやれてしまうのね、素敵!皆にも分かってほ

しい」って自然と持ち上げることが出来ると思うの。

私は甘えること= わがままだと思ってきたし、言われてきたから、甘えるって悪い

ことだと思って生きてきた。でも、わがままと自分勝手は全然違うからさ。甘える

って、結局頼るってことじゃん。それができるようになったら、男を立てるにつな

がっていくんじゃないかなって思うよ。

玉緒さんは、本気で和夫さんや継男さんのことが本気で好きだった。だから、タ

イプの違う二人でも彼らを立てつつ、自分の道も進みつつ生きていけるいい女にな

れたんだろうな、と思う。

そしてそれはきっと、玉緒さんが安心して身を任せられるくらい、素直な心で玉

緒さんに向き合い、愛情を注いできた和夫さんと継男さんだからこそ、玉緒さんの

いい女感が出来上がったんだろうな。

そう思うと、高校二年生の時には、私の中の「男を立てるとは」「いい女とは」が

きっと確立していたんだろうに、その本当の意味を理解できるようになったのは、

五年後の今なんて面白い話だよね。

私の書いてきた物語には、私の過去や現在の恋愛経験が必要不可欠だなって思っ

た。それがあってこそ、私の考えが確立していくから。

十代二十代の恋愛を書く分には、十分な経験をしてきたんじゃないかなと自負し

ているから、これからのエッセイにも私の過去の恋愛話や、現在の恋愛話、その時

の考え、今の考え、価値観が入ってくると思う。それによって「この人めっちゃ最

低やんとか、この考えはないわぁ」って思われても仕方ないんだけど、あくまで私

の考えだから許してほしいな。

私が経験した恋愛達はとても幸せとは言い切れないものたちだったけど、別に同

情していただきたくて書いていくわけでもないのよ。紹介する物語たちと同じよう

に「そんなこともあったのねぇ、んでこの考えになったと、ふーん」くらいの気持

ちで読んでいただけたら嬉しいかな。

愛って結局内なるものだと考えてるからさ。語れる愛って経験したこと以外ない

と思うの。だから、私の経験含めてこの四年間の研究になるんだよね。

あいすくりーむ

一幕

たつやさんへ

始めまして。まぁ、私は初めましてでは

ないのですけれど。私は、あなたのこと

をずっと前から知っているんです。よか

ったら私と文通を始めてみませんか。い

きなり過ぎたかしら。軍から「日本へ帰

国せよ」と通達をされた後、フィリピン

から帰ってきたあなたの疲れた心を、少

しでも癒すことができるならいいと思

ってお手紙を出させていただきました。

お返事を下さるならあなたの家の郵便

受けに、お返事を入れておいてくれませ

んか。そうしたら取りに行きますわ。

ゆりこより

朝、たつやが郵便受けに新聞を取り

に行くと、奇妙な手紙が入っていた。

たつやはそれを読み上げた。

たつやなんだこれ、俺にはゆりこなど

という知り合いはいないぞ。親

戚にも、国民学校の友達にもい

ない。それに、確かに俺は二か

月前まではフィリピン島に配

属され、衛生兵として働いてい

た。けれどそれを知っているの

は……

たつやは慌てて家に入ると、台所で夕

飯の支度をしている母親に半ば怒鳴

るような形で声をかけた。

たつや母さん!!一体何ですかこ

れは!ゆりこという見ず知

らずの女から手紙が届いてい

ました。まさか母さん、俺に黙

って見合いでも取り付けたの

ではないでしょうね。それとも、

ゆりこという女は、母さんの知

り合いなのですか?

母親はすぐにはその問いに答えなか

った。トントントントン…… ネギを切

る軽やかな音が静かな空間に響いて

いる。

母親は、静かに包丁を置きたつやを

振り返ることなく、静かに口を開い

た。

母ゆりこさん?…… 知っていま

すよ。けれど、たつやさんのお

見合い相手ではありません。そ

うですか、ゆりこさんからお手

紙が…… お返事は書かれない

のですか?

たつやどこの誰とも分からない女に、

返事を書いていいものか…… 。

でも母さんの知り合いなんで

すね?一体どこの誰です

か?

母それは、お返事を書けばわかる

かもしれませんよ。ハガキなら

後ろの箪笥の上の木箱に入っ

ていますから。

母親はたつやの後ろにある木箱を振

り返ろうとして、たつやのことも視

界に入れてしまい、すぐに目を逸

すとまたまな板に向き直った。

たつやでも、一体どうやって取りに来

るのか…… 。近所の人たちは家

の若い衆を連れて皆親戚のと

ころや、息子夫婦の家に疎開し

ていて誰も家にいないのに。

母「郵便受けに入れておいてくれ

れば、取りに来る」と書いてあ

ったのではありませんか?

たつやは、はい。確かにそう書いてあ

りましたが…… なぜそれを?

母……

母親は黙った。

たつや母さん?

母お返事を書いてみてはどうで

すか。きっとそれがいいと思う

のです。

母親はかろうじて聞き取れるくらい

の小さい声で呟くと、またネギを切

り始めた。

たつやわかりました。返事を書いてみ

ることにします。

母親は何も答えなかった。ネギを切る

音を後ろ背に聞きながら、たつやは背

伸びをして木箱箱を取り蓋を開けた。

たつやあぁ、新品のハガキありました。

ん?これは母さんの友達か

らの手紙ですか?ここにい

つもしまっていたのですね。…

… これは。

木箱の中には母が友達や親戚から送

られてきた手紙や、ハガキが平置き

にしまわれていたが、その箱の隅に

隠すように赤い糸で結ばれたハガキ

の束が隠されていた。

たつやこれは、俺が戦地から送ったハ

ガキ…… とっておいてくれた

んですね。あぁ、懐かしい。た

くまに、いちろうに、かずお。

かずお、元気しているかな。

母かずおさんは特に仲の良かっ

たご友人なのですか?よく

お手紙にもかずおさんとのこ

とが書かれていましたが。

たつやはい。かずおは誰よりも明るく、

誰よりも精神的に強い男でし

た。俺なんかよりずっと強い…

… 自室で返事を書いてきます。

たつやは何かを思い出し、それを振り

払うかのように頭を振ると、自

室に戻った。

たつや筆と墨は確かここら辺に……

あったあった。さて、書き始め

はどうしようか。

たつやはおもむろに立ち上がった。

たつや俺が送った手紙の中に書いて

た、たくまといちろうはフィリ

ピンの土の中に埋まっている。

二人ともマラリアにかかって

そのまま死んでいった。俺が埋

めたんだ。

たつやは頭を掻きむしって叫んだ。

たつやああああああだからハガキな

んて嫌なんだ。苦しい、苦しい、

苦しい!

はぁ、はぁ、でも、母さんの友

人なんだ。このやり取りが、少

しでも俺の気晴らしになれば

……

たつやはハガキと筆を手に取り、手紙

を書き始めた。たつやは、それを音

読し始める。

ゆりこさんへ

初めまして。当然のお手紙に驚きまし

た。僕にはゆりこという知り合いなんて

いないのですから。母のお知り合いの方

だったのですね。

恥ずかしながら、女性からお手紙を頂

けるなんてことは、今まで以外にないも

のですから、少々浮足立っております。

これから少しずつお互いのことを知れ

たらいいなと思っております。次のお返

事をお待ちしております。

たつやより

暗転

一幕二場

夜中、居間では母親がお茶を飲んでい

る。そこに、桜柄の着物を着た女性が

入ってくる。

母ゆり…… こさん?

ゆりこはい。今はゆりこですよ。たつ

やさんにお返事を書くように

言ってくださったのですね。

母えぇ、二人がまた一つになれる

ように、ゆりこさんとお話しす

ることが必要だと思ったんで

す。

ゆりこ私たちが一つに?

母元は一つだったのですから、ま

たきっと元に戻れますよ。ゆり

こさんだってそのほうがいい

でしょう?

ゆりこたつやさんがそれを望んでい

ると思っているのですか?

私たちは元から二つですよ。彼

は私を愛してる。私にはわかり

ます。私のことで彼は頭がいっ

ぱいなの。

母どうして…… どうしてたつや

さんとお手紙のやり取りをし

たいと仰ったのですか?私

は、たつやさんの心を癒してく

れるって言うから……

ゆりこは不敵に微笑んだ。

ゆりこ彼とお話がしたかったんです

もの。彼にはお母様しかおりま

せん。自分の息子なのに、いな

いもののように扱うお父様な

んてあてになりません。お母様

に頼めば、きっと彼と繋げてく

ださると思ったのです。

母なんてこと。あなたは、たつや

さんの一部。それなのに私を利

用するような真似をするなん

て……

ゆりこだから、私たちは別々の人間な

んです。何度言ったらわかるん

です?私は『ゆりこ』大きな

お屋敷に住むお嬢様ですの。大

きな蔵がお庭にあって……

母それは前に、かずおさんから

『あいこさん』というお金持ち

のお嬢さんのお話を聞いて、そ

こから取って来てるんです

か?

ゆりこは固まった。母親は、ゆりこに

追い打ちをかけるように畳み

かけた。

母あなたはたつやさんが知らな

いことは分からない。そうあな

たも言ってましたよね。意識の

表に出てこれる時間は少ない。

所詮、あなたは彼の中でしか生

きられないの。

ゆりこうるさい!うるさい!う

るさい!私は『ゆりこ』な

の!あいこなんて知らない

わ。私の世界は彼しかいないの。

それ以外はいらない。あんた

も!いらないのよ……

たつやの母親である彼女に、強く言い

づらくなったのか最後の方は母親と

目を合わせようとせず、弱々しくゆり

こは言った。

母返してよ…… たつやさんを返

してよ!!

ゆりこは突然憑き物が取れたように

倒れこんだ。

一瞬の暗転。たつやと入れ替わり、た

つやは倒れている。

たつやん…… あれ?母さん??

母たつや…… さん、寝ぼけて起き

てきて、そのままここで眠って

しまったのですよ。

たつやそ…… うなのですね。ちゃんと

自室で寝ます。おやすみなさい。

たつやは部屋へと帰っていく。

暗転。

一幕三場

ゆりこさんへ

昨日、僕はとても恥ずかしい姿を母

に見せてしまいました。実は寝ぼけて、

居間で寝てしまったようなのです。居

間にはまだ起きていた母がいたようで、

僕の寝ぼけた姿を見られてしまい、僕

はとても恥ずかしくてたまりません。

ゆりこさんはこのような恥ずかしい

経験はありますか。

たつやは音読した後、手紙を郵便受け

に入れた。

たつやもう六月か…… だんだん暑く

なってきたな。ゆりこさんと手

紙のやり取りをし始めてもう

二か月は経ったのか。

独り言をこぼしたその時、けたたまし

く空襲警報が鳴り響いた。

慌ててたつやは家に戻り、母親を呼び

に行く。

舞台半分暗転、防空壕設置する。

たつや母さん!空襲警報です!!

早く、裏の防空壕へ行きましょ

う!

母はい…… !たつやさんもこ

れを被ってください!

母親はたつやに防空頭巾を渡し、二人

一緒に防空壕へ隠れた。

たつやこんなことがいつまで続くん

だろうな。なぁ、母さん。俺達

も近所の人たちみたいに親戚

の家にお邪魔することはでき

ないのか?

母…… 便りがね、ここ一か月くら

い返って来てないんです。みん

な、きっと大変なんですよ。お

父さんのお仕事もありますし、

この町から出ることはできま

せん。

たつやみんな無事だといいですね。

母御義姉さんのところのてつ君、

覚えていますか?彼、海軍に

勤めていたそうなんですが、二

か月前亡くなったそうです…

たつやなッ…… そんな…… てつが。

母たつやさん、人って簡単にいな

くなってしまうのですね。たと

え帰ってきてくれたとしても、

ずっと遠いところにいるみた

いです。

たつやえ?

母あ、なんでもないです……

空襲警報解除と叫ぶ声が聞こえてく

る。

たつや解除されたみたいですね。母さ

ん、うちに戻りましょう。

母はい、ありがとうございます。

防空壕から出てくる二人。

そこに一人の女性が訪ねてくる。

りえごめんください、小林さんのお

宅はこちらでしょうか。

母はーい。あ、もしかしてりえさ

んですか?お待ちしてまし

た。遠いところから大変だった

でしょう。

りえいえいえ、汽車に乗るの好きな

ので楽しかったです。けれど、

ここに来たとたん空襲警報が

鳴って、驚きましたよ。

母怪我はありませんか?あ、こ

の子がたつやです。

りえあ、すみません。申し遅れまし

た。私、山本りえと言います。

昔からたつやさんのお母さま

にはよくしてもらってまして

……

たつやそうですか。

りえよくここに遊びに来てたんだ

よ!!

たつや…… え?

りえ覚えてない?たっちゃん?

たつやりっ…… ちゃん?

たつやそう!昔よく遊んだよね!

覚えててくれたんだ。

母まぁまぁ、積もる話は中で聞か

せて頂戴。ね?

りえあ、すみません。お邪魔します。

中に上がり、居間でくつろぐ三人

母さぁ、お茶どうぞ。私、ちょっ

とお買い物行ってきますから、

あとは若い人同士で……

たつや何言ってるんですか。気を付け

て行ってきてくださいね。

りえお母さん、相変わらず明るい人

だね。二人とも元気そうでよか

ったよ。お母さんから、たっち

ゃんが元気ないって手紙もら

ったから心配だったんだ。

たつや俺が元気ないって?まさか。

元気だよ。最近は手紙のやり取

りをしている人がいるんだけ

ど、毎日返事が来るから楽しみ

で仕方がないんだ。

りえそうなのね!一体どんな方

とお手紙のやり取りをしてい

るの?

たつやどこに住んでいるかは分から

ないんだ。いつも郵便受けに直

接入れてくれるから。でも、文

面からしてお金持ちのお嬢さ

んだと思う。

りえどこの誰かも分からない人と

やり取りしているの?しか

もたっちゃんは、その人の家が

どこにあるのか分かっていな

いのに、相手は知っているって

なんだか不気味だわ。

たつやそんなことないよ!ゆりこ

さんはとても博識で聡明な方

なんだ。不気味なんかじゃない

よ。

りえそう…… たつやさんは随分と

ゆりこさんを気に入っている

のね。その

人のこと色々質問してみた

ら?

たつやあぁ、それいいな。今日の手紙

に書いてみるよ。

和やかに二人で話していると、急に

外が騒がしくなる。

たつやなんだ?なんの騒ぎだ。

りえちょっと見てくるわね。

たつやあぁ…… 。

外に様子を見に行くりえだったが

すぐさま慌てた様子で中に戻って

くる。

りえ大変!大火事ですって!し

かも燃えたのは、あのあいこさ

ん家の蔵ですって!

たつや本当か!?それは大変だ…

… 。あいこさんは無事なのか?

りえ火事だってみんな騒いでるだ

けで、被害がどれくらいなのか

は分からないわ…… 。

たつやそうか…… 無事だといいな。…

… ん?りっちゃんはあいこ

さんを知ってるのか?

りええぇ。知ってるわ。同じ学校の

幼馴染だったもの。あ、転校し

た先の学校での幼馴染だけど

ね。

たつやいや、そりゃそうだろ。転校す

る前は俺と同じ学校で、そこに

はあいこさんなんていなかっ

たんだから。

りえたっちゃんこそ、なんであいこ

さんを知ってるの?

たつやあぁ、俺は同じ部隊にかずおっ

ていう男がいたんだけれど、そ

いつが嫁さんのことや、幼馴染

のことをよく話しててな。あい

こさんの話もよく聞いてたん

だ。

りえかずお君を知ってるの?

たつやあぁ。

りえかずお君ともお友達だったの

よ!でも…… かずお君残念

だったわね。幼いお子さんと、

若い奥さん残して逝ってしま

うなんて。

たつやえ?どういうことだ?か

ずおは死んだのか?

りええぇそうよ。最近のことなんだ

けれどね。数日前にかずおさん

のお家に電報が届いて…… も

うお葬式は終わったそうよ。

たつや…… 俺のせいだ。

りええっ?

たつやかずおが死んだのは俺のせい

なんだ。俺に帰国命令が出て明

日帰るって夜に、なぜかは分か

らないが、俺の水筒が盗まれた

んだ。食料もなかなか届かなく

て、もうきれいな水は自分で持

ってるだけだったのに…… 。

りえ…… 。

たつやでも、どうしてものどが渇いて

仕方なく川の水を飲もうと思

ったら、かずおが「やっと帰れ

るのに、こんな水飲んでマラリ

アにでもかかったら家族が悲

しむぞ」って自分の水筒を俺に

くれたんだ。だから…… 。

りえそんなこと言わないで。かずお

さんはそんなこと言って欲し

くないと思う。

たつやでも…… 実際にかずおは死ん

でしまったじゃないか。俺は…

… 俺は人殺しだ…… 。

たつやはわなわなと震え、何かぶつぶ

つと喋り始めた。りえは、たつやの

母が心配していたことはこのことか

もしれないと思い、慌てて駅まで送

ってくれと提案した。

りえあ、そろそろお暇しなきゃ。た

っちゃん、駅まで送ってくれない?

たつや…… あ、あぁ。そうだな。

暗転。

駅の前に立つ二人。汽笛の音が聞こえ

てくる。

りえ送ってくれてありがとう。……

やっぱり、たっちゃん疲れてる

のよ。

たつやそう、か…… ?

りえたっちゃん、自分を責め続けて

も亡くなった人は報われない

わ。亡くなった人が本当に望む

ものは、いつか戦争が終わった

時自分のお墓に、愛する人たち

が墓参りに来てくれることじ

ゃないかしら。

たつやそうだな…… ありがとう。心配

かけてすまなかった。

りえ「明けない夜はない」母さんが

よく言ってる言葉なの。大丈夫

よ。きっとすぐ終わるわ。私も

また会いに来るから…… 。

りえはたつやをぎゅっと抱きしめた。

たつやもりえを抱きしめ返す。

彼女を抱きしめている間は、罪悪感か

ら解放された気分になれた。

りえじゃあね。

たつやあぁ、気を付けて。

りえがホームに入り見えなくなると

たつやは踵を返した。

暗転。

一幕第四場

明転せず、舞台上にいる演者にライト

が当たる。

たつやはハガキを持っている。

たつやりっちゃんに、ゆりこさんに

色々質問してみろと言われた

俺は、好きな食べ物、好きな場

所、お気に入りの着物の柄なの

沢山の質問を手紙にしたため

た。

ゆりこ登場。ゆりこにもライトが当た

る。

ゆりこ私の好きな食べ物は『あいすく

りーむ』です。九十九橋の近く

に小さな喫茶店があるんです

けど、そこのあいすくりーむが

本当に美味しくて。

たつやさんはあいすくりーむ

を食べたことはありますか?

たつやはい。とは言っても、数回ほど

しか食べたことはありません

が…… 。冷たくて甘いあいすく

りーむが、のどを伝って降りて

いくあの感覚は何度食べても

不思議な感じです。

ゆりこそうでしょうね。私もまったく

同じです。

たつやお気に入りの着物の柄は何で

すか?好きな場所は?

ゆりこふふっ、最近は沢山のことを聞

いてくださいますね。やっと私

に興味を持ってくれたんです

か?

たつやいえ、興味が無かったわけでは

ないのです。ただ、知り合って

ばかりの方に質問攻めをする

のは失礼なことだと思いまし

て。

ゆりこそんなの気にしなくてもいい

のに。私はもっとたつやさんに

私のことを知ってもらいたい

ですわ。

ゆりこはたつやに近づき、頬や肩を撫

でる。

たつやは素知らぬ顔で手紙を見つめ

ている。

ゆりこお気に入りの着物は桜柄の着

物。好きな場所は九十九橋。あ

の橋には、落ち武者の幽霊が出

るとされているのよ。なんだか

とっても心躍りません?

たつや桜柄…… 上品なゆりこさんに

はぴったりな柄ですね。そうで

すか、九十九橋が好きですか。

では、今度一緒に喫茶店へあい

すくりーむを食べにいって、そ

のあとに九十九橋を見に行き

ませんか?

ゆりこまぁ、私をランデブーに誘って

いるのですか?

たつや…… はい。

ゆりことっても嬉しいお誘いですが

…… お断りしますわ。

たつやどうしてです?

ゆりこに当たっていたライトが消え、

明転する。

たつやあ…… もう朝か。昨日のハガキ

の内容にひどく動揺して、結局

一睡もできなかった…… 。初め

て女性をお茶に誘ったのに。い

きなり過ぎたのだろうか。

落ち込んだまま自室を出たたつやは、

朝食を食べるために居間に移動した。

居間に行くと、ちょうど母親が朝ご飯

を作り終わったところだった。

母あら、たつやさん。おはようご

ざいます。丁度起こしに行こう

と思っていたところだったん

ですよ。…… 顔色が悪いわ、ち

ゃんと寝れましたか?

たつやいえ…… 実は先日、ゆりこさん

をお茶に誘ったのですがお断

りのお返事がきまして、何か失

礼なことをしてしまったのか

もしれないと、一晩悩みこんで

しまいまして。

母ゆりこさんをお茶に…… 。そう

ですか。理由は書かれていなか

ったのですか?

たつやはい。何も書かれていませんで

した。

母親は、たつやがまだゆりこの正体に

気づいていないとわかり、ほっと息を

ついた。

母たつやさんはゆりこさんを好

いているのですか?

たつやそれは…… 俺にも分からない

のです。何というか、憧れてい

るだけなのかもしれません。会

いたいという気持ちはあるの

ですが、まだよくわかりません。

母では、りえさんはどうですか?

一緒にいて苦痛でした?

たつやいえ!りっちゃ…… りえさ

んと一緒にいると、胸をザクザ

クと刺されるような痛みや、動

悸が少し収まるのです。抱き締

められた時だって……

母まぁ、ふふっ。仲良しですね。

たつやそ、そんなことは…… いつまで

も気を病んでいる俺を幼子の

ように思えたのでしょう。

母違うと思いますがねぇ。…… ね

ぇ、たつやさん?たつやさん

がいいなら、りえさんと正式に

お見合いしてみませんか?

たつやえ!?りえさんとお見合い

ですか?

母えぇ。前々からりえさんのご家

族からはお見合いのお話が来

ていたんですけど、たつやさん

があまり乗り気じゃなかった

から、ずっと黙ってたんです。

でも、お見合いとは関係なく、

りえさんと会ったらたつやさ

んが元気を取り戻してくれる

んじゃないかと思って…… 。

たつやなるほど。色々ありがとうござ

います、母さん。そのお見合い

のお話、お受けします。

母本当ですか!まぁまぁまぁ、

では早速りえさんのご家族に

お返事をお書きしますね。

暗転。

二幕一場

たつやにライトが当たる。

たつやそれから数日経って、俺はゆり

こさんにハガキを書いた。

ゆりこさんへ

先日は大変失礼しました。強引なお誘

いをしてしまったと、とても後悔してい

ます。

突然ですが、幼馴染の方とお見合いを

することになりました。ですから、ゆり

こさんとの文通を本日を持ちましてや

めさせていただこうと思います。

ゆりこさんにお話を聞いていただけ

たおかげで、とても気持ちが軽くなりま

した。家族以外の人とお話しする楽しさ

を、久しぶりに実感しました。本当にあ

りがとうございます。

では、お体にお気をつけて。

たつやより

たつやこの手紙を送ったのは六月中

旬。二か月たった今も、ゆりこ

さんからハガキが届くことは

なかった。

郵便受けの前にたつやが立っている。

母親が奥から現れる。

母ゆりこさんからのお返事、何か

来ましたか?

たつやいえ…… もうやり取りはでき

ないと書いてから、お返事は来

ていません。

母寂しいですか?

たつやまぁ、今までずっとやり取りを

していた方ですし。でも、りえ

さんに変な誤解をさせたくな

かったので、いつまでも他の女

性とやり取りをするわけには

…… せっかくゆりこさんとの

文通を勧めてくださったのに、

ごめんなさい、

母いいんですよ、気にしなくて。

たつやさんが元気を取りもど

してくれて、ゆりこさんもきっ

と喜んでいますよ。

たつやは黙って母の言葉に微笑み返

した。母親は黙って微笑み返すと、家

の中へと戻っていった。

たつや勝手に誘って、勝手に落ち込ん

で、勝手に関係を切ってしまっ

た。彼女を知るたびに、まるで

初めてあいすくりーむを食べ

た時のような、体験したことの

ない感覚と、優しい甘さが胸の

中にじんわりと広がっていっ

たんだ。…… でも、これでいい。

どうしても会いたいなんて食

い下がる度胸、俺には無いしな。

りえたっちゃん!遅くなってご

めんなさい。

たつやいや、大丈夫だ。母さんたち、

もう中で待っているから行こ

う。

たつやとりえが奥に入っていく。

暗転。

明転。座敷に二人っきりで座っている、

たつやとりえ。

りえふふっ。

たつやなんだよ。何がおかしいんだ?

りえだってたっちゃん、さっきの両

家顔合わせの時、私の両親とは

初めて会ったわけじゃないの

に、凄く緊張していたんですも

の。

たつや当たり前だろ。最後に会ったの

は子供の頃だし、あんな改まっ

た形での挨拶なんだから緊張

するさ。

りえ私が九歳の時に引っ越したっ

きりだから…… 十二年来なの

か。時がたつのは早いね。まさ

か、たっちゃんのお嫁さんにな

れるなんて夢にも思わなかっ

たな。

たつやそう…… だな。

りえ幸せになろう?畑仕事頑張

って、子供をたくさん産んで、

私たちなりの幸せを…… 。

たつや幸せ?俺が幸せになってい

いわけがないだろう。俺は沢山

の人を殺してきた。沢山の幸せ

を奪ってきた。その俺が、その

俺は幸せになんて…… 。

りえたっちゃん?どうしたの?

たつや噂では広島や長崎の方にでっ

かい爆弾が落ちたそうじゃな

いか。本土に影響が出るのを抑

えるために、俺は兵隊になった

んだ。なのに、なぜ俺はここに

いる?俺はまだ戦えるのに、

なぜ戻されたんだ。仲間はまだ

戦地にいるのに!!

りえちょっと、落ち着いてよ。たっ

ちゃん、今日はおめでたい日な

のよ?

たつや何がおめでたい日だ。俺はまだ

まだ戦えるのに、なんで俺は…

りえそんなこと、いつまでも言って

たって…… !

いつまでもどうしようもないことを

言い続けているたつやに、だんだん

りえは腹が立ってきた。そこに、た

つやの母が飛び込んでくる。

母せ、戦争が…… 戦争が終わった

…… !!

たつやは…… ははッ…… 今日、戦争が

終わるなんて皮肉な…… 今日

は、お盆なのに…… 。

りえ今日でよかったんじゃない?

お盆だから帰ってこれるじゃ

ない。みんな。

たつや帰って…… これる?何が?

死んだ人間は帰ってこない。魂

が帰ってくるなんてそんなの

幻想だ。みんな生きた息子たち

を待っているのに…… 誰も、触

れることも、声を聞くこともで

きなくなった幻を待ってるわ

けじゃない!!

りえ亡くなった人たちの、浮かばれ

ない気持ちを受け止めるのが

家族なんじゃないの?

たつやじゃあ、死ねなかった俺の気持

ちは?仲間はみんな死んで

ったのに、ここに戻された俺の

気持ちはどこに行くんだよ!

誰が受け止めるんだよ!

母ご、ごめんなさい、たつやさん。

ずっとずっと辛い思いをして

いたのね。たつやさんが帰って

きてくれて、私もお父さんも本

当に嬉しかったんですよ。

たつや俺をいないもののように扱っ

てる親父がか?俺が何の役

にも立てなかったから、俺のこ

とを無視するんだろう!?

母それは…… 。

りえ一体どうしちゃったのよ。たっ

ちゃん少し落ち着いてよ。喜び

ましょう?やっと戦争が終

わったのよ?

たつや俺はまだ戦える。俺もあいつら

の元に行かなければ…… 。

りえ何言ってるの!?私達、夫婦

になるのよ?どうしてそん

なに縁起でもないこと言うの

よ!!ひどい…… ひどい

わ!

たつやひどい?りっちゃんも俺の

ことを責めるのか?いつだ

って頑張ってきたのに、何も認

められず「役立たず」と帰りの

船の中で言われ続けたんだ

ぞ!なんで俺がこんな目に

…… あぁ、やっぱり俺のことを

分かってくれるのは…… 。

先ほどから様子のおかしいたつやを

見て、うすうす何か変だと思っていた

りえだったが、たつやの母が「たつや

が元気がないから様子見に来てくれ」

と自分を頼ってきた意味がようやく

分かった。

母だめよ!彼を引っ張ってい

かないで!彼を返しなさ

い!!

母の言葉を聞いた途端、たつやは意識

を誰かに乗っ取られた気がした。そし

て、そこから自分の意志は、強制的に

心の奥深くへと押し込まれていった。

まるでもう一つの意志がいるかのよ

うに…… 。

ゆりこあーーあ。可哀そうなたつやさ

ん。

たつやはがっくりと膝をついて気を

失っている。そして、ゆりこが奥か

ら現れる。ゆりこはたつやを抱きし

める、慈しむようにゆっくりと撫でる。

ゆりこあぁ、可哀そうに、可哀そうに。

何にも分かっていない無能な

女たちに酷いことを言われた

のね。やっぱり、あなたには私

じゃなきゃダメなのよ。これで

分かったでしょう?

りえ一体、これはどういうことです

か!?何が起こっている

んです?

どうしちゃったの、たっち

ゃん!?

母彼女はね「ゆりこさん」。たつ

やから聞いていませんか?

最近、文通している相手がいる

と。それが彼女なんです。

りえ彼女!?いえ、確かに口調は

女性っぽいですけど、どう見た

って…… 。

ゆりこ初めまして、りえ…… さん?

あなたことはずっと前から知

っているわ。なかなか表に出て

これなかったから、あなたは私

のことを知らないでしょうけ

ど。

りえ信じられない…… あなたがゆ

りこさんなの?あなたとた

つやさんが文通していたなん

て…… 。

ゆりこそうよ。毎日ハガキのやり取り

をしていたの。あなたが邪魔し

なければ、もう少しで私への気

持ちにたつやさんは気づくこ

とが出来たのに。

母たつやさんは、あなたのことな

んか好きにはならないわ。りえ

ちゃんみたいに素直で、清楚な

お嬢さんのことを気に入るは

ずだもの。

ゆりこもう手遅れよ。それにね、好き

とかそんなものじゃないのよ。

彼は私に溶けているの。まるで

あいすくりーむのように、甘く

絡んでドロドロ溶けて、やがて

一つになるの。はぁ…… やっと

彼から言ってもらえると思っ

たのに…… 。

ゆりこはたつやを見つめながら、うっ

とりとため息を漏らしながら言った。

りえ狂っているわ…… 。

ゆりこ狂ってる?そんな表面的な

感想しか出ないの?やっぱ

りあなたはつまらない女ね。あ

なたのことをたつやさんが選

ぶわけがない。たつやさんはね、

とっても純情なの。私に振られ

てしまったと勘違いして、私を

忘れるためにあなたと祝言を

上げることにしたのよ。

りえ嘘…… そんなわけないわ。私は

あなたよりもずっと前から彼

を知っているのよ。小さい頃か

ら姉弟のようにいつも一緒に

いたの。あなたなんかに何が分

かるの?彼は、彼は…… 私の

ことを…… 。

ゆりこふふっ、分かってるんじゃない。

彼があなたに気持ちが無いっ

てこと。彼が、もうあなたの知

っている彼ではないというこ

とと、自分では彼を受け入れて

あげることはできないという

ことをね。

たつや母、震えながら今にも泣きそう

になっているりえの背中を、慰めるよ

うにさすってやる。

母大丈夫よ、りえちゃん。たつや

さんはあなたを選んだのよ。こ

の人の戯言を真に受けないで。

ゆりこ何が大丈夫なの?私のこと

をりえさんに黙っていたくせ

に。自分ではどうにもできない

から、りえさんに助けを求めた

んでしょう?あなたが受け

入れられないことを、その子が

受け入れられるとは思えない

わ。

母受け入れているつもりです…

… 頭ではね。でも、可愛い息子

がこんな風になってしまった

なんて思いたくないじゃない。

私は、本当に嬉しかったの。世

間になんて言われようと、ただ

生きて帰ってきてくれただけ

で嬉しかった。お願い、出て行

って。たつやさんの中から。

ゆりこ無理よ。なにか勘違いしてませ

ん?私を、彼に憑いている霊

かなんかだと思っているのか

しら。違うわ。私は、彼が生ま

れた時から彼の中にいてずっ

と彼を見てきたの。彼だけを想

ってきたの。

りえじゃあ、あなた一体何のよ。彼

をどうしたいのよ。消えてよ。

彼は私の夫になるのよ!!

ゆりこ本当に頭の悪い女ね!!私

は『ゆりこ』それ以外の何者で

もないわ。

彼はあなたと結婚する気なん

てないのよ。彼を分かってあげ

られるのは私だけ。私しかいな

いの。私にどんどん惹かれてい

く彼がいじらしくって、可愛ら

しくてたまらなかったわ。でも、

分かっていても駆け引きはし

たかったのよ。私を想って悩ん

でいる彼を見ているのが楽し

かったの。だから少し意地悪し

たくなってお誘いを断ったら、

簡単にあきらめてしまったん

だもの。ちょっと傷ついたわ。

飄々としたゆりこの様子に、りえ

もたつや母も言葉を失ってしまっ

た。なぜ、この人はこんなにも嬉

しそうに話せるのだろう。気味が

悪いを通り越して、自分がおかし

いのか、とも思ってしまうような

錯覚に陥りそうになっていた。

ゆりこ私はね、彼と一つになりたいの。

彼がそう望んでいるように。彼

を私の中に閉じ込めて、私だけ

のものにしたい…… 。

母あなたが、たつやさんの中に戻

って、元の彼に戻ることを望ん

でいると思ってハガキのやり

取りを勧めてみたけれど、そう

いうことじゃなかったのね。

りえ彼を…… たつやさんを返して

…… 。

ゆりこは暗闇に消えていく。たつやは

どさりとその場に倒れる。

りえやっぱり…… 「返して」という

言葉が彼らを意識的に交換さ

せるカギなんだわ。

母じゃあ、その言葉をたつやさん

に使わなければ、ゆりこさんは

出てこないのかしら。

りえいえ…… 強制的に意識交換さ

せるカギというだけなので、自

然に出てきてしまう分にはど

うしようもないですよ。

母りえちゃんお願い、たつやさん

のこと見捨てないで頂戴。この

まま彼と夫婦になってくれる

わよね?

りえ…… たつやさんに聞いてみま

しょう?私と夫婦になりた

いのか。私はたつやさんの妻に

なりたいですけど、彼の想いを

尊重したいです。

すると、たつやの意識が戻る。

母たつやさん!!大丈夫です

か?

たつやう…… 大丈夫です。あれ…… ど

うして俺、眠ってしまったん

だ?

混乱しているたつやの前にしゃがみ、

りえははっきりと言った。

りえたっちゃん。私と、ゆりこさん

のどっちと結婚したいの?

たつやえ?俺はりっちゃんと結婚

するんだろ?そのために今

日両家の顔合わせをしたんだ

ろ?

りえそうじゃなくて、たっちゃん自

身はどっちをお嫁さんにした

い?惹かれているのはどっ

ち?

たつや…… 。

りえどうして答えてくれないの?

どうして私だって言ってくれ

ないのよ…… 。

たつやごめん。りっちゃんの方が…… 。

りえ嘘はもういいから!!ゆり

こさんじゃないとダメなのよ

ね。私は、たっちゃんが私を選

んでくれるなら、どんなことが

あっても、どんなことを言われ

てもたっちゃんを支えていき

たいと思ってた。でも、たっち

ゃんはゆりこさんがいいんだ

もんね。

たつやごめん。ごめん、りっちゃん…

… !!俺、やっぱりどうして

もゆりこさんを忘れられない

んだ。ゆりこさんは俺のこの…

… どうしようもない罪悪感や、

やりきれない思いを理解して

くれたんだ。ゆりこさんだけな

んだよ。

りえは、ちらりとたつやの母を見た。

たつや母は、後ろを向いている。きっ

と泣いているのだろう。

りえそっか…… ゆりこさんとうま

くいくといいね。お父さんたち

には私から説明しておくから。

たつや申し訳ない…… 。

りえ気が変わったら…… いえ、なん

でもないわ。また遊びに来ても

いい?その時はゆりこさん

を紹介してちょうだいね?

たつやあ… あぁ!きっとりっちゃ

んも気に入ると思う。

りえ…… じゃあ、そろそろお暇しま

すね。

母あ…… 、たつやさんはお部屋に

戻っていてください。私がお見

送りを…… 。

たつやわかりました。

明転。

二幕二場

自室に戻ったたつや。ゆりこにハガキ

を書こうと机に向かっている。

たつやさっきは、いつの間に寝てしま

っていたのだろう…… まぁい

いか。ゆりこさんが忘れられな

いと言ってしまったが、どう彼

女に連絡を取ればいいのだろ

うか…… 。ハガキのやり取りを

しなくなってからもう二か

月がたってしまったのに、今で

も毎日俺からハガキのハガキ

が入っていないか、郵便受けを

確認しに来ているのだろうか。

とにかく書いてみようと、ハガキに

返事を書き始めた時、たつやの右手が

勝手に動き出した。

ゆりこが暗闇から出てくる。しかし

その姿はたつやには見えていない。

たつやうわっ!!なんだ!?手

が勝手に…… 。まさか、ゆりこ

さん?ゆりこさんなのか?

いったいこれは何なんだ?

ゆりこふふっ、可愛い人。私の存在は

疑いもしないのね。あぁ、なん

て可愛いの。

たつや何を言っているんだよゆりこ

さん。あぁ、そうだ。ゆりこさ

んに言いたいことがあったん

だ。俺、結婚するのやめた。ゆ

りこさんじゃないとダメなん

だって気づいたんだよ。だから、

俺と会ってくれないか?

ゆりこ無理よ。会うことはできないわ。

でも、私たちはいつも一緒。い

つもあなたを見てきたわ。

たつやどういうことですか?

ゆりこ私はあなた。あなたの中に私は

いるの。私はあなたが知らない

ことは分からない。だから家も

お教えできないのよ。それに肉

体も持っていない。だから会う

ことはできないの。あなたの中

でしか生きられない。でも、私

は存在しているわ。あなたが強

く望めば望むほど、私の存在は

確実なものになる。

たつやゆりこさんは…… 俺?俺が

ゆりこさん?何が起こって

いるんだ。訳が分からない。

ゆりこ後ろの押し入れを開けてみな

さい。中の箱に、あなたが今ま

でに書いてきた私宛のハガキ

が入っているはずです。

ゆりこに促され、たつやは恐る恐る押

し入れを開ける。すると異様な光が広

がっていた。どこから拾ってきたのか、

花や蝶の刺繍が入った赤い箱が中に

あり、蓋を開けるとゆりこの言う通り、

たつやがゆりこに宛てたハガキが入

っていた。

ゆりこ信じられないですか?私は

戦争で心を病んだあなたが作

りだした人物なのです。私の好

みや性格はあなたが持つ女性

の心像で作られているのです。

この着物の柄、お好きなんでし

ょう?

たつや信じられない。俺はいったいど

うしてしまったんだ。この俺が、

戦争ごときで心を病むはずが

ない。いやまて、俺が日本に帰

された意味って…… いやいや、

俺はあそこで死ぬような人間

ではないと神が判断したんだ。

俺はあの地獄のようなところ

から帰ってきた英雄なんだ!

ゆりこ「やめろ…… !!殺さないで

くれ…… 何の薬?何をした

の?助けてくれるって言っ

たじゃないか!!」

たつやの脳裏に忌まわしい戦争の記

憶が駆け巡った。沢山の悲鳴や怒号が

聞こえてくる。

たつや…… !!

ゆりこ度重なる捕虜への虐待。

たつややめろ…… 。

ゆりこ捕虜を残虐な方法で殺した。生

きたままの彼らの臓器を取り

出し、捨てる。

たつややめてくれ…… !

ゆりこ軍の命令とはいえ、彼らの命を

持て遊んだ!

たつやもうやめてくれ!!消えな

いんだ、彼らの叫びが、絶命す

るその時まで、俺を憎み恨んで

やるというように、かっぴらい

た目が脳裏に焼き付いて離れ

ない!言葉は分からずとも、

彼らが命乞いをしているのだ

ということは分かった。忘れら

れないんだよ…… 助けてくれ

…… 。

ゆりこあなたは今の苦しみから逃げ

たかった。罪のない人たちを殺

したことも、生き残って戦争が

終わる前に帰らされたことも、

そんな自分を周囲には、腫れ物

にでも触るように扱われるこ

とも、全部全部苦しくて仕方な

かったのね…… 。

たつや俺は英雄なんだ…… どいつも

こいつもバカにしやがって。

ゆりこそうね。そういい聞かせてこな

ければおかしくなりそうだっ

たんですものね。あ、もう遅い

か…… 。でも、大丈夫よ。私が

いる。私さえいればいいのでし

ょう?こんなこと、わかって

あげられるのは私だけよ。

ゆりこは、ゆっくりゆっくりたつやを

抱きしめた。

たつやでも、ゆりこさんはいないのだ

ろう?

ゆりこいますよ。あなたの中に、これ

からもずっと。今までもそうだ

ったでしょう?あなたの世

界に、他の人なんて必要ない。

私さえいればいい。もっと、も

っと願って!私が欲しいと、

助けて欲しいと!

たつや願うとどうなるんだ?

ゆりこ私とあなたの世界だけになる

のです。私が守ってあげますか

ら。

たつや本当に、俺とゆりこさんだけに

なるのか?母さんもりっち

ゃんもいないのか?それは

嫌だ…… 。

ゆりこはたつやから離れると、たつや

を冷ややかな目で見降ろした。

ゆりこ私以外の人間は必要ないので

す。母親だけでなく、りえとも

離れたくないとごねるなんて

…… 。あなたは私を選んだので

しょう?他の女に会えなく

なるのがそんなに嫌なの!?

何度も言ってるじゃない、あな

たには私さえいればいいの!

たつやわかった…… わかったよ。ゆり

こさんをりっちゃんに会わせ

てあげたかったんだ。彼女は幼

馴染だからさ。

ゆりこもう会っているわ。今日、突然

記憶が飛んだでしょう?私

と入れ替わっていたからよ。

たつやもしかして、今までも何度か突

然記憶が飛ぶことがあったが、

それもゆりこさんと入れ替わ

っていたからなのか?

ゆりこそうですよ。

たつやそうなのか。どうだった?い

い子だっただろう?

ゆりこいいえ、失礼な方でしたわ。私

はあの方が苦手みたいです。

たつやそうか。よし、ゆりこさんが嫌

ならばもう会わないでおこう。

ゆりこさんとずっと一緒に居

れるのだから、わがままを言っ

てはいけないよな。あれ…… で

も、ゆりこさんは本当は存在し

ていない…… ?

ゆりこ存在していますよ。あなたの中

にいて、これからもずっとお傍

を離れたりしません。だって、

私はこんなにもあなたをとて

も愛おしく思っているのです

もの。

たつやそうか、俺もだよゆりこさん!

ゆりこさんは俺の中にいる。消

えたりしない。俺を想う、俺だ

けを想う女。俺だけの…… 。

ゆりこそうです。あなたの戦友たちの

ように消えたりしません。あな

たの周りの人たちのようにあ

なたを腫れ物扱いなんかしま

せん。私があなたを飲み込んで

差し上げます。何も考えなくて

いいように。私さえ、あなたに

はいればいいのです。そうすれ

ば苦しくない。私と…… 私と文

通を続けましょう。

ゆりこは怪しく微笑むと、たつやを

後ろから抱きしめるように手で目

隠しした。

暗転

二幕三場

明転、ゆりこが立っている。たつ

やの声が聞こえてくる。

たつやまるであいすくりーむのよ

うに俺達の甘く、歪んだ愛

はドロドロに溶けて堕ちて

いく。

ゆりこあれから右手を動かすこと

は無くなったが、彼とのや

り取りは続いている。

たつやきっと最初から歪んでいた

のだ。手紙に返事を書いた

あの日、いやもっと前から

か。

ゆりこ私はずっとあなたの中にい

る。あなたの中で、あなた

と同じ景色を見てきた。私

だけが本当のあなたを理解

できる。

舞台中央奥に置いてある三面鏡に、

女物の着物を着て女性の化粧を施

したたつやが客席を背にして座る。

そこにゆりこがたたたっと近寄る。

たつやだが、歪んでいるのは分かって

いるけれど、自分のことをおか

しいとは思っていない。俺が彼

女に抱いているものは確かな

愛情だ。愛情におかしいもくそ

もあるわけがない。今じゃ、俺

の世界は彼女と文通している

手紙の中だけだ。だがそれでい

い。何も考えられないくらい彼

女に溺れていきたい。

ゆりこ溺れればいい。どちらが表でど

ちらが裏かなんてわからない

くらいにドロドロに溶けて混

ざり合ってしまいましょう。大

丈夫。私があなたを楽にしてあ

げますから。

たつや甘美な食べ物はいつだって人

を狂わせるのだ。人間はみな、

甘い誘惑に弱い。食べ物にしろ、

なんにしろ。もう俺には分から

ない。生まれた時から俺は俺な

のか?

ゆりこあなたは何も考えなくていい

のです。私の世界の中で、私が

ずっと支えてあげます。ずっと、

ずっと甘やかして差し上げま

す。

たつやゆりこは甘い甘いあいすくり

ーむだった。

三面鏡に向かうたつやに真っ赤な口

紅を渡す母。たつやはそれをつける。

口紅を引き終わったたつやに、母はま

た赤いい鼻緒の草履を渡す。

たつやは草履をはき、舞台中央に移

動する。

たつや今日は暖かくて、春らしいい天

気ね。なんだかとっても、今ま

でにないくらい…… 晴れやか

な気分だわ。

たつやをうっとりと見つめるゆりこ。彼

女とは反対に、たつやに背を向

け視線を落とす母

暗転。幕を下ろす。

『夕鶴』にしかり『ドグラ・マグラ』にしかりメ

ンヘラってなんであんなに舞台映えして可愛い

の?

この作品を書いたのは、大学一年生の冬だった。

『あいすくりーむ』は読んでくれた文芸の仲間たちからも、私がいつも書くよ

うなジャンルとは違っているので、珍しいと言われた作品になった。

『あいすくりーむ』の内容は、戦闘不可とみなされ、戦地から帰ってきたたつ

やにある日『ゆりこ』と名乗る女性から手紙が届く。そこから二人の奇妙な文

通が続いていき、だんだんとたつやはゆりこに恋心を寄せるようになってしまうが、

実は彼女は自分のもう一人の人格で、たつやが作り出した人物だとわかる、という

話だ。

作品を書くにあたって、先生から言われたことは挑戦して欲しいということ。自

分の得意な分野だけを書くのではなく、今まで書いたことのない小説を書いて欲し

いとのことだった。

戦争小説も、恋愛がテーマであることも自分の得意分野だったが、ほの暗い恋愛

小説で、メンヘラな女性を登場させることは初の試みであり、以前から書いてみた

いジャンルに挑戦できた作品になった。

私は舞台作品におけるメンヘラが大好きだ。現実にいると怖いが、舞台口調で演

じられるメンヘラはとても官能的で、舞台の雰囲気を艶やかにする。

特に、『ドグラ・マグラ』のモヨ子、『夕鶴』のつうが私は大好きだ。なんて可愛

らしくて、狂っていて、魅力的な女性たちなのだろうとゾクゾクした。

彼女たちのように主人公や周りに恐怖を与えてしまうほどの狂愛を持ったキャラ

クターを作りたい!と考えたのが、ゆりこだった。

なぜ舞台ではメンヘラが映えるのか。それは日常のお芝居であるドラマと違って、

非日常のお芝居が多い舞台だから現実離れしたメンヘラの狂気が美しく見えるのだ

と考える。

自分のものにしたいモヨ子とつう。じゃあ、ゆりこはどうした

いん?

モヨ子もつうも自分さえ主人公のそばにいればいいとい考えの持ち主だ。その為

には、傷つくことも主人公に殺されてもいいと思っている。

しかし、ゆりこはどうだろう。

ゆりこは、たつやが生み出した人間だ。彼女が生まれたきっかけは、たつやが戦

争で経験したおぞましい記憶を消してしまいたいと、残虐なことを行ったのは自分

ではないと思い込みたくて、どこかに逃げてしまいたいと願ったことからだった。

彼が願った、というがゆりこは彼が意図して作ったわけではない。たつやは解離

性同一性障害という心の病にかかってしまい、軍から帰還命令を突き付けられ実家

に帰ってきた。なので、戦場を生き抜くために無意識のうちにゆりこを作り出し、

自分を守ろうとしていたのだろう。

しかし、たつやはゆりこの存在に気づいていなかった。ゆりこはゆりこで、最初

は傷ついているたつやを守るために彼の代わりに外に出るということをしていたの

だろうが、ゆりこの考えが変わったのは二人が文通をしだしたことがきっかけだっ

たと思う。

ゆりこはたつやを自分のものにしたいのではないと私は考えている。『ドグラ・マ

グラ』のモヨ子や『夕鶴』のつうは主人公に恋をしているが故に彼らを自分のもの

にしたいと考えるようになるが、ゆりこはたつやに恋をしているわけではない気が

する。

自分でゆりこを書いておいて、なぜこんなにもはっきり言い切ることが出来ない

のかというと、私の中でも彼女はつかみどころ無い不思議な女性なのだ。作者本人

のことも惑わし、どんどんと勝手に人格を作っていってしまう。私が彼女を作りだ

しているはずなのに、彼女に書かされているような気がするのだ。

だから私にもゆりこの気持ちは分からない。

故に読者には色んな解釈をして欲しいと願っている。作者である私が「ゆりこは

恋心を持っているわけではない」と言っているからといってこれが正解ではないと

私は考えているのだ。

話を戻すと、ゆりこはたつやに恋をしているわけではなく、たつやと混ざりあい

たいと願っているのだと思う。それが恋故の感情なのでは?と言われればそうな

のかもしれないが、私にはもっと狂気めいていて、人間らしい理由がある気がする。

ゆりこは彼と文通をしているうちに、外の世界を自由に動き回れるようになりた

いと願うようになったのではないかと考える。たつやが考えた女性像なので完璧な

女性口調でもない、着物も実際には着ていない。気に入っている景色も食べ物も『ゆ

りこ』として触れたわけではない。

だから自由になりたい。

けれど、彼女の根本にあるのはそんな自己中心的考えではなく、たつやを助けた

いという思いなので、自分とたつやの心が交わってどちらか分からない人格になっ

てしまえばいい、ということがゆりこの考えなのだ。

たつやの心が壊れたのは虐殺が理由?

衛生兵が実は敵兵や現地民を捕虜とし、虐待行っていたという話は『還る日』を

書くときに調べたと前章で書いたと思うが、『還る日』に虐待の話など入れるつもり

はなかったので、『アイスクリーム』を書く上でほの暗い気持ち悪さのスパイスにな

るだろうと、この作品に組み込むことにした。

たつやはプライドが高い人間だ。それがより一層自分を追い詰める理由になって

しまったのだろう。誰にも相談することをせず、自問自答を続け、そしてゆりこを

生み出してしまった。

たつやの心が壊れてしまったのにはまだ理由がある。それは日本軍に対する異常

なまでの神格化だ。捕虜を虐殺するという、人間の倫理から逸脱した行為の裏には

人を沢山殺してこそ英雄だという考えが染みついていったからだろう。p79 たつや

「かずおが死んだのは俺のせいなんだ」

たつやの心にとどめを刺したのは、和夫の死だ。

和夫とたつやは同じ部隊に所属していた。しかし、たつやは精神を病んでしまっ

たので、みんなより早く帰国することになってしまったことで、周りの仲間たちは

たつやに嫌がらせとして、彼の水筒を隠してしまう。

支給が来なくなっていた戦場での、残っている水はとても貴重だ。それを無くし

てしまえば、マラリア原虫がうようよ泳いでいる汚い水を飲むしかない。

しかし、優しい和夫は仲間たちがたつやに嫌がらせしていることを知って、自分

の水筒を彼に渡してしまう。結果的にそれが理由となり和夫は帰国することが出来

なくなってしまうという、ここで『還る日』の答え合わせができるようになってい

つやは衛生兵で、水の配給がないことを知っていたので、和夫が亡くなったの

は自分のせいだと分かってしまったのだろう。敵からの攻撃で亡くなったかもしれ

ない、という選択肢だってあるのに自分のせいだと言ってしまうということは、帰

国してからもずっと和夫に水を分けてもらったことが心残りになっていたのだと考

える。

たつやにとって、和夫は特別な仲間だった。歳も近かったこと、和夫が優しい人

で良く話しかけてくれたことで、唯一心を開くことができたのだろう。そんな彼が

亡くなったと聞いて、彼の心を保っていた最後の砦が崩れてしまった。仲間を殺し

てしまった、それも大切な大好きな友達を。という今まで何とか消し去ろうとして

いた自責の念が一気に押し寄せることとなり、彼の心を完全に壊してしまったよう

こからはセリフを紹介しながら解説していこうと思う。

p86 たつや「帰って…… これる?何が?死んだ人間は帰っ

てこない。魂が帰ってくるなんてそんなの幻想だ。みんな生き

た息子たちを待っているのに…… 誰も触れることも、声を聞く

こともできなくなった幻を待ってるわけじゃない!!」

たつやの心が崩壊した後のセリフだ。これは和夫と和夫の家族を想って叫んでい

る。和夫には愛する妻と生まれたばかりの息子がいた。二人のために彼は生きて帰

らなければならなかったのに、どうして自分みたいに守る人も何もない人間が生き

残ってしまったんだという思いと、戦場にいたからこそ知っている英霊でも何でも

ない兵士たちの姿を見て、戦争で命を奪うことも国のために命を落とすことにもな

んの美しさもない、と言う思いが込められている。

私達日本人は、付喪神を信じていることから、魂という考えが無意識のうちに染

みついているのだろう。戦死者の魂が還るという考えもきっとそこから生まれたの

ではないだろうか。

だけど、魂が還ってきた、息子はここにいるなんてわかるものだろうか。生きて、

声を聞ける、触れられる息子の帰りを皆心の底では待っていたはずだ。これはたつ

やが和夫の帰りを待つ人間になったからこそ気づいてしまった気持ちなのかもしれ

ない。

7

3 母「返してよ…… たつやさんを返してよ!!」

たつやとゆりこを意識的に入れ替わらせる方法を明確にしたほうが分かりやすい

と思い、作ったキーワードが「返してよ」だった。この言葉には、たつやの頭にあ

る自責の念が関係している。

「命を返して、彼を返して、子供返して、私をうちに返して」沢山言われてきたト

ラウマワードが、彼らを入れかえる鍵となってしまったのだ。この言葉たちから逃

れたくて、たつやの意識はゆりこの中への隠れるようになった。ただ、ゆりこにも

この言葉が効く理由は、たつやを愛する人が彼を想いゆりこから切り離そうとする

愛情を彼女が感じ、ひるむからだと考える。

p87 ゆりこ「あぁ、可哀そうに、可哀そうに。何にも分かって

いない無能な女たちに酷いことを言われたのね。やっぱり、あ

なたには私じゃなきゃダメなのよ。これで分かったでしょう?」

ゆりこは完全なる女性ではない。あくまでたつやが作り出した女性像なので口調

がきっちり定まっていないのだ。この時代の女性はたつやの母や、りえのように奥

ゆかしく、控えめで決して男性よりも上に立とうとはしない。しかし、ゆりこは違

う。ゆりこの中には少なからずともたつやの気持ちや記憶が反映された知識があり、

ゆりこは度々女性軽視のような発言をする。これはたつやが女性軽視を心の奥でし

ているからだ。

どこか人を馬鹿にしたように話すゆりこは、とても女性らしいとは思えない。き

っと病に侵されていなければたつやだってどこかおかしいと思うだろう。手紙のや

り取りの中で読者が感じる違和感は、ゆりこが女性として未完成な証拠なのだ。

その未完成な部分をゆりこも理解していて、そこをたつやの母に指摘された際に

は激昂している。ゆりこはたつやではなく一人の女性として生まれたいということ

が本音なので、たつやがどこかの誰かを真似して作り出した女性という事実を受け

入れたくないのだろう。ゆりこはゆりことしてこの世に出てきたい。たつやの意識

を取り込んで、ずっと奥深くで眠らせて自分が表に出てくる。彼女の望むことはそ

れだけなのだ。

p97 たつや「ゆりこは甘い甘いあいすくりーむだった」

この物語は「あいすくりーむ」がカギになっている。たつやの恋と、ゆりこの

恋に似せた歪んだ想いが交差していく様子をアイスクリームに例えているからだ。

この時代、アイスクリームなんて食べられるのは裕福な家庭くらいだろう。アイス

クリームを食べたことがある、というたつやの家柄もここでなんとなくわかるよう

になっている。

恋というのは甘くひんやりしているものかもしれない。とこの時は思っていた。

友人たちの話を聞く限り、好きな人から与えられる一瞬一瞬のときめきはとても甘

、だが自分だけのものではないと感じると途端に心が冷えていく。しかし、努力

が実り恋人となり結婚するとなれば、幸せで体の奥から温められていく感覚になる

のではないかと感じた。

たつやが抱いた恋心は、りえに感じたものとは違っていたのだろう。そこが恋の

難しいところで、ゆりこがたつやの分身ではなく普通に生きていた人間だとして話

を進めていくが、結婚するならりえを選んだほうが幸せな家庭が築けるはずだ。

包容力に溢れ、たつやの心の病を理解し支えようとしている。彼女を選んだほう

がいいのだ、とたつや自身も気づいていただろう。しかし、彼はゆりこを選んだ。

恋とは、幸せになれないと分かっていても飛び込んでしまいたいと思わせてしまう

ものなのかもしれない。

もちろんそれが全てではない。この人となら幸せになれる、この人を幸せにした

いと感じる恋もあるだろう。ただ、たつやにとっては現実をすべて捨ててゆりこに

逃げてしまいたいと思う心が、ゆりこに対する恋心を加速させることになってしま

っただけなのだ。

砂糖は麻薬だと言われているほど、甘いものには中毒性がある。同じように甘い

言葉だけを吐いてくれる人間も依存性がある。ゆりこが正にそうで、だからこそた

つやは自分を全肯定してくれるゆりこを作り、甘い甘いあいすくりーむに溺れるこ

とを選んでしまった。

そうして最後にゆりこでも、たつやでもない存在が出来上がったのだ。

あいすくりーむエッセイ

『君は隠すのが上手いから』って言うけど、私そんな

に器用じゃないからね

『あいすくりーむ』に関しても肝になってくるんだけど、好きな人とお付き合い

をする決め手ってみんな何?

私は、ごめんだけど来るもの拒まず去る者追わずで、中学から二十一歳までやっ

てきちゃったんだよね。それはなんでかというと、二つ理由があるんだけど、一つ

はママの教え。

私のことを分かってくれない(振られるパターンの時も入れて)男は、踏み台に

して、縋りつくことは恥とし、さっさと次に行って私を受け入れてくれるいい男探

せ。ってお母様が口酸っぱくして言ってくれてたことを鵜呑みにし続けたこと。

二つ目は、縋りつきたいほど好きになった人がいなかったんだよね、って話。

私の、純粋な気持ちを持ち続けてる友達は「好きな人が取られそうになった時に、

嫌だなと感じたら自分が恋をしてる決め手になる」って言ってたんだけど、それは

確かに一理あるなって思った。

だってそれって独占欲だもんね。でも、私は友達としてしか思っていない相手だ

ったとしても、それが起こると思ってるの。だから嫉妬とか独占欲とかは自分の恋

しているかどうかの基準にならないのかなって思ってる。

じゃあ、こんなクズな私がどこでお付き合いの基準を決めていたかっていうと、

私を必要としてくれているかどうか、の重さかなって思ってる。

こんな私だけど、結婚願望が人一倍強いから私と結婚したいかどうかで私を必要

としてくれているかを推し量っていたんだよね。それで、「あ、結婚願望ある?い

いじゃん!家事全然やるよ」って、どんどん妻より家政婦って感じに進化してい

くんだけど、これじゃ不満に思っちゃうわけ、後々。

でも二十二歳になって、このタイミングで新たな恋をして今までの基準が間違っ

ていたことに気づいたの。まぁ、『あいすくりーむ』を書いている時点で核心には気

づけていたんだろうけど、自覚ができていなかったんだろうね。

たつやがりえちゃんではなく、ゆりこさんを選んだ理由は、「たつやが望む幸せを

手に入れることが出来そうだから」だったんだと思う。

私が望む幸せは、相手に尽くし続けて利用されることじゃなく、幸せにしてくれ

る人に愛されることだったみたい。

彼に「もっと自分らしく生きていいんだよ」って言われたのね。でも私はそれに、

「自分らしく生きたら本音を言わなくなる」って答えたの。

私らしい生き方は、基本的に感情的にならないように生きることだったのね。相

手が欲しい言葉を言って、本音は隠して、とりあえずその場をしのげればそれでい

いって思ってた。そういう生き方じゃないと、今までは過ごしていけなかったんだ

よね。

本音を言っても損ばかりで、受けとめてくれる人なんていなかったし、むしろ自

分がいつだって受け止める側だった。それが自分の運命なんだろうなって思ってた

し、だからこそ私の限界が来るまでは過去の人たちとうまくいっていたんだろうな

って思う。

幸せになりたい、今回は幸せにしてくれそうっていくら思っていても、今までの

癖は中々治らないもので自分の気持ちを隠そうとして、気づいたら彼に壁を作って

しまってたの。

けど、彼はそれを壊そうとしてくるし何時間だって話して、向き合おうとしてく

れた。それで気づいたら、赤ちゃんみたいに怒って泣いて笑って、本音ばかりが飛

び交うようになって、「らしくない生き方」がいつの間にかできてた。

もちろん同棲してるから、一緒に暮らしていなかった時を思うと揉めることも増

えたし、機嫌悪い日々が多くなって申し訳なくなる時もあるけど、これが私の望ん

だ幸せなんだと思うよ。

私は人を幸せにするのはとても簡単なことだと思ってたんだよね。自分はよく人

を見ているほうだと自負しているから、少し接すれば相手の欲しい言葉が分かるし、

恋人になってからも自分を隠して、望むことをすれば相手は喜んでくれる。反対に

自分を幸せにするほうが難しかった。

今は逆でさ、自分は一緒に居るだけで幸せだと思えているけど、相手は私といて

幸せなのかなって、どうしたら喜んでくれるかな、こうしたら嬉しいかなって毎日

試行錯誤よ。

もうほんと、毎日のように私の中のシンデレラが『これが恋かしら』って歌いだ

すんだけど、そろそろ黙って欲しいとか思っちゃう。でも、ほんとにこれが恋って

やつなんだろうね、らしくないから恥ずかしいんだけどさ。

たつやも、らしくない手紙なんか書いて、必死に気に入られるためにらしくない

話題探しなんかして、カフェに連れていきますよなんてらしくないお誘いしちゃっ

て。だれだってさ、この人と幸せになりたいと願ったららしくないことしちゃうん

だろうね。

たつやも私と同じだと思うんだけど、本音や弱音を見せるのを恥じだと思ってき

たんだと思う。周りもそれを許さなかったし、押し殺したり、できないことをカバ ーし続けて生きてこなきゃダメだった。でも、ゆりこさんはダメなたつやから生ま

れ、たつやを受け入れてくれるわけじゃんね。例え孤立したとしても、自分だけは

そばにいるって。

愛ってそういうものなんじゃないかな。一生相手だけが自分の味方であり、自分

も一生相手の味方っていうね。器用に振る舞うところも認めてくれるけれど、もっ

と尊重してくれるのは不器用な自分の方で、ありのままを愛してもらえているんだ

なって思うよ。

私は器用にうまくやっているほうだと思ってたけど、不器用だったんだなって気

づけた。定評があった言葉選びも彼の前だとうまくできなくなるし、欲しい言葉を

言ってあげることもできなくなっちゃった。だって、その場しのぎの気持ちのこも

っていない言葉なんか言っても意味なんか無いでしょ?

今までどういう風に生きてたんだよって思ったよね。でも、言葉選びに苦労する

人とか、本音で向き合いたいって思えた人に巡り会えたってことは、自分を犠牲に

する幸せばかりに出会っていたころに比べて成長したんだなって思えたよ。

恋をするって、心が凪のまま始まるものじゃなかった。幸せって、毎日が何も起

きなくて同じ日々であることじゃなかった。同じ日々なんて来ないんだよね。毎日

沢山話して、その中で気になることがあったら言って、時には喧嘩してそのたびに

話し合って、仲直りして笑いあって、そっちのほうが生きてる感じがするし、幸せ

だと思えるなって気づいちゃった。

お付き合いは、恋は、なぁなぁで始めるものでも「あ、私のこと好きなん?じ

ゃあいいよ~」って始まるもんでもなかったんだよ。「この人を絶対に幸せにしたい。

だって私のことも幸せにしてくれるはずだから」って確信が持てる人じゃないと始

めちゃダメ。そんな簡単にlove so sweet 流してちゃ嵐も大変よね~。

不器用でも、恥ずかしくても、らしくなくてもなんだっていいんだよ。本音で向

き合って、それで喧嘩したとしてもさ、結果的に笑いあえている日の方が多くなる

なら万々歳じゃんね。

、私

、低

、わ

。私

。暗

、作

、罵

。こ

、先

、自

鹿

ぁ……

。作

、葵

、ほ

最悪」

「アタシの親切を無下にするから悪い

のよ。オカマの愛はね、母性と父性を持

ち合わせた底なし沼のように深く重い

のよ。ありがたいと思いなさい」

「深すぎて逆に怖いわ」

「オカマ泣いちゃう。…… それよりさ、

さっきの評価は先生、ちょっと言い過ぎ

だと思ったわ。あれはストレス発散も入

ってたと思うわよ」

今日の課題は二週間前に出されたも

ので、私で言ったらカメラ。葵ちゃんだ

ったら服飾など、自分の専門の分野から

持てる知識と技術を使って、前期の大き

な課題である「一つの作品」を作れとい

うものだった。一つの作品と言っても中

途半端は許されない。二週間で仕上げら

れる範囲で、しかしこの二か月間で身に

着けたすべての技術を使って作品を作

り上げるのだ。たった二週間で無茶な…

… と思うかもしれないが、この大学、い

やこの世界ではごく普通なことなのだ

…… 。このブラック企業並みの締め切り

の速さを、最近ようやく受け入れること

が出来てきた。

私が二か月前から通っている王山美

術大学は、一年生の時のみ、実技は専門

のコースごとにクラス分けされるので

はなく、他コースとごちゃ混ぜになって

クラス分けをされることになっている。

そこのクラスで一緒になったのが、落

ち込んでいる私を強引にファミレスに

連れ込み、いま私の目の前でメニューを

見ながら

「ここのチーズハンバーグ、無性に食べ

たくなったのよね~」

とほざいている獣

けの

むら

あおい

だ。彼…… と

は、黒いウルフカットに自作の黒いパー

カーと黒のサルエルパンツを身にまと

い、(お店で買ったという)黒の編み上

げショートブーツを履いているオネェ

性的な顔立ちと格好だからちょく

ちょく女性にも間違われるが、彼はれっ

きとした男性だ。『オネェ』と私は読ん

でいるが、彼曰く「アタシはタイで言う

ところのオ・カ・マ♡」なのだそう。

「ねぇ、みどりちゃんはパフェにする?

それともケーキにする?ほら、甘いも

のいっぱいあるわよ~~」

「じゃあ、イチゴパフェにする。もちろ

ん葵ちゃんがおごってくれるのよね?」

「えぇ。いいわよ!」

「………… イチゴパフェの大にする」

彼のこういうところが気に食わない。

いや、無理やり連れてきたのに、おごら

ないって言われたらそれはそれで怒る

けどさ。

「すみませーん!!…… イチゴパフェ

の大と~」

私は店員さんと話すのが苦手だ。それ

を知ってか知らずか、どこに行っても注

文は必ず彼がしてくれる。一緒に服を見

に行った時も、話しかけてきた店員さん

をうまくかわしてくれたり、試着の時に

話しかけられないようにすぐそばで待

っててくれるのだ。

「葵ちゃんってさー、なんでそんなに優

しいの?」

「えー?何よ急に」

頬杖をついた彼の薄い唇がきれいな

弧を描く。横顔しか見せてくれないのは

きっと照れているからだろう。

「照れてるの?」

「だって、いつもそんなこと言ってくれ

ないじゃない」

「まぁね。言わないけれど思ってはいる

んだよ」

「やぁだ、気持ちは言わなきゃ伝わらな

いのよ」

「ねぇ、はぐらかさないで答えてよ」

なんだか恋人同士の会話のようで笑

ってしまう。しかし、女性顔負けのばっ

ちりメイクをしている彼が相手なので、

全然甘い雰囲気にはならないのが、また

余計におかしい。女性よりも女性らしい

彼だから、彼が異性だということを思わ

ず忘れがちになってしまう。

「なんか、あんたほっとけないのよね。

ついつい構いたくなるのよ。初めて出会

った時からずっとね」

「えー?初めて出会った時って……

オリエンテーションの時のこと?あ

の日も初めて会ったのにここに連れて

きたよね」

あの日の彼も、そういえば強引だった

と思い出して私はため息をついた。

「あの日はね、気持ちが高まってたのよ。

話したかったんだもの。自己紹介の時か

ら絶対お近づきになりたいって思って

たのよ」

「私、そんな面白い自己紹介してなかっ

たと思うけど?」

「そういうことじゃないのよ。ソウルメ

イトを見つけた瞬間だったのよ。もうビ

ビビッと来たんだから」

『つまらないわ。こんなものを作ってく

るなんてどういうつもり?がっかり

なんだけど。あなたの力ってこの程度な

のね』

私が提出した作品を見て先生が言っ

た言葉だ。「つまらない」という言葉は

私を表すのにぴったりな言葉だと自分

でも思っている。ノリも悪いし、頑固で、

変に生真面目で、高校までの私は「ちょ

っと男子~、掃除ちゃんとしなさい

よ!」とリアルで言っていたようなTH

E委員長系の生真面目っ子ちゃんだっ

たのだ。

周りからは扱いづらい子認定され、ほ

とんど友達はできなかった。大学デビュ

ーとまではいかないが、少しは丸くなれ

たと思っていたのに…… やはり

根本が地味で、つまらなくて、頭が固い

子なのだなと痛いほど実感させられた。

自然と視線が下へ下へと下がってし

まう。

「そんなに下向いてると、肌がたるんで

垂れていくわよ」

「えっ!」

「そうそう。目を開いて、シャキッと前

を向いていなさい。アタシはあんたの作

品、好きよ」

「…… ありがとう」

葵ちゃんが珍しく、とても優しい声で

慰めてくれたものだから、今度は私が彼

から顔を逸らす羽目になってしまった。

彼は時折、こうして私が落ち込んでいる

と、必ず私の欲している言葉を的確に選

んで声をかけてくれる。だけど、その言

葉はご機嫌取りのためじゃない。心の底

からそう思っていることを声で、目で、

表情でしっかり表してくれるから、自分

を守るために無意識に作られた心の壁

を簡単に突き破って、体全体に温かさを

届けてくれる。

彼の言葉には嘘偽りがない。思ったこ

とをハッキリ言ってくれるし、変につく

ろった言葉を使ったりしない。そんな彼

だから私も気を使う必要がなく、楽に接

することが出来るのだ。まだ彼と出会っ

て二か月しかたっていないけれど、彼の

そばにいる時が他の誰といるよりも安

心できている。そんなことを本人に言っ

たら、

「あんた、アタシがオカマだからって油

断し過ぎよ」

って注意されるだろうけど、私は彼に絶

対的信頼を置いているのだ。

そういえば、彼がオカマになったきっ

かけとは何だったのだろう。いつ彼は気

づいたのだろう。自分の中にいるもう一

人の『自分』に。

「ねぇ、葵ちゃん」

「なぁに?」

「いつからその…… 化粧をしたり、」

「あっ、ねぇ!あそこのさ、入り口近

くの窓側のテーブル席に座ってる女の

人ってさ、硝子先生じゃない?ほらア

タシたちのクラス担当の」

私が少し踏み込んだ質問をしようと

した途端、葵ちゃんは急に話題を変え、

ぐっと私に顔を近づけると、目だけ女性

の方に向けながらこそこそとささやい

てきた。

「あ、確かに。私の作品をさっきコテン

パンに酷評した、イヤナセンセイダー

ー」

「あんた…… 根に持ち過ぎよ」

変ねぇ。と硝子先生を眺めながら葵ち

ゃんが首を傾げた。

「どうして?ここのカフェは大学か

ら一番近いし、先生が仕事の合間や勤務

時間後に来てもおかしくないと思うけ

ど」

「他の先生だったらね。でも硝子先生は

さっきの授業で終わりのはずなの。いま

五時でしょ?この時間はお子さんを

保育園に迎えに行っている時間だから

おかしいって言ってるのよ」

「詳しいね、葵ちゃん…… 」

「前に課題のことで質問があったから、

これくらいの時間に質問に行ったら他

の先生に、『青井先生はお子さんをお迎

えに行かなくちゃならないから、この時

間にはもう帰っちゃうのよ』って言われ

ちゃったのよ」

「へぇーー」

じゃあ、確かに葵ちゃんの言うように

おかしい。それに今日の硝子先生はなん

だか様子がおかしかった。いつもどこか

不機嫌そうでふてぶてしい態度の人だ

ったが、今日は本当に機嫌が悪いようだ

った。その機嫌の悪さに拍車をかける事

態を作ったのはこの私だ。何が気に障っ

たのかは分からないが、とにかく先生の

好みじゃなかったのだろう。私の作品に

物凄い批評を行い、全員の作品を見終わ

ると時間がまだ十分ほど残っているの

にもかかわらず、嵐のように部屋を出て

行ってしまった。

ふてぶてしい態度の先生だけど、いつ

も時間いっぱい授業をしてくれるきち

んとした先生だった。そんな彼女に一体

何があったのだろうか。

硝子先生の方に目を向けると、ガラス

越しに空をぼんやりと眺めている様子

が目に入った。そういえば私が提出した

作品のテーマは「ガラス越しの空」だ。

ガラス越しの空を見つめる彼女の目

にはどんな空が見えているのだろうか。

*シンデレラの心模様

三年前、私は就職を機に県外からここ

の地に引っ越してきた。県を一つまたぐ

とはいえ、帰ろうと思えば二時間弱で帰

れるところに実家はある。だが、思って

いたほど頻繁に帰ることはできなかっ

族と暮している人たちからは大人

のくせにとか、よっぽど家族に甘えてた

んだなとか言われ、寂しい思いを理解し

てもらえず、私は徐々に誰とも話すこと

が出来なくなり自分の殻に籠っていっ

ーパーまでの田んぼ道が地元と似

てる。

夕暮れ時になると田んぼ道の上をお

じいちゃん達がちらほら散歩し始める

ところも似ている。

低い建物の間から、遠くの山が見える

ところも似ている。

けれど、都心の方に首を伸ばせば、高

いビルが何棟も連なっているのが見え

てしまう。

ただ似ているだけ。ここは私の暮して

いた街じゃない。十階以上のビルは建っ

てないし、水道水も硬水じゃない。電車

は一時間に一本が当たり前だし、肩と肩

がぶつかってしまうほどの人数が駅に

集まることもない。

何もかもが違う。ここは私の街じゃな

こに住み始めて半年は、一週間に一

度地元が恋しくて号泣する日が必ずあ

った。それでも、気を病んで仕事を休み

はしなかった。それはきっと元彼のおか

げだと思う、その頃の私は、引っ越す前

から交際をしていた彼と遠距離恋愛を

していた。その彼はありがたいことに、

毎月一回は遊びに来てくれたので地元

の懐かしい匂いを運んでもらえた。

彼が帰る前には必ず号泣した。それは

大好きな彼が行ってしまうからではな

い。私が帰りたくてたまらない地元に帰

ることが出来るからだ。高層ビルも、新

幹線も、肩と肩がぶつかるほど人がごっ

た返すような駅もないド田舎に彼は帰

ることが出来る。それを想うと羨ましく

て、恋しくて、寂しくて涙が止まらなか

った。

彼は私が、自分と離れるのが寂しいか

ら泣いているのだと思っていたようで、

彼もボロボロともらい泣きをして別れ

るのが恒例になっていた。自分でも薄情

だと思うが、私は彼と離れ離れになるの

が寂しくて泣いたことは一度もない。そ

の頃にはもうすでに、彼への気持ちは冷

めきっていたのだろう。引っ越してきた

四か月後には彼と別れてしまった。

彼と別れてから、職場の友達に誘われ

街コンに参加した。別に、新たな恋をす

ぐ求めていたわけではないけれど、メー

ルのやり取りや夜中まで繋げていたビ

デオ通話がもうないんだ、もう地元の匂

いを運んできてくれる人はいないんだ

と思うと、少しだけ寂しくて、その寂し

さを少しの間埋めてくれる人を探すた

めに参加することにしたのだ。そこで出

会った三つ上の介護士が今の夫だ。

彼は、仕事場ではなかなか出会いがな

く、友達に誘ってもらって参加したよう

だった。話しているうちに意気投合し、

連絡先を交換して、その日はお別れした。

だが、その日のうちにすぐ彼から誘いが

来て、さっそく三日後にデートに行くこ

とになり、私たちはどんどん距離を詰め

ていった。誠実で、年上の余裕も感じら

れ、可愛げもある彼に、私はどんどん私

は彼に惹かれていった。初デートから何

回目かのお出かけの時に、結婚前提の交

際を申し込まれ、当時二十六になった私

は、周りの友達がどんどん結婚していく

のに少し焦りを感じていたので、二つ返

事でOKした。

その一年後、子供を身ごもった私は彼

と授かり婚をし、今年の一月に息子を出

産した。女としても母としても私はとて

も幸せだ…… と、出産してみんなに祝福

されていた時は本気でそう思っていた。

だけど現実は私の思い描いていた幸せ

とは程遠いものになった。

私の幸せをぶち壊したのは彼の母親、

つまり私の義母だった。彼女とは顔合わ

せの時に初めて会ったのだが、その時は

とても優しいお母さんというイメージ

で、私はこの人とならもめることはない

だろうと安心しきっていた。しかし、出

産を機に義母は豹変した。いや、仕事を

抜けられない夫の代わりに義母が

「あらー、ご両親も立会できないの……

でも一人で出産は不安よね。私が付き添

うわ」

と言い出した時からすでに少しずつ歯

車が狂っていったのかもしれない。

当初は自然分娩で出産する予定だっ

た。しかし、陣痛が来てしばらくした後、

私の容体は急変し、緊急で帝王切開に切

り替えることになり、自然分娩しか認め

たくないタイプの人間だった義母は、相

当気に食わなかったのだろう。ベットの

上で不快感や吐き気と闘いながら痛み

に震えている私に、分娩室に入る瞬間ま

でずっと義母は罵り続けていた。

「帝王切開ですって!?あんたは満

足に出産もできないの!?」

「甘えたこと言ってんじゃないわよ!」

「自分の体をきちんとコントロールで

きないなんて人として終わってるわ」

「どうせ生まれてきた子は長生きでき

ないわよ!」

痛みと気持ち悪さでその時は義母の

言葉をきちんと理解できていなかった

が、人間とは不思議なもので無意識のう

ちに記憶してしまうらしい。出産後も義

母の言葉が蘇ってきて、ショックと恐怖

でなかなか眠れなかった。私に罵声を浴

びせ続けていた義母は、自分が付き添う

と言ったくせに、出産を終えて病室に戻

るといつの間にかいなくなっていた。

一体どこで私は間違えたのだろう。ど

うして帝王切開に変わっただけでそこ

まで言われなくちゃいけないのだろう。

どこで私は義母の機嫌を損ねてしまっ

たのだろう。どこだろう、いつだろう…

… 。そればかりをずっと考えていた。

次の日の朝、授乳訓練を受けている時

にやっと夫が到着した。

「あれ?母さんは?」

「わかんない…… 病室戻ったらいなく

なってた。…… それよりさ、帝王切開で

うむことになったんだけど、お義母さん

気に食わなかったらしくてめちゃめち

ゃ怒ってさ。結構ひどいこと言われたん

だよね…… お義母さんって、私のこと嫌

いなのかな」

「え…… なんて言われたの?」

「満足に出産もできないのか。人として

終わってるって…… 」

「それはひどすぎるわ…… 何考えてん

だ、あの人」

本当に何考えているんだろう…… 。生

まれてくる自分の孫になんでそんなに

ひどいことが言えるんだろう。あんなに

優しかったのにどうしてしまったんだ

ろう。夫が到着した一時間後に両親もお

見舞いに来てくれ、同じことを伝えると、

母は激昂した。父も

「娘と孫を不安にさせるならうちに二

人とも連れて帰る。君はちゃんとお義母

さんと今回の件について話ができるか

い?」

と、静かに怒ってくれていた。夫も思っ

ていたより大変な状況になったと理解

し、すぐに義母へ電話をかけていたが、

夫に怒られるのを恐れたのか電源を切

っているようで繋がらなかった。

義母と話し合いができないまま息子

を生んでから二週間後、母子ともに健康

だということで、退院することになった。

仕事にもすぐ戻る予定だし、一応こっち

でとりあえず頑張ると両親を説得して、

帰ってもらった。

家に帰り、息子を腕に抱きながら玄関

の戸をくぐると、「あ、母になったんだ」

と今更ながら実感した。二人で暮らして

いた3LDKの家に、ポッとおなかの中

から新たな命が出てきて、そしてこれか

ら三人の新たな暮らしが始まっていく。

すごく不思議な気持ちだった。

それから義母のことなんて忘れてし

まうくらい忙しくて、それ以上に幸せな

毎日が始まった。仕事にすぐ復帰したか

ったので、昼は保育園に子供を預けて、

早く帰れるほうが迎えに行く、子供の容

体が急変したときはすぐに帰れるよう

にしたいと、あらかじめ会社に伝えてお

く、料理は私が、掃除洗濯は夫が行うと

いうルールを作って、共働きである私た

ちなりの育児生活がどんどん出来上が

っていった。

もともと喧嘩をしない関係だったが、

子供が生まれてからも特に喧嘩をする

こともなく、夫がとても協力的だったた

め、穏やかに過ごしていた。しかし、そ

んな平穏な日々は長くは続かなかった。

無視を貫いていた義母がある日ひょっ

こり訪ねてきたのだ。

「何しに来たんだ。硝子と息子にひどい

ことしておいて、今さら何の用だ。電話

にも出ないし、いったいなに考えてるん

だよ!!」

インターホン画面に映る義母に向か

って、夫は怒鳴り散らした。夫の声を聴

いて義母は一瞬ひるんだようだったが、

「だって、和

かず

くん

かず

くん

を盗ったメス豚

が最初から気に食わなかったのよ。大嫌

いだったの。これまで親切にしてやった

し、和君の子供だって生めたんだからも

う満足したでしょ?和君を返して

よ!!」

「いい加減にしろ!!警察に突き出

されたくなかったら、ここにはもう二度

と来るな。硝子にも息子にも二度と近づ

くなよ!」

夫は一方的にインターホンを切ると、

私に土下座した。

「申し訳ない!!」

「どうしてあなたが謝るのよ」

「あいつだったんだ…… 硝子が出産の

とき、容体が急変した理由」

「どういうこと?」

意味が分からなかった。妊婦の体の中

にはもう一人人間がいて、体調が急に変

わってしまうことなんてざらにある。あ

の日もそうだと思っていたし、子供も無

事に生まれたから特に気にしていなか

った。

ただ…… あの時、義母が「二人まとめ

て死ぬと思っていたのに」という言葉は

ずっと引っかかっていた。

「出産日の翌日、硝子に会いに行ったと

きにさ、俺硝子の病室に入る前、担当の

先生に呼び止められて、容体が急変した

ときのことを聞かされたんだ。そしたら

…… 」

「そしたら?」

「あの時の、硝子の症状はアナフィラキ

シーショック状態だったって」

「え…… アナフィラキシーショック?

でも私、小麦以外のアレルギーないよ?

病院は考慮してくれてるから出さない

し、私も小麦が使われている食べ物は持

ち歩いてないよ」

「あの日、何食べた?」

「普通に病院食だけだよ」

「何か母さんに食べさせられなかっ

た?」

「いやなにも…… あ、そういえば陣痛が

来たって時に、『長丁場になるだろうか

らおなかに何か入れときなさい』って何

かわからなかったけど、ぱさぱさしたも

の口に突っ込まれたかな」

「そのまま食べたの?」

「痛すぎてそれどころじゃなかったか

ら、お義母さんが見てない隙にベットの

下に吐き出しちゃった」

「多分それを看護婦さんが拾ってくれ

たんだ…… それ、クッキーだよ。きっと、

母さんが手作りしたやつ」

「え?」

夫は、そこで言葉に詰まったのか黙っ

てしまった。しばらく沈黙が続き、「も

う、終わったことだからいいよ」と、話

を切り上げようか迷いだした頃、すすり

泣く声が聞こえ、ギョッとして俯いたま

まの夫をのぞき込むと、彼は顔を

くしゃくしゃに歪めて号泣していた。

「小麦で作ったクッキーを…… わざと、

あいつが…… 二人まとめてころっ……

殺すために…… ごめん…… 本当にごめ

んなさい…… 」

言葉を失った。

私達親子を殺すため…… 。思い返せば、

義母の不思議な言動も、それならつじつ

まがあう。

だから、私に小麦アレルギーの致死量

を聞いたのか。

だから、何度言っても小麦が使われて

いるようなお菓子を用意していたのか。

だから、子供ができたと報告したとき

に、「おめでとう」とは絶対言わなかっ

たのか。

だから、「生まれてきた子は長生きで

きない」と言ったのか。

だから……

「なぁーーに、いいオンナが辛気臭い顔

してんの。そんなに眉間に力入れてたら

しわになるわよ」

「ちょっ、葵ちゃん!?」

葵ちゃんは急に何を思い立ったのか、

慌てている私をよそに、ずけずけと硝子

先生に話しかけに行ってしまった。私も

慌てて後を追うが、絶対よろしくない状

況だよね!?絶対関わんないほうが

いいと思うって!!

「…… 獣村君?…… と、蛭間さん…… 。

別に、あなたたちには関係ないでしょ」

「そーんな冷たいこと言わないでよ。な

に悩んでるの?」

「生徒であるあんた達に話すわけない

じゃない」

先生の目の前にしれっと座ると、ぐい

ぐい質問攻めしていく葵ちゃん。なんて

メンタルの強い人なんだろうか。

「だからよ。特別親しい仲じゃないから

こそ、相談できるものもあるんじゃない

生は長い溜息を洩らした。

「…… 仕方ないわね。でも、かなり刺激

が強いかもしれないわよ?」

「あら、楽しみだわ。オンナはいつでも

刺激を求める生き物なんですもの。ママ

友だと思って気軽に話してちょうだい」

「ママ友なんていないけどね」

硝子先生はそれから一時間ほど、県外

から単身赴任で私たちの大学に就職し

てきた話や、ご主人と結婚したときの話、

お子さんが生まれた時の話、そして……

義母から嫌がらせを受けている話を話

してくれた。

「盗聴されてるの」

「と、盗聴!?」

「お義母さんにってこと?」

「えぇ」

信じられない。自分の息子のお嫁さん

に、どうしてそんな真似ができるのだろ

うか。私の母が同じようなことを旦那さ

んにしていたとしたら…… 情けないし、

気持ち悪い。そしてきっと、何が母を壊

してしまったのだろうと切なくなるだ

ろう。

「主人に怒られてから、義母は私に直接

メールを送ってくるようになったの。で

も、そのメールの内容が変で、どうして

こんなこと知っているんだろうってこ

とばかりだったから、主人に相談して、

専門家に調べてもらったのね」

「そうしたら、出てきたってことです

か?」

先生は無言でうなずいた。そして、お

もむろにスマホを取り出すと、義母から

送られてきたメールの画像を開いて見

せてくれた。

『昨日の隆一君はいつも以上に夜泣き

がひどかったですね。耳が痛くなりまし

た』

『今日の夕食は和君に作らせたんです

ね。しかもビーフシチューなんて手の込

んだもの…… 和君がやけどでもしたら

どうするの?』

『今日は寝坊をして、和君のお弁当作り

忘れたそうですね。嫁失格』

つま先から頭の先にかけて電流のよ

うに寒気が走っていった。

「テーブルの下につけられてた。取らず

に様子見してる。家ではメールで会話し

てる…… でも、聞かれても困まらないよ

うな会話は普通にしてるんだけどね。急

に会話なくなったら怪しまれるだろう

と目が合った瞬間、先生は気まずそ

うに笑いかけてくれ、その瞬間に私も肩

の力が抜けて少し楽になった。握りしめ

ていた手の平には爪の跡がくっきりと

刻まれていて、それに気づいた途端ジン

ジンと鈍い痛みが押し寄せてきた。

「そんな…… 気を使って無理に笑おう

としないでください。辛ければ泣いたっ

ていいじゃないですか。こんな場でも我

慢しようなんてしないでください」

「みどりちゃん、それは変にプレッシャ

ーをかけるだけになってしまうわ。必ず

しも悲しい話をするときに泣かなけれ

ばいけないなんてルールなんてないし、

先生は涙を無理してこらえている風で

もないでしょ?」

どうして?誰だって嬉しいことに

共感してもらえたら嬉しいように、悲し

いことに共感してもらえたら、味方がい

るんだって安心するものなのに、なぜそ

れがいけないの?

先生の笑顔は辛そうだった。色んな悔

しさや痛みを我慢して今まで頑張って

きただろうに、こんな場でもまた我慢さ

せたくないって…… そう思ったから。

「そんなに落ち込まないでよ。ありがと

ね、心配してくれて…… そうよね、せっ

かく気持ちを吐き出す機会を作っても

らったのに、どうして泣けないのかしら

ね。引っ越してきたばかりの時は毎日の

ように泣いてたのに。やっぱり、土地が

人を変えるのかしら」

恨めしそうに空を見上げながら、頬杖

をついた先生は短くため息をついた。

「ここはやっぱり、私の街じゃない」

先生の心はずっと故郷にあるんだ。思

い出の中にある空をずっと見てるんだ。

「この街は、私に優しくない。よそ者扱

いして、全然受け入れてくれない。妻に

なったのに、母になったのに、全然幸せ

になれない。どうして…… どうして?」

「それは…… 」

「シンデレラってね、」

「え?」

それは、街のせいじゃないって言いか

けた時、隣からトンチンカンな話が飛び

込んできた。

「シンデレラってね、魔法使いのお婆さ

んのおかげでハッピーエンドになった

って思われてるじゃない?」

「それがどうしたの?」

「それって違うと思うのよね。アタシは

さ、ハッピーエンドになったのは、シン

デレラ自身の力だと思うの。だって、お

婆さんは舞踏会に行けるように身なり

を繕ってあげただけなのよ。そこで王子

様に気に入られて、義母たちに自分で意

見して、硝子の靴を取り戻して、ハッピ

ーエンドに持って行ったのはシンデレ

ラ自身じゃない。違う?」

「葵ちゃん、何が言いたいの?」

「先生、あなたの言う『妻』や、『母』

は所詮ドレスや靴と一緒なのよ。与えて

もらっただけじゃ幸せにはならないわ」

葵ちゃんは淡々と話した後、ググっと

先生に顔を近づけた。

「求めてるだけじゃ誰も変わらない。何

も手に入らないわよ」

射るような瞳が、先生だけじゃなく私

の心にも刺さった。

求めているだけじゃ誰も変わらない、

何も手に入らない。求めていたもの……

私も先生に何を求めていたのだろう。私

の作品を、認めてもらうだけ、褒めても

らうだけ、肯定しか求めていなかった。

先生の気持ちに対しても、泣きわめいて、

自分の不幸をもっと体全体で表して欲

しいって思っていた。

でもそんなの誰が幸せになるんだろ

定だけされてもきっと私は納得い

かなかっただろう。

先生に大泣きされていたら、きっと困

惑して何もできなかっただろう。

受け入れなくては。否定も肯定も、作

品を生み出したものとして、自分の力を

高めていくために。

じゃあ、先生を助けるにはどうすれば

いいのだろう。

ガランガランッ

ドアが乱暴に開けれられたことによ

って、ドアベルが大きく鳴り響いた。

店員も、私たちも、他のお客さんも一

斉に驚いて入り口の方を見ると、初老の

派手な衣服を身にまとった女性が、大股

でこちらに歩いてくるのが見えた。

ガタガタッと先生が慌てて立ち上が

る。

「ちょっとあんた!こんなところで

何やってるのよ!お迎えはどうした

の?まさか、和君に行かせたわけじゃ

ないでしょうね。嫁の役目はね、家庭を

守ること。育児も家事もすべて女がやる

もんなのよ!!」

初老の女性は私たちのテーブルまで

来ると、先生に向かってすごい剣幕で怒

鳴り散らした。

「すみません、お義母さん…… でも、ち

ょっと体調悪くて」

「言い訳すんじゃない!あんたの体

調なんて知ったこっちゃないわよ!

いいからやるの!」

先生がチラリと葵ちゃんに助けを乞

うような視線を向けた。私もつられて葵

ちゃんを見ると、彼は素知らぬ顔で優雅

にコーヒーを飲んでいた。

「ちょっと!コーヒー飲んでる場合

じゃないでしょ!?先生を助けてあ

げてよ!!」

「ダメよ」

「だっ、ダメってどういうことよ。先生、

助けて欲しそうに葵ちゃんのこと見て

たよ?」

「…… 」

小声で葵ちゃんに助けを求めたが、ぴ

しゃりと断られてしまった。その後も何

度か説得を試みたが、葵ちゃんは無言の

まま、先生の方をチラリとも見ようとは

しなかった。

葵ちゃんが助けてくれる気配はない

と悟ったのか、先生はうつむいてしまっ

た。その間も先生のお義母さんは先生を

大声で怒鳴り続けていて、さっきまで騒

がしかった店内はすっかりお通夜状態

となってしまった。

「ねぇ、聞いてるの?本当にダメな嫁

だこと。いつもなら保育園に向かうはず

なのに、全然動かないからおかしいと思

って来てみれば、こんなとこで油売って

るなんてね!」

「…… 」

「GPSもつけておいてよかったわ。あ

んた、何しでかすか分からないもの。ほ

ら、さっさと保育園行きなさいよ。和君

に謝罪することも忘れないでね。あ、私

には特上和牛のステーキでいいから。そ

れで許してあげるわ」

この義母、盗聴だけじゃなくGPSま

でつけてたなんて…… どこまでもいか

れてる。

義母が先生の腕をつかんだ瞬間、私の

中の何かがはじけ飛んで、とっさに体が

動いた。だが、グッと肩を反対側に引か

れ、後ろに倒れこんでしまった。

「いたた…… 何すんの!」

「あんたは何もしちゃダメ」

私の肩を引いた犯人、葵ちゃんが倒れ

こんだ私の顔を覗き込んで言った。ぶつ

ぶつと文句を垂れる私を起こしてくれ

ながら、葵ちゃんはボソッと

「悔しいけど、何もしちゃいけないの。

本当に先生のためを思うなら」

そうつぶやき、驚いて彼の顔を見上げる

と、耐えるように唇を噛み締めていた。

そうだ、さっきシンデレラは自分の力

でハッピーエンドを手に入れたって、葵

ちゃんが言っていた。先生も自分の力で

何とかしなきゃいけない。だから葵ちゃ

んは助けようとしなかったんだ。本当は

庇ってあげたい、言い返したいのを我慢

して先生の力を信じて待ってるんだ。

先生が運命を変える瞬間を。

「しは…… 」

その時、先生が小さな声でぼそッと何

かを呟いたのが聞こえた。

「は?」

「私は、お義母さんの道具ではありませ

ん!私は、和さんに選ばれて妻になり、

和さんの子供の母になりました。お義母

さんの言う通り、家庭を守らなくてはい

けません。なので、」

「お義母さんを訴えます」

さすがの義母も言葉を失ったようで、

店内にはしばらく無音が続いた。沈黙が

五分くらい続き、そろそろ無音過ぎて耳

が痛くなってきたと思っていた矢先、や

っと思考回路が復活したのか、義母がぎ

ゃんぎゃんと騒ぎはじめ別の意味で耳

が痛くなった。

「ふざけんじゃないわよ!!あたし

が何をしたていうの!!なんであん

たみたいな出来損ないに訴えられなき

ゃいけないわけ!?」

「陣痛が来ている時に私の口に放り込

んだもの、あれ小麦入りのクッキーだっ

たんですね」

「ど、どこにそんな証拠があるっていう

のよ!」

「隣のベットの妊婦さんが、私の口にあ

なたがクッキーを放り込むところ見て

いたそうです。そのあと容体が急変した

って先生に話してくれたそうですよ。ち

なみに、ナースコールしてくれたのもそ

の方です」

「…… 」

「盗聴器もあなたですね」

「知らないわ」

「『龍一君、熱出したんだってね。子供

の体調管理もうまくできないなんて、ほ

んと母親失格』っていうこのメール、こ

れは主人と口裏合わせてでっち上げた

嘘です。子供は熱なんて出してませんし、

そもそも私たちは子供の名前を教えて

いないのでお義母さんが知っているな

んてことありえないんです。それこそ、

盗聴でもされない限りは」

「そ、それは…… 」

「極めつけはご自分で自白したGPS

です。殺人未遂に加えて、プライバシー

の侵害、不法侵入、他にもいろいろあり

そうですね。これは数年で刑務所から出

てくることはできないでしょう」

あれだけ勢いのあった義母は途端に

しおらしくなってしまい、もじもじと体

をくねくねさせながら「だって」や「で

も」と言い訳し始めていたが、その姿は

ちっとも可愛らしいものではなく、むし

ろ見ているものの怒りを増幅させるだ

けだった。

「ねぇ、ごめんってば。謝るからさ、許

してよ。うち、お父さんなんて役に立た

ないし、年金暮らししてるからお金無い

の知ってるでしょ?お願いよ~、ね?

ほんの冗談のつもりだったんだってば」

「ほんの冗談で子供を殺されたらたま

ったもんじゃありません。こちらは本気

ですので、自分の考えが通ると思わない

でくださいね。それでは」

言い終えると先生は、固まっている義

母を無視して席に着きすっかり冷めき

ってしまったコーヒーに口をつけた。少

しずつ店内にざわつきが戻りだし、止ま

っていた時が流れていく。

たった一人、義母を除いて。

私の時が流れていく。ここに引っ越し

てきてずっと止まっていた時間。故郷に

帰りたくて泣いていたあの頃からずっ

と止まっていた時間。この地で結婚して

も、子供を産んでも、ちっとも自分の街

だと思えなかった。

ここは私の街じゃない。何度も何度も、

心の中で叫んできた。空の色も忘れ、太

陽の温かさも忘れてしまった。帰りたい、

帰りたい、帰りたい。

でも、気づいた。

私が本当に帰りたかった場所。

甘やかしてくれて、庇ってくれて、慰

めてくれる母の腕の中。

そこが私の帰りたい場所だった。

私はずっと甘えていただけ。いじけて

いただけ。私はもう、小さくてか弱い少

女ではない。太陽の光をただ探して、さ

まようだけじゃいけない。

私は妻になり、母になったのだ。

その称号を得られれば、自然となじん

でいくものだと思っていたけれど、それ

はとんだ間違いで、私はちっとも妻にも

母にもなれていなかった。助けてもらう

ことばかり考えて、戦うことをしなかっ

だまだ沢山困難は待ち受けている

だろう。これで終わりじゃない。私の物

語はまだまだ終わらない。やっとスター

トを切ったところなのだ。

コーヒーを飲み干しながら窓越しに

空を見ると、夕日が傾きかけているのが

見えた。橙色がどんどん朱色に染まって

いく。

もう大丈夫。私は、この街と生きてい

ける。

あぁ、やっと雲が晴れた。

「ねぇ、なんでシンデレラだったの?」

先生と別れ、カフェを後にした私たち

はゆっくりと、田んぼ道を散歩しながら

帰っていた。

「硝子先生、陰で『ハートが硝子のシン

デレラちゃん』って呼ばれてるのよ。彼

女、幸薄そうだし、メンタル弱そうじゃ

ない。実際義母にいじめられてたしね」

「そうだったんだ…… 。先生、なんかす

っきりしてたね」

「結局、自分の機嫌は自分でとるしかな

いってことよ。幸せになりたいなら、自

分で今の状況を変えるしかない。場所の

せい、人のせいにしたい気持ちもわかる

けど、まずはどうにかしようって行動し

なきゃ何も始まらないわ」

先生に言い負かされた義母は数分間

フリーズした後、煙のようにスーッと去

っていった。

あの時、葵ちゃんが加勢していたら、

私が止めに入っていたら、きっと先生の

あんな晴れやかな顔は見れなかっただ

ろう。私たちは、葵ちゃんが言うところ

の魔法使いであらねばならない。という

か、魔法使いの仕事をしたのは葵ちゃん

だけだったか…… 。

「葵ちゃんが先生の魔法使いだったん

だね」

「えー?何それ」

「葵ちゃんが先生に魔法をかけたんだ

よ。自分の力で幸せを手に入れられるよ

うに。…… あ、でも魔法にかかったのは

先生だけじゃないか」

「?」

「私も求めているばかりじゃなくて、私

が欲しい言葉や評価をもらえるように

自分の力で、見る人の心を奪えるように

もっと頑張らなくちゃね!」

求めているばかりでは何も変わらな

い。たった数か月の信頼だけじゃ、彼は

自分のことを話したいとは思えないだ

ろう。しかもいつから化粧をしだしたの

かなんて、気持ちの話なのだからかなり

センシティブな話だ。

別に知っても知らなくてもいい話題

で、そっとしておけばいいのではと頭で

は分かっているが、彼のことが知りたく

てたまらないと、ぐんぐん好奇心を膨ら

ましている私がいて、一向に収まる様子

がない。

同い年とは思えないほどの冷静さ、簡

単に心を許したくなる人懐っこさ、どん

な修羅場にも恐れおののかない強かさ。

一体、彼は今まで何を見てきて、どんな

ことを経験してきたのだろう。

「ねぇ、そんな怖い顔してどうした

の?」

葵ちゃんに声をかけられハッと我に

返った。気づけば先ほどいたカフェがも

のすごく遠くに見える。

「あ、ごめん。考え事してて」

「結構長く考え込んでたわね。何を考え

てたの?」

「んーー、葵ちゃんのことかな」

葵ちゃんがビクリと揺れた。

「やっだぁ。みどりちゃんたら、ほんと

アタシのこと大好きなんだから。乙女に

考え込ませるほどの魅力があるなんて、

アタシったら罪なオカマよねぇ」

数秒の沈黙の後、何を勘違いしたのか、

葵ちゃんは体をくねらせがら喜んだ。

「なーんか、勘違いしてるみたいだけど、

まぁいいや。オカマの発作には慣れまし

た」

「あ?」

「男隠してくださーい」

「あらヤだ」

こんな風に仲良く話していても、彼が

心の壁を崩してくれることはない。

カメラで写した空のように、彼の心模

様も写真のように映し出されればいい

のに。と思いながら、少し先をゆっくり

と歩く彼の後姿にカメラを向けた。

私の友人がタイで言うとこのオカマだった話

葵ちゃんにはモデルがいる。それが、この話を書き始めた時に出会った地元が同じ

の演劇つながりで知り合ったK氏だ。今の彼は、もう女性のような化粧をすること

を辞め、夢のために突き進んでいる青年になってしまっているが、初めて会った日

は葵ちゃんのように、女性なのか男性なのか分からない格好して私の目の前に現れ

も葵ちゃんと同様で心は男性、けれど可愛くなりたい、女性のような美しいメ

イクをしたい。と考えている男性だった。それがタイでいうところのオカマに分類

されるらしく、ツイッターの自己紹介でもそう名乗っていた。

口調までオネェを貫いていたのは、きっと演劇をしていたことの名残だろうなと

思っている。だから葵ちゃんはもろK氏なのだ。

もちろん本人に、キャラクターのモデルにさせて欲しいと了承を得ているし、作

品を読んでもらっている。

ちなみに、「ママ友だと思って気軽に話して~」という葵ちゃんのきめ台詞は、本

当に初対面でK氏に私が言われたことだ。

とんでもない奴がきた…… と思ったことを覚えている。

そして、誰もが気になるタイでいうところのオカマってなんぞやという話だが、

タイは性別の分類が二種類ではないらしく、女装が好きな男性、男装が好きな女性、

さらにそこで心は男性、女性というように個性によって性別が細かく分かれている

ようで、その細かく分かれている性別を大きくまとめるとK氏はオカマに分類され

るらしい。

硝子先生が感じていたこと、私が感じていたこと

彼女は、地元から離れて都会に引っ越してきて、その地で結婚し出産もしたとい

うのにいつまでも土地に馴染めない、受け入れてもらえない、だから義母にもいじ

められるし不幸なんだと考えていた。

彼女が感じていた気持ちは、そのまま私が感じていたものだった。福井から愛知

に来たばかりの頃、今までも頻繁に家族で来ていた街なのだからすぐに馴染めると

高を括っていたのに、実際は早く実家を出たくてたまらなかったのにすぐホームシ

ックに陥った。毎日寂しくてたまらなかったし、何もなくても気づくといつも涙を

流していた。

自分のことを自分で管理しなければならないし、病気になっても、家事が嫌にな

っても、誰も肩代わりなんてしてくれない。生きていくためにどんなに辛くても動

かなくてはならないという、絶望的な状況がさらに私の精神状況を悪くしていった。

夕日に照らされた田んぼ道を見て、故郷を想い涙するけれど、反対方向へ首を伸

ばせばきらきらと輝く高層ビルたちが見えてしまう。似ているけれど全然違う、こ

こは私の知ってる街じゃない。毎日そう思ってた。

硝子も結婚していなかったら地元に帰って、またそこで新たに先生として働こう

と思っていたことだろう。私も絶対福井で就職すると思っていた。

全然違う方言、周りも育ってきた環境が違う、話も中々合わない。友達作りも一

からしなくてはならない。

自分で選んで愛知に来たはずだったのに、心はずっと福井にある。福井に似てい

るところばかり愛知で探して、違いに気づいて絶望するということを繰り返してい

れど、硝子が言っていたようにずっと甘えていじけていただけだったのだ。

ただ、彼女のように何かきっかけがあって気づいたわけではなかった。毎日家事

と課題を繰り返して、自転車で少し遠出しては土地勘を掴んで、バイトをして色々

な人たちと知り合って、徐々に愛知に慣れていくことが出来ていった。

慣れようと思って慣れたわけではない。ただ毎日を生きることでいつの間にか寂

しさを感じなくなっていったのだ。

今思えば来たばかりの時も、この作品を書いた時も自立出来ていなかったのだと

思う。だからこそ実家に帰りたいと毎日のように泣いて、それなのにいざ帰れば今

度はもう自分の居場所はなくなってしまったように思え、またひねくれることを繰

り返してばかりいた。

しかし最近では、私がいない毎日が当たり前になった家族を見て、ここは私が帰

らなければならない場所ではなく、癒してもらう休憩場所のようなもので生きてい

く所はもう別にあるのだと感じることが出来るようになった。

私の時間は今やっと動き出したばかりなのだ。

漫画のようにスカッとさせてくれるヒーローなんて、現実には

そうそういなくない?

この作品はインスタグラムで、色々な体験談エッセイを読み漁っていた時に思い

ついた。中でも義母との戦いを書いた奥様方のエッセイが面白くて、何時間も没頭

して読んでしまうほどだった。

けれど、彼女たちのエッセイはあくまで体験談なので物語のように最後は必ずス

カッとするというわけではない。どれだけひどい仕打ちをされたとしても、インス

タでエッセイとして愚痴を垂れ流しすることしか、消化させる方法が見つからない

という場合の方が多い。

スカッとする結末を迎えられる人は本当にごくわずかだ。どういう人が報われる

結果を迎えているかというと、報復できる気力と自信がある人。決して自分の代わ

りに相手をコテンパンにしてくれるヒーローを見つけられた人ではない。いつだっ

て戦いに出るのは自分自身だけなのだ。誰も代わりに怒りをぶつけてくれることな

んてない。

自分の見方をしてくれるだろうと思っていた夫でさえ、義母と闘うとなると義母

の味方になるか、無関心を貫くかのどちらかがほとんどで味方になってくれる人の

方が少ないだろう。

自分を助けてくれるヒーローなんて現実ではほぼ存在しないのだ。自分で道を切

り開くしかない。

私が今回の作品で、葵ちゃんを絶対的なヒーローにしなかったのはそういう理由

があったからだ。

現実では誰かが自分の代わりになって戦ってくれることなんてほとんどない。で

も、知恵を貸してくれることはある。そして、何でもかんでも立ち向かわなくても

いい。自信がついた時、どうしても状況を変えたくなった時に動き出せばいい。

そう考えていた時に思いだした話が『シンデレラ』だった。

シンデレラは報復などは考えていなかったけれど、同時に今の状況を変える方法

も思いついてはいなかった。そこに魔法使いが手を貸したことで未来が大きく変わ

った。しかし、それは魔法使いが彼女を救ったわけではない。あくまで手を貸した

だけであって、未来を変えたのはシンデレラ自身の勇気と行動だ。

もし、魔法使いが継母たちに心を入れ替える魔法をかけていたとしたら、彼女は

幸せになれていただろうか、王子様の心を絶対に掴む魔法をかけていたとしたらも

っと自信にあふれた振る舞いができていたのだろうか。

二つとも答えはNOだろう。お話の中で、十二時の鐘が鳴ったら魔法が解ける、

と言われていたように魔法には期限があるのだ。たとえ、心に魔法をかけていたと

してもいつかは解けてしまう。そうなった時に、シンデレラ自身の心が変わってい

なければ、幸せな時を知っていた分今以上に辛い生活になってしまうだろう。

現実でも同じだ。誰かが自分の代わりに意見してくれたとしても、自分自身が変

わらなければ、得られた幸せなんて一瞬の魔法でしかない。

スカッとする物語は見ていて楽しい。けれど、やはりどこか夢物語の世界でしか

ないので「私にもこんなヒーローが現れてくれたら…… 」と虚しい気持ちのまま閉

じることになってしまう。葵ちゃんはヒーローではない。少し手を貸してくれるだ

けの魔法使いでしかないからこそ、読者の背中を押してくれる存在になるのではな

いかと思った。

そうやって少しでも誰かの、辛い現状を変えるきっかけになる物語になっていた

ら嬉しい。

経験談を話してるつもりだったけど、「あれ、これマウント取り

みたいになってる?」って気づいてすっごい自己嫌悪に陥った

りしない?

ここからはセリフに注目して解説していこうと思う。

119

p「そんな…… 気を使って無理に笑おうとしないでください。

辛ければ泣いたっていいじゃないですか。こんな場でも我慢し

ようなんてしないでください」

大学一年生の時、自身も小説家だという教授から「必ずしも辛い運命を背負った

キャラクターを泣かせなければいけない、なんてことは無いのだ」と教わった。

悲しくて、泣きたいかどうかは本人が決めること。確かに、「泣いていいんだよ」

と言われたほうが嬉しい時もある。全ては言い方の問題もあるのかもしれないが、

厚かましく泣いていいんだよ、辛いんでしょ、こんな可哀想な目にあって…… と大

して仲良くない人に言われたらどういうマウントの取り方だ?と警戒してしまう。

けれど、こういうことって自分自身もよくしてしまいがちなのだ。こういう言い

方をするというのは、寄り添いたいという気持ちが先走ってしまっているのだろう

なと、相手にも自分にも思う。

みどりちゃんが言っていたように、泣きわめいて不幸を身体全体で表してくれた

ら相手も自分も楽なのかもしれない。けれど、そうした自分の悲しみを相手が受け

入れられるかはまた別問題で、恥かき損になってしまったらまた嫌な思いをするこ

とになってしまう。

殻に閉じこもりたいわけではないけれど、自分の悲しみを人に共有するって簡単

なことではないのだなと常々思う。

120 「先生、あなたの言う『妻』や、『母』は所詮ドレスや靴と

一緒なのよ。与えてもらっただけじゃ幸せにはならないわ」

愛知県に来たばかりの頃、空気にも気候にも街並みにも慣れることが出来なくて、

私は毎週のように体調を壊していた。

「私を受け入れてくれないこの街は優しくない」

実家にいた時は早く自立したいと思っていたのに、いざ一人暮らしになると自分

の不安や失敗を環境のせいにして、解決することから逃げてばかりいた。

このまま誰かと結婚して、子供が生まれたら今度は誰のせいにして私は生きてい

くんだろうと、ふと考えた時このままじゃダメなのだと気づいた。

父や母と話したとき、母が私に

「ママもパパもレミが生まれて初めて親になったから、寂しい思いばかりさせてご

めんね」

と話してくれたことがあり、それがきっかけで気持ちの整理をつけることが出来た。

何もかも完璧にやることは無い。完璧だと思っていた親だって、私を育てるため

に試行錯誤してきたのだ。自分が住みやすいように生きて行けばいい。大事なのは、

腐らないこと。自分のせいにばかりするのもよくはないけれど、周りのせいにして

逃げて言い訳するのはもっと良くなかった。分からないなら知ればいい。知らない

場所で、踏み出す一歩はとても重たい。けれど、乗り越えてしまえば恐れるものな

んてなくなってくる。

周りのせいにしているうちは、誰のことも大切にできないだろう。確かに結婚し、

子供が生まれれば自動的に『妻』や『母』になる。けれど向き合うことから逃げる

人間には、本当の意味でその称号が馴染んでいくことは無いのだと思う。

久しぶりに会った幼馴染がオネェになっていた話エッセイ

「膨らんだ違和感って、何度針を刺してもキレイに消えることっ

てないのね」

硝子ちゃんが語っていた、地元の匂いを運んでくれる恋人は八歳離れていた、役

者をしている元カレをモデルにして書いたんだよね。

お付き合いしている時は誠実で、真面目で優しい方だと思っていたし、なにより

舞台で主役を演じている彼はとても輝いていて憧れだったの。でも、私はその憧れ

を好きだと勘違いしてたみたい。

一年ほどは上手くいっていたんだよ。けど、私が愛知県に引っ越してきて女子高

だったときには関わりがほとんどなかった、男の子たちと話すようになってだんだ

んと彼に違和感を覚えるようになってしまったの。その違和感がシャボン玉のよう

にどんどん膨らんでいって、嫌なところばかりに目が行くようになっちゃった。

そうなると、もう、ダメなんだよね。

その違和感っていうのがいわゆる価値観の違いってやつだったみたい。それは彼

だから無理だと感じたのか、私の経験不足だったのか今なら私も反省すべきところ

は沢山思いつくけど、まだ高校を卒業したばかりの私には耐えられることじゃなか

った。

「価値観が違う人とは絶対に上手くいかないよ」って母親から言われ続けていたか

ら、経験不足だった私は焦って答えを早く出し過ぎてしまったのかもしれないって

今でも考えるけど、違和感を感じた時に伝えても、「ごめん」って謝る割には行動し

てくれたことなんてなかったし、長い物に巻かれてしまう人だったから大事な時に

味方してくれないこともあった。

それは私が自分の脚本を舞台化する時に、演劇界隈の上の方とバトった時の話。

依頼をされて書いたのに、ご指摘というか難癖付けられてね。もちろん「あ、確

かにここは直さなきゃな」ってところは納得して受け入れたんだけど、要約すると

「小娘がしゃしゃってんじゃねーよ」ってことが渡した私の脚本に赤字でつらつら

と書かれてたの。今更辞めれないし、作品も守りたいから真っ白の縦書き便箋買っ

てきて、がちがちのお手紙を送ったのね。拝啓から敬具までほんっとにがちがちで。

まぁ、要約すると「こっちはそちらに依頼されて書いてるってのに、失礼じゃなー い?てか誰よ。小娘が名前も劇団名も出して真っ向から向き合ってんのに、あな

た名前も素性も隠してコソコソとアンチだけ書き込んでひどくない?」

って話なんだけど、二十二になってもこれは私間違ってなかったと思うの。実際

はめちゃくちゃ丁寧に書いてるから安心してね。当時は相手は私を知ってるけど、

私は誰に攻撃してるのか分からないって感じだったの。大人に相談しても助けてく

れないし、でも攻撃止まないし、だったら作品と仲間守るために私が動かなきゃっ

てなるじゃない。結果、謝罪に来てくれて仲直りはできたんだけどね。

でも、それを元彼は中二病だって言ったのよ。彼もその作品に出てる人だったん

だけどね。ほんと降板させればよかった。なーんちゃってね。

これは大きな話だけど、小さい話で言うとスプーンで食べ物を食べる姿がすごく

癖があるって言うか、私はちょっと生理的に受け入れられる食べ方じゃなかったん

だよね。初めて一人暮らしの家に呼んだことで発覚したことだったんだけど。

それらは全部価値観の違いってことだと思うから、きっと話し合いをしても別れ

が先延ばしになっていただけで、結局結末は同じだったんだろうね。

さっきも言ったように、少しでも価値観が違ったら上手くいかないかもって思い

だして、嫌になるってことが多かったんだけど、私の価値に会わないから拒絶して

しまうってことだから、それってとっても自分勝手じゃんね。

価値観が違うと感じたなら、すり合わせることをまず考えないと幸せになれる恋

も遠ざけてしまうってことに気づいたんだ。

どれだけ一緒に居る夫婦でも、自分以外は他人なんだからさ、同じ価値観の人な

んているわけないんだよね。それに男性と女性は全く違う生き物って言うしね。

本当の価値観の違いっていうのは、お互いの気持ちを説明しても理解し合えない

ことなんだよ。

その時初めて「これが価値観の違いってことなんだ」って気づいたんだよね。価値

観の違いって、どれだけ説明しても理解し合えない、気持ちが交わることがないこ

とだったんだなって思う。

価値観の違いをすり合わせることって、思いやりのアップデートのことなんじゃ

ないかなって最近感じてるんだ。

例えば、私は重い女って「めんどくさくて、自分勝手で一緒に居て疲れる人」だ

と思っていたんだけど、彼の考えは「自分のことをとても愛してくれる人」ってこ

とだったんだよね。それを聞いて、彼の考え方の方が素敵だなって思えたし、重い

女って言葉をマイナスな方で使わないようにしようって考えるようになったんだよ。

これもきっと価値観のすり合わせの一つなんじゃないかな。

言い方ひとつで捉え方も変わってくるじゃん。本当に大切にしたい人なら、どう

すれば気持ちよく受け取ってもらえるか、悩むものだと思うし傷つけてしまったな

ら謝ったり、次は違う言い方にしようって学んでいくと思うの。でも、それを理解

し合えない関係なら、一緒に生きていくことは難しいよね。

みどりちゃんと硝子先生の間でも悲しい気持ちを人に伝えることに関して価値観

が違ってたじゃんね。みどりちゃんは説明されてちゃんと硝子先生の気持ちを汲み

取ることが出来ていたけど、人間って自分が知らないことは共感ができない生き物

なんだよね。でも理解することはできるんだよ。相手のことを思うあまり、無理や

り共感しようとするから知ったかぶりになってしまいがちだけど、共感ってそこま

で重要なのかなって思ってる。

自分の意見に同調してもらえなくっても、理解してもらえるだけで十分幸せだと

思わない?

だって色んな意見もあるし、人生経験なんて人それぞれなんだから中々共感して

もらえることなんか少ないと思うよ。だから自分の気持ちを想像して、くみ取って

理解してもらえるだけでいいんじゃないかなって思う。

共感なんてなくても、十分な愛情だと思うんだよね。自分の意見とは全く違って

いたけれど、そういう意見もあるんだって理解ができる。それも価値観のすり合わ

せだよ。

違和感は膨れる前に話し合ってしぼませていかなくちゃいけない。そして本当に

幸せにしてくれる人は、違和感についてちゃんとすり合わせをしてくれて、自分の

痛みを理解してくれる人だと思うな。

膨らんだ違和感を何度も何度も割ろうとしても、増えていく一方ならさっさと別

れだけ告げて、次の幸せを考えたほうがいいんじゃないかなって思うよ。違和感が

消えなかったのはきっと自分だけのせいじゃない。相手が向き合ってくれなかった

せいもあるから、そんなことする人に最後の最後まで優しくしてあげるなんて、す

っごい損じゃない?

人の幸せを犠牲にして、自分だけが楽して幸せになろうとしている奴なんて暑い

車内に放置しすぎたミルクティーうっかり飲んで、三日くらい腹壊せばいいと思う

な。もちろん、私の知らんところで。

桜は『俺』に微笑む

生い茂る木々を見ながら俺たちは、き

れいに整備された坂道を登っていた。

「ねぇ、あれ鬼ゼンマイじゃない?」

「本当だ。でも、あれ食べれないんだよ

ね?」

「うん…… あ、でもその隣はゼンマイだ

よ!コゴメもよく見たらあるじゃな

い。いいなぁ、採って帰りたいなぁ」

いや、ここは大野城の敷地内だからま

ずいんじゃないかな…… 。

「まぁ、一応ここは大野城の敷地内だし、

採ったら罰せられそうだよね」

ちゃんには俺の心が読めるのだ

ろうか…… いや、俺がかなり子供っぽい

思考なだけか。さすがにそんなこと分か

りきっているわな。

そうこうしているうちに山頂に近づ

いてきた。やっとお城が拝める!

大野城を見るために、山を登る手段は

二つある。一つは大野城までの最短ルー

トである階段だ。ここは真桜ちゃんが

「この歳でこの階段はきついよ…… 」と

言ったのでもう一つの手段である坂道

を地道に上ることにした。

この坂道は階段に比べ、比較的なだら

かだが大野城まで遠い。俺は全然平気な

のだが、真桜ちゃんは息が上がっていて、

春先のまだ少し肌寒い気温にも関わら

ず、うっすらと額に汗をかいていた。

「あ!大樹

だいき

君見て、大野城見えたよ」

「本当だ。うわぁ、桜も満開できれいだ

っきまでしんどそうに坂を上がっ

ていたのが嘘のように、真桜ちゃんは子

供のようにはしゃいで大野城と桜の木

を何枚も撮っている。

俺はカメラを構えた。今日のために買

った一眼レフ。はらはらと舞う桜に包ま

れた彼女とお城。俺の腕がいいのか、被

写体が良すぎるのか、写真のコンテスト

にでも出せば、優勝できるんじゃないか

とも思える最高の一枚を取ることが出

来た。

「あらまぁ、ええ写真撮れたんやのぉ。

奥さん別嬪さんやがぁ」

「夫婦に…… 見えますか?」

「この写真見ればぁ、分かるわの。幸せ

そうやもん。写ってるこん人も、お兄さ

んも!」

そう言ってご婦人は軽く俺を叩くと、

大野城に続く石上の階段を元気に上っ

て行った。

「元気な方ね。七十は遠に超えてそうだ

ったけど…… 」

「ねぇ、真桜ちゃん…… ちゃんと籍を入

れようよ。真桜ちゃんは俺と二十四も離

れているから、もしもの時に重荷になり

たくないって言ってるけど、そんなこと

ないよ」

「駄目よ…… 私大樹君のお母さんくら

いの歳なんだよ?」

「俺の母さん六十五だし」

「そういうことじゃなくて…… 」

俺は今年で二十九。結婚を焦る歳だけ

ど、俺が焦っているのはまた別のことだ。

真桜ちゃんと早く結婚したい。事実婚み

たいな状況だとなんか結婚したって気

分になれないし、戸籍に理恵ちゃんがい

ないのはなんか嫌だ。本当の家族じゃな

いみたいだし。

「嫌だ。俺は、真桜ちゃんに何があって

も、俺に何があっても、家族としてそこ

に立ち会う権利が欲しい。真桜ちゃんと

歳を重ねて、真桜ちゃんの車いす押して、

真桜ちゃんと同じお墓に入りたい!」

「今はまだよくても、今に色んな所に行

けなくなったり、歩けなくなったりする

んだよ?そうなった時、まだ大貴君は

若くて元気なのに私の介護で人生棒に

振るなんてもったいないでしょ?」

「真桜ちゃんと一緒に暮らせない人生

の方がもったいないよ!こんなこと

ならもっと早く出合わせてくれればよ

かったのに、神様ぁぁぁぁ!!」

空気に何度もパンチしながら「神様こ

のっ、理不尽だこのっ、それでも神様か

っ!」とぶつぶつと文句を垂れていたら、

「わかった、わかった…… 負けたよ。帰

ったら市役所寄ろう?」

「え、ほんとに!?よっしゃああああ

あ!!」

俺は嬉しすぎて、気づけば人目をはば

からずに真桜ちゃんを思いっきり抱き

しめていた。

ふと、顔を上げると天守閣からさっき

のご婦人が顔を出し、こちらを見て微笑

んでいるのが目に入った。

ねぇ、真桜ちゃん。春になったら毎年

ここに来たいな。毎年一緒に坂のぼって

さ、今日と同じ場所で写真を撮って、家

の壁に飾っていくんだ。そうしたらきっ

と、俺と一緒に歳をとるのも悪くないな

って思えるかもよ。

桜にチューリップの花束を

登場人物大樹…… 真桜の婚約者(二十

九歳)介護士。

大樹N… 大樹のナレーション。

真桜…… 大樹の婚約者(五十四歳)バツ

イチ。介護用インテリアデザイナー。

現在は在宅で仕事をしている。

ご婦人… 大樹と真桜が福井県の大野城

を訪れた際に出会ったご婦人。

動画…… 大野城の説明動画のナレーシ

ョン

元夫…… 真桜の元夫

あらすじ小旅行として行った福井県か

ら愛知県にある自宅に帰ってきた大樹

と真桜。大樹は籍を入れることを渋って

いた真桜を説得し、やっと明日婚姻届け

を出せることを喜んでいた。しかし、夜

になって真桜は、また籍を本当に入れて

いいのかまた迷いだしてしまった。一度

結婚に失敗した自分がまた結婚しても

いいのか。そもそもなぜ籍を入れるのか。

大樹と真桜は『結婚』について改めて話

し合うことになる。

SEお茶をコップに入れる音

大樹「はぁー、やっぱ真桜ちゃんの作っ

たご飯が一番だよな。ほら、芦原

の旅館で食べた料理もおいしか

ったけどさ、真桜ちゃんの料理に

は敵わないよね」

真桜「大げさだよ。でも… ありがとう。

嬉しい」

真桜は、横に置いておいた明日出す予

定の婚姻届けを手に持つと、不安そう

に見つめた。

大樹「どうしたの?婚姻届け見つめちゃ

って…… もしかして、まだ迷って

る?」

真桜「うん…… 」

大樹「えー、さっきはいいって言ったじ

ゃん。それにさ、ほんとは帰りに

出す約束だったけど、真桜ちゃん

が疲れちゃって今日はまっすぐ

帰りたいっていうから、明日は日

曜日だし、一緒に出しに行こって

なったんでしょ?それで萎えら

れたんじゃ、たまったもんじゃな

いよ」

大樹は子供みたいに唇をとんがらせ

て不服そうに言った。

真桜「ごめん、ごめん。結婚したくない

わけじゃないの。気持ちはワクワ

クしてるし、凄く嬉しい」

大樹「じゃあ、なんで迷ってるの?」

真桜「うーん、大樹君と私は年が離れす

ぎてるし、それに…… 私はバツイ

チだし」

大樹「そんなの今更だよ。さっきも言っ

たでしょ?真桜ちゃんと歳を

重ねて、真桜ちゃんと同じお墓に

入りたいって」

真桜「でもッ」

大樹「真桜ちゃんと、一緒に暮らせない

人生の方がもったいない」

真桜「でも、男の人って熱しやすいし冷

めやすいじゃない。こんなおばさ

ん、すぐにさ…… 」

大樹「ふっ…… もう二年はつきあってる

んだけどなぁ」

真桜はマリッジブルーのようなもの

になっているのだろうと、大樹は真桜

の不安をすべて聞くことにした。

真桜「どうして別れるんだろうね。永遠

を誓って結婚したのに、好きだっ

たから結婚したのに、どうして好

きが消えてしまったんだろう」

大樹「前の結婚のこと?」

真桜「うん…… ごめん。こんなこと、大

樹君に話すべきじゃないのは分

かってるんだけど」

大樹「いや、いいんだよ。考えてみたら

俺、いっつも突っ走って、真桜ち

ゃんが気持ちを整理する時間と

か全部無視して強引に進めてき

たと思う。だから今こうやっても

やもやさせちゃってるんだなっ

て思うから、全部話してほしい

な」

真桜「大樹君…… 大樹君はどうして好き

が消えるんだと思う?離婚す

るまで追い詰められるんだと思

う?」

大樹「うーん、そうだなぁ…… 俺ね、好

きが消えても一緒にいられるこ

とはいられると思うんだ」

真桜「え?」

大樹「俺が介護を担当させてもらってる、

峯さんっていう可愛いおばぁさ

んがいるんだけどね。その人が前、

亡くなった旦那さんのことを話

してくれたんだ。だから、俺『旦

那んさんのこと好きだったんだ

ね』って言ったんだけどさ、なん

て返ってきたと思う?」

真桜「んー、わかんないな」

大樹「『好き… だったのかしら。家事も

子育ても全部私がやって、彼は

仕事一筋で全然帰ってこなかっ

た。浮気とかギャンブルはしなか

ったけどね。でも、恋人だったこ

ろの好きって気持ちはもうなか

ったわ』って」

真桜「じゃあ、なんで一緒にいれたんだ

ろ。好きの気持ちが消えてからも

一緒にいれるなんて…… 」

大樹「うん。俺にもわからなかった。だ

から、峯さんに聞いたんだよ。ど

うして一緒にいられたの?って。

そしたらさ、『ありがとうをちゃ

んと言ってくれる人だったから

かな』って」

真桜「え、それだけ?」

大樹「そう思うよね。会話はそれで終

わっちゃったから、なんでか聞け

なかった。だから俺、自分で考え

たんだ。それで…… 」

真桜「分かったんだ」

大樹「うん。多分、愛おしくなったか

らだと思うよ。家族として、人と

して。当たり前の日常の中で、感

謝することってついつい忘れが

ちだけど、お互い忙しく働いてい

る中で、心折れそうになっても

毎日、『ありがとう』って言われ

るだけで、この人のために頑張れ

る。家庭を守れるって愛しくなっ

たんだろうね」

真桜「『ありがとう』… か。言われなか

ったし、言わなかったなぁ。お互

いに、いつの間にかね。そっか。

感謝がないから相手にとっての、

自分の存在意義が分からなくな

ったんだろうなぁ」

大樹「どうして別れることになったか…

そんなに難しいことじゃなかっ

たね。結局夫婦って言っても、自

分とは違うんだから。友達でも、

恋人でも、同僚でも、感謝がない

人と付き合ってられないよね」

真桜「お互い様だったんだね。私にとっ

て彼への気持ちは好きから、愛し

さに変わることはなかったし、彼

にとってもそうだったんだろう

なぁ。… 運命だと思って結婚した

のにね」

大樹はむっとした。

大樹「運命の人じゃなくなったんだよ。

運命の糸がほどけちゃったんだ。

運命は変えられる。だから、真桜

ちゃんの運命の人は、今は俺な

の!」

SEガタンッと机が揺れる音

真桜「危ない、危ない!もぉー、そんな

… 身を乗り出して言わなくても。

あぁ、ほら。お皿に服ついちゃう

よ?」

大樹「だって、普通に嫉妬するし。前の

旦那を運命とか…… ねぇ、俺は真

桜ちゃんの運命の人?」

真桜「さっき自分で言ってたじゃない」

大樹「真桜ちゃんの口から聞きたい」

真桜「大樹君は、私の運命の人だよ」

大樹「ほんと?」

真桜「ほんと… ほら、おいで?」

真桜は腕を大きく開いて、大樹に抱き

しめてあげるよと言う合図を出した。

瞬時にそれを読み取った大樹は、ま

るで犬のように喜び机を避けて、桜の

腕の中へ飛び込んでくる。

SE小走りで、相手に抱き着いた音

大樹「ぎゅーー!!」

真桜「ふふっ…… 大樹君」

大樹「ん?」

真桜「私達、夫婦に見えるかな?」

大樹「見えるよ。だってね…… 」

SE木々がさわさわと揺れる音

SE鳥の鳴き声SE坂を上る靴の音

大樹N「あれは昨日真桜ちゃんと、

福井県の大野城を見に行っ

た時のことだった。俺達は

生い茂る木々を見ながら、

きれいに整備された坂道

を登っていた」

真桜「ねぇ、あれ鬼ゼンマイじゃない?」

大樹「ほんとだ。でもあれって食べられ

ないんだよね?」

真桜「うん… でも、隣はゼンマイだ!あ、

コゴメもあるね。いいなぁ採って帰りた

いけど、一応ここは大野城の敷地内だし

勝手に採ったら罰せられるよね」

大樹「まぁ、そうだねぇ。階段で登って

たらこういう発見もできなかっただろ

な。坂道の方にしてよかったね」

真桜「二つ上り方があって助かったよ。

運動部の子たちが体力づくりで

階段駆け上がってたの見たでし

ょ?若い子が体力づくりに使う

ような階段を、この歳で登るのは

きついよ… 」

大樹「真桜ちゃんは運動不足なんだよー。

普段在宅で仕事してるからって、

ちゃんと体は動かさなきゃだめ

だよ」

真桜「うーん、そうだね。これから毎日

お散歩しようかな」

大樹「いいじゃん。俺も休みの日は一緒

に行きたい!」

大樹N「和やかな会話を続けている

と、あっという間に大野城

の天守閣が見えてきた」

SE駆け出す靴の音。

大樹N「さっきまでしんどそうに坂

を上っていたのが嘘のよう

に、真桜ちゃんは子供みた

いに、大野城に続く満開の

桜並木の下を走っていっ

た」

真桜「大樹君!すっごく綺麗だよ!!」

大樹N「楽しそうにはしゃぐ真桜ち

ゃんに俺はカメラを向けた。

今回の小旅行のために買っ

た一眼レフ。はらはらと舞

う桜に包まれた彼女とお

城。俺の腕がいいのか、被

写体がいいのか、コンテス

トにでも出せば、優勝でき

るんじゃないかと思える最

高の一枚を撮ることが出来

た」

SEピッピッとカメラで撮った写

真を見返す音。

大樹は写真の中の真桜と、少し先で桜

を見ている真桜を交互に見た。

大樹「… 綺麗だよ、真桜ちゃん」

ご婦人「あっらぁ―― 、ええ写真やがぁ

奥さん別嬪さんやのぉ」

大樹は突然声をかけられたことに驚

いたが、失礼になると思い、冷静を

装ってご婦人に訪ねた。

大樹「わっっ!!…… 夫婦に見えますか

ね、僕ら」

ご婦人「あぁ、ごめんの… そりゃぁ見え

るって。幸せそうやもん」

SE背中を軽くたたく音

大樹N「ご婦人は俺の背中を軽くた

たくと、大野城に続く石垣の階段を

元気に上って行った。… 俺は今年二

十九歳。真桜ちゃんは俺の二十四歳

年上で、バツイチだ。一年前に同棲

を始めて、そろそろ籍を入れようよ、

と何回も言ったのだが、歳の差のせ

いか、一度結婚して失敗したせいか、

頑なに彼女は首を縦に振ろうとしな

かった。でもさ、真桜ちゃん…… 」

大樹「ねぇ、真桜ちゃん!… やっぱり

さ」

三秒の間SEお茶を入れる音

大樹「そういうことがあって俺はあの

時、やっぱり籍を入れようよっ

て言ったの…… はい、あったか

い緑茶です」

SEコトンッと机にコップを置く音。

真桜「ありがとう…… そっかぁ。そん

なことがあったんだ。嬉しいね、

人生の先輩にそういう風に言っ

てもらえると」

大樹「自分が気にしすぎてるだけで、

周りの人はそこまで気にしてる

ことじゃないんだよ」

真桜「… ねぇ、今日撮った写真見たい

な」

大樹「おっけ!ちょっと待ってて」

SEぱたぱたとカメラを撮りに

行く足音。そして足音が戻って

くる。

SE椅子を引いて座る音。

大樹「はいっ!ここを押すと写真が見

れるよ」

真桜「ありがとう。あ、一日目に行っ

た恐竜博物館からなのね。大樹

君、ここ行くのすごく楽しみ

にしてたもんねー」

大樹「福井と言えば恐竜だからね。一

度行ってみたかったんだ。いや

ぁ、感動したよね。スケールも

大きいし、大人でも楽しめるか

ら、いいね」

真桜「そうね。私も初めていったけれ

ど凄く良かった。あまり恐竜

とか興味持ってこなかった

んだけど、楽しかったなぁ。

あ、そう言えばね、大樹君

が気になってた電車ね、越鉄っ

ていうんだって。えちぜん鉄道

のことらしいんだけどさ、なん

と中にアテンダントさんが乗っ

てるらしいよ。最近映画にもな

ったんだって」

大樹「えーー、何それ気になる!今度行

ったときは越鉄乗ろうよ!」

真桜「すっかり福井好きになっちゃっ

て。いい街だったでしょ。私も

芦原温泉とか有名なところしか

行ったこと無かったんだけど

ね」

大樹「結構ディープなところも行けたよ

ね。片町とか、あと…… かつ丼の

…… 」

真桜「ヨーロッパ軒のこと?私たちは

さ、愛知だから味噌カツで育っ

てきたけど、ソースカツの方が

私は好きかも。甘いのにさっぱ

りしてるから胃もたれしなくて

よかった」

大樹「なんか新鮮だったよね。俺もソ

ースカツの方が好きかも。食べ

物本当に美味しかったなぁ」

真桜「あと、大野城と桜。あれ綺麗だ

ったなぁ。山の上にお城がある

っていいね。あ、撮れた写真パ

ステル画みたい。幻想的」

大樹「今調べたんだけどさ、大野城は天

空の城って呼ばれてるみたいだ

よ。ほら、これ紹介動画」

大樹は自分のスマホを真桜に渡した。

SEスマホの画面をタップする音

真桜が動画の再生画面をタップする

と動画が再生された。

動画「天空の城、越前大野城は越前大野

城の西、約一キロメートルにある

犬山の南出丸下から見ることが

できます」

真桜「へーー、綺麗だね。これ公式のサ

イト?」

大樹「そうそう。今度は天空の城を目的

に行くのもいいなぁ。まだまだ

お城あるみたいだし、そこもまわ

ってみたい。今までとほとんど

変わらないだろうけど、結婚する

ってだけでなんでこんなにワク

ワクするんだろう」

真桜は思い出していた。前の旦那と結

婚したばかりの頃は、結婚したという

ことだけで毎日が輝いていた。自分は

彼だけの人であって、彼も私だけの彼

になった。それだけで若い頃は幸せだ

った。

真桜「…… 大樹君。私、前の夫と別れた

理由さ… ちゃんと話してなかっ

たと思う

の」

大樹「うん… そうだね」

真桜「やっぱり、気になる… よね?」

大樹「まぁ… でも、聞いていいことかわ

からなかったし」

真桜「そうよね… 今更かもしれないけど、

聞いてくれる?離婚の原因は

ね、彼の不倫だった。恋人時代か

ら浮気がちな人だったんだけど、

優しくて気が利く人だったから、

私を一番に考えてくれているな

らそれでもいいと思って結婚し

たの…… 」

前の夫の回想(回想のセリフにはエ

コーをかける)

SE回想だとわかる効果音

元夫「真桜、ごめんな。結婚する前の火

遊びだから。結婚してからは家庭

一筋で頑張るよ」

元夫「真桜、これプレゼント。え?う

ん、なんでもない日だけど、たま

にはいいじゃん」

元夫「あ?結婚記念日?だから何だよ。

興味ないから」

元夫「おい。今日も遅くなる。昨日出し

たシャツ、洗ってアイロンかけと

けよ」三秒の間

真桜「若く結婚できたというだけで舞い

上がって、幸せだと思い込んで、

誰の忠告も聞こうとしなかった。

結局彼は不倫した相手と子供を

作って、別れることになった。た

った五年の結婚生活。最後の一年

は不倫の証拠をつかむために奔

走して、色々消耗した一年だっ

た」

大樹「でも、お金は沢山貰えたんだしさ、

相手にも色々制裁できたんじゃ

ないの?もうそんなに気に…

… 」

真桜「お金貰ったからそれでいいなんて、

そんなこと思えないわよ!!…

… 大樹君も知ってるだろうけど、

私は子供が出来ない体で、元夫も

それを承知で結婚したはずだっ

た。それなのに… ほかの女と子供

を作って。…… 結婚生活も短くて

子供のいない私には大した慰謝

料取れないし、取ったところで相

手はもう新しい家族を作ってて、

大した制裁にもならなかった」

大樹「…… ごめん。俺、何もわかってな

いのに偉そうなこと言った」

真桜「… 浮気は治らないって分かってた

… 友達にもやめとけって言われ

てたのに… 最初の頃にくれてた

プレゼントだって、ただのご機嫌

取りのためで、最後の方はもう妻

としても見られてなかった……

私、ただ幸せな結婚がしたかった

だけなのに…… 」

大樹「ねぇ、真桜ちゃん。俺と元旦那は

似てるかな?不安にさせたこ

とがあるなら全部言って欲しい。

真桜ちゃんが不安になるなら、俺

は飲み会にもいかないし、携帯だ

って見せるし、なんだってする。

それでも結婚に踏み込めないな

ら、明日市役所行くのはやめよ

う」

真桜「大樹君…… 」

大樹「でも俺は諦めない。真桜ちゃんと

結婚して、家族になること。だか

らいくらだって待つよ。真桜ちゃ

んが心の底から俺と結婚したい

と思えるまで」

元夫の言葉が蘇る真桜。(回想のセ

リフにはエコーをかける)

元夫「これ、今日の晩飯?ったく… 毎日

同じようなものばっかり作って

んじゃねぇよ」

元夫の言葉を思い出し、傷つく真桜。

真桜「ッ………… はっ!」

しかし、大樹に言われた言葉を思い

出し、はっとする。

SEきらきらとした嬉しい回想の効

果音。

大樹「今日も凄くおいしいよ!毎日作っ

てくれてありがと!」

二秒の間

真桜「なんだ…… 私、とっくに幸せじゃ

ん… 」

大樹「真桜ちゃん… ?」

真桜「とっくに幸せだった。いい歳した

おばさんなのに、物凄く甘酸っ

ぱい恋しちゃってさ。幸せ過ぎて、

幸せになりすぎて不安になった

だけだった」

大樹「そっか」

大樹は安心したという風に呟いた。

真桜「私は負け組なんかじゃなかった。

浮気癖は治らないよ。きっと今に

分かる」大樹「俺の知り合いも

不倫して奥さん奪ったけど、結局

自分も不倫されて逃げられたら

しい。因果応報ってやつだね」

真桜「奪った側が今度は奪われる側にな

っただけ。疑う側になっただけ。

… それに比べて私は、今度は心か

ら信頼できる旦那さんを見つけ

た。私の方が幸せになれた…… 絶

対」

真桜は誰と比べてかは言わなかった

が、大樹は理解していた。

大樹「俺…… 真桜ちゃんの、旦那さんな

の?」

真桜「奥さんにしてくれるんでしょ?明

日、朝一で出しに行こ」

大樹「…… !!…… 真桜ちゃん、ちょっ

と立って」

SEがたッと椅子を引く音。

SEスリッパで近づく音。

真桜「なになに?」

SE椅子を引いて立ち上がる音

大樹「目をつむって、ここにいてね」

SEぱたぱたと足音が遠ざかって

いく音

SE戻ってきて、床に膝をつく音

大樹「目を開けていいよ」

真桜が恐る恐る目を開くと、そこに

はチューリップの花束を脇に抱えて、

なにやら小さな箱を持った大樹が膝

まづいている姿があった。

真桜「えっ、大樹君!?」

大樹は小さな箱の蓋を真桜に向かっ

て開けた。

大樹「真桜ちゃん、俺と結婚してくださ

い」

真桜「… いいのかな。こんなおばさんが

ダイヤなんて貰っても… え?夢

なの?」

大樹「もー、夢じゃないよ。ほら、つけ

るから左手出して。あとさー、そ

れ今日何回言った?」

真桜「何が?」

大樹「自分のこと、おばさんって。真桜

ちゃんはおばさんじゃないよ。

きれいで可愛い俺の奥さんなん

だよ?次からは一回言うごとに

罰ゲームだから…… はい、凄く似

合ってるよ。明日は二人の結婚指

輪も買いに行こうね」

真桜は左手の薬指につけられた指輪

を幸せそうに見つめた。嬉しそうに

細められた目には涙が光っている。

真桜「綺麗…… ありがとう凄く嬉しい。

ごめんね、もう言わないから」

大樹「…… あと、これも。真桜ちゃんと

撮った写真、これからどんどん壁

に飾っていきたいんだ。このチュ

ーリップも、写真の近くにずっと

飾っておきたかったから、造花な

んだよね…… せい、かの方が… よ

かった?」

真桜「そんなことないよ、ずっと飾って

おけるほうがいいじゃん。ありが

とう。花瓶も良いの買おっか!…

でも、どうしてチューリップな

の?」

大樹「バラはありきたりだし、桜は木だ

し、チューリップと真桜ちゃん、

凄く似合うなって思ったんだ。あ

と、花言葉が気に入ったんだよ

ね」

真桜「花言葉?大樹君、花言葉とか調べ

たの?」

大樹「まぁね。ちょっと、笑わないでよ」

真桜「ふふっ、ごめんごめん。花言葉調

べてる大樹君が可愛すぎてつい。

それで花言葉は?」

大樹「八本のチューリップの花言葉は、

『思いやりに感謝』」

真桜「…… 思いやりに感謝か」

大樹「俺はね、好きが愛しさに変わって

も真桜ちゃんを好きな気持ちは

消えないと思う。でも、思いやり

が消えたら愛は消えてしまう。こ

れから先、喧嘩したときでも思い

出の写真や、チューリップが目に

入ったら思いやりを忘れずにい

られるんじゃないかなって」

真桜「大樹君らしいね。よく目に付くと

ころに写真もチューリップも飾

ろうね。…… それにしても、これ

いつから準備してたの?」

大樹「だいぶ前から…… 」

真桜「ずっと待っててくれたんだ」

大樹「まぁ、結局強引にいっちゃったか

ら、真桜ちゃんを悩ませることに

なっちゃったけどね。あーー、本

当は旅行中に渡したくてトラン

クに隠してたんだけど、タイミン

グ作れなくてさ… 俺、何から何ま

で締まらなくてホントかっこ悪

い… 」

落ち込む大樹を真桜は優しく抱

きしめた。

SE抱きしめる音

大樹「俺達、いい塩梅だよね。これから

もうまくやっていこ?」

真桜「うまくやっていく必要はないんじ

ゃない?沢山喧嘩もして、情けな

い姿も、恥ずかしい姿も、かっこ

悪い姿も、全部さらけ出せるのが

家族なんだから」

大樹「いいね、家族って… そっか、明日

市役所に行ったら真桜ちゃんと

家族になれるのか」

真桜「そうだよ。後数十時間後で、私た

ちは家族」

大樹「まだ全然実感わかないけど、なん

だろ、すっごく胸が熱い。真桜ち

ゃんは?凄く冷静だけど」

真桜「手、あててみる?」

真桜は大樹の手を取ると、自分の

胸にあてた。

SE少し早めの心臓の音

大樹「真桜ちゃんも凄くドキドキしてる

… ほんとにさ、不思議だよね。ど

この学校でも被らなかった俺た

ちが、突然ぱっと出会って、ぱっ

と結婚して、家族だよ。感動もの

だよね」

真桜「…… ねぇ、写真撮ろ?明日はバタ

バタするだろうし、このまま指

輪とチューリップも一緒に映し

たいから」

大樹「そうだね!… じゃぁ、撮るよ」

大樹はカメラを自撮りモードに変え、

写真を撮った。

SEシャッター音とれた写真を見る

二人。

大樹「おっ、いい写真。… 真桜ちゃんっ

てさ、パステル画みたいだよね」

真桜「どういうこと?」

大樹「淡くて儚いのに、決して薄れるこ

とがない美しさを持ってるから」

真桜「もう…… この写真を真ん中にして、

他の写真も飾っていこ?」

大樹「いいね。ここの壁がどんどん思い

出で埋まっていくのが楽しみだなぁ」

真桜「写真が増えたら、周りの他の写真

は季節や色で統一して、コロコロ

変えていくのも面白そう」

大樹「いいね。色々遊べそう。… 結婚っ

て、ゴールじゃないっていう意味

がやっと分かった気がするよ」

真桜「ゴールじゃなくて、幸せを追い続

けるためのスタートなんだよ。

きっとね」

写真を見ながらふふっと笑った真

桜の横顔を見つめる大樹。

大樹N「ねぇ、真桜ちゃん、パステル色

の写真たちがいつかセピア色

になった時、俺と一緒に歳をと

るのも悪くなかったって思え

たらさ、それは正しく…… 愛だ

よね」

いつか優しい彼に戻ってくれる… って、そんなこ

と考えちゃう時点で洗脳されてると思うよ

『桜は俺に微笑む』の続編が『桜にチューリップの花束を』ということで、二つ

一気に解説させてもらおうと思う。

この作品の主人公カップルである二人にはモデルがいる。それはドラマ『あなた

の番です』のキャラクター、手塚菜奈、翔太夫妻だ。このドラマにハマり、初めて

女性が年上という歳の差カップル作品を書いてみたいと思い作った作品だった。

また、この作品を書いた時丁度二十歳

の誕生日を迎えたばかりで、ずっと憧れ

のままだった『結婚』というものが、も

う人ごとのものじゃないんだなとふと

考え、作品にすることで深く考えるきっ

かけになるのではないかと思った、

結婚するとはどういうことなのか、結

婚にこだわらなくてもいい世の中で、そ

れでも結婚を選ぶ理由にはどういう気

持ちがあるのか、結婚をテーマにした作

品はこの後も何度か書くことになるが、

今でも分かっていない。

今読んで見返してみると、生活感がな

い作品だなと思う。まだ、他人と暮すと

はどういうことなのか知らなかった頃

の作品で、憧れだけの幻想で書いたもの

なんだ

なと分かる。けれど、この時の作品が一番男性への憧れが自分の中で強いのかな

と思った。

物語の中だけなら年下わんこ系彼氏も悪くないって思っちゃう

私は年下の人とお付き合いしたことがないし、お付き合いする姿も想像できない。

友人には次恋する時は年下の方がいいんじゃないと何度か言われても、やっぱり年

上の人とお付き合いしてしまうから、今はまだ年下の魅力は分からないなと思って

いる。けれど、『あなたの番です』や、自分で書いた作品の年下わんこ系彼氏がこの

世に居たら、とってもかわいいんだろうなと思う。でもきっと、年下とか関係なく

大樹君のように恋人のことが大好きでたまらない、という人に憧れていて自分の願

望を詰め込んだ存在が大樹君なのだと思う。だから、今までの作品の中で、一番好

きな男性キャラはと聞かれたら大樹君と答えるだろう。

思えば、この作品までは自分が想像した男性キャラクターばかり書いていた気が

する。全てこういう人がいてくれたらいいなという願望の詰めこまれたキャラクタ

ーたちで、読み返すとこんな人には出会ったことないと笑ってしまうような、優し

くて愛に溢れた人たちばかりだ。

この作品以降に出てくる男性キャラと大樹君の違い

先ほども書いたが、大樹君にはリアリティがない。理想や想像だけで書いている

ので、少女漫画に出てくる男性キャラのようだと自分でも感じてしまう。しかし、

それが別にいけないというわけでもなくて、こういう夫婦がいたらいいな、私もこ

んな風に愛されてみたいな、という願望を形にした作品なので、共感よりも私のよ

うに「大樹君みたいな彼氏が欲しいな」と、ときめき重視で読んでいただけたら嬉

しいなと思っている。

なぜ、「大樹君が女性が書いた、理想の男子像」でしかないのか、と言うと現実の

男性で、大樹君のように素直な気持ちをすべてさらけ出してくれる人は中々いない

からだ。

男性はプライドが高いイキモノなので、素直に甘えたり不安を口にしたりするこ

とは難しいらしい。だから彼女側に察してくれと言う難しい謎解きをいつもいつも

ぶつけてくるのだろう。大樹君のように何が不安で、何に傷ついて、自分は今それ

を聞いてどう思っているか、と言うのをはっきり口に出してくれる彼氏は珍しいだ

ろう。

もっと気持ちを分かりやすく言ってくれたら、こっちだって不安になることない

のに…… と私だって歴代の恋人に何度思ったか分からない。男性は基本的に自分の

気持ちを素直に表現しない、ということに気づいてからは大樹君のような男性キャ

ラクターを書くことが無くなったな、と感じる。

大樹君は、『性別だけ男性にした中身が女性のような彼氏』なのだ。だから、男性

ってこういう感じだよね、という共感が生まれるリアリティさがないのだろう。

結婚と恋愛の違いって、トキメキがあるか無いかなの?

私が色々な人とお付き合いしていく中で、結婚と恋愛の違いとは何かを考えた時

に、出てきた結論は一瞬の好きが愛情に変わっていくかどうか、ということだった。

顔が好き、しぐさが好き、匂いが好き…… 恋が始まるときは何かしら一つの好き

から始まっていくと思うが、それだけでは長続きすることが出来ないと分かった。

長く付き合えば、一緒に暮らしていけば嫌でも嫌いなところが見えてくるし、喧

嘩も多くなる。しかし、嫌いなところも愛おしい、昔好きになったきっかけの部分

が時を重ねるごとにどんどん好きになっていく、と感じれるようになればずっと出

会った頃と変わらないトキメイタ気持ちのままで過ごしていけるのではないかと考

えている。

しかし、気持ちだけではどうにもならないこともある。私は結婚していないが、

恋人と一緒に暮らす経験を二回しているので、普段の生活は結婚生活となんら変わ

らないと思っているのだが、その日々は愛があればなんとかなるというものではな

には「ありがとう、愛してる」という言葉だけでは、乗り越えられないしんど

さに襲われることがある。言われないともっと腹が立つけれど、言われたら「だか

らなんやねん、言葉じゃなく代わりに家事やってくれよ」と荒んだ気持ちになって

しまう時もある。

他人と暮すというのは本当に大変で、それでも成り立っていけるというのは奇跡

的なことだと思う。別々の家で暮らしている時より、気を使わなければいけないこ

とばかりで、お互いが同じ未来を見ていることと、お互いを思う気持ちが同等レベ

ルでないとやっていけない。

ただ好きな気持ちだけでやっていくには、心にも体にも負担がかかりすぎる。お

互いのリスペクトと理解、そしてやってもらったことに対する、行動で示すお礼が

必要になってくるのではないかと考える。

そしてそこまでしたいと思えるということが、好きから愛おしさに変わったとい

うことで、この変化こそが結婚に必要なんじゃないかと思う。

「桜は俺に微笑む」「桜にチューリップの花束を」エッセイ

想像と全く違うこと言うイキモノだから、一緒に暮らすのが楽し

いのよ

インスタグラムを見ていた時に、男の人は一度相手を好きになったら女性みたい

に何度も自分の気持ちを確かめる時間を作らないって記事が出てきたのね。

確かに女性は、っていうか私はよく自分の気持ちとか振り返ることが多いんだよ。

相手のどこを尊敬しているのか、どこが好きなのかってね。きっとパートナーより

も振り返る頻度は高いと思う。

それは相手への気持ちを確かめるためにしていることじゃなくて、私は相手への

感謝や尊敬を忘れて、自分勝手な行動をとらないために考えてるんだよね。あと、

単純に好きな人の好きな部分を考えるの楽しいじゃん。少し、気分が落ち込むよう

なことがあったとしても、彼のことを考えると気分上がってくるんだよね。

でもさ、こっちがいくらルンルン気分で出迎えたとしても、気分の高低差が激し

すぎて酔っちゃうくらいの失言をかましてくるのが「彼氏」というイキモノ。

自分が想像していた答えの斜め下か、それ以上の言葉の二択しかないと思う。

異性と暮すのってホントに大変ってつくづく思う。ちょっと言い方間違えると拗

ねちゃうんだもの。

例えば、お風呂掃除。排水溝が詰まったら一々私を呼ぶくらいなんだから、掃除

なんてできるわけないと思うじゃない。「俺がやるよ」って言ってくれるのは嬉しい

けど、「やり方分かんないでしょ?私がやるからいいよ」と言ってしまうのよ。

でも、そういうこと言っちゃうとプライド傷ついてシャッター閉じられちゃうの。

きっと「わかんないでしょ?」がダメだったんだろうね。私の気持ちとしては、心

が荒れてるからさ気に食わない掃除されたら、感謝の気持ちよりも先に文句言って

しまわないように自分で済まそうとしただけなんだけど、男心って東大の入試より

もきっと難しいよ。

ストレートにならない言い方で、なおかつ回りくどくならない言葉を毎回探さな

きゃいけないからさ、物書きの語彙力を毎回試されてる気になるよね…… 。

「桜に~」の二作品は、どちらも同棲を経験する前に書いた作品で男性への憧れ

が詰まってる、って解説したし私の話を聞いてると本物の男性と暮すってなんてめ

んどくさいの?って思う人もいると思う。同棲って全然楽しくないじゃんってね。

そんなこともないのよ、実際。

そりゃ、一緒に暮らしていないカップルに比べたら揉めることも多いけど、それ

以上に一緒に暮らせることで幸せと思えることが多いんだよね。

毎日毎日爆発してる寝ぐせ、少しずつ増えていく彼の私物と、玄関に飾っている

二人の思い出の品、寒いなって目を覚ました瞬間にタイミングよくかけ直される毛

布、日々のお礼にハーゲンダッツを買ってくれたとき…… 。

え、それだけで幸せ?って思うかもしれないけど、同棲のだいご味は『好きな

人と毎日を共有できること』だからね。特別なことなんてほとんど起こらない。

でも、好きな人と暮せるってだけで充分特別じゃない?私も彼も他の人とは一

緒に暮らせないけど、私達だったから上手くいってるなんて充分過ぎるくらい特別

だと思うんだよね。

いや、お前一度別の人と暮したことあるやろがいって絶対つっこまれそうだから

弁解するけど、前回は決して上手くいってたわけでは無かったんだよ。上手くやっ

ていただけで。

自分の意見と違うことを言ってくれるから一緒に居て楽しい、なんて思えるのは

相手も自分の意見を受け入れてくれてこそのことなんだよ。お互いの気持ちを尊重

し合える関係じゃないとそんなこと思えないよね。

同棲してた元カレとは、一年付き合って一度もお家デートというものをしたこと

が無かったんよ。二週間に一度デートに行く以外の休みは、ほとんど別行動。一週

間のうち、二人の時間なんてデートの日を除くと三、四時間あるか無いか…… 。さ

すがに寂しくてね。外にデートなんて毎回行かなくていいから、たまにはお家デー トしてもっと一緒に居る時間を作りたいって言ったことがあったんだけど、それに

対して返ってきた答えは

「どうして君のために生きなきゃいけないの?」

だったのね。

結局彼のそういう考えは別れる間際も変わることなんてなくて、むしろもっとひ

どくなっていったから、今こういう結果になってるわけなんだけど。

答えになってない答えを出したり、どちらかに我慢を強いる意見の押し付けを続

けてしまったら、他人と一緒に生きていきたいと思える楽しさなんて消えてしまう

に決まってるよね。

まぁ、そんな意見のすり合わせが出来ない彼は、同棲まで持ち込むのが手馴れて

たから今頃もう既に別の宿木のもとで暮らしてるんじゃないかな。きっとそこでも

同じことを繰り返して、いろんなものを傷つけていくんだろうなって思うよ。

知らんけど。

大樹君たちみたいに、意見が違ったら落ち着いてお茶でも飲みながら話し合うの

はめちゃくちゃ理想だけど、現実は凄い険悪ムードだったりする。

でも、自分達を振り返ってみてもそうだし、友達カップルを見ていてもそうだけ

ど、意見のすり合わせをたまにはしておかないと、心が潰れていく気がするんだよ

ね。それが出来ない人とはたぶんいくら一緒に居る時間を重ねていったとしても、

きっと一生自分を犠牲にしながら生きていくことになるんじゃないかなって思うよ。

その見極めがしやすいのが同棲だと思うから、私はすぐしちゃうんだけど今回は

すごく慎重に検討して同棲したのね。転がり込んできてそのまま同棲じゃなくて、

きちっとお金のこととか家事のこととか話し合った上での同棲だから私にも彼にも

同じだけの責任が発生するのね。つまり生活していくことに関して平等ってこと。

前回はそういう決め事とか一切なかったから、二人で生きていくって感覚が彼の

中に生まれなくてあんなことを言われたんじゃないかな。

そうだとしても許されるような言い分じゃないけどね。

大樹君みたいな人に憧れてた。こんな人に愛されたいと思って、真桜ちゃんみた

いに幸せな同棲生活を送りたいと思って失敗した。現実はそんなに甘くないからさ、

常に激辛料理に挑戦してる気分で毎日ひぃひぃ言うしか生活しか送れなかったけど、

今はちょっとだけ憧れてた生活に近づいたんじゃないかなって思う。

たまに愚痴を吐きたくもなるけれど、それ含めて楽しいなって思うからそれが大

樹君の言う好きから愛しさに変わった瞬間なのかもね。

私はデジタル写真しかとらないから、セピア色に変わった写真を見ることは無い

かもしれないけど、歳をとってしわしわになった手をつなぐ相手が彼だったらいい

な、とは今のところ思ってるよ。

人生の墓場

お経が流れてくる。

明転

舞台中央、二人の男性が手を合わせて目

を閉じている。しばらくするとお坊さん

のお経が終わり、二人は目を開ける。

弟おれ、二人のことあんまり覚え

てないんだよなぁ。でも、どっ

ちも優しかった。父さんは働き

者で、お金も俺たち二人でもや

っていけるくらい残してくれ

たし、母さんは料理が上手かっ

た…… 気がする。何作ってくれ

てたかはもう覚えてないんだ

けど。

兄母さんは、肉じゃがが得意だっ

たよ。父さんが好きだったから

な。

親戚Aが近寄ってくる。

親戚Aあら?あなた達大きくなっ

たわねぇ。二人が亡くなったと

きはごめんね、力になってあげ

られなくて。こんな十二年越し

の法事で言われてもって思う

だろうけど、あの時は私の子供

もまだ幼かったから本当にご

めんなさい…… でも元気そう

で安心したわ。

そこに親戚Bが鬼の形相で近寄ってき

て、親戚Aの腕を強引に引っ張ろうとす

る。

親戚Aいたっ!?急に何するの

よ!

親戚B離れなさい!そいつらは殺

人犯の息子たちだぞ!

親戚A殺人犯?何を言ってるのよ。

子供たちの前で、そんな冗談不

謹慎よ。

親戚Bお前知らないのか?この子

たちの母親は、父親に精神的に

追い詰められて自殺したんだ。

父親が殺したようなもんじゃ

ないか。

親戚Aなんてこと言うの、子供の前

で!!ごめんなさいね、この

人無神経なところあるから…

弟父さんは…… 父さんは、人を殺

すような人じゃない!殴っ

たりしてるとこなんて見たこ

とないし、とっても優しい人だ

った!

親戚Bじゃあなんで母親は首を吊っ

たんだ?〝優しい〟お父さ

んだったなら、病んでいくお母

さんを支えることが出来ただ

ろうに。それとも…… 兄貴がや

ったのかな?

弟あんた、言っていいことと悪い

ことがあるぞ!

兄もうやめましょう!俺はせ

めてあっちの世界では二人に

安らかに過ごして欲しいと思

っているんです。だから二人の

前では、この場では収めていた

だけないでしょうか。

兄は弟と親戚Bの間に立ち、頭を下げる。

弟兄ちゃん…… 。

親戚Bチッ…… おい、帰るぞ。いつ化

けの皮がはがれるんだろうな。

カエルの子はカエルなんだよ。

親戚Aと兄と弟は親戚Bを残し離れて

いく。

弟は舞台上に一人残り、スポットライト

に照らされる。

親戚Bだってなぁ、誰だっておかしい

と思うぜ。犯人がいまだに捕まら

ないってことはまぁわかる。けど、

母親が亡くなった日に親父まで

強盗に襲われるなんてそんな話

あるか?それに窓ガラスが割

れたり、父親と強盗の争う音とか、

聞こえてなかったなんてありえ

ないだろ。十二歳と八歳。協力す

れば、大人一人殺すことなんてた

やすいだろ。はぁ、考えたくない

が、あそこの家族は全然親戚の集

まりにも顔出さなかったし、なん

か不気味で疑わざる得ないんだ

よな…… 。

親戚Bはため息をつきながら帰ってい

く。

机といすが二つずつ用意してあり、兄は

椅子に座っている。

弟は兄を見つめながら話始める。

弟兄ちゃんはいつだって優しい

おれのことを小さい頃から守

ってくれていた。嫌味な親戚や、

興味本位で近づいてくる輩。お

れは無鉄砲で考えなしに動く

からいつも兄ちゃんに迷惑か

けちまう。そんなおれに比べて、

兄ちゃんは本当に完璧な人な

んだ。本当に…… 本当に。

明転

兄の座っている向かい側に弟も座る。

弟兄ちゃん、ごめんな。何言わ

れたってほっとけばいいの

に、変に突っかかっちまって

…… 。でもおれ悔しかったん

だよ。父さんや、兄ちゃん悪

口言われるの…… 。

兄分かってるよ。お前が言って

くれなかったら俺が言って

たかもしれない。お前はいつ

だって俺の意識を正してく

れるんだ。本当に俺は恵まれ

てるよ。

弟兄ちゃん…… 。

兄…… なぁ、引っ越さないか?

田舎の方に行って誰にも会

わないところで二人…… い

や、三人か?暮らしていか

ないか?

弟急だな。おれはいいけど、兄

ちゃん仕事どうするんだよ。

人にもあまり会わないって

ことは、仕事見つけるのも大

変になるんじゃないか?

兄仕事に関しては何とかなる

さ。今はリモートワークだっ

てできるし、貯金もそれなり

にある。いくらだってやって

いくことが出来るさ。

弟そこまでしてなんで引越し

したいんだ?別にここで

もやっていくことが出来る

だろう?今までだってや

ってこれたんだ。それにせっ

かく父さんたちが残してく

れたこの家を手放さなくた

っていいじゃあないか。

兄でもな、ここにいれば一生父

さんたちの死を感じながら

生きていきあなきゃいけな

いんだぞ?母さんは風呂

場で首釣って、父さんはリビ

ングで泥棒に殺されていた。

こんな負が溜まっている家

で、子育てなんかできないだ

ろ?俺達、親になるんだ

ぞ?

弟…… それもそうか。生まれて

くる子に悪影響かもしれな

いな。

弟、お腹を愛おしそうに撫でる。

兄だろ?早速明日にでも不

動産屋に連絡しなきゃいけ

ないな。

弟あ、でも!この子が生まれ

る時まで待ってくれよ。病院

だってどうするか考えなき

ゃいけないのに…… 。

兄あ、あぁそうだな。病院で産

むって手もあるけど、家で産

むこともできるんだぞ?

家で産むんだったら引っ越

しを先にすることもできる

んだけどな。

弟、カチンときて兄を睨みつける。

弟あのさぁ、兄ちゃん。おれ身

重だよ?兄ちゃんには分

からないかもしれないけど、

体重いし、お腹を傷つけない

ように毎日冷や冷やしなが

ら生活してるしてるんだ

よ?引っ越しってなった

ら重い荷物運ばなきゃいけ

なくなるし、掃除だってし直

さなきゃけないでしょ?

それって妊婦にとってどれ

だけ負担になるかわかる?

兄なんだよ、その言い方。俺は

お前がよりいい環境で子供

を産めるように考えてやっ

てるのに。

弟ごめ、にいちゃ…… 。

兄大体、お前はいつもそうだ。

いつも自分ばかりが辛い思

いをしているとばっかり思

ってる。そんなわけないだろ

うが。俺だって毎日毎日働い

て、お前を養っていけるよう

に辛い思いをしながら戦っ

てるんだ。何を妊娠しただけ

で大げさに騒いで。お前は俺

がいなきゃ何もできない馬

鹿のくせに。

弟兄ちゃん、もうやめて!!

おれが悪かった、悪かったか

ら許して…… 。

兄何が悪かっただ。絶対分かっ

ていないだろう。お前は何も

分かっていないんだ。来い!

お前は悪い子だから、ちゃん

としつけてやらなきゃいけ

ない。

弟やめて、やめてよ兄ちゃ

ん!!

兄は弟の手を引っ張り、無理やり風呂場

に連れていく。

兄しばらくそこで反省してろ。

俺がいいというまで出てき

ちゃいけないからな。もし破

ったら…… わかるよな?

弟はい。

兄は風呂場から離れていく。

弟だけにライトが当たる。

弟兄ちゃんは少し前から怒ら

せたら、謝っても許してくれ

ず、ねちねちと責め立て、こ

うして躾をしてくるように

なった。なぜだろう。俺は兄

ちゃんがこうなると、もう足

がすくんでうまく話せなく

なる。怖くてたまらなくなる。

一体、どうしちまったんだ。

…… 俺は、昔こういう夢を何

度も見た気がするんだ。その

時は兄ちゃんじゃなく…… 。

ガシャン!と何かが壊れた音がした

と思えば、続けざまにも沢山の、壊れた

音が聞こえてくる。

弟兄ちゃんが暴れているんだ

な。おれと喧嘩して閉じ込め

たあとはいつもこうなんだ。

おれは本当に悪い子なのか

な。おれ、もう成人してるの

に、いつまでも全然自立でき

なくて…… だから兄ちゃん

を怒らせちゃうのかな。なん

でおれうまくできないんだ

ろ…… 。

ライトは移り、机に座る兄にスポットを

当てる。

兄これじゃダメだ…… だんだん

あの人に似てきている。こん

なことならもっと早くにどう

にかするべきだった。でもそ

んなことを考えたって遅いん

だよ。俺達は父さんたちが死

んで二人っきりでやってきた。

なんで父さんは死んだんだ?

そう、強盗が殺したから。誰の

せいでもない強盗がやったん

だ。

いつからこうなってしまった

んだろう。いつからあの人は変

わってしまったんだろう。気づ

いた時にはもう母さんは父さ

んの奴隷だった。助けてあげた

かったけど、俺はあまりにも無

力で、俺も母さんと同じ、父さ

んのストレスのはけ口になっ

ていた。母さんの笑った顔はも

う思い出せないし、父さんの優

しい顔も思いだせない。ただ、

ガラガラと家族の絆が壊れて

いく音だけは今でも耳にこび

りついて離れない。

父親と母親、そしてキャバ嬢のような謎

の女性が出てくる。謎の女性は机に座

り、父親と母親の様子をにやにやと笑い

ながら見ている。

母どうして…… どうして?私

はあなたとの子供を産みま

した…… しかも男の子を産み

ました。なのにどうしてこんな

ことをするんです?私はあ

なたに精一杯尽くしてきまし

た。どんな扱いされても、耐え

てきました…… なのに、これは

あんまりです…… 。

父息子を産んだ?それがどう

したっていうんだ。お前の子供

なんて、大した人間にならない。

俺の血が半分は言っていると

はいえ、男は母親の遺伝子を多

く得るというのだから、出来損

ないに決まっている。

謎の女やっだぁ、本当のこと言っちゃ

可哀そうよぉ。

ねっとりした声で女は母を嘲笑した。

父いいんだいいんだ。俺に生意気

な口をきくから悪いんだよ。

母本当に…… 、

父あ?

母本当に…… あなたの子供なん

ですか?彼女が生んだ子は

あなたの子なのですか?騙

されているんじゃないんです

か?

謎の女失礼ね!正真正銘彼と私の

子よ!

母は謎の女の肩を掴んで激しく揺らす。

母なら!証明してください!

ちゃんと調べて、彼の子だと証

明し

てください!!

謎の女もうっ!うっとうしいわね。

彼の子だって言ってるでし

ょ!?

謎の女は母を突き飛ばす。

謎の女ねぇ!どうしていつまで

こんな女置いておくのよ。さっ

さと離婚すればいいのに。

父離婚すれば世間体が悪くなる

だろうし、それに家政婦は必要

だろ?

母家政婦!?私はボランティ

アであなたと結婚生活をして

いるわけじゃないのよ!ひ

どいわ…… 昔はあんなに優し

くしてくれたのに。

私はあなたと子供のために一

生懸命家のことを毎日毎日休

まずやってきたのに、あなたは

…… 私を家政婦だと?しか

も大切な息子のことは出来損

ないだなんて、屈辱的だわ…… 。

父お前の屈辱なんてどうだって

いい。お前だって離婚したくた

って俺がいないと暮していけ

ないだろ?俺はお前のこと

を愛してないが、この娘には家

事なんてさせられないし、俺も

したくない。ウィンウィンと行

こうじゃないか。

母…… そもそもどうして彼女を

うちにあげたんですか?あ

なたが不倫していて彼女の家

をもう何年も行き来していた

のはなんとなく気づいていま

した。それだけならまだよかっ

たんです。なぜ、私たちの家に

彼女をつれてきたのですか?

謎の女に奥から出てきた弟がくっつく。

弟お母さん、この人はだぁれ?

ねぇねぇ、いつお家帰るの?

謎の女この人はね、家政婦さんよ。こ

れからあなたはここでお父さ

んと暮していくの。私はもう一

緒に暮らせないけれど、大丈夫

ね?

弟…… うん、わかった。

母一緒に暮らす!?あなたの

子供なんでしょ?自分で育

てていきなさいよ!

謎の女うるさいわね!あんたが頭

のいい子産まなかったから、ど

うしても下ろさずに産んでく

れってこの人に頼まれたの

よ!八年よ?八年も私が

あんたの旦那の子供を面倒見

てあげたの。感謝されることは

あっても、怒鳴られる筋合いは

ないわ!

母、この子供も愛を与えられなかった被

害者なのだと悟る。

そこに兄が小学校から帰ってくる。

兄ただいま…… 誰?何事?

母おかえり。あのね、悪いんだけ

どその子を連れてちょっと遊

びに行っててほしいの。あなた

の…… 弟よ。

母は、弟を指して兄に優しく語りかける。

兄…… わかった。ほら、僕と一緒

に公園いこう。

兄は弟を連れて家から出ていく。

母あの子を受け入れましょう。う

ちの人の過失なら、家族で責任

を取るしかないのですからね。

でも、もう二度とあなたはここ

に来ないでください。あの子は、

私たちの子供として育ててい

きますから。

謎の女はぁ!?何を偉そうに。不倫

された女のくせに。

母子宮だけを利用された女に何

言われたって怖くありません。

所詮、あなたは妻になれなかっ

た女なのよ。

父おい!彼女に向ってなんて

ことを…… 調子に乗るんじゃ

ないぞ…… !

母もう、出てってください。

兄は扉の外で、やり取りをこっそり聞い

ていた。

兄にライトが当たり、兄は部屋の中心に

戻ってくる。

兄あの日から弟はこの家で暮ら

している。まだ小さかったし、

父さんと母さんがいっぺんに

亡くなってしまって記憶が混

乱したのだろう。周りも母親と

父親が亡くなったんだよとい

うし、家に母さんの写真がなか

ったのもあって、俺達の家族関

係に何の疑問も持たず成長し

てくれた。…… そもそも、俺達

が本当の兄弟なのかも怪しい

けれど。

兄は風呂場にいる弟の元へ行く。

兄…… ごめん。またやってしまっ

た。

弟大丈夫!今は夏だし、涼しく

てちょうどよかったよ!

兄怖い。俺も、あいつみたいにな

るんじゃないかって…… 。

弟あいつ?

兄いや、なんでもない…… 。もう

一回ちゃんと話し合いをしよ

う。

二人はテーブルのところに戻ってくる。

兄さて、俺からの提案だけど、さ

っきも言ったようにこの家を

手放してどこか他のところに

引っ越さないか?もう親父

たちの法事も十三回忌までや

ったんだ。もう二人に縛られる

ことなく、俺達の幸せを考えて

この家から離れたほうがいい。

親が亡くなった家に居続ける

必要なんてないって。

弟おれは別に気味が悪いとか、住

んでていやな気持になったこ

とは一度もないよ。確かに縁起

は悪いのかもしれないけど、今

までも普通に暮らしていけた

し、せっかくここでのびのびと

暮しているのに、他の地に移っ

て一から環境になれなきゃい

けなくなるほうがやっぱりス

トレスかな。

兄そう…… かもしれなけれど、俺

は引っ越したい。ここから一刻

も早く引っ越したい。

弟そんなになの?なんで?

何か悪口とか色々言われて

た?おれ、全然気づいてあげ

られなかった?

兄そうじゃないけど…… 。

弟もしかして、ここ売らなきゃい

けないくらいお金なくなっち

ゃった?前々からやばいの

かなってなんとなく思ってた

けどさ。

兄いや、お金のことは全然気にし

なくていいけど。なんでやばい

かもって思ったんだ?

弟ほら、前までは家政婦さんいた

ろ?けど、いつの間にかいな

くなってたし、それってやっぱ

りお金が心配だったからかな

って…… 。

兄は、弟が誰のことを言っているのかす

ぐ理解し、目を見開く。

兄その…… 家政婦さんのこと、ど

こまで覚えてる?

弟んー― 、とにかく優しかったか

なぁ。それくらいしかわかんな

い。でも、不思議なんだけどさ

母さんは亡くなったんだって

思うと、どうしても家政婦さん

の顔を思い浮かべてしまうん

だ。それに…… 。

兄それに?

弟いや…… あーー、まぁいいか。

なんか小さい頃から変な夢を

時々見るんだよ。ほんとに変な

夢なんだ。

兄どんな夢なんだ?

弟なんだよ、そんなに気になる?

仕方ないなぁ…… 。怒るなよ?

夢なんだから。兄ちゃんが、父

さんに怒鳴られたりする夢。兄

ちゃんは、そのあと父さんを殺

しちゃうんだ。リアルすぎて、

今でも跳ね起きるよ…… 兄ち

ゃん?兄ちゃん、どうした?

兄は両手で顔を覆い狼狽している。何か

をぶつぶつとつぶやきながら、

徐々に

弟に近づいていき、弟の首を締め出す。

弟ちょっ!やめ…… やめて!

苦しい!!赤ちゃんも……

死んじゃ…… !!

兄一緒に死のう…… お前が見た

のは、夢じゃない…… 夢じゃな

いんだ…… 。

弟嫌だよ…… 死にたくない。おれ、

兄ちゃんの赤ちゃん、産みたい

…… !兄ちゃん、お願い、パ

パになってよ。おれと兄ちゃん

の宝物、ちゃんと産ませてよ…

… 。

兄…… !!

兄ははっとして弟から離れる。弟は一気

に空気を吸い込んだことでせ

き込んで

しまう。

兄ごめん…… ごめん…… 。

弟兄ちゃん…… 。

兄あの日、寝る前に父さんたちが

言い争ってる声を聞いたんだ。

でも、いつものことだったから、

俺は布団を深くかぶってすぐ

寝てしまった。でも、夜中に喉

が渇いてキッチンに行ったら、

父さんが酒飲んでで、「母さん

は?」って聞いたら、「風呂場」

って答えたんだ。こんな遅く

に?って思ってのぞいたら、

そこで…… 首吊ってたんだ。

弟風呂場で…… 。

兄そこからはもう…… 親父が動

かなくなるまでめちゃくちゃ

に殴って、そんで気づいたら偽

装工作してた。絶対捕まらない

ように。お前を一人にするわけ

にはいかないから。そしたら思

ったよりもうまくいってしま

って…… 警察も十二歳の子供

なんか疑いもしないし、目撃者

とかもいなかったから迷宮入

りになってくれた。

弟冗談だろ?ねぇ、冗談だよ

ね?俺の夢の話にノッてく

れただけだよな?兄ちゃん

は誰も殺してない!兄ちゃ

んは…… 。

兄カエルの子はカエルなんだよ

…… でも、その子にはこんなこ

と言わせたくない。だから、俺

行くよ。

弟どこに?

兄決まってるだろ、警察だよ。

弟嫌だ…… 一人にしないで。行か

ないで!

兄俺は馬鹿だった。ずっと、逃げ

てたってどうしようもならな

いのに。家を変えたって、住む

土地を変えたって、殺した事実

は変わらないのに。俺は、父親

になるんだから、ちゃんと罪を

償いたいんだ…… 。

弟兄ちゃんは…… いつも勝手だ

よ。

兄ごめんな…… でも、愛してるよ。

愛してる…… だから、待ってて

くれるか?

兄は弟の手を取り、指を絡めぎゅっと握

ると微笑み、手を放して家を出ていく。

弟にライトが当たる。

弟夢ならいいと思ってた。全部

夢だと思いたかったんだ。お

れさえ黙っていれば、今まで

通りやっていける。だけど、

もういいかなって。夢だって

ことにして、言ってしまった

らどうなるんだろうって…

… 。言わなければよかったっ

て、何度も考えてしまう。言

わなければ、このまま幸せに、

楽に暮らせていけたのに…

… あぁ、こういうとこだよな

ぁ。おれも十分カエルの子だ

よ。兄ちゃん、おれ達やっぱ

兄弟だな。

暗転。

火のないところでも勝手に煙は立つと思わない?

この作品は、戯曲の授業で『昔話を現代版で訳し直したら』というテーマの元書

いた作品だ。

私が取り上げた作品は『雪女』だ。雪女の伝説には雪山を歩いていた人が何かを

女性の妖怪と間違えたことから噂が広がり、それからは山で亡くなった人は雪女に

殺されたのだと囁かれるようになった。そして今では世界的に有名な妖怪へと進化

し、子供たちにも恐ろしく悲しい妖怪として語り継がれるようになった。

噂は時に本物を作り出してしまう。

この作品は私の恨みつらみが詰まった、一番の暗い作品と言えるだろう。何を調

べることなんてない。ほとんどが私の経験した話で出来ている。

正直、私はこの作品を解説することを辞めようと思っていた。この作品を解説で

きる自信がないと思ったからだ。この作品は、初めてのBL作品であり私の憎しみ

が詰まりすぎている物語なのだ。

解説するには重すぎる。実際授業で私の作品を読んだ同級生は気分を悪くしたほ

どだ。だからこの作品に関しては今までのように堅苦しい解説を経て、砕けたエッ

セイに移行するという形式ではなく、エッセイと解説の中間のような話を語らせて

もらおうと思う。

そこまでしてなぜこの話を取り上げたいのかって?

私にとって、DVを受けた経験というのが、ただの悲しい記憶ではなく人生にお

いてとても大きな起点になる出来事になってしまったからだ。

火のない所でも煙は立つ、と私が考えるようになったのは自分のSNSにいわゆ

る、アンチという人物から匿名で誹謗中傷を書き込まれてからだった。

けれど、誹謗中傷は私に対してのものではなく、当時付き合っていた彼に向けた

コメントを私のアカウントに書き込んでいたのだ。

正直かなり精神的に来る出来事だった。私も彼も、誰かに誹謗中傷されるような

ことをした覚えなどない。

沢山の先輩方に相談し、犯人は誰だろうと探すことになったが結局出てきた結果

は、「大学の同じサークルだった誰かだろう」という憶測どまりのことで、未だに解

決はできていない。なのでアカウント名から呟きのスクショとツイートをURLに

変換したものも残している(ニヤリ)

攻撃されるような心当たりはないが、相手にはいい年こいてSNSで一生残るよ

うな馬鹿な呟きが出来ちゃうくらい、何かが溜まっていたのだろう。だったら直接

私に確認しにくればいいのに、と思うがそれが出来ていないから火のないところで

も勝手に煙が立つ、という状況が出来てしまったのだろうな。

私の「火のない所でも勝手に煙は立つくない?」という持論を聞いた友人は、

「要は、山火事なのか野焼きなのか、事実確認をしろってことでしょ?」という

的を得ていそうで解説が難しそうなコメントをしてくれた。うん、言いたいことは

なんとなくわかるよ。ありがとね。

きっと友人が言いたかったことは、周りにアナウンスしなければならないような

大事なのか、それとも大したことない話なのか、自分の目でしっかり事実確認して

から真実を話さなければ認識が違うということが起こってしまうよね、ということ

だろう。

例えが難しすぎでもうわかんないよ、って言う人もいるかもしれないが友人君、

私は君の意見とても気に入っているよ。

ここまでが、雪女を取り上げようと思った裏話だ。

ただ、ここであえて言わせてもらうならば、SNSで攻撃されたことは私にとっ

てそこまで辛い出来事ではないのだ。この時の心情は、

「これがアンチってやつ?やばーい、芸能人じゃーん」

って感じで、大変だったのは犯人捜しをする際に、味方側の人達の嫌なところを

沢山見てしまったことだけで、意外とこの事件でダメージは受けていない。

残念だったね。

『人生の墓場』エッセイ

私の話を聞いたうえで、「ちょっとした冗談もDVだって騒ぐタ

イプ?( 笑) 」ってバカにするやつは、道徳心胎内に置いてきたん

かって思う

私はさ、我が強いし意思もはっきり伝えられるタイプだから、DVなんて他人事、

物語の中だけの話だと思ってた。だけどね、自信とか自尊心とかそれなりに持って

たとしても、ことごとく踏みにじられて、底が抜けた砂時計のように少しずつ少し

ずつどこかへ流れて行ってしまうのが、モラハラDVの怖い所なんだなって、経験

者になってやっと気づけたかな。

彼と出会ったのは、まだ十代の頃で初めに言ってしまえば一年ほどお付き合いし

ていた人だった。付き合い始めた頃は本当に優しくてね。どこに行くにも一緒で、

私を大切にしてくれる素敵な彼だと思ってた。

その『素敵な彼』が覆ったのは、交際一か月を迎えたくらいだったかな。結構早

いと思うじゃん。でも彼も、その次に付き合った彼も少しモラハラ気味の人だった

んだけどそういう人って自分のものになったって自覚すると、割と短いスパンでそ

ういう本性が出るんだと思う。彼にとっては、『一生そばを離れて行かないやつ』っ

ていう認識になったんだろうね。

モラハラかどうかを見極める方法は、一回喧嘩をすることだと思うな。だって彼

も一度喧嘩をしてから変わってしまったんだもの。

変わってしまった、っていまだに言っちゃうのって、まだ彼の呪縛から解き放た

れていない気がしてくる、自分でも。違うよね、変わったんじゃない。それが本性

なんだよね。

一度怒らせるともう暴言が止まらない止まらない。一体いつ息してんだっていう

くらい、うずくまってる私の耳元で小一時間、これでもかというくらい責め立てて

くるんだよ。

また喧嘩の内容もとっても些細なことでさ。もう脳が忘れたいって言ってるから

三つくらいしか思いだせるエピソードないんだけど、私の住んでる地域はさペット

ボトルとか瓶とかの回収が一か月に二回くらいしかないのね。で、その時は講義と

か結構入ってて忙しくてさ、中々捨てるタイミングが合わなくてシンクの下の棚に

溜めてしまっていたの。それを見た彼が烈火のごとく怒ってね。

「なんでこんなこともできないんだ。なんでこんなに溜めるんだ」

って言うもんだから、こっちもムキになっちゃって、

「お言葉ですがね、あなたが家で捨てていった分もあるんですよ。それにね、あな

たは好きなときに好きなだけ泊っていきますけど、家事を手伝ってくれるわけでも

ないじゃん。私もね、時間がないんですよ」

なんて、言い返したからもう地獄絵図。そこから私が泣いてもやまない、耳元で理

詰めが小一時間エンドレス。

「俺がここで捨ててるゴミの数なんてたかが知れてる。人のせいにするな。風呂掃

除はやってやっただろうが。お前が悪い。なんで黙ってるんだ、話を聞いているの

か…… 」

これを小一時間よ!?何度も言うけどさ。なんで黙ってるかって、なんか言う

隙間も与えてくれないし言ったらもっと長くなるし、これがホントに辛かったな。

止まらないのよ、暴言のマシンガンが。しかも、本当にこういう言い方なのよ。

私正直、このエッセイ書き始めるのに一か月かかってるの。やっと覚悟決めたっ

て向き合っても、全然進まないわけ。書いてる今も心臓ドキドキしてるし、ずっと

肩に力入ってるんだよね。それくらい今でも思い出すの辛いし、もう同じ思いは絶

対にしたくないと思ってる。これでも別れたばかりの頃は笑い話でーすってめちゃ

くちゃ陽気に「私DV受けてたけど、全然平気!」って感じで友人に

話聞いてもらってたんだけど、時が経って色々忘れてきた頃の方が辛さが増すんだ

なって思った。

数少ない楽しかっただろう記憶はプンって飛んでなくなるのに、トラウマだけが

一生忘れさせないようにしがみついて放してくれないの。

モラハラとかDVとか、一度受けると本当に人生変わるし、その後もしばらく似

たような人ばかりに捕まってしまうんだよね。その負のループから脱却できたのは、

幸せになりたいって心の底から願って、幸せにしてくれる人を見つけれたおかげだ

と思う。やっぱり、尽くすことで幸せを得られるって大切なことだけど、幸せにし

てくれる人だから尽くしてあげたいっていう、今の気持ちと当時の気持ちは全く違

うものだったなと今だから思うね。

なんで精神蝕まれながら、一年も一緒に居られたのかというと、ほんとに呪縛な

んだろうなって思うよ。よくさ、そこまでやばい奴って分かってるならさっさと別

れればよかったのにって言われるのよ。てか実際思ったことない?そういうDV

記事とか見てるとさ。

でも出来ないんだよ。こっちはまさか自分がDV被害者になってるなんて思って

ないから。よく私も当時働いてたバイト先のお姉さんに言われたよ。てかその人が

DVだって教えてくれたんだけどね。けど当時の私は、「いや~怒りっぽくて、子供

っぽいだけなんです、普段はとっても優しいんです」って忠告に耳を貸さなかった

わけ。DV受けてるなんて認めたくなかったしね。

彼は本当は優しい人、怒りが止むまで待っていれば非を認めてくれるから、私が

耐えればいい。なんて思うのはきっと無意識に洗脳されてたからなんだよ。

DV気質の人には俗にいうハネムーン期っていうのがあって、嘘みたいに優しく

て「あ、やっと優しかった頃の彼に戻ってくれた。ほらね、やっぱり私の彼はDV

男なんかじゃない」って思っちゃうんだよね。それが罠なんだけど。

ハネムーン期が終わると、あんなに優しかったのが嘘のようにキレやすくなるし

ずっと不機嫌なんだよね。そういう人って自分の機嫌が取れないんだろうね。

機嫌悪くなると私だけじゃなくて、物とかにも当たり出したり、みんなで集まっ

てるときにそうなったらみんなが気を遣うくらい不機嫌オーラを出しまくるから、

気分転換に連れ出したりね。

それでも治らないと、急に私の友達にキレだしたりほんと大変だった…… 。でも、

落ち着くと必ず言ってくるの「もう二度としない。もう二度と傷つけること言わな

い」って。

それがDVする人の常套句なんだって気づいた頃、私にかけられた洗脳が、つい

に手が出たことで解け始めた。

何度も別れ話をしたことはあった。喧嘩するたびに精神状況ギリギリまで追い込

まれるのは辛かったから。それでも別れられなかったのは洗脳があったのと、別れ

話をするたびに包丁や、キッチン用ハサミ、カッターなどを持ち出して「別れるく

らいなら死ぬ!」と暴れだすから。それを止めるため、毎回取っ組み合いするのに

疲れてしまって、ずるずると付き合ってしまっていたけれど、その日は本当に今度

こそ終わりにしたいと、バイトの休憩中に「別れたい」とLINEを打った。

直接話したらまた暴れて丸め込まれてしまう。彼の実家は私の家からとっても離

れているから、今のうちに言ってしまおうというのが私の気持ちだった。

けど、その考えが甘かったんだよね。彼はどこまでも追ってきてしまう。バイト

から帰ると、彼は私の家の前で待ち伏せしてた。そこからの話は今でも思い出すと

手が震えてくる。

いつものようにカッターを取り出して暴れる彼と一時間くらい取っ組み合いした

後、彼は私を転ばせて馬乗りになり首を絞め始めた。

「絶対に別れない。俺を殺すか、俺に殺されるか、別れないって言うか選べ」

背中に感じる床の冷たい感触と、床に叩きつけられた痛み、喉を締められる苦し

さ、今でも忘れることが出来ない。

「別れない」って言うしかなかった。でも、このまま一緒に居たら絶対殺される

から離れないといけない。でもどうしたらいいのか分からない。そしてそんな時で

も彼は決まり文句を言うの。

「もう二度としない。手を出すなんて最低だった。もう一度チャンスが欲しい、ご

めんなさい」

って。

転機が訪れたのは、私が実家に帰省した時だった。帰省している時にも喧嘩にな

り、この前あれだけ反省したって言って、もう一度チャンスが欲しいなんて言った

癖に、

「俺の話を理解できないやつはみんな馬鹿だ。頭の悪い奴は言ってることも理解で

きんから疲れる。考えて話せ。感情論でこうあるべきだとか言う主観混じりの共有

意識を真実のように話してくるな。気持ちが悪い」

ってさ。ひどい言い草だよね。私が話してたのは親が車校の合宿予約したんだっ

てことだったんだけど、彼は合宿なんて反対だ。ヤリ目どものところに喜んでいく

のかって、言い合いから発展した会話だったんだけど、とんでもない被害妄想よね

(苦笑)

もう限界だって、初めて共通の友達に間に入ってもらうことになったのね。それ

で別れ話まで一気に持っていくことが出来て、最後は話し合いで何とか終わらせる

ことが出来た。

DVの経験なんてしないに越したことないし、もし過去に戻れるなら彼とは付き

合わない。だってね、恋愛って言うよりヤダヤダ期の幼児を世話してる気分だった

もん。ほぼ子育てじゃんね!

けど、やっぱり何事も経験だからさちょっとこのとじゃ折れない精神力と、広い

心と包容力、そして幸せになれる方法を手に入れられたからまぁ…… 彼と付き合っ

たことを後悔し続けるのは辞めるよ。

実際彼とのことを経験しなければ今の恋愛に対する価値観は作れてないと思うし

ね。それでも感謝することは無いかな。彼との経験は勉強になったけど、もう心に

恋愛に関してとか、人生に関する信念みたいなものは出来上がったからさっさと私

の記憶から出てって欲しいと最近は切に願ってるよ。

私が夢に見るほど彼との記憶に苦しみながら、それでも幸せを手にしたように、

いつかは彼も「あの時は若くてさ」なんて言い訳しちゃっていいから、私じゃない

誰かを幸せにしてあげて欲しいなって…… 心からそう思ってるよ。

ラブレター郵便局

私は生きるのに向いていなかったん

から何やってもうまくいかない。

恋と夢。両方手に入れようとしたから

罰が当たったんだ。

もし、少しでも出会えるタイミングが

違っていれば、彼の一番に私はなれたの

だろうか。

もし、私に少しの運と勇気があれば、

こんなことにはならずに済んだのだろ

うか。

キキ― ッとけたたましいブレーキ音

が鳴り響く。

一瞬で目の前が真っ暗闇に包まれた。

死んだら一体、どこにたどり着くのだ

ろう。

「ここが新しい職場か…… 」

チョコレート色のドアを開けると、想

像していたよりもずっと静かな空間が

私を歓迎した。

「あ、新人さん?よかったー、今めっ

ちゃ忙しいんですよ。この意味わかりま

すよね。ここは、お客様を一人ずつお通

しして接客するので後ろがすごく詰ま

ってるんです。来たばっかりで申し訳な

いんですけど、覚えてもらうことが沢山

あるんですよね」

きょろきょろとする私に男性が声を

かけてきた。ここの局長だろうか。彼以

外いる気配がいないので、私は今日から

彼と二人っきりで業務をしていくこと

になるらしい。

彼に奥の部屋へと案内され、制服を手

渡された。ドアと同じチョコレート色の

制服。ボトムはロングスカートとズボン

の選択制らしく、私はズボンにした。帽

子には下界と同じく郵便局の赤いマー

クがついていた。

更衣室で着替え終わり、局長の元へ行

く。

「五月ということもあって、自殺する人

も増える傾向にあるのは君も知ってい

るよね」

「あ、ハイ。五月病とかで病んでしまっ

て自殺する方が増えるからですよね」

「そうそう。最近そういうお客様ばかり

でね。残念だけど、自ら命を絶ったお客

様はこの郵便局を利用できないことに

なんてるから」

局長はへらッと笑って言った。

釣り目なだけあって、笑って細められ

ると猫のように見え可愛いと思えてし

まう。歳は私と変わらないくらいかな?

まぁ、ここに来た時点で年齢は止まるか

ら実際の年齢とは違うのだろうけど。

「あ、あの」

「あ、挨拶が遅れたね!ようこそ、ラ

ブレター郵便局へ。僕は局長の一ノ瀬恵

です。そうだな、創設してもう百年以上

は経つけど、その間誰も新人さん来なか

ったから、君が来てくれて本当に嬉しい

よ」

「ありがとうございます!自殺課か

ら来ました。戸田あかりです。まだこっ

ちに来て一年未満ですが、色々ご指導ご

鞭撻のほどよろしくお願いいたします

!!」

ガバリと頭を下げると、頭上からケラ

ケラと一ノ瀬さんが笑う声が聞こえた。

「いいよ、いいよ、そんなかしこまらな

いでさ。そうか、自殺課だったんだ。懐

かしいね、死んで最初に案内された場所

だったからね」

「…… ここで働いている場所はみんな

そうじゃないですかね。私も最初に行っ

た場所はそこでしたし。自殺した私が、

まさか自殺課に配属されるなんて、何の

冗談だと思いましたけどね。」

「そうだよね。しかもあそこは署内一激

務の部署だろう。初めての配属があそこ

なんて大変だったね。いくら死んでるか

らって休みなく働かされるのは勘弁だ

スクに戻った一ノ瀬さんは、のんび

りとした口調をそのまま表したように、

だらりと机に突っ伏した。

ここの局長は随分とマイペースでの

んびり屋さんなのかもしれない。ほんと

、色々な人がいるもんだ。前の部署の局

長は鬼のように厳しい人で、地獄に来て

しまったんじゃないかと錯覚してしま

うほどだったのに。

そういえば肝心のことを聞き忘れて

いた。

「あの、ここはどういう部署何ですか?

どうしてラブレター郵便局なんて名前

がついているんです?」

あ、そうだった!というような顔で

一ノ瀬さんががばっと起き上がった

「ごめん、ごめん、そうだった。いやぁ

、自分以外の社員がここに来ることなん

て初めてだからさ、何から説明していい

かうっかりしちゃって」

そう言い訳をした一ノ瀬さんはあた

ふたしながら、デスクの中に押し込まれ

ていたであろう、少し曲がったファイル

を出すと、私に差しだし、説明を始めた

亡くなった人が死んだあと初めて訪

れる場所であるこの市役所は、死神が経

営しているってことまでは分かるよね

?」

「はい、大丈夫です」

「この郵便局はね、事務的に手続きを終

わらせて次の人生に進ませる市役所の

やり方に、疑問を持ったことからできた

部署なんだ」

「ど、どういうことですか?」

「人生を全うしたと言っても、もう一度

誰かに会いたいとか、最期の言葉を残し

たかったとか、未練がある人だっていっ

ぱいいるわけじゃん。そういう人たちに

ちゃんとすっきりした気持ちで、未来に

進んでほしいと思ったんだ」

この人はどうして死神になんてなっ

たのだろう。死神になるような人は、ど

こかやはり影を持っていて、荒んでいる

人の方が多い。だけど、彼からは純粋な

、愛への慈しみが伝わってくる。どうし

て他人の愛まで大切にできるのだろう。

どうして他人の愛のために、部署一つ作

ろうと思えるんだろう。

自分の恋を全うできないまま死んだ

のに、誰かの恋や愛を応援できると思え

ない。私は本当にここでやっていけるの

だろうか。

「心配しなくても、ちゃんとやっていけ

るよ。君がここに来たことにはちゃんと

意味がある」

心を見透かしたように、一ノ瀬さんは

優しく私に語り掛けてくれた。いや、暗

い気持ちがかなり顔に出ていたからか

もしれないが。眉間を触ると、きゅっと

固くなっていた。

「最期まで大切にした愛を、封印なんか

しないで、大切な誰かへきちんと届けて

から次へ行って欲しい。だからこの場所

を作ったんだよ」

「縁起悪くないでしょうか、だって死神

が届けるんですよね?」

「そもそも、亡くなった人から手紙が届

くことがすでに、ねぇ。それでも残され

た人も、届くことを願っている人も案外

多いんじゃないかな」

「そうじゃなくて!だって死神は…

こまで言いかけた私に、一ノ瀬さん

は、フッと微笑み返すだけで、何も言わ

ずコーヒーを取りに奥へ行ってしまっ

なんて分からない。全うした愛も、

恋もない。そもそも自分の人生すら全う

していないのに。

「死神になるのは、そういう…… 自殺し

た人間じゃないですか」

私の行き場のない呟きは、誰の耳にも

届くことなくクリーム色の壁に吸い込

まれていった。

*ギャツビー

「その飼い主さんに、最期のラブレター

を届けたいということでよろしいです

ね?」

コーヒーを持って戻ってきた一ノ瀬

さんとは、あれからほとんど会話はなか

った。話したことと言ったら、裏にウォ

ーターサーバーやら、ドリンクバーやら

色々あるから好きに使ってくれ、という

ことだけだ。

私が変な質問したからだろうか。さっ

きまで、あれほどうるさかった彼が、お

客さんもいないのにピタッとおしゃべ

りを止めてしまったものだから、一気に

気まずい空気に包まれてしまった。

そのまま三十分くらい経った頃だろ

うか、その空気を壊してくれたのが、今

私が接客している、郵便局員として初め

てのお客様…… なのだが、私はしょっぱ

なからかなりの難題を突き付けられて

いる。

きら透き通るような青い瞳、つやつや

と光るグレーの毛並み、ピンッとたった

立派な耳。

どうやって、どうやって…… 。

「あの…… ぼく、どうやって手紙を書い

たらいいのでしょう?」

そう、彼は猫なのだ。ペンの持ち方は

おろか、字も書けるか分からなくて私は

、ペンと紙をもったまま、次になんて言

えばいいか思い浮かばず、その場に立ち

すくんでいた。ダラダラと冷や汗が流れ

出てくる。

「すみません、お客様。まだ彼女、今日

配属されたばかりの新人でして…… こ

こでは実はペンは必要ないんです。ペン

で書いたほうがしっくりくるという方

もいらっしゃるので置いてはいるので

すが、届けたい相手、そして届けたい思

いを念じていただければ伝えたいこと

が紙に写るようになっています」

そ、れ、を、もっと早く言え――― !

ジトッと背中を睨みつけると、一ノ瀬

さんは私の視線に気づいたのか、眉を下

げチラリと舌を出して、「ごめんね」と

でも言いたそうな顔で、小さく頭を下げ

てきた。

「何から書こう。ぼく話すのも、手紙を

書くのも初めてで…… 清音に初めてぼ

くの言葉が届くと考えただけでもドキ

ドキしてしまいます」

「とてもいい飼い主の方に恵まれたの

ですね。楽しかった思い出など、一個一

個取り上げたり、出会いを振り返ったり

、何も特別な言葉を書かなくてもいいん

ですよ」

一ノ瀬さんは猫さんの目線までかが

むと、ゆっくり説明した。こういった記

憶の整理も私たちの役目なのだろう。積

極的に質問をしていくことで、お客様の

書きたいことがまとまったり、記憶の引

き出しを開けてあげることが出来るの

かもしれない。

「あの、お客様のお名前は…… 」

「あ、失礼しました。名乗っていません

でしたね。ギャツビーといいます。清音

が好きな映画のキャラクターから名付

けてくれたんです。あまり猫っぽくない

でしょ。でも結構気に入っている名前な

んです」

ギャツビー…… 聞いたことがある気

がする…… 題名は何だっけ。私が中学生

の頃に公開された映画だったはず。主演

の俳優が、日本でも人気の米俳優だった

から、かなり話題になっていた。

「彼女に仕事を説明するので、少し失礼

しますね」

そう言って席を立った局長に手招き

され、奥の部屋へと連れていかれる。

「今からギャツビー様が完璧なラブレ

ターを書けるようにお手伝いをしてい

きます。しょっぱなから猫のお客様で驚

かれたと思いますけど、最近は結構来ら

れるんですよ、飼い主様にラブレターを

書きたいと来られる方。でも人間のお客

様よりも素直でお気持ちがしっかりさ

れているので、最初の練習相手としては

もってこいですね。まずは僕の仕事を見

て覚えていってください」

「は、はぁ…… 」

練習相手って…… こんな風に冷静を

装ってはいるけど、未だに頭の中はパニ

ック状態だ。自殺課には人間しか来なか

ったので、動物のお客様を相手にするの

は初めてだ。動物もこの役所に来るんだ

…… というところからあまり思考が動

かずにいる。驚きすぎて脳が機能してく

れないのだろう。

ドアを抑えて局長が待ってくれてい

る。「すみません!」と慌てて出る私の

様子を、彼はにこにことを微笑んで見て

いた。それは怒っているのか、微笑まし

いと思っているのか全く分からない営

業スマイルだった。

「お待たせしました。では、飼い主様と

の思い出をよかったらお聞かせいただ

けますか?」

一ノ瀬さんはどこからともなく取り

出し猫用のミルクを、これもどこから取

り出したか分からない浅い皿に入れる

と。ギャツビー様に差しだした。

「これはどうも。えぇ、ぜひ聞いていた

だきたいです。そのほうが気持ちを整理

で切りでしょうし」

僕の飼い主、清音との出会いは十六年

前の春で、その時の僕はまだ売り出され

たばかりの子猫でした。

その時のことを運命の出会いだった

と、彼女は僕にそう言ってくれました。

僕もそう思います。僕たちは出会うべく

して出会った。

彼女には子供が出来ませんでした。十

七で旦那様に見初められ、電機会社のご

令嬢だった清音は、地主の跡取りである

三つ年上の旦那様に嫁いできました。し

かし、一向に子宝に恵まれず、旦那様は

浮気性を再発し、色々なところに女を作

り、隠し子を孕ませ、現在跡取り問題で

大揉め中だそうです。

清音はとても寛大な方でした。それよ

りも子供を授かることが出来なかった

ことをかなり気にしている様子で、それ

でもそばに置いてくれたから。と、清音

から離縁する気はなかったようです。…

… 正直、僕には清音の気持ちも、旦那様

の気持ちもよくわかりません。どうして

旦那様が清音を手放さなかったのか、ど

うして清音は旦那様の浮気性を許せた

のか。

だって…… 寂しくないはずないじゃ

ないですか。辛いに決まってるじゃない

ですか。夫が自分以外の女性と愛し合っ

てるんですよ?

そんなの僕は耐えられない…… いや、

耐えられなかった。

僕にとっての運命の出会いは、正にあ

の日、清音に買っていただけた日だった

んです。やっと飼い主に出会えたという

、そういう感情じゃない。運命の番

つがい

見つけたというような胸の高鳴りでし

た。だから耐えられなかった。清音の目

が、僕でなく旦那様に向き続け得ている

こと、僕はいつまでも息子という立ち位

置だったこと。それが僕には耐えられま

せんでした。子猫の時からずっと、僕は

清音を、彼女を母だと思ったことはあり

ません。僕にとっては、いつまでも少女

のような純粋さを持った可愛らしい女

性だった。憧れて、恋焦がれて、一言も

想いを告げられないまま、僕は彼女より

も歳をとって…… 。

信じられませんか?猫が人間に恋

をするなんて。ただ猫に生まれてしまっ

ただけで、ただ言葉が通じない相手に生

まれただけで、ただ子供を作れない同士

に生まれただけで、どうして彼女を諦め

なければならなかったのか、今でも僕は

納得していません。

僕が買われた時、旦那様はもうすでに

還暦を超えていましたが、いまだに女遊

びをしているような方で、本当にどうし

ようもない人でした。使用人がいるのに

、ご飯だけは清音に作らせ、食事だけ共

にし、それ以外は色んな女のところへ遊

びに行く。清音を大事にしない、あんな

奴がなぜ彼女と結婚出来て、彼女をまっ

すぐに想っている僕が猫に生まれ、彼女

と結ばれない運命にいるのか、意味が分

からない。僕の方がずっとずっと彼女を

幸せにできるのに。僕だったら寂しい思

いなんかさせないのに。

「つまりギャツビー様は、飼い主として

清音様を慕っていたわけではなく、彼女

に恋をしていたということですね?」

「はい。あの、僕は猫又にはなれないん

ですか?神になればずっと彼女のそ

ばにいられる。そして会話もできるはず

ですよね?」

「残念ですが、猫又になれるのは、二十

歳を超えても生きているということが

条件ですので、十六歳で亡くなったギャ

ツビー様は、その条件をクリアできてい

ないので、転生していただくしかないの

です」

ギャツビー様はがっくりと肩を落と

し、うなだれてしまった。

ギャツビー様が転生したとして、また

奥様に合えるとも限らない。彼女の運命

の相手というなら話が違うが、実らない

恋になっている以上、きっと彼は彼女の

特別ではない。彼女が生まれ変わった世

界でも、彼はきっと彼女と最期まで添い

遂げることはできないだろう。ロマンチ

ックととらえるか、残酷ととらえるか、

運命というのは大体決まっていて、いく

らギャツビー様が恋焦がれようとその

運命は変わることがないと思う。実らな

い恋は運命じゃない。お客様のことを考

えていたのに、急に自分の恋にも当ては

まってぐさりと刺さる。運命だったかも

しれない、けれどそれを手放したには自

分だ。刺さった胸の痛みも自業自得だと

思って受け入れるしかない。

ふとギャツビー様の手紙を見ると、ギ

ャツビー様の心をそのまま表したよう

に「苦しい」「好きなのに」「自分のもの

にしたい」という言葉が書き殴られてい

っとしてしまった。愛が歪んできて

いる。神になれるような動物だからだろ

うか、強すぎる念が負の感情に移り変わ

ろうとしている。これはとてもまずいこ

となのではないのかと、新人の私でも本

能的に感じ、手紙をそれ以上見ることが

出来ず顔をそむけた。

「僕の恋はいったいいつ実るのでしょ

うか。いっそのこと、怨霊にでもなって

彼女のそばにずっといたい。彼女に憑り

ついてしまえばよかった」

「怨霊になれば天国には行けなくなり

ますよ。あなたはただの呪いに変わって

しまう。そしてその場合、清音様を憑り

殺してしまうでしょうね。ギャツビー様

の念が強すぎますから」

「じゃあどうすればいいんですか?

この手紙を書いたところで、どんな様子

で彼女がこれを読んでいたのかさえ僕

は知ることが出来ないのでしょう?

それともこれを書けば、来世では必ず結

ばれると確定するんですか?」

「ここは、亡くなった方に後悔してほし

くない、すっきりとした気持ちで次の人

生に向かってほしいという思いで作ら

れた部署です。なので運命を変える力は

ここにはありません」

「じゃあ、僕は何度転生したって彼女の

番にはなれないってことなんですね」

一ノ瀬さんは何も答えなかった。睨み

つけてくる彼を、ただ無言のまま見つめ

返している。その無言が何よりの答えだ

と、きっとギャツビー様も悟ったのだろ

う。目を閉じて、心を落ちつかせるため

か、深く息を吸った。

「なんにしても、僕の想いは彼女に届く

んですよね」

「手紙に込められている念が弱いとた

まに失敗することもありますが、ギャツ

ビー様の場合はうまくいくでしょう。き

っと清音様に届きますよ」

もう一度ギャツビー様は目を閉じ、し

ばらく動かなかった。すると、書き殴ら

れた文字が消えていき、今度は整ったき

れいな文字が並び始めた。

清音へ

生まれて初めて手紙を書くので、読み

辛いこともあるでしょうがご容赦くだ

さい。

突然のお手紙、失礼いたします。ギャ

ツビーです。と、急にそんなこと言われ

ても信じがたいですよね。

子猫の時、ちょうちょを追いかけて裏

の庭へ誤って落ちてしまい、清音が助け

てくれようとして、足を滑らせ清音も一

緒に落ちてしまったこと。チュールが嫌

いで、ほぐした柔らかいささみが好きだ

ったこと、それも清音の手からもらわな

いと絶対食べなかったこと、最期の日は

清音の腕の中で息を引き取るという、何

とも猫らしくない死に方をしたこと。ど

うです?信じる気になりました?

僕は今、天界のラブレター郵便局とい

うところで、あなたに最後の言葉を伝え

たくてこの手紙を書いています。

僕は、初めて出会った日、あなたに恋

をしました。避妊手術を拒んだのは苦し

くとも男のままでいたかったからです。

あなたに恋をしている男としての疼き

を無くしたくはなかった。

子供を産めなくても、あなたはとても

素敵な女性だ。ずっと言いたかった。旦

那様ではなく僕があなたの夫だったら、

寂しい思いなんかさせなかったのに。

この苦しい思いと、あなたへの恋心は

来世にも持っていきます。だから、次に

お互いが生まれ変わる時にはあなたへ、

僕の口から想いを告げることを、許され

る立場になりたい。

ずっと慕い続けています。どうか、僕の

想いを知ってください。天に召されても

変わらず想い続けていること、どんなあ

なたでも愛していること、そして今度こ

そは結ばれると信じていること。来世で

もまたあなたを見つけるから…… だか

ら必ず僕を選んでください。

では、また出会える日まで。

ギャツビー

ギャツビー様が目を開けると、手紙は

宙に浮き、封筒に入るとそのままどこか

へ飛んで行ってしまった。

「あッ!!大変、飛んでっちゃいまし

たよ!捕まえないと!!」

「大丈夫、大丈夫。書き終わったら念が

消えないうちにすぐ、受取主の元へ飛ん

でく仕組みになってるんだ。前の部署で

言われなかったかい?死神は一人一

人何か能力を持っているんだ」

手紙に目を戻した一ノ瀬さんは「ちゃ

んと届くんだぞー」なんて言いながら、

手を振って飛んでいく手紙を見送った。

能力、こっちの世界に来たばかりの頃

説明されたのだろうが、覚えることがあ

りすぎて知らぬ間に記憶から抜け落ち

てしまったのだろう。私にはどんな能力

があるのだろう。平凡だった私が死んだ

からと言って不思議な力が湧いてくる

とは思えないが…… 。でも能力という響

きがとてもかっこいいので、私も早く取

得したいなと思った。手紙なんてまどろ

っこしいことはせず、短い時間だけ死者

と会うことが出来る能力とか?想像

すると楽しくなってしまい、ぐふふと変

な笑い声が出てしまい、慌てて頬を叩き

、現実へと気持ちを戻した。

そういえばギャツビー様は?自分

の世界に入ってしまってすっかり忘れ

ていた。ギャツビー様の方を振り返ると

、彼は微笑みを浮かべて、手紙の様子を

じっと見つめていた。その微笑みはまる

で、大切な人が煙になって天高く昇って

いく時に見せる、人間のそれと同じもの

のように感じられた。

「では、僕は行きます。最期に彼女へ僕

の本当の気持ちを伝えられて本当に良

かった。これで思い残すこともなく次へ

進めます」

ギャツビー様は軽く会釈をすると、来

た時と同じようにチョコレート色のド

アをくぐって出て行った。

「いやー、お疲れ様。こんな感じでお客

様の手伝いをしていきます。細かく質問

したり、相槌を打つことで色んなエピソ

ードを思い出してもらえて、手紙をスム

ーズに書くことが出来るんだ」

なるほど。やはり質問をしたりするこ

とは手助けになるのか。ただ、手紙を書

く邪魔にならない程度にしなければい

けないのは難しそうだ。その場の空気を

読んでって感じなのだろう。数をこなし

ていくしかなさそうだ。

それよりも、私は気になることがあっ

た。動物のお客様だったからだろうか。

「私、飼い主への感謝からくるキレイな

愛かと思っていたんですけど、意外にド

ロドロしていましたね」

「そうか。戸田さんからしたら、あの愛

はキレイじゃなかったんだね」

私の思っていた愛は、育ててくれてあ

りがとうとか、あなたに会えて幸せだっ

たよとか、動物番組でたまに見る感動的

な内容になると思っていた。それがまさ

か動物が人間に恋をして、自分の方があ

なたを幸せにできるのになんて、執着や

嫉妬のような愛を持っているなんて思

いもしなかった。

「ここに来る人が抱いている愛って、ほ

んとに様々なんだ。それは決してキレイ

なものだけではなくて、でも本人からし

たらキレイで純情な愛なんだ。僕らはそ

れに疑問を感じてはいけない。人の愛を

たった一人の少ない経験で、偉そうに語

ることなんでできないんだよ」

一ノ瀬さんはいつかの自分に言い聞

かせるように語った。

確かにそうだと思った。私はギャツビ

ー様の愛は受け入れがたいものだった。

でもギャツビー様にとってはとても純

粋で真っ直ぐな愛だっただろう。出会っ

た日から今日まで、実ることはない恋を

誰にも言えないまま秘めておくのはと

ても苦しく、そしてどこかで旦那様への

憎しみに変わっていってしまったのか

もしれない。旦那様への感謝もきっとあ

っただろうに、それすらも忘れてしまう

ほど想いを拗らせてしまっただなんて、

何とも切ない話だ。

「愛ってとてもムツカシイものなんだ

よ。ムツカシイものを運んでるから、僕

たちの仕事もムツカシイ。愛を呪いとい

う人もいれば、宝という人もいる」

「一ノ瀬さんはどっちだと思うんです

か?」

「ん~、前者かな。愛は呪いだよ。それ

も、とてつもなく強力な」

「意外ですね。呪いだなんて、物騒じゃ

ないですか」

「こんな仕事をしているけど、僕の愛も

君からしたらキレイなものじゃないだ

ろうからね。そうだねぇ、僕が死神にな

っていることが一番の理由かな」

ふふっと笑うと、一ノ瀬さんはすっか

り冷めきってしまったコーヒーを一口

飲んだ。

「そういえば、なぜギャツビー様に来世

ではきっと結ばれますよ。とか言わなか

ったんだい?」

「だって、死神のマニュアルに書いてあ

るじゃないですか。運命の相手は決まっ

ていて、簡単に変わることはない、と。

気休めでもそういうことは言わないほ

うがいいかと…… 」

「すごいね、勉強熱心だ」

「暗記は得意だったんです。生前では役

に立たなかったんですけど」

自虐ネタを口にする時、伏し目がちに

なるのは人間の悪い癖だろう。このほう

が気の毒だと思ってもらえるからだろ

うか。私は、自分から話を振っておいて

、こうやって同情をあおる仕草で締める

人が大嫌いだった。けれど、いつからか

自分もそっち側に回るようになってい

て、同情してもらうことで最後の自尊心

を保っていたのだ。しかし、それももう

何の意味がある。ここで私が見せた仕草

は、生前の癖をいまだに引きずっている

者、にしか見えないというのに。

「苦労、したんだね。生前では役に立た

なかったかもしれないけど、僕は感心さ

せられたよ。君の判断は正しかった。変

に期待させたら、それこそ想いを募らせ

過ぎてとんでもないことになってしま

うかもしれないからね」

一ノ瀬さんはとても柔らかい口調で

私を慰めると、また奥の部屋に行ってし

まった。

感心させられた、なんていつぶりに言

われただろう。いや、褒められたことす

らもう記憶にない。私って、単純なのだ

ろうか。ここに来てまだ半日も経ってい

ないが、今度は良い上司に恵まれたかも

しれない。と思った。

*千葉ゆかり

死んだろうか…… 。

最初は、そうぼんやりと思っていただ

けだったが、今歩いているのは雲の上だ

と理解した時にそれは確信へと変わっ

にかくここにいても仕方がないと

無意識に思った私は、どこまでも続く雲

の上を歩き続けることにした。すると、

役所のようなものが奥の方に浮かび上

がってきて、それを見た途端不安でざわ

ついていた心がスッと収まった。

ここに来てからどうすればいいのか

プログラムされているかのように、私の

体は理解するよりも早くどんどん動い

て、勝手にことが進んでいった

事故課と呼ばれるところに案内され

た私は、そこで死因はトラックにはねら

れたことによる事故死だったと聞かさ

れた。痛みも苦しさもなかったから、即

死だったのだろう。

その日、私は長引いた離婚調停がやっ

と終わり、夫と離婚できたこと、娘の親

権をもらえたことに胸がいっぱいで、娘

を保育園に迎えに行く道中で事故にあ

った。

確かに上の空だった。事故にあっても

しょうがない。「赤信号だった」と気づ

いた時にはもう遅かった。ほんとに信号

無視は危険だ。一瞬の気のゆるみが命取

りになるよ、とこの経験すらもう娘には

教えてあげられない。

今じゃない…… 今死ぬはずじゃなか

った。これからだったのに、これからや

っと娘と二人で楽しく暮らしていくは

ずだったのに…… 。

自分への怒りで手が震えながら書類

を記入していく。職員さん私の様子に築

いていただろうが、何も言わずそっとし

ておいてくれた。

色々と天界での手続きを終えた後、も

しよろしければというように、ラブレタ

ー郵便局の存在を、ある職員さんから教

えてもらった。きっと私のさっきの様子

と、家族構成を見て声をかけてくれたの

だろう。天界の方が下界の職員さんより

よっぽど親切なのではないだろうか。

役所を出て、しばらく歩くとポツンと

立っているチョコレート色のドアにた

どり着いた。

建物、いや壁すらない空間にドアだけ

が立っている。まるで、猫型ロボットが

出す、どこにでも行けるドアみたいだ。

ガチャリと開けてみる。

「こんにちはー!」

元気いっぱいな声が飛んできた。中に

入ると、茶髪で、いかにも新人という感

じの女の子出迎えてくれた。二十代前半

だろうか、まだまだ幼さの残る可愛い笑

顔が印象的だった。

「あ、ようこそラブレター郵便局へ~」

と、間延びした声がどこからか聞こえて

きたと思ったら、その声の主はカウンタ

ー裏のドアを開け、湯気が立ち上るカッ

プ片手にひょっこり現れた。この人はき

っとここの局長なのだろう。黒髪、猫目

の可愛らしい印象で、彼も二十代半ばく

らいに見えたが、見た目以上の貫禄がう

かがえる。きっとここにきてもう長いの

だろう。

女性の局員さんが、色々と説明してく

れた後、便箋とペンを貸してくれた。実

際に書かなくても、念を込めるだけで本

当に伝えたい気持ちを勝手にまとめて

書いてくれるらしいが、私は自分の気持

ちを整理したいのもあって、書きながら

考えることにした。

宛先はもちろん娘。まだ三歳になった

ばかりだったのに、自分の不注意で幼い

彼女から母親という存在を奪ってしま

ったなんて、私は母親失格だ。だからせ

めて、彼女が私がいなくても、強く生き

ていけるように、もう私には愛すること

が出来なくなってしまったが、父親を愛

してもらえるように、尊敬してもらえる

ように、最期の手紙を残してあげたい。

それに、最期だから元夫との思い出に

も浸ってやってもいいと思っている。調

停中はもう思い出したくないことも包

み隠さず証言しなければならなかった

から、辛い思いも何度もして、二度と考

えたくないと思っていたが、まぁもう二

度と会うことがないということを思う

と、逆に浸ってみたくなってしまうもの

らしい。

夫とは社内恋愛で結婚した。出会った

当時、私は二十三とまだまだ新人だった

学生の頃から休み時間は、教室の隅で文

学作品を読んでいるようなカースト最

下位の人間だったので、容姿もパッとせ

ず、会社でも学生の頃のように隅の机で

黙々と地味に生きているような存在だ

った。

けれど、四つ上の彼はそんな私とは正

反対で、優秀で、人望も厚く、さらに会

社内で女性人気ナンバーワンの絵にか

いたような素敵メンズだった。

そんな彼に、なぜか私は気に入られた

。初めはある日の残業。何の接点もなか

った私たちだったのに、彼は仕事を手伝

ってあげるからと一緒に残ってくれた。

そこから私たちの距離は一気に縮まり、

恋人になるにはそれほど時間はかから

なかった。

半年の交際を経て、彼からプロポーズ

された私は二つ返事で受け入れあっと

いう間に人妻になった。

彼と過ごす日々は、今までまともな交

際をしてこなかった私にとっては交際

期間を含めとても新鮮で幸せなものだ

った。今までの恋愛は…… 恋愛と言える

ようなものは経験してなかったか。普通

の容姿、普通の中身、だけれど性欲だけ

はそれなりにあって、一時期そういう関

係の人としか遊んでいなかったときが

あった。娘が同じようなことをしていた

ら絶対止めるというようなことを沢山

やってきた。そうでもしないと、自分を

満たしてあげることが出来なかったか

らだ。性の世界にのめりこんだ日のこと

は、今でもよく覚えている。十七の夏、

ただの好奇心で街中のドンキ前に、いか

にも『誰かと待ち合わせてるけど、全然

来なくて暇な子』という顔で立ってナン

パ待ちをしていたら、三十分も経たずに

ナンパされ、あとはそのまま流されるま

まに私の純潔は消え去っていった。

もっと痛いものかな、と思っていた。

初めてはそうだって友達の誰かが言っ

ていたから。

でも実際は痛みも感じなくて、案外す

んなりと入ってしまった。相手に「ほん

とに初めて?」と笑われたくらいだ。

関係を持った人はいつも大体年上で、

ことを終えるとどの人も何かしらプレ

ゼントをくれた。ティファニーのオープ

ンハートネックレス、ヴィヴィアンのピ

アス、プラダのハイヒール、バレンシア

ガのミニ財布、グッチのカバン、シャネ

ルの香水。他にも現金を数万くれる人も

いた。セフレというより、今でいうパパ

活のような関係だったのだろう。ただ、

それだけ色々な人と関係を持っても、誰

一人として半年以上続く人はいなかっ

たし、まともにデートをした人もいなか

った。

男が私を大事にしてくれたことなん

て一度もない。ただ気持ちよくなれれば

いい。そして私も、自分を大切にしなか

った。誰かに必要とされていることを感

じれればいい。そこに愛がなくてもいい

と思っていた。誰にも愛されないまま、

経験人数だけが増えていく。それでいい

と思っていた。

だが、彼だけは違った。蝶のように花

のように私を大切にしてくれた。

いつでも自然に車道側を歩いてくれ

たり、重い荷物は持ってくれたり、階段

を降りるときはいつも手を取ってエス

コートしてくれるような人だった。こん

なに大事にされたことなんてない。デー

トだって私が行きたいといったところ

にはどこでもついてきてくれた。

私はこの人に出会うために今まで苦

しんできたんだ。この人に愛してもらう

ために、誰にも愛されない日々を過ごし

てきたんだとさえ思えた。

本当に王子様のような人だった。そし

て、彼の隣にいれる私はお姫様なんだと

思い込んでいた。かっこいい王子様に守

られている、宝石のようなお姫様なんだ

もそれは、とんでもない間違いだっ

た。彼はとんでもなく嫉妬深い人だった

。最初の頃は、嫉妬なんて生まれてこの

方二十云年されてこなかったので、可愛

いなと思っていただけだったが、携帯を

しょっちゅう確認されたり、SNSを監

視されたり、帰りの連絡を忘れただけで

烈火のごとく怒りだし、何時間も説教さ

れた。

彼は典型的なDV夫だったのだ。彼の

暴言や行き過ぎた束縛は娘を身ごもっ

てからより一層ひどくなった。

私はつわりがひどいほうで、さらに体

の不調からくるマタニティブルーも相

まって、心身ともに滅入ってしまってい

た。中々ベットからも起きられなく、ゴ

ミは溜まるわ、洗濯物も洗い物も溜まる

わで、それも気が滅入る原因になってし

まっていた。

不安と不満がごっちゃになっていた

のかもしれない。だけど、夫なら一緒に

背負ってくれると思った。父親になるの

だから、言い表せぬ、痛いくらいに胸に

渦巻くモヤモヤを、取り払ってくれるよ

うな励ましをかけてくれるのではない

かと期待していた。

「辛いの。毎日が不安で、でも不安なこ

ともわからない。体は重いし、でも家事

は溜まっていく、気力は戻らない。もう

おかしくなりそうなの」

「もうしつこい!なんでそんなにネ

ガティブなの?ゴミも溜めておくな

よ。俺はカンとかペットボトルとか、ち

ゃんと外で捨てるようにしてるのにさ。

洗濯物も干してくれないと。着るものが

無くなるだろ?こんなんじゃ子供生

まれてから心配だよ。ちゃんとできるの

?ゆかりはいつもそう。辛い辛いって

、前向きに生きようとしないから辛いん

だよ。俺はいつも前向きだから、そうい

う気持ちなんて分からないし、わかりた

くもない。そもそも何もできてないくせ

に、辛いとかいうな!」

頭が真っ白になった。

蝶よ花よと接してくれていた、優しい

彼はどこへ行ってしまったのだろう。目

の前で永遠に私を罵倒し続けている彼

は一体誰なんだろう。

「ねぇ、聞いてる?何か返事しないっ

てことは全然悪いって思ってないって

ことでいいんだよね?なんで何も言

わないの?ちゃんと聞いてるの?

自分の思い通りにならないなら黙ると

か、自分勝手すぎるよ」

いつもこれ。部屋の隅に逃げ込んだ私

を追い詰めて、耳元でずっと攻め続ける

。私が泣いて謝まっても終わらない。彼

が言いたいこと全ていい切って、すっき

りするまでこれは終わらない。

何か言えと彼は言うけれど、口をはさ

む暇なんて一切与えてくれない。

「お前は馬鹿だ」

「クズ」

「頭が悪い」

とか、そんなことばかりを唱えられて、

発端になった喧嘩の内容は何だったの

か、一体何が悪いのか、何をどうすれば

解決するのか、もうそれすらも最後には

分からなくなって、思考を放棄してしま

供が生まれてからはもう地獄だっ

た。家事も育児も全て私任せで、完璧に

こなさなかったら怒り狂う。それが怖く

て、きちんと彼が納得するように家事と

育児をこなし、疲れ切って満身創痍の私

に、彼は猫なで声を出して夜の営みを要

求してくるのだ。

「眠いから今日はごめんね」

と、逆なでしないように気を付けて断っ

たとしても浮気を疑ってまた怒り出し、

寝るのがだんだんと遅くなる。それが嫌

だから、私はもう早く済んで、眠れれば

いいと愛なんてとっくに冷めた行為を

受け入れるようになっていった。

一緒に暮らしていけるための価値観

が違う。

この人とはもうやっていけない。

そう思うようになったのは、娘が二歳

になったばかりの頃だった。娘が生まれ

て、彼の言動がひどくなったと言ったが

、赤ん坊の頃はまだましなほうだったと

、今になれば思える。娘がイヤイヤ期突

入して、全然彼になつかなかったから、

それに腹を立て彼は今まで以上に私を

詰ったり、ひどい扱いをするようになっ

た。

「人たらし」

「本当は俺の子供じゃないんだ」

「この浮気者」

何かに憑かれているんじゃないかと

本気で心配するくらい、出会った頃の彼

とはどんどん別人になっていった。

そして、その頃には彼にされているこ

とは、DVなんだと自覚できるようにな

っていった。

今だからこそ彼にされたことはDV

だったのだと理解しているが、その時は

彼がDV夫だなんて思ってもみなかっ

覚できなかった理由はいくつかあ

る。まず、DVなんてテレビの中の出来

事で、自分には関係ないものだと思って

生きてきたから気づかなかった。

次に、彼は私が自分以外の誰かと交流

するのを極端に嫌がったからだった。加

えて、彼のことを誰かに相談したものな

ら、

「悪者にしやがって」

「俺の評判を落とすな」

と、怒り出す。その時の私はどこかで彼

が聞いてるのではないかと、彼がいない

時もずっと緊張していて、友達と奇跡的

にお茶できたとしても相談することが

出来なかった。

三つ目は、今までは暴力は振るうこと

がなかったことだ。彼はいつも暴言だけ

で、殴ったりすることはなかった。だか

らDVを受けている自覚が薄かったの

だろうと思う。だが、あくまで今までは

、だ。

ある時、彼の暴言に耐えられず、「も

ういや、離婚したい」と、彼が詰り続け

ている最中に言ってしまった。それを聞

いた彼は私を強引に押し倒し、首を絞め

た。

「離婚するなら、今ここで俺に殺される

か、俺を殺すか選べ」

もうおしまいだ。これをDVと言わず

何というのか。私は今までもずっとDV

を受けてきたんだ。この人といたら私は

殺される。私が死んだら…… 死んだら、

娘はどうなるの?

そうだ、私死んだんだった。

娘を、置いてきてしまった。

「娘さん宛てですか?」

若い女性の局員さんに声をかけられ、

はっと我に返った。手元を見ると、頭の

中で流れた自分語りがそのまま手紙に

書かれていた。こんなもの、娘に読ませ

られない。自分の気持ちを整理するため

にペンを持ったのに、全然整理できてい

ない。

「長すぎますよね。これじゃあ、全然手

紙になってない」

「大丈夫ですよ。あなたの言葉が決まれ

ば、そこにある文章はちゃんとまとまり

ますから」

今度は男性局員さんが声をかけてき

た。私が書いているものは、現世の手紙

と全く違うもののようだ。本当に私は、

死んでしまったんだ。

「全然まとまらないんです。やっとDV

夫との離婚調停が終了して、娘と新たな

人生を送るはずだったのに、急に死んで

…… なのに、思い出すのは、元夫への憎

悪ばかりで。娘に書きたいのに、どれも

これも、彼への恨み言で、娘への愛を何

も言葉にできない」

震えて言葉になっているか分からな

い私の話を、二人は黙って聞いてくれて

いた。

少しの沈黙の後、男性局員さんが、口

を開いた。

「愛って何だと思いますか?」

「え?」

「いえね、うちの新人が色々な愛に興味

があるようでして、参考までに千葉様の

意見もお聞きしたいなと」

「愛ですか…… 私は、憎しみと無償だと

思います。憎しみは、元夫に。無償は娘

に」

「えっ!?憎しみも愛なんですか?」

「愛の形は様々だよ。千葉様にとっては

、憎しみも愛になりうるってことなんで

すよね?」

女性役員さんが私の答えに驚きの声

を上げ、男性役員さんは同調してくれた

憎いけれど、娘が生まれたのは彼のお

かげだから、それを考えると愛なのかな

って思っちゃうんです」

そう、決して恋人だったころの愛なん

かではない。生まれ変わったら絶対別の

人と結婚してやると思っていたが、また

娘と会えるなら、彼と結婚してやっても

いいかなと思ってしまっている。あんな

に苦しかったのに、死んでから変に気が

強くなったのだろうか。

でも…… こんな時でも元夫ありきで

しか考えが進まないなんて、やっぱり私

はひどい母親なんだろうな。こんな私が

、また娘の母親になりたいなんて願って

いいのだろうか。

「私、母親失格です。いつも自分が救わ

れることばかり考えて、娘の気持ち全然

理解できていなかった。娘はよく熱を出

す子で、絶対ストレスから来てるものだ

って分かっていたのに、きっと彼はもと

に戻ってくれるって信じて、DVに気づ

かないふりしてた」

「千葉様…… 愛する人を信じたいと思

うのは当然のことですよ。千葉様は何も

悪くありません。そんなに自分を責めな

いでください」

「あなた…… 優しいのね、戸田さんとい

うの?娘も、あなたみたいな優しい子

に育ってほしいわ。もうその姿も、見ら

れないけれど」

私はここに来て初めて、局員さんたち

の胸についている名札を見た。男性の方

は一ノ瀬さんというらしい。

こんなに話しているのに、いまだ書き

たいことがまとまらなくて悩んでいる

と、先ほどから黙っていた一ノ瀬さんが

口を開いた。

「娘さんに謝りたいこと、後悔している

こと、そして彼女への無償の愛を、まと

まらなくたっていいから書いてみたら

どうですか?あなたのそのままの気

持ちが、娘さんは知りたいはずです」

まとまらなくたっていいから、そのま

まの気持ちで…… 。

「どうして娘さんに書きたいのに、前の

旦那さんを思い出すんでしょうね」

戸田さんの呟きにはっとした。書けそ

うな気がする。

私は悔しかったのだ。DVは、殺人に

ならない以上、当事者だけの間で終わっ

てしまう。しかも大体は相手を訴えたと

しても、治ることなんてない。許したつ

もりなんてない、死んでも尚、こうして

悔しい気持ちと、トラウマに苦しんでい

る。そのDV夫からやっと娘を解放させ

てあげられると思っていたのに…… 。

確かに夫は娘には暴言も暴力も振る

わなかった。けれど、それはまだ彼女が

小さいからかもしれない。大きくなった

ら、過干渉がいき過ぎて娘も私と同じ思

いをするようになってしまったら……

それがとにかく心配なのだ。娘には幸せ

になってほしい。だけど、彼女を育てる

のは父親である元夫だろう。

私は大きく深呼吸した。

あやねへ

さみしい思いも、怖い思いもたくさん

させてきて、やっと二人で幸せに暮らし

ていけると思っていたのに、急にいなく

なってごめんね。

パパがママにひどいことをしてきた

ことは、あやねもよく知っているでしょ

?今はまだあなたは三歳だから、しば

らくは大丈夫かもしれしれないけれど、

もし、パパに少しでも疑問を持ったらす

ぐに逃げないさい。きっと誰かは助けて

くれる。学校の先生でも、警察でもいい

誰でもいいの。ママが出来たように、き

っとあなたも、幸せになれる道を見つけ

れられる。ママはとても時間がかかって

しまったけど、あなたは自分の幸せのた

めだけに生きて行って欲しい。ママとの

約束よ。自分の人生を犠牲にするような

こと、自分を大切にしない選択は絶対に

しないでね。

あやね、あなたはママの生きる希望で

した。あやねが大きくなって、誰かと幸

せになる日を見ることが出来ないのは

とても辛い。だけど、あやねが生まれて

くれてママは本当に嬉しかった。どうか

、あなたは人生を全うしてね。

もし、できるなら、来世があるなら、

またあなたの母親にならせてください。

愛しているわ。ママの娘に生まれてき

てくれてありがとう。

ママより

「これ、元夫に読まれたら困るんですけ

ど」

「大丈夫ですよ。本人にしか認知できな

いようになっていますので。あ、彼女が

それなりに大人になってから届けたほ

うがいいですかね?」

「あ、そんなこともできるんですね。じ

ゃあ、そのくらいになったら届くように

してくれますか?」

「承知いたしました。あ、ちなみに転生

時期を選ぶこともできるので、もしよか

ったらまた受けつけの方で聞いてみて

ください」

一ノ瀬さんが丁寧に手紙を封筒に入

れ、その時が来たらちゃんと娘に届くよ

う、手続きをしてくれた。

転生時期を選べる…… また娘の母親

になるにはそのほうがいいのだろうか

…… 。

「私は、残してきてしまった母にどう思

われているんでしょう」

ぽつりと戸田さんが放った言葉に私

ははっとした。あやねのことばかり考え

ていたが、私の両親は、自分達よりも先

に死んだ娘のことをどう思っただろう。

急に心が何かに押しつぶされたように、

ぎゅっと痛くなった。

そうか、親より先に死んだのか。

「間違いなく、喜んではいないでしょう

ね。私も親がどう思っているのかは分か

らないわ」

答えを求めている彼女の呟きに、正解

の返しが出来なくて目線を合わせるの

が怖くなってしまい、私を思わず下を向

いた。

親になっても分からない。きっとあや

ねが私よりも先に死んでしまったら、辛

いなんて言葉じゃ表せないくらいの絶

望に侵されるだろう。自分で命を断って

しまうかもしれない。だけど、私は親よ

りも先に死んだ子供の側だ。母としての

私は、子供が心配だと親心が出て、しっ

かりしなければとパニックにならずに

済んでいるが、今自覚した子供としての

私は、いつもたいていのことは何とかし

てくれる両親がここにはいないのだと、

急に心細くなってきてしまった。いつ帰

ったとしても快く迎え入れてくれて、い

つまでも可愛い娘として、母親の私では

なく二人の子供として実家にいる時は

過ごすことが出来た。

それが、もうない。

「もしいつか、私の罪が許される時が来

たら、生まれ変われたら、母の子供にも

う一度生まれたいです」

以外にも明るい彼女の声に、思わず私

は顔を上げて彼女を見た。

彼女は笑っていた。私は母に、産んで

くれてありがとうと、あなたの娘に生ま

れることが出来てよかったわ、と伝えた

ことがあっただろうか。娘にラブレター

を書いたこと絶対に後悔しない。ただ、

母にも手紙を書けばよかったなと……

いや、もっと生きている時に感謝すれば

よかったなと思ってしまった。

そうすれば、ごめんねという気持ちば

かりで次の人生に行くことはなかった

だろう。

「私も、そう思う。また母の子供として

生まれて、それから娘の母親になりたい

から転生時期はずらさないことにする

わ。転生までにどれだけ時間がかかるか

は分からないけど、運命を変えたら二人

とは出会えない気がするのよね」

私は席を立ってドアの方へと向かっ

まれ変わったら、また娘の母親にな

りたい。だけど、両親の娘にもなりたい

。けど、いくら考えても仕方ないことだ

戸田さんは、自分の罪がと言っていた

。罪とは何なのだろう。私はこの後転生

するが、もしかしたら彼女は私が転生し

た後も、ここで働き続けなければいけな

いのかもしれない。それが罪だというな

ら、なおさら私は前を向いて次に行かな

ければ。

きっと、彼女の最後の言葉には、「私

にはチャンスがないけれど、あなたには

あるよ」という意味が含まれていたのだ

ろうから。

「ありがとう」

そういって私は郵便局を出た。そのお

礼は、娘に最後の手紙を書けたことにな

のか、気持ちを救ってもらったからなの

か、はたまたどちらともなのか、最期に

なっても自分の気持ちが分からなかっ

たが、もうモヤモヤはしていなかった。

ありがとう。自分と関わった人たちへ

「愛について、ちょっとは分かったかい

?」

「どうでしょう…… 今回も難しくて。愛

って、重ければいいってことではないと

いうことはよくわかりました」

千葉様にとって、運命の人だと思った

優しい夫は実はDV夫で、異常愛を向け

てくる人だった。その人への憎しみも悔

しさも、そして捨てきれない少しの愛情

を抱えながら、その人との子供に愛情を

捧げてきたのだ。娘がいたことは彼女に

とって、とても大きかっただろう。

「でもなぜでしょう。それだけ苦しかっ

たのなら、娘を連れてさっさと逃げてし

まえばよかったのに」

「自分がDVを受けている自覚がない

んだよ。話し合えばきっと分かってくれ

る。いつか元の優しい人に戻ってくれる

。だって怒らせなければ、王子様のよう

に優しいんだもの。浮気だってしないし

、彼に限って…… なんて思ってしまうも

のなんだよ」

「DV受けた女性の気持ちまでよくわ

かりますね!」

「もう何年もここでいろんな人の愛に

むきあってきたからね」

DVなんてドラマの中だけだと思っ

ていた。きっと千葉様もそうだったのだ

ろう。私がもし…… いや、絶対気づけな

い。気づきたくない。周りの人にどう思

われるんだろうとか、可哀想な人になり

たくないとか、そんなプライドもあって

、誰にも言えないまま一人抱え込んでし

まうだろう。あぁ、そうやって千葉様は

憔悴していったのだろう。

「DVをする人ってね、異常なほど愛情

深くて、承認欲求も凄いんだよ」

「でも、元旦那さんはとても人気がある

人だったって、言ってましたよね?」

「自分が好きな人に認めてもらえない

と意味がないんだよ。奥さん、ここに来

た時は憔悴していたけれど、元はキレイ

な人だと思う。きっと普段から身なりも

整えてて、凄く魅力的な人だったんだろ

うね。普通だなんてとんでもないよ」

「そこに旦那さんも惹かれた…… 子供

も生まれて、浮気もしていなさそうだっ

たのに何が不満だったんでしょう」

浮気なんてするような人には見えな

かったし、もししていたならきっと話し

てくれただろう。不満に思うことなんて

ないはずなのに。

「自分よりも若くて、母になってもきれ

いな妻。最初は誇りに思っていたけれど

、どんどん悪いほうへ妄想が膨らんでい

き、不安からDVをするようになったの

かもね。どれだけ愛情を注いでも、そう

いう人って心がざるだから、流れ出てし

まうんだよ」

かわいそうな人なんだ。愛されている

のに満足できず、愛する人を傷つけだし

てしまう。

それに人生をかけて向き合った千葉様

は立派な女性だった。今度生まれ変わっ

たときは、もっと大切にしてくれる人と

結ばれてほしい。

そう思っていると、

「まぁ、それでも彼女の運命の人なのだ

から、こうなってしまうのは仕方ないの

だけどね」

「え、運命の人だったんですか?」

「うん。彼等は離れられないと思うよ。

これからもずっと。そういう星のもとに

生まれた人なんだよ」

「なぜそんなことまでわかるんですか

?」

「いや、ただの勘だよ」

と、一ノ瀬さんはへらりと笑って、答え

を濁してきた。

運命の人だなんて、これから先生まれ

変わってもまた同じことが起こるかも

しれないのか。運命の人なんて知らない

ほうがいい。自分に関しても、他人に関

しても。

でも、誰とも最期まで結ばれることな

く命を断った私は、一体誰と結ばれるは

ずだったのかは、少し知りたいと思って

しまった。

*戸田あかり

「最近の戸田さん、お客さんの思い出を

よく聞きだせるようになってきたね。や

っぱり僕の目に狂いはなかった。君を引

き抜いて本当に良かったよ」

ここにきて一か月くらい経った頃の

とある休憩中に、突然一ノ瀬さんからお

褒めの言葉をもらった。

「え?」

「もし、戸田さんだったら誰にラブレタ

ー書きたい?ぱっと思いつく人って

いる?」

一ノ瀬さんが私を引き抜いた?そ

の理由もっと詳しく知りたくて聞き返

したが、質問を被され理由を知ることは

できなかった。

「…… 好きになりかけてた人はいます」

「へぇ、どんな人だったんだい?せっ

かくだし、恋バナしようよ」

恋バナとか言うんだ…… 。

私の恋バナに興味を持ったらしい一

ノ瀬さんは、隣の椅子に腰を下ろし話の

続きを催促してきた。

「そんなきらきらとした目で見ないで

ください。別に面白くもなんともないで

すよ、私の恋バナなんて」

「いいからいいから、さあさあ」

仕方ない。私は腹を決めて死ぬ直前ま

で想っていた人を思い出しながら、ぽつ

りぽつりと話し出した。

私は浪人生だった。行きたかった美大

に落ち、それでも諦めきれなくてバイト

でお金を稼いで予備校に通い、次こそは

合格してやると必死だった。

私がバイトをしていたのは、スーパー

に隣接しているようなたこ焼き屋さん

だった。うちの店舗は店長しか社員がい

なく、しかも店長は多店舗も担当してい

たので、店長がいない日は二年目の私が

店長の代わりを務めていた。

二年も働けば一人前として扱われる。

新人を育てるのも私の仕事だった。他の

子達は現役の学生バイトばかりで、私み

たいに社員と同じだけ働いている子は

少なく、また何年も続く子はいなかった

そんな時、世界を揺るがすウイルスが

流行したことにより、勤めていた会社が

倒産したからと新人が入ってきた。

野村魁、私と同じフリーターだった。

喫煙者だったのでマスクを外した顔も

見たことがあったのだが、とてもきれい

な顔立ちをしていたことをよく覚えて

いる。だが童顔で黒髪の短髪、背も16

0㎝くらいだったので最初は同い年く

らいだと思って接していたから、のちに

25歳と聞いてとても驚いた。

彼に抱いていた最初の印象は、「無神

経」つまり苦手だった。最近まで働いて

いたからか、無遅刻無欠席でバイトとし

ては優秀な人材だったのだが、人気のア

ニメ映画を見に行って、あまりにも感動

したから泣いてしまったと話を振れば、

「泣いた?あれで泣けるとかないわ

ぁ」

と鼻で笑ってきたり、

「え?うちの県が『美人が多い県ラン

キング3位』?ないない。だってこの

職場、女性多いけど美人だと思える人ほ

とんどいないじゃん」

今思い出しても腹が立つくらい、無神

経なことばかり言う人だった。

せっかく分からないところを教えて

も、「はいはい、そういうことね」と話

を被せて勝手に終わらせる。こんな厄介

な新人今まで居なかった。腹が立ち過ぎ

てどうにかなりそうだけど、仕事は丁寧

できちんとしている。もう少し周りと合

わせることが出来たら完璧なのに…… 。

そうして一緒に働くようになって半

年が過ぎた。さすがの私も彼にイライラ

することは少なくなってきて、他のみん

なも彼を受け入れられるようになって

いた。

彼がみんなと打ち解けられるように

なったのは、とある会話がきっかけだっ

た。

「野村さんって、BLとか分かります?

立ち猫とか」

ある時、高校生バイトの子が私たちの

会話を遠巻きに見ていた彼に話題を振

った。なんでもその子はBL作品が大好

きで、私もそれなりに知識はあったから

シフトが被ると、よく色々な作品の感想

を聞かされていた。

彼も聞き耳を立てているようだった

し、何より同じ空間にいるのだから話に

入れてあげなければ、と思ったのだろう

。二十六になる大人の男性に、急にBL

の話題をふるのはいかがなものだろう

と思ったが、まぁ若さゆえのことだ。別

に彼もそこまで子供じゃないだろうと

思い黙っていることにした。

「あぁ、詳しくはないけどボーイズラブ

のことっていうのは知ってますよ。でも

立ち猫は分からないかな…… 。舘ひろし

?」

「いや、あぶない刑事ってそういうこと

じゃないから!」

まさかそんなボケをかましてくると

は…… 思わず突っ込んでしまった。

「戸田さんって、ノリいいんだね。そう

いうのポイント高いな」

ポイントって、何様なんだよと思った

があまり悪い気はしなかった。むしろ、

こんなよくわからない例え突っ込みを

彼は理解してくれるんだと感動してし

まった。

この人、悪い人ではないのかもしれな

い。ただ不器用なだけで本当は人懐っこ

くて可愛らしい人なのかも…… 。

それから私は「彼は不器用な人だから

」と思うことにして、無神経なことを言

われたとしても嫌な人だと壁を作らず、

言葉が足りない彼は本当は何が言いた

かったのかを考えるようになった。そう

していたら以前よりも彼と打ち解けた

ように感じた。お昼に誘われたり、帰り

が一緒の時は最寄りの駅まで送ってく

れるようになったのだ。

人間とは、いや女とは単純なものであ

れだけ嫌っていた彼なのに、いつしか目

で追ったりシフトが被ったりすれば密

かに喜ぶようになってしまった。意外に

もそれはすんなり受け入れることがで

き、誰かを想って一喜一憂できる毎日は

、灰色の人生に彩を与えてくれ、久々に

生きている実感が湧いた。

「家まで送ってくれませんか…… 今日

は雪なので」

覚悟を決めたのは、彼への恋心を自覚

して一か月後の遅番終わりだった。その

日は今年一寒い日で珍しく雪も降って

いた。きっと積もるだろうというような

重い雪。これにあやからずにはいられな

かった。

「いいよ。寒いし、電車も遅れそうだも

んね」

いつものように最寄まで。と言わなか

ったのは、家を知られてもいいという特

別な感情を含めていたからだったのだ

が、鈍感な彼には伝わらなかっただろう

。特に触れられることなく車は動き出し

た。

「仕事慣れました?」

「まぁ、流石にね。高校生の若い子たち

にたまにジェネレーションギャップ感

じることもあるけど、それもいい勉強に

なるし結構楽しんでやってるよ」

「それはよかったです」

私はあと一か月で辞める。別に大学に

進学しても今より入れなくなるだけな

のでわざわざ辞める必要はないのだが、

何としても合格しなければ戻るところ

なんかないという気持ちで今回は受け

ることにしたのだ。そのおかげで例年よ

りも満足が行く作品が出来たし、なぜ落

ちたのか自己分析も徹底した。大丈夫、

今回は絶対大丈夫だ。

だから古株でしかも年が近い私がい

なくてもやっていけるのか、今でも少し

心配だったのだけれどその必要はなか

ったらしい。

「それじゃあ…… 」

「いちご狩り行きませんか?」

安心して辞められます。と続けたかっ

たのだが、彼の突拍子もないお誘いのせ

いでそれは叶わなかった。

「え…… いいですけど、突然どうしたん

ですか?」

「戸田さん、辞めちゃうんでしょ?も

う会えなくなるのは寂しいからさ」

「知ってたんですね」

「うん、他の子に聞いた。教えてくれれ

ばよかったのに」

「すみません…… あの、いちご狩りって

二人で行くんですか?」

「んーー、そのつもりだったけど嫌?」

「いえいえ、そんなことないですよ」

二人っきりの方がいい。でも、それっ

てデートだよね。野村さんはどういうつ

もりで私を誘ってくれてるんだろう。年

上だし、経験も豊富そう。女の子と仲良

くなったら皆こうして気軽にデート誘

うのかな…… 。

「いつ行こうか」

「あ、私来月の二十二日に合否発表を控

えてるんです。それ以降だったら…… 」

「そっか。合格かどうか聞いてからの方

が楽しみやすいよね。じゃあまた近くな

って、予約出来たら連絡するよ。大丈夫

、戸田さんなら絶対合格できるよ」

「ありがとうございます」

それから家までは、たわいもない世間

話をして終わった。そして私はこの時に

もっと彼のことを知るための会話をし

ておけばよかったと、死んだ今でも後悔

し続けることになる。

「発表の当日、大学のサイトで受験に失

敗したことを知った私は、直後に駅のホ

ームで自殺しました。結局彼といちご狩

りには行けずじまいで、今では本当に恋

心を抱いていたのかどうかもわからな

くなってしまいました」

死んで彼ともう会えなくなってしま

った今、自分の恋のことなどどうでもよ

くなってしまった。どう思っていたとし

ても、もう私には関係ない。気持ちを伝

えることも、彼とどうなることも、でき

やしないのだから。

「でもどうして戸田さんは、受験に失敗

しても彼とデートするという楽しみが

あったはずなのに、自殺してしまったん

ですか?」

そういえばどうして私は死ぬことを

選んだんだろう。楽しみにしていたはず

だったのに。彼の存在がきっと合格でき

なくて落ち込んでいる私の希望になっ

ていたはずだ。一体どうして…… 。そう

いえば、どうして彼のことをもっと知っ

ておけばよかったと後悔しているんだ

ろう。

目をつむって自分が死んだときのこ

とを考える。そういえば自分の死につい

て振り返るのは初めてのことだ。私が最

期に見たもの…… がやがやとした人の

声と共に映像が流れ込んできた。

スマホ片手にホームに立っているあ

の日の『私』。それを宙に浮いている私

が見ている。もしかして、これが私の能

力というもの!?もっとかっこいい

ものかと思っていたから少し残念だ。死

の直前の映像を第三者の視点から見る

ことが出来る、なんてこれから役に立つ

のだろうか。

ドサッと持っていたカバンを『私』が

落とした。ここまではなんとなく覚えて

いる。問題はここからだ。

カンカンカンカンと踏切が鳴りだし、

遮断機が下りてくるのが見えた。一番前

に止まった大きなシルバーの車…… 『私

』の位置からは向かってくる車の車内ま

でハッキリ見えてしまうので、その車を

運転しているのが誰なのか、あの時の『

私』は気づいてしまったのだ。

その車を運転していたのは…… 野村

さんだった。それだけなら自殺しような

んて思わなかっただろう。しかし、彼の

運転する車の助手席には、私の知らない

きれいな女性が乗っていて楽しそうに

談笑している姿を見てしまったのだ。

あぁ、私だけじゃなかったんだ。デー

トに誘われて浮かれてバカみたい。

『私』の体が電車の来ている線路に吸

い込まれていく。必死にブレーキをかけ

たのだろう、けたたましい金属音が周辺

一帯に鳴り響き、そこで私の記憶は途絶

村さんが女性とデートしている姿

を見て、衝動的に飛び込んでしまったの

か。もし、家まで送ってもらった時に「

いま彼女いるのか」とか、「好きな人は

いるのか」とか、そして「どうして私を

デートに誘ってくれたのか」をちゃんと

聞いておけばよかった。全て今更だが、

記憶を第三者目線から見たことで、あの

とき気づかなかったことに気づいてし

まった今、後悔がどっと押し寄せてきて

しまった。

隣にいた女性のきりっとした目元、口

の左下にあるほくろ、耳の形、すべて彼

とそっくりだった。彼女は彼の家族か、

親戚の方かもしれない。

「私…… どうして自殺なんてしてしま

ったんだろう…… 」

「何か思い出したのかい?」

「私、受験に落ちてショックでたまらな

くて、そんなときにたまたま彼が他の女

性と仲良くデートしているところを見

かけてしまって、衝動的に線路へ飛び込

んだんです。でも…… たぶんあの女性は

彼のご家族だったのではないかと」

「思い込みだったと気づいてしまった

んだね。死んだこと後悔してる?」

「そりゃそうですよ!死んでなかっ

たら今頃、彼とお付き合い出来ていたか

もしれない。私にも恋が出来ていたのか

もしれないんですよ!?」

自殺したことを後悔しない人なんて

いないだろう。私が自殺課にいた時、担

当したお客様は皆、「もっと生きたかっ

た」「一時の絶望になんか負けなければ

よかった」と後悔している人ばかりだっ

た。もちろんそれは私も同じ。

当たり前のことを聞かれ、思わず大声

を出してしまったが、そんなことは衝撃

的な事実の前に混乱している今、気にし

ていられない。

好きになりかけていたとか、今ではも

う恋だったのかも分からないとか、言い

訳ばかりしてきたけど、私は彼が好きだ

った。恋していたんだ。それなのに、一

瞬の絶望に負けて死ぬことを選んでし

まったせいで、自分の運命の相手だった

かもしれない人を自ら手放してしまっ

たのだ。もしかしたら彼はギャツビー様

のように恋心が曲がっていくかもしれ

ないし、あかね様の旦那さんのようにD

Vに走ったかもしれない。けれど、どん

な形になったとしても私はもっと彼を

知りたかったし彼と時間を共有したか

った。彼と私の関係がそう変わっていく

のかを生きて感じていたかった。

「どんなに後悔しても、自分で人生を放

棄してしまった罪は変わらない。僕たち

は罪人なんだよ。人生から逃げ、愛する

ことからも愛されることからも逃げた。

ラブは決して楽しいことばかりじゃな

い。けれど、人生を全うしたときに誰か

に想いを伝えることが出来るというこ

とは、とっても幸せなことなんだよ。僕

たちはその当たり前に手に入れるはず

だった幸せを、自分の手で逃してしまっ

たんだ。

だから僕は、自分が出来ない分人生を

全うした人たちの最後の愛を、愛する人

へ伝えるお手伝いがしたいと思ってこ

の郵便局を作ろうと決めたんだよ」

一ノ瀬さんの声はとても柔らかかっ

たが、言っていることはとても厳しく、

思わず私は目を逸らしてうつむいてし

まった。

心のどこかで、死んで時が止まってし

まっているのに、愛について理解するな

んて今更何の意味があるのだろうと思

いながら仕事をしている自分がいた。

けれどそれは間違いだったのだ。お客

様の愛に触れ続けること。責任もって、

彼らのラブレターを届けること。それが

私たちに課せられた使命なのだろう。

「私、もっと頑張ります。愛とか恋とか

分からないなんて言い訳しないで、愛を

貫いたお客様の心に寄り添えるようも

っと努力します。そうしたらきっと、私

の恋もいつかはいい思い出として受け

入れられるようになるかもしれないの

で…… 」

うつむいたままの私の頭に、ふわりと

生温かいものが置かれた。目線を上げる

と一ノ瀬さんが微笑んでいる顔と、彼の

腕が私の頭の方に伸びているのが見え、

そこでやっと私は一ノ瀬さんに頭をな

でられているのだと理解した。

「ごめんね、僕だって自殺した人間なの

に偉そうなこと言って。僕も死んだこと

を後悔しない日はないよ。転生できない

と分かっていれば、意地でも頑張って全

うしようとしたかもしれない。けれど、

一時の絶望に負けてしまった」

私は反射的に手を伸ばして一ノ瀬さ

んの肩に触れた。もしかしたら他人の最

期の記憶も見れるのではないかと思っ

識を集中させる。薄暗い和室に、木

でできた椅子が倒れている。そのうえで

ぶらぶらとなにかが揺れている。これは

…… 。

ばっ!と一ノ瀬さんが飛び退いた

ことで見えていた映像は途絶えてしま

った。

「なに…… ?」

微笑んではいるが、その声はとても戸

惑っているような感じだった。

「すみません、私、自分の死ぬ間際のこ

とを思い出したというより、視たんです

。『第三者目線で、意識が切れる直前の

記憶を視る』いうことが、どうやら私の

能力らしくて、他人でもできるのかと少

し試してしまいました」

「視た?僕の記憶」

「はい…… あ、でもどういうお亡くなり

方をしたのかはわかりませんでした」

「そう…… なんにしても、能力が目覚め

たのは喜ばしいことだね。ただ、使う時

はお客様の同意を得てから使わなくて

はいけないよ。死に方って人それぞれだ

からきれいなままならいいけど、ひどい

事故で亡くなった方に関しては見られ

たくないって方もいるからね」

私は頷いて、もう一度勝手に過去を見

ようとしたことを詫びた。一ノ瀬さんの

ようなおおらかで落ち着いた人が、自殺

したくなるくらい絶望するようなこと

って一体どういうことだったんだろう、

と知りたかったというのも実はあった。

一ノ瀬さんの最期。全て見たわけでは

ないから予想でしかないのだが、和室に

転がった椅子、そのうえでぶらぶらと揺

れていた影…… 一ノ瀬さんが首を吊っ

た瞬間の映像だったのでないだろうか。

「あ、そろそろ休憩終わるね。準備しよ

うか」

一ノ瀬さんが立ち上がって支度しに

行こうとするので、私は慌てて呼び止め

た。今聞かなければ、一ノ瀬さんのこと

を知る機会を逃してしまいそうな気が

する。知りたいと思った人のことを知れ

ないまま後悔することになるのはもう

嫌だ。

「あの!一ノ瀬さんが絶望したこと

って、どんなことだったんですか?」

彼の動きがピタリと止まり、言葉を探

しているのかそのまま数秒の沈黙が流

れた。

「人生をかけて愛した人を…… 失って

を振り返ることなくボソッと切な

げにこぼした彼は、そのまま奥の部屋へ

と消えていった。いつもの元気な様子と

は打って変わって、去っていく後姿はと

ても小さく見えた。

パタンッとしまった扉が、彼の心と同

調しているようだった。さっきはあんな

に優しい目で見てくれたのに、まだまだ

私と彼との間には壁があるのだと少し

寂しく感じてしまった。

*永野拓馬

始業時間になり、もうすぐお客さんも

来てしまうというのに、私の頭は昨日一

ノ瀬さんが話してくれた、彼の死につな

がる理由でいっぱいだった。しばらくは

深堀できないだろうし、さっさと切り替

えなければいけないのに…… 全く仕事

に身が入らない。キャスター付き椅子で

くるくる回転しながら何とか雑念を飛

ばそうとした。一ノ瀬さんに見られたら

無言の笑顔で圧力をかけてくるだろう。

今日は私に接客を任せて、一日裏に籠っ

て仕事をするつもりらしい。何の仕事を

しているのかは分からないが、顔合わせ

るのは決まずいのでちょうどよかった。

「すんませーん、なんか遺言とかあるん

だったらここに行けって言われたんす

けど、ここってなんすか?」

そんな風にもたもたしていたらお客

様が来てしまった。入り口が開き、よれ

よれのTシャツに、よれよれのジーパ

ン、穴が開いているスニーカーを身に着

けた男性が入ってきた。天パなのだろう

か。手入れしていないせいで鳥巣を乗せ

ているようにしか見えない。

「こんにちは、ここはラブレター郵便局

といって、お客様の最後のラブレターを

お一人様にだけお届けするという郵便

局となっております」

「あぁ、そう。最期の。やっぱ俺死んだ

の?」

「はい。ここに来る前に説明受けました

よね?」

命を落としてすぐこの市役所に転送

される。皆気づいたらここにいたという

状態なのだ。そんなすぐには状況が理解

できなくて当然だろう。自殺課はともか

く、他の部署では発狂するお客様もたま

にいらっしゃると聞く。ここに来るお客

様はさすがにここまでの道のりの間で

受け入れることができているらしく、こ

のお客様のように混乱し続けている方

のほうが珍しい。

「あぁ、まぁ。でもさっきまでビルの上

にいて動画配信してたんすよ?そん

なすぐ死を受け入れられるわけないじ

ゃないっすか」

「まぁ、そうですよね…… ご愁傷さまで

した」

なんだろう、身なりをきちんとしてい

ないせいか、二十代後半か三十代前半く

らいのだろうに話し方がふわふわして

いるせいだろうか…… どうも苦手みた

いでイライラする。

「ここに座ればいいっすかね?」と、答

える間もなく彼は座った。別に私の前に

座ってくれたのだからいいのだが、質問

してきたならせめて私の返事を待って

からにすればいいのに、なんてこんな小

さいことでもイラついてしまう。相手は

お客様なんだから苦手でもきちんと接

客しなければ…… 私は深呼吸して彼に

向き合った。

「お客様のお名前をお聞かせください」

「永野拓馬。二十八っす。手紙は元カノ

宛で」

彼に便箋を渡しつつ、同時に手紙の説

明や届け方の説明を終える。一か月も働

くと、一ノ瀬さんの手助けがなくてもそ

つなく説明できるようになってきた。

「手紙って、何書けばいいのかわかんね

ぇ~。そういえば悠は…… あ、悠って元

カノの名前なんすけど、あいつはことあ

る事にが手紙よこしてきたなぁ。あれ、

捨てられちまうのかな」

「お客様のお気持ちを整理するお手伝

いも私たちの仕事ですので、どれだけ時

間がかかったとしても後悔の無いよう

に、最期のラブレターを一緒に完成させ

ましょう。まずは、お相手の方との一番

の思い出を思い浮かべてください」

男性の方は何を書いていいか分から

ないと、最初からつまづかれる方が多い

。せっかくだし、残してきた愛する誰か

へ届けたいと思ってここへ来たが、生前

よほど筆まめの人でなければ、絵文字や

スタンプを多用しているSNSが主流

の時代で、手紙を送り合う方は永野様の

ように若い方ではほとんど見ない。

そういう方はかなり時間がかかる。ま

とめてしまえば「愛している」というこ

となのだが、最期なので思い出を反芻し

たいというのは皆同じだと思うが、男性

は女性よりも記憶にきれいなフィルタ

ーがかかりすぎて、中々書きたいことが

まとまらない。これがいわゆるロミオメ

ールか、と思う手紙も何度か見てきた。

幻想ばかりの記憶の中から本当の記憶

と、気持ちを根気強く聞き出していくこ

とが大切になっていく。

「一番の思い出?えーー、なんだろう

なぁ。悠は介護士で休みも中々自由に取

れなかったし、ウイルスもまだまだ脅威

で、旅行とか行けてなかったんっすよ」

「特別な思い出ではなくていいんです

よ。日常で心に残っていることでも」

永野様はうーーんと首をひねって黙

りこんでしまった。

半年前の俺は、工場に勤める会社員で

介護士の元カノ悠と、二人の職場に近く

て家賃もまぁまぁの2LDKに住んで

いた。悠と同棲したのは付き合って一年

目くらいの時で、気づいたらあっという

間に四年が経っていた。

男の四年なんて、気づいたら経ってい

た程度のものだが、女は違うらしい。三

年を過ぎたあたりから、

「高校の同級生の〇〇が二人目を産ん

だらしいの。私も早く子供欲しいなぁ。

どんどんできにくくなっちゃうものね」

と、ちょくちょく結婚を催促させるよう

な話題を振ってくるようになった。その

たびに俺は「タイミングじゃない」とか

わしてきたのだが、そのうちに話題を出

されるのも億劫になり、露骨に嫌な顔を

して無言になるを繰り返すうちに、四年

を過ぎた頃から俺達の間で「結婚」の話

題が出ることは無くなっていった。

そして「もうすぐ五年になるんだな」

と話題を振った時、突然、

「別れよう」

と切り出された。記念日の丁度一か月

前のことだった。

「は?何突然。喧嘩もなく楽しくやっ

てきたじゃん。先週だって一緒に映画見

に行ったし、昨日は酒飲みながらゲーム

したじゃんか。なに?なにか怒ってん

の?」

「突然じゃない。この二年間ずっと考え

てきた。確かに、拓馬といるのは楽しい

よ。五年近く経ってもそれは変わらない

し、きっとこれからも楽しいだろうなと

は思う」

「楽しいならそれでいいじゃんかよ」

「でも、安心がない。家族になって、子

供を産んで、一緒に悩んでぶつかって、

そういう未来があなたとは見えてこな

いの。ままごとの延長戦を永遠に続けて

このまま人生終わるなんて嫌。だから一

緒にいられない」

ままごとの延長戦?悠が何を言っ

ているか全く分からなかった。確かに俺

たちは家族じゃない。ただの恋人だ。で

も今の時代、籍を入れないカップルなど

大勢いるだろう。免許をはじめ、様々な

書類を訂正したり、新たに書いたり大変

だと聞く。そんなめんどくさいことをわ

ざわざしなくたって、結婚生活と何も変

わらないことをしているだろう。何がま

まごとの延長戦だ。理想ばかりで現実的

なことを考えたことがあるのだろうか。

いくら周りが妬ましいからって、一人で

焦って空回りされても困る。

「結婚しないから別れるって?紙一

枚の契約になんでそんなにこだわるん

だよ。今だって結婚してるのと変わらな

いし…… 」

「籍を入れない、という事実婚にこだわ

るんだったらそれでもいいの。住民票を

移して、未届けの夫や、妻と記載すれば

いい話だったりもするし、非嫡出子も相

続分は変わらないことになった。でも、

事実婚をしたいならそれ相応の理由が

いるよ。あなた結局、事実婚すらどうい

うものか調べてないんでしょ」

図星だった。事実婚、普通の結婚とど

う違うのだろう。めんどくさい書類を書

く負担が減るのだろうか。けれど、今後

はどうなるのだろう。子供が生まれたら

?そしたらまた書類を書く。その時に

事実婚だとどうなるのだろう。どちらの

戸籍に入るのだろう。もしそのまま別れ

たとしたら?養育費とか法律的にど

うなってくるのだろう。何も分からない

。けど調べていないことを認めたら、本

当に出て行ってしまうだろう。悠と別れ

たくない。五年も付き合えるような人だ

。俺達はむかしからタイミングも色々な

相性もよく合う二人だった。

運命の相手、くさ過ぎて口にしたこと

はないが、きっとそうなんだと信じて疑

わなかった。だからこそ、こんなところ

で手放すなんて間違っている。悠には何

とか思いとどまってもらわないと困る

のだ。

「ち…… ちゃんと調べてたさ。お前が法

律的な結婚だけにこだわってると思っ

て言い出せなかったんだ」

頬をかきながら説明すると、悠は腕を

組む仕草をした。一般的に人の話を聞く

ときに腕を組むというのは、自分を守る

動作で心を隠しているという意味があ

るらしいが、悠のこの仕草は、ちゃんと

聞きますという気持ちの入れ替え動作

らしい。そういう癖があるのは、付き合

いたての時から把握している。これをし

ているということは、弁解のチャンスを

もらえたということなのだ。

「事実婚でいいっていうならそうしよ

う。それなら文句ないだろ?」

「私、子供欲しいけど子供の戸籍って、

どうなるか知ってるのよね?」

一番聞かれたら痛いことを聞かれて

黙り込んでしまう。

「やっぱり、調べてるんなんて嘘だった

のね。あなたが頬をかきながら話すのは

嘘をついている証拠なのよ」

癖を知っているのはお互い様だった

ようだ。言わないけれど分かっている。

言わないけれど、同じ気持ちでいるのだ

とずっと錯覚していた。そもそも、結婚

をわずらわしいと思っている俺と、ずっ

と結婚を匂わせてくる悠が同じ気持ち

なわけないのに。

そういえば言い合いをするのはいつ

ぶりだろう。同棲を始めた頃は、お互い

の生活が変わってよくぶつかることが

あったが、だんだんと二人で住むという

ことに慣れていき、こんな風に揉めるこ

とは無くなっていった。

揉めると、言いあったりするのすら面

倒で悠の怒りが収まるまで、今みたいに

黙って反論せずに聞いてたっけ。そのう

ちに、どうしようもないのだと悠が諦め

てくれるから、それまで俺は無言を貫く

。けれど今回は過去の揉め事とは違う。

黙っていれば尚更別れが近づくだろう。

どうにかするためには話し合わなけれ

ばならない。だが、今まで話し合いから

逃げていた俺は、話し合うために必要な

材料も、納得させるための話術も何一つ

持ち合わせていない気がした。

「ごめん。でも俺はどうしても別れたく

ない。でも、今は結婚もしたくない。責

任とか重すぎるし、子供も別に今は欲し

くない。けど、いつかは欲しくなるかも

しれないし…… 」

「それまで待ってくれって?結婚し

たくないし、子供も欲しくなるかは分か

らないけど、別れたくないって?すご

く自分勝手なこと言ってるって分かっ

てる?」

「だってそれは俺の価値観だから。結婚

はそこまで必要だと思ってないってこ

と。色んな考えがあって当たり前だろ?

お前みたいにみんながみんな結婚して、

子供を作ることが幸せだとは限らない

んだよ」

「そうよ。でも、子供が欲しくなるかど

うか分からないけど、別れたくはない。

っていうのも価値観の押し付けじゃな

い?私は子供も欲しいし、自分とパー

トナーの人生の責任を二人で背負って

いきたいと思ってる。だからそこが合わ

ない私たちは、無理してどちらかに合わ

せるなんてことせず、お互いの価値観が

合う人と一緒になればいいと思うの」

だから、「別れたい」ってか。今回ば

かりは、どちらかが折れるということは

できなかった。それから一週間後に悠は

新しい引っ越し先を見つけて出て行っ

てしまった。

それから俺は何事にもやる気が起き

なくなり、勤めていた工場を辞め家に引

きこもるようになってしまった。しかし

、家にいる時間が増えてしまったことで

余計に別れを意識させられ、悠の荷物が

あった空間を見つめるたびに凄まじい

虚無感に襲われた。

何度考えても答えは出ない。なんて言

えば悠は出ていかなかったのだろう。な

んて言えば変わらない生活が待ってい

たのだろう。

結婚はめんどくさい。自分の人生の責

任すら背負えているのかあやふやなの

に、人の責任、ましてや子供の責任まで

背負うことになったら…… と思うと、不

安で仕方なくなってしまう。別に俺の親

は仲良しだし、俺との関係も悪くない。

だから結婚に対するイメージは悪くな

いのだが、どうしてもいざとなると躊躇

してしまう。でもそれは、本当に小さな

引っかかりだったに過ぎないのではな

いかと思い始めた。

俺は悠と同棲始めるまでずっと実家

暮らしで、一人で暮らした経験がなかっ

たため知らなかったのだが、一人で生き

ていくというのは案外めんどくさいと

思った。今まで二人で分担してやってき

たことが、一人分になったとはいえ全部

をやらなければいけないことになった

しまった。そして何より、一人ってこん

なにも寂しかったのだなと気づいた。

だからといって、家事がめんどくさい

し寂しいから帰ってきてくれなんて言

っても、絶対に戻って来てくれないだろ

う。もう必要ないと思った連絡先はすぐ

に消して、ブロックしてしまう悠のこと

だ。俺のことももうブロックしているに

違いない。

人の人生を背負うのは怖い。けど、悠

とだったらなんとかしていけたのでは

ないか。

そうだ。俺は悠との未来に向き合うこ

とをしてこなかった。ずるずると「今幸

せだから別にいいや」って勝手に思い込

んで、俺達二人が目指す『家族』を考え

なかった。

俺だって悠と家族になりたいという

気持ちはあった。人のせいにするのかっ

て悠に怒られるかもしれないが、俺が全

く結婚とか考えていない時に先回りさ

れて結婚がどうのって言われてしまう

と、「今じゃないんだ!」って思ってし

まうのだ。

それにご両親への挨拶とか、指輪とか

、上司への報告とか、プロポーズとか、

考えなければいけないことが押し寄せ

てきて、あー、めんどくさいって終わら

せてしまう。

そのうちに、悠から「結婚」と聞くと

責められているように感じてしまって

いた。実際はそんなことないのに、俺が

ちゃんと話せばよかったんだ。

今すぐ、と決めれることではないけれ

ど、いつまでに、そしてその間に指輪と

か、挨拶とか相談しようって。それより

も一番言わなければいけなかったのは、

結婚を考えているということだった。

めんどくさい、って簡単に片づけられ

る便利な言葉だ。自分でもちょっと多用

しすぎだなと思う。

お風呂入るのめんどくさいな、靴下洗

濯機まで持っていくのめんどくさいな。

めんどくさいあるあるで、場が盛り上

がることだってある。ただ、今回ばかり

はこれに頼るのはよくなかった。

大してめんどくさいって思っていな

いくせに、何がめんどくさいのか聞かれ

たら答えられないくせに、悠と家族にな

りたかったくせに、馬鹿だな俺は、ほん

とに。

もう一度悠に会いたい。会って、結婚

したいと伝えたい。でも、連絡はもう繋

がらないだろう…… 。

その時にふと思い立ったのが、動画ク

リエイターだった。素人が動画を撮って

サイトに上げるということが今流行っ

ている。それでバズったり、有名人の目

に留まれば一気に俺の動画が広まって、

また悠と繋がることが出来るかもしれ

ない。

まずは、人の目に留まる動画を作るこ

とから始めなければ…… 。

どうやら心霊系や、冷や冷やする危険

な場所に行ってみた系が手っ取り早く

視聴者を稼ぐことが出来るらしい。しか

し、心霊系は幽霊が動画に映ったりする

運と、高度な編集能力が無いときっと視

聴者は離れて行ってしまうだろう。とな

ると、やりやすいのは危険な場所に行く

だけで視聴者が取れそうな危険な場所

に行ってみた系だな。

とりあえず、一番最初は生配信で自己

紹介がてら高所動画を撮ろう。問題は場

所だな…… 高所動画だから、それなりに

高いところじゃないとダメだよな。あ、

鉄塔とか?あそこならそれなりに高

いし、電線まで行かなければ感電するこ

ともないだろう。危なくない程度で撮れ

ばいいや。

「鉄塔に少し上ったところで配信を始

めたところまでは覚えてるんすよ。でも

、なんで死んだのかまで思い出せなくて

亡くなった人は私もそうだが、亡くな

る直前の記憶を失ってしまう傾向にあ

るらしい。悩みながらもぽつぽつ話して

くれた、お相手様との思い出には死の直

前の記憶は必要ないかもしれないが、知

りたいというなら最近やっと開花した

私の能力を使うべきかもしれない。

「お相手様との思い出には直接関係な

いかもしれませんが、御自分の死の真相

知りたいですか?」

「え、そんなことできるんですか?」

「はい。私は触れた相手の最期の記憶を

映像として第三者目線で見ることが出

来るので、同じように共有することはで

きませんが、どうやって亡くなったのか

、見たものをお話することはできます」

「思い出せないままなのは気持ち悪い

ので、教えてもらいたいっす」

「では、失礼します」

永野様の左手の甲に右手を乗せ、神経

を集中させた。すると、頭の中に映像が

流れ込んできて、鉄塔に上る永野様を見

つけた。永野様が亡くなる瞬間、私は目

を覆いたくなった。

今回は自分が死ぬ場面を見ているわ

けじゃない。人の死を見ているのだ。そ

の人が事切れるまでの記憶なので、鉄塔

のあるような見晴らしのいいところで

は、永野様が地面に激突する瞬間を見る

ということなのだ。これはとんでもない

能力だったのだ。お客様のために仕える

能力だが、自分の神経はとんでもなく擦

り減ることになる。

一ノ瀬さんが言っていたのはこうい

うことだったのか。きれいなまま亡くな

った人ばかりでないということは、死ぬ

間際の記憶も悲惨なものだったりする

よ、と言いたかったのだろう。気をつけ

て使わなければ私の精神が壊れてしま

うだろう。

「っ…… 、どのように亡くなられたのか

、見てきました」

「大丈夫っすか?めちゃめちゃ顔色

悪いっすけど」

能力を解除して現実に戻って来てか

らも、中々気持ちを切り替えることはで

きなかった。今は仕事中。とりあえずち

ゃんと永野様のラブレターを完成させ

るまでは、くじけるな。

「大丈夫です。では、お話しますが心の

準備は大丈夫ですか?」

「あぁ、はい」

「永野様は、鉄塔を少し登って配信を始

めました。その時点では落ちても軽症で

住む程度の高さだったのですが、配信中

にコメントでもっと上らないとつまら

ないという書き込みがされ、それを受け

た永野様はどんどん上まで登って行っ

てしまったのです。命綱はつけていなか

ったのですね?」

「あ、そんなに上らないと思ってつけて

なかったすね」

「つけていたら助かっていたかもしれ

ませんね。永野様はその後、上っている

途中で足を滑らせ地面に叩きつけられ、

お亡くなりになりました。即死だったの

で記憶が残りにくかったようです」

話したことによって再び永野様が地

面に叩きつけられた瞬間を思い出して

しまって、吐き気に襲われ、危うく戻し

そうになる。

「あーー、そうだったんすね…… 。人気

者になってまた悠に合うどころか、もう

二度と会えなくなるようなことを自分

でしてしまったんすね」

のどまでこみあげてくるものをグッ

とこらえ、私は永野様の目を見てハッキ

リ言った。

「そんなことはありません。確かに、も

う今回の人生ではお相手様、悠様に出会

うことはできないでしょう。しかし、永

野様は生まれ変わることが出来ます。そ

してその世界で、また悠様を見つけて今

度こそ一緒になればいいのです」

そう。私たちと違って、永野様はまた

次の人生がある。そこでまた悠様と巡り

合うことだって可能なのだ。確か、産ま

れ落ちる時を選ぶことが出来るのでは

なかっただろうか。前、一ノ瀬さんがそ

んなことを言っていたような気がする。

「でも、今俺が転生して先に生まれたら

、歳の差がありすぎるかもしれないし、

また出会えるかどうかも分からないじ

ゃないっすか」

「産まれ落ちたい時期は、この後行って

もらう転生課で調節することが出来る

と思います。出会えるかどうかは…… 永

野様次第だと思います」

「は?」

「永野様は、悠様を運命の人だと思って

いたのですよね?運命にはいろいろ

あって、出会うだけならさほど大変では

ないでしょう。しかし問題は、来世では

結ばれるかということ。来世では、と思

うならその気持ちをラブレターにする

しかないのです。永野様、まだあなたに

はこのラブレターという手段が残って

いるのですよ」

私も野村さんに書くことが出来るな

ら書きたい。事実を知ってしまった、尚

更やりきれない思いが募るばかりだ。永

野様にはやりきれない思いを抱えて次

の人生に行って欲しくない。もう二度と

会えなくなるようなことをしてしまっ

たのだと、後悔するのはまだ早いのだ。

私たちがお手伝いしてラブレターを完

成させれば、悠様の心を動かすことが出

来るかもしれない。

「俺は、逃げてばかりだった。結婚なん

てめんどくさい。人の人生を背負うなん

てめんどくさい。でもそれは、その場し

のぎのただの言い訳に過ぎなかったん

だ。のほほんと生きていた俺が、今すぐ

結婚に踏み出すなんて、絶対できないと

思ってたから、めんどくさいを盾に逃げ

ていた」

ずっと引っかかっていた。ずっと一緒

に暮らしてきた人、未来を考えていた人

と、いざ家族になろうよって話になった

ときに、めんどくさいなんて言葉がでる

だろうか、と。

自分のタイミングより先走られたら、

確かに戸惑ってしまうかもしれない。そ

の戸惑いのままにどんどん追い込まれ

て、永野様は意固地になってしまったの

だろう。

話し合えばよかった、本当にそれしか

言いようがない。

話し合うことが出来ていたなら、きっ

と永野様と悠様はいずれ結婚して、子供

を授かっていただろう。

「悠を幸せにしたかった。悠と一緒に人

生を歩みたかった。現実も悠の気持ちも

考えずに、話し合うことを拒否した俺は

馬鹿だった。意地にならなきゃ今頃きっ

と、俺はここにいなかっただろうに……

二人で家族を作って、二人で責任を背負

う。それができるということがどれだけ

幸せなことだったのか、今なら痛いほど

わかるよ」

私は結婚なんてまだ全然自分には関

係ない話だと思っていたから、深く考え

ていなかった。だが、どんな問題にも言

えるのは、話し合いって大事だというこ

とだ。

悠様も…… もしかしたらちゃんと話

し合わなかったこと、後悔しているので

はないか。

さ、死んじまったんだ。びっくりだ

ろ。俺もいまだに信じられない( 笑)

でも、ほんとだから、最期に一度も返

したことがなかった手紙を送ろうと

思って書いてみたんだ。

ごめん、俺が間違ってた。結婚はめん

どくさいし、重いと思ってた。けど、お

前と結婚して、子供を育てて、一緒に暮

らせるということが本当はどれだけ幸

せなことだったか、お前が出て行って痛

いほど思い知らされたよ。

結婚って、どちらか一方が責任を負う

ことじゃない。二人で背負って、苦楽も

分かち合って生きていけるということ

だったんだな。悠はずっとそうやって説

得してくれてたのに、本当にごめんな。

俺、恥ずかしくて言えなかったけど悠

は運命の相手なんだって思ってた。だか

ら離れていくことなんてないって過信

しすぎていたんだよ。馬鹿だよな、でも

ずっと後悔してた。

何事からも逃げてばかりで、お前の気

持ちと向き合おうとしなかった。でも俺

、次は絶対に逃げないから。

五年記念前に別れちまったけど、俺の

人生で一番幸せな時間だった。本当にあ

りがとう。

今度こそ幸せにするから。

来世では俺のお嫁さんになってくだ

さい。

拓馬

「これでお願いします」

「かしこまりました」

ラブレターを書ききった永野様は、こ

こに来た時に見せていた暗い顔ではな

く、とてもすっきりとした顔をされてい

た。

「手紙って、いいっすね。言いにくいこ

とも手紙ならすらすら書けるし。もっと

書けばよかったな」

「来世ではぜひそうしてください」

「そうっすね。また次がある。次はきっ

と間違えたりしない。まだチャンスがあ

るって言ってくれて、嬉しかったっす。

おかげで希望をもって来世に進めそう

っす」

そういって笑った永野様の笑顔を、私

は一生忘れないだろう。彼の未来が上手

くいけば、私の叶わなかった恋も報われ

るような気がしたのだ。この先も永野様

のようなお客様を沢山見ることになる

だろう。そのたびに今日のことを思い出

して、永野様のようにすっきりとした気

持ちで来世へと進んでいただきたいと

思う。

そういえば永野様は、あの世界的に大

流行したウイルスがまだ脅威だと言っ

ていた。私が生きていたころから流行り

始めたのに、まだまだ収まっていないな

んて驚きだ。天界の時間は、現世とは違

いとてもゆっくり流れている。天界の一

週間は現世で一年。ここにきて一か月ほ

ど経ったので、あれから三、四年経って

いるはずだ。

野村さんは元気だろうか…… 生きて

いる、もしくはウイルスで亡くなってい

てここに来ずに来世に行ったか。彼だっ

たら誰に書くだろう。書きたかったけど

、私はもう死んでいるから書けなかった

という話だったらちょっと嬉しいな、な

んて。まぁ、生きていることが一番うれ

しいことなのだけれど。

四年か。結婚してるのかな、子供いる

のかな…… 来世が合ったらまた巡り合

うことが出来たかもしれないのに。

永野様が出て行ったあと、私はまたカ

ウンターに座ってしばらくぼーっとし

ていた。

「うん、もう一人前だね」

「ひゃっ!!もう一ノ瀬さん、いきな

り声かけないでくださいよ!」

「いやぁ、ぼーっとしてるのが悪いんで

しょーー?どうだった?永野様の

愛は」

とても他人事とは思えない愛でした。

実は最初はちょっと永野様苦手だなと

思ったんですけど、お話聞いているうち

にどんどん感情移入しちゃんて、なんと

しても納得のいくものをかき上げてい

ただきたいと思うようになったんです」

「うんうん。この仕事に対する気持ちが

変わったからこそできたことだろうね。

振られた相手に未練を残しているとい

う人は、ほの暗い愛情を抱きやすい。け

れど彼の場合は執着というよりも、本当

に純粋な愛を感じたよ」

そう。本当に純粋な愛だった。本当に

悠様のことが大切で、とても素敵な時間

をこれまでに過ごしてきたのだという

ことが、初対面の私にでもよくわかった

。五年も一緒にいたのだ。悠様だってき

っとすぐには永野様のことを忘れるこ

となんてできないだろう。「もしかした

ら連絡がくるのでは」とブロックせずい

たかもしれない。永野様が勇気を出して

その事実をちゃんと確認していたら、動

画投稿なんてせず友達を頼っていたら、

命を落とすことなく悠様とまた向き合

えるチャンスが出来ていたかもしれな

い。こんな形で彼の死を知った彼女は、

どうやって彼との思い出と向き合って

いくのだろうか。

「考えれば考えるほどしんどくなって

きますね。生きていれば二人はまた恋人

同士になって、今度こそうまくいってい

たのではないかと思ってしまいます」

「これから先、そういう思いを何度だっ

てするよ。けれど、僕たちはその一人一

人のもつ、切ない想いを受け止めていく

んだ。どんなに苦しくても、やりきれな

くても最後の愛を託してくださるんだ

から、慣れてはいけないんだよ。今日感

じた気持ちをこれからもずっと忘れな

いでね」

忘れない、忘れてはいけない。私はこ

こで働くことで、自分がどうあるべきか

が少しずつ分かってきた気がする。私た

ちが人の愛に触れ続けていくためには、

永遠に純粋でいなければいけないし、人

の感情に慣れてしまってはいけない。そ

れでどんなに精神が参ったとしても、私

たちは死ぬことなんてないのだから…

に触れ続ける仕事、と言えば聞こえ

はいいが実際は思ったよりも残酷なの

かもしれない。

「一ノ瀬さんは心折れそうになったこ

とはないんですか?自分はもう二度

と愛する人に出会えないのに、他人のラ

ブレターを届け続けなければいけない

んですよ。人の愛を、自分のことのよう

に受け止めて」

一ノ瀬さんはうーーん、と数秒ほど悩

んだ後、にこりと笑って答えた。

「心折れそうになったことはないね。僕

の愛は美しいものではなかったけれど、

それでも十分に愛してもらえたから、そ

の思い出が心に残っている限りくじけ

ることなんてないよ。僕にとっての一番

美しい愛は彼女からもらったものだけ

だからね」

「え、お客様のものではなく?」

「そりゃ美しい愛は他にも沢山あるよ。

けれど、それは僕に向けられたものでは

ない。僕だけの愛が一番に決まっている

さ。君もそうだろ?実るかどうかより

、君に向けられた愛情を少しでも感じた

ことがあるから、忘れることが出来ない

んじゃないかな。その思い出がある限り

、君も頑張っていけると思うよ」

あぁ、やっぱり知りたい。この人の心

を何百年も照らし続けている女性のこ

と。この郵便局を作ったきっかけになっ

た、一ノ瀬さんの愛する女性。一ノ瀬さ

んが自死することを選んでしまうほど

人生をかけて愛した女性。

「やっぱり、教えて欲しいです。一ノ瀬

さんが人生をかけて愛した女性のこと」

「いいよ。業務が終わってからでもいい

かな」

*一ノ瀬恵

あれだけこれ以上聞くなオーラを出

していたのに、急に教えてくれる気にな

ったらしい。私はあれから業務以外で余

計な話をしなかったし、残業になって話

す時間が減らないように仕事をこなし

た。もちろん、お客様のお話に真摯に向

き合ったし、ないがしろにもしなかった

お疲れ、今日はいつにもまして後半の

業務は気合が入っていたように見えた

ウンターに座っている私の目の前

に、一ノ瀬さんが入れてくれたのであろ

う私ぶんの、アイスコーヒーを置くと彼

もホットコーヒー片手に、隣に座ってき

た。

「そりゃ気合も入りますよ。一ノ瀬さん

がやっと話してくれる気になったんで

すから」

「僕の話なんてそんないいものじゃな

いのに」

一ノ瀬さんは苦笑いしながらコーヒ

ーを一口飲むと、コーヒーカップの湯気

をぼーっ見つめながら話始めた。

昭和初期の頃、今のようにコーヒーを

頼んで談笑するようなカフェは、夜のお

店として使われていることが多かった。

女給が酔っている客を介抱するという

建前で、上の客室へ通し、そこで行為を

するという店もあったし、堂々と行って

いる店もあった。生活に困った女性たち

がお金を稼ぐにはそういう方法しか当

時はなかったのかもしれない。今じゃ考

えられないが当時は普通に受け入れら

れていたし、何より彼女…… モモ子と出

会ったのも先輩に連れられて行ったカ

フェだった。

僕はモモ子を一目見た瞬間恋に落ち

た。まだデビューしたばかりであろう初

々しさがとてもいじらしく、この子を買

いたいと先輩に耳打ちすると、笑われて

しまった。先輩に初めて連れてきてもら

った店で、女給を最初っから指名する奴

なんて見たことないと。

笑われたって恥ずかしくなかった。周

りの目なんて気にならないくらい一瞬

でモモ子に惚れこんでしまっていた。

彼女との行為もまた素晴らしいもの

だった。今でも思い出すと鳥肌が立つく

らい、感動的で、女を買っているという

背徳感を忘れさせるくらい神秘的だと

思えた。行為をしなくても彼女と少しで

も時間をともにしたく、休みの日には映

画に連れて行ったり、恋人の真似事のよ

うなデートを何度もした。

僕は銀行マンで、まだ二十代後半に入

ったばかりだったからお金にも時間に

も余裕があったので、三日に一度は彼女

を買っていた。

余裕があるのだから毎日通ってあげ

たほうが彼女にとっては、助かるのかも

しれないが、体を売ることを商売にして

いる娘が、客と本気で恋愛をしてくれる

わけがないだろうから、勘違いして自分

が一線を超えてしまうような変な気を

起こさないように三日おいて通おう決

めていた。

床での彼女はとても煽情的で、実際の

年齢よりもずっと大人びて見えるのに、

普通のデートではしゃぐ姿は、幼子を見

ているかのようでより一層愛おしさが

増すものだったが、同時に若いうちから

家のために身を売って稼がなければな

らない彼女の身の上を思うと、切なさを

感じずにはいられなかった。

気づいたら彼女を見初めて半年は経

っていた。あれは何回目のデートの時だ

っただろうか、突然彼女が胸の前で両手

の甲を代わる代わるに擦る仕草をし、う

つむきながら「あの…… 」と鈴のような

声を出した。

手の甲を代わる代わるに擦るのは、彼

女が何か言いたいことがある時の癖だ。

僕はそれを分かっていたから、半歩後ろ

を歩く彼女を振り返りながら続きを促

してやった。

「なんだい」

「あたし、本当に感謝しているんですよ

。一ノ瀬さんに連れて行ってもらえなか

ったら、映画やアイスクリームも一生縁

のない世界だったでしょうから」

「そんな、大したことはしてないんだよ

。映画も、喫茶店も僕が行きたいところ

についてきてもらってるんだし、お金は

上乗せさせてもらってるとしても、連れ

まわしてしまってむしろ、申し訳ないと

さえ思っていたからそう言ってもらえ

て嬉しいよ」

「…… あの、お願いがあるんです。もう

、こういうデートはお金をもらってした

くないです。あたし、友達に聞いたんで

す。近所の、普通のお家に住んでるお友

達に、デートはお金をもらっていくもの

じゃないって」

「う…… うん、それはそうなんだけど、

僕たちは一応客と女給の関係だから…

… 」

「そ、そうですよね…… 」

そこから僕たちは、彼女をカフェに送

り届けるまで一言も発さなかった。

言いたかったことは感謝の言葉だっ

たのだろうか、それとも普通のデートを

したいということだったのだろうか。後

者であるなら、それはどういう意味なの

かと話し合わなくてはならないし、ただ

デートがしたい、けれどお金をもらいた

くないということなら僕の信念にやは

りそぐわないので、これからもお金は受

け取って欲しいというほかない。

カフェから帰った僕は、風呂には入ら

ずそのまま床に就いた。実家を離れて一

人暮らしをしているから、それで文句を

言ってくる人はいない。明日の朝はいれ

ばいい。十分仕事には間に合うだろう。 ―― モモ子さん、僕たちはお互いの家す

ら知らないような仲なんですよ。

枕に顔を押し付けながら、先刻カフェ

に送り届けた時の彼女の後ろ姿を想っ

た。お互いの家すら知らない。なぜなら

客と女給だから。

店の戸を閉める直前、彼女が他の客に

声をかけられているのが見えた。彼女は

若くて。愛らしく、顔もとても整ってい

る。きちんと身なりを整えていれば、そ

こら辺のご令嬢よりも様になるだろう。

けれど、悲しいかな彼女は女給だ。僕が

悲しんだって仕方ないだろうけど

僕以外にもお客さんがいる。僕以外に

もかけなきゃいけない時間がある。僕だ

けのモモ子さんじゃない。頭では分かっ

ていたけれど、一度も振り返らなかった

彼女の背中がより一層それを感じさせ

て、心に鉛を入れられたように重くなっ

分の気持ちがとっくに情欲だけの

ものではないと気が付きながらも、未だ

に客と女給の関係を壊そうとしない臆

病な男だから、

「普通のデートと言うのは、恋人になる

ということですか」

とは聞けなかった。さっきの言葉を交わ

さない別れが、もっとそれをためらわさ

せた。

なんにしても彼女の気に触ったのは

確かだ。謝罪の文でも書こうか…… いや

、そんなものを送ってもいい間柄でも無

いか。しばらくお店に行くのをやめれば

いい。

自分がいなくったって彼女は困らな

いだろう。生活していくだけのお金をく

れる人はまだまだいくらでもいるだろ

う。僕だけが独り占めしていくわけには

いかないのだ。

それから二か月くらいだろうか。仕事

が忙しくなったことも重なって、お店に

通うことはなかった。ただ、今まで三日

おきに行っていたのが急に二か月も空

いたので、今度はいつ行こうか、行った

としてもそんな顔して彼女に会えばい

いのか分からなくなっていた。

いつまでもうじうじと勇気の出ない

自分が嫌で、ますます仕事に逃げている

と、初めてカフェに連れて行ってくれた

先輩が声をかけてくれた。

「よ!休憩なんだからちゃんと休ま

なきゃダメだろ?」

「あ、先輩。切りいいところまでと思っ

ていたらやめられなくなってしまって」

「そういえばお前、最近モモ子ちゃんに

会いに行ってないだろ。俺が店に行くた

びにお前は元気なのかとか、もう店に来

るつもりはないのか、とかいろいろ聞い

てくんだよ。よっぽど気に入られたんだ

な。普通店に来なくなった客のこと、女

給は聞かねぇもん。で、どうなんだ?

もう行く気はねぇのか?」

「行きたいとは思っているんですけど

…… 」

「なんだ、行きづらい理由でもあんのか

は彼女と気まずくなってしまった

経緯も、彼女に抱いている恋心のことも

すべて先輩に話すことにした。先輩は僕

より三つ年上の独身で、僕と同じように

女給に恋をしている。ただ、お客として

は会ってくれるようだが、恋人になりた

いという風に持ち掛けると途端に洟

はな

かけてくれないらしい。先輩の恋はまだ

まだ進展がなさそうだが、それでも女給

に恋をしている先輩だ。いい助言をくれ

るかもしれないと思ったのだ。

「なるほどな…… それで行かなくなっ

ちまったのか。確かにお前が来なくなっ

たのは、私が余計なことを言ったからだ

と、モモ子ちゃんが零

こぼ

してたから気に

なってたんだよ」

「てっきり僕が彼女の気を害してしま

ったと思っていました。あの時、なんて

言えばよかったんでしょう」

「過去のことばかり後悔したって仕方

ねぇよ。それより、お前身請けをするつ

もりはないか?」

「み、身請け!?それはなんでも話が

飛び過ぎではないですか?」

「いいか、彼女たちは自分や家族の生活

のためにああいうカフェで働いてん

だ。恋人になったくらいでは、あの店

はやめられないし、お前だけの彼女に

はならない。幸い、お前の給料だった

ら、彼女もその家族も養っていけるだ

けの余裕はあるだろう。これはもう身

請けを申し込むしかない!」

確かに金銭面については可能だろう

が、彼女の気持ちが分からない以上、

そんなことを急に言っていいのだろ

うか、と弱音を零すと先輩は今までも

落ち着いた様子と打って変わって、烈

火のごとく怒りだした。

「お前、なんなんだよ!俺は身請けの

話はおろか、デートですら余計にお金

を払うと言っても断られてるんだぞ

!けど、俺はどんなに断られたって

俺は幸代を諦められない。お前は俺と

違って、モモ子ちゃんから好かれてて

、どう見たって受け入れてもらえそう

なのに、なんでそんなに度胸がないん

だ!こんなの、背中押そうとしてる

俺がバカみたいじゃないか!!」

先輩に説教されたのは、後にも先にも

この時だけだった。この時の先輩の言

葉は今でも僕の心の支えとなってい

る。自分の恋がどれだけ報われないも

のでも、幸せな人の恋を全力で応援で

きる人っていうのは、とてつもなくか

っこいいい。人の幸せを全力で願える

ような先輩だから、僕は信頼出来てい

たんだと気づいた。こういう人になら

なければお客様に信頼してもらえな

いのだと。

「すみません…… !僕、目が覚めまし

た。今日、モモ子ちゃんに会いに行きま

す!そして、見受けを申し込んできま

す!!」

気合が入ったことを示したくて先輩

に負けじと声を張り上げると、先輩は嬉

しそうに「おう!」と返事をしてくれ、

自分の仕事へ戻っていった。先輩も頑張

って、となにか言えばよかったかな、と

も思ったがそれは今じゃないような気

がした。

先輩には休めと言われたがそんな気

にもなれず、休憩を返上して仕事をつづ

けた。おかげでカフェに早く行けそうだ

定時で仕事を終わらせると、足早にカ

フェへと向かった。

「すみません、モモ子さんは今日います

か!?」

店の戸を開けるや否や叫ぶと、僕の声

に一瞬店の空気が固まったが、奥からモ

モ子さんがおずおずと出てきてくれ、た

ちまち何事もなかったの様に店はまた

騒がしくなった。

「一体どうしたんですか?今までそ

んな大声で私を呼んだことなかったの

に」

「驚かせてごめん、大切な話が合ってど

こか落ち着くところで話がしたい。付き

合ってくれるかな?」

「え、えぇ」

戸惑う彼女の手を引き店を出ると、彼

女の店からさほど遠くない洋食店に行

くために足を進めた。

「洋食店?私、そんなところ入ったこ

とありませんし、一ノ瀬さんに恥かかせ

てしまうかも…… 」

「そんなにかしこまったところではな

いよ。ほら、もう着いた。さぁ、入って

二か月会えていないにもかかわらず、

彼女には、洋食店に連れ出すお客は現れ

ていなかったことに心をよくした僕は、

より一層胸を躍らせた。

彼女はオムライス、僕はハンバーグ定

食を頼むと、料理がくるまでこの二か月

間お互い何をしていたか報告し合った。

なんと、彼女はあれから一度も客を取ら

なかったようだ。その間の生活は今まで

僕が払ったお金でやっていけたらしく、

このことで彼女と彼女の家族を僕だけ

の収入で、十分に養っていけることが分

かりほっとした。

僕は少し仕事が忙しくなってしまっ

たことと、君に嫌われたんじゃないかと

怖くて中々店に行けなかった理由を告

白し、謝罪した。そして、今日ようやく

来られたきっかけを話そうという時に

料理が来てしまい、とりあえず話は後回

しになってしまった。

「それで…… 大切な話ってなんですか

れぞれ半分ほど食べた頃だろうか。

切り出したのは彼女からだった。僕は手

を止め、持っていたスプーンを置く。そ

の時、鳴ったカチャリという金属音が決

して静かではない店内だというのに、や

けに大きく聞こえたのは自分たち以外

の音を遮断してしまうほど緊張してい

た証だったのだろうと思う。

「…… 君に、モモ子さんに身請けを申し

込みたい。君の家族も本当の両親のよう

に大切にさせてもらうから心配しない

で。どうか、僕のところへお嫁に来てく

れないか」

「…… !!」

僕の言葉にモモ子さんは目を見開い

て固まった。驚きのあまり言葉も出ない

らしい。僕は彼女が何も言ってくれなか

ったので、表情からいいのか悪いのか読

み取ろうとしたができず、一分も経って

いないだろうというのに動機が止まら

なくて、気づいたら息切れしていた。

「驚いたよね、突然こんなこと言われて

。色ボケした客のが何言ってんだって思

われても仕方ない。ごめんね、忘れてく

れていいから…… 」

沈黙に耐えられなくなったことと、自

分はとんでもないことを勢いで言って

しまったのだと我に返り、途端に羞恥が

こみあげてきたのとで早口にまくし立

てると、彼女はさっと驚いた顔をやめ、

ぶんぶんと首を横に振った。

「色ボケした客なんてとんでもないで

す!あたし…… 嬉しくて、信じられな

くて言葉が出なかっただけなんです」

「え…… じゃあ、受け入れてくれるのか

い?」

「はい…… !私でいいなら、ぜひ」

今思うと、こじゃれた洋食店を選んだ

のは間違いだったかもと思う。僕はこの

時、人目もはばからずに彼女を抱き上げ

て口づけしたからだ。いつでもお祭り騒

ぎのような市民酒場のような場所では

ないから、お祝いを言ってもらえたり、

冷やかされることもなく、店を出るまで

「なんて破廉恥な二人なの?」という目

で見られることになってしまった。

だが、そんなこと浮かれまくっていた

僕たちには全く関係ないことだった。早

く彼女と、僕の両親に挨拶しに行って、

お店に話をつけ、夫婦になりたかった。

彼女の両親への挨拶はすんなりいっ

た。僕の仕事を聞くなり「もう、すぐに

でも貰っていってくれ」と快く僕らの結

婚を受け入れてくれた。

問題は、僕の両親だ。父は役所で働く

公務員だし、母も小学校で教師をしてい

る公務員で、正直にカフェの女給だと言

えば絶対反対されるだろう。モモ子さん

と相談し、うちの両親には先輩の紹介で

出会ったと伝えた。

自分は学がないから、とモモ子さんは

心配していたがうちの両親も僕たちの

結婚を喜んでくれ、思ったよりもトント

ン拍子に事が進んでいった。上司に仲人

を頼み、身内だけの小さな式を挙げ僕た

ちは夫婦になった。新婚旅行は草津温泉

に行き、温かい風呂と豪華な料理にモモ

子さんはとても感動していた。モモ子さ

んがお店にいた時、流石に外泊は頼むこ

とが出来なかったので、夫婦になること

で、彼女と時間を気にせずにずっと一緒

に入れるのだと改めて実感した。

旅館が用意してくれた浴衣をまとっ

たモモ子さんが急須でお茶を入れてく

れている。そんな様子を、竹で作られた

椅子に腰かけて見ていたら、この人はも

う自分だけの女なのだと急に胸が締め

付けられるような、けれどとても甘い…

… そんな苦しさに襲われ、思わずモモ子

さんの方に腕を回して引き寄せていた。

「あ、こぼれちゃうっ」とモモ子さん

が慌てたので、僕はいったん抱きしめた

腕を時、彼女の手から急須を優しく取る

と机の上に置いて、また強く抱きしめ直

した。

「先輩に初めて連れて行ってもらった

カフェで君に一目惚れをして、それから

は君に嫌われたくなくて、客という立場

をわきまえようと恋心を必死で殺して

きたのに、まさか君も僕を好きでいてく

れていたなんて…… 」

「そして今は夫婦ですよ」

「夢みたいだ。僕たちは結婚が決まるま

でお互いの家族構成も、住所も知らなか

ったのに、急展開過ぎて心がついてきて

くれないよ」

「まぁおかしい。急展開を持ってきたの

はご自分なのに。それにまだ知らないこ

とばかりですよ。まずは年齢、私は二十

一です。一ノ瀬さんは?」

「僕は二十七だよ。思ったよりも離れて

いたんだね。では次は、好きな食べ物は

?僕はコロッケかな」

「私は、一ノ瀬さんに連れて行ってもら

った洋食店のオムライスが好きです」

照れくさそうに目を伏せ、口元を両手

で隠す仕草は彼女が恥ずかしがる時の

癖だ。この癖は僕の加虐心を非常にくす

ぐる。

彼女を横抱きにして僕の膝の上に乗

せると、彼女は両手で顔を覆うとしたの

で背中を支えている反対の手でそれを

制した。どんどんゆでだこのように赤く

なり、目をぎゅっとつぶったので、唇を

近づけていく。

唇が触れた、と思った瞬間顔を背けら

れる気配とガボッガボッという変な咳

の音が聞こえ驚いて目を開けると、

モモ子さんが血を吐いて倒れていた。

すぐに病院へ連れて行き、そのまま彼

女は結核病棟に入院が決まった。

「いつから?いつからおかしいと思

っていたんだい?」

「二か月ほど前でしょうか。風邪が長引

いているだけだと思っていました」

「お店にいた時からか…… 」

「そういえばお店をやめる時、店長に言

われました。女給が体を売るようなカフ

ェはこれから厳しく取り締まられるよ

うにあなるから、もう店は畳む予定だっ

たと。私たちがしていたのはイケナイこ

と。でも、イケナイことをしないと生き

ていけないものもいる。そういう人たち

のことは助けてくれないのに、イケナイ

ことばかり排除しようとする。世の中と

は残酷ですね」

窓の外を見つめながらモモ子さんは

寂し気に語った。

彼女からそういう風な言葉を聞くの

は初めてで驚いたが、気が弱ってこぼし

たのだろうと流すことにした。

「君を惚れこんで買っていたのは僕な

んだから、僕も同じように結核になって

いないとおかしいじゃないか。大丈夫君

はきっとよくなるよ」

彼女は曖昧に笑うだけで、頷くことは

なかった。その頃の結核は今と違って治

らない病だと言われていたせいだろう。

僕もこの病棟へはあまり来ないように

と先生に言われていたが、結核になった

ってかまわないと思っていた。

彼女を失ってしまったら僕には何も

残らない。

モモ子さんが入院して三週間が経っ

たころ、結核病棟の庭に植えられていた

ソメイヨシノが花をつけ始めた。その日

はとても天気が良い日で温かく、昼頃彼

女も桜を見ようと庭に出たのだという。

「キレイ…… 一ノ瀬さんと見たかった

わ」

「旦那様ですか?」

「えぇ、先月結婚したばかりで…… 」

「まだまだ楽しいときですね!今日

も来られるのかしら」

「…… 来てほしくないと思う反面、顔が

見たい、と恋しくなる。私、本当に欲張

りだわ」

「そんな…… 」

「でも、一番美しいときに彼に出会って

、一番美しい姿で逝けるからこれも悪く

ないのかしらね…… 私、病室戻ります」

それが彼女の最期の姿だったと看護

婦さんが言っていた。夕食を届けに看護

婦さんが訪ねた時にはもう息を引き取

っていたらしく、電報を受け僕が駆け付

けたのは彼女が亡くなって丸一日経っ

てからのことだった。

結婚してから、彼女を亡くすまでの時

間は息を吸ってはくまでの間で終わっ

てしまったような気がする。それほど短

いものだった。

これからだったのに。何もかもこれか

らだった。子供もいない。結核も、うつ

ることなく僕だけ残った。

この世界にもう彼女がいないんだと

いう事実は僕の心を容赦なく壊した。モ

モ子さんが僕の生きがいだったのだ。

僕は病室に彼女の荷物を取りに行っ

た後、彼女が最期に見たという桜の、一

番低いところから伸びていた枝を一本

折って持ち帰った。家に持ち帰って湯飲

みに水を入れ、そこに挿してしばらく眺

めた後、一枚一枚花びらをちぎって捨て

女が最期に見た景色を切り取って

眺めることで彼女と同じものを見よう

とした。だけど、それは彼女がいなくな

ってしまった現実をより濃くし、最期に

見たものが僕ではなく桜だったという

悔しさから、気が狂ったようにたった一

本の桜の枝をどうしても壊してやりた

くて、あの手この手を尽くしたが桜の枝

はしなやかで、全くびくともしなかった

モモ子さんも強くて美しい人だった。

花にたとえるなら、桜、かもしれない。

モモ子さんを傷つけてしまったよう

な気になり、罪悪感にさいなまれ僕はま

たむせび泣いた。

そこからこっちの世界に来るまでは

早かった。障子の上枠に縄を結び、縄に

首をかけ、足場にしていた椅子をけ飛ば

す。

「今でもよく覚えているよ。自分が死ん

だ日のこと。まぁ、彼女に会いたくて死

んだのに、会えないどころか転生してま

た夫婦になることすらできなくなった

と知ったときは絶望したけれどね」

重過ぎる過去話を暴露した後で、ふふ

っと笑みをこぼす一ノ瀬さんに若干の

狂気を感じ後ずさりしてしまった。

「ど、どうやって立ち直ったんですか?

時間だね。時間が解決してくれた。僕

はもう二度と彼女と結ばれることはな

い。きっと彼女は他の運命の相手が出来

ているだろう。最初はその人のことが憎

くて、羨ましくてたまらなかったよ。け

れど、自分でその運命の相手になるチャ

ンスを手放したんだから仕方ないよね。

相手の幸せを願うって、すごく綺麗事だ

と思っていたけど、結局それしかできな

いんだよ」

憎くても羨ましくても、呪うことなん

てできない。まさに死人に口なし。私た

ちは永遠にそうなのだ。気がおかしくな

っても全ては永遠の中に飲み込まれて

いく。いつしか気がおかしくなっている

のか、正常に戻ったのか分からなくなっ

ていく。それでもこの世界は動き続ける

。終わりなんてないから、と一ノ瀬さん

は眉を下げてまた笑いながら言った。が

、急に真顔になって話始めた。

「なんて、本当に偽善だよね。僕、ラブ

レター郵便局を作ったのは自分のため

だったんだよ。どうしてもモモ子さんに

想いを伝えたかった。一方通行でもいい

から、僕を忘れないでほしかった。戸田

さんに散々偉そうなこと言っておいて

なんだけど、僕が一番自分の気持ちに、

愛情に中途半端だと思う。解決なんてい

してないよ。これからも解決なんてしな

はもうコンピューターが管理して

いるが、昔は死期が近い人に直接死神が

会いに行っていたらしい。一ノ瀬さんも

ラブレター郵便局が出来るまではその

仕事をしていたという。

ある時、十歳くらいの女の子に会いに

行ったことがあったそうだ。その子は死

期が近いと伝えても案外素直に受け入

れたそうだ。しかし彼女はこういった。

「分かったわ。でも、これだけお願い。

最期に好きな人へ手紙を書きたいの。そ

れも彼にしか読めないラブレターがい

いわ。お願い、死神さんなら何とかでき

るでしょ?」

それがラブレター郵便局を作るきっ

かけだったそうだ。一ノ瀬さんは大急ぎ

で上に掛け合った。幼い子供ながら、恋

心を自覚しそれを伝えたいと言ってい

る。この気持ちを尊重してあげなければ

いけないと使命感に駆られたそうだ。ま

た実はこのラブレター郵便局の話は、女

の子に会う前から温めていたものらし

く、彼女の願いに乗っかって提案すれば

うまくいくと思ったそう。まったく、一

ノ瀬さんは優しい人なのかそうじゃな

いのか分からない。

一ノ瀬さんの提案はすんなりと通り、

ラブレター郵便局は作られることにな

った。ただし、死神はラブレターを書く

ことも届けることもできないという条

件付きで。

「最初は本当に辛かったよ。局員は自分

しかいないうえに、自分には経験できな

かった愛する人の思い出を、自分には書

くことが出来ないラブレターに書くお

手伝いをしなければいけないんだから

ね。やりきれなかったよ。正直どうでも

よかった。戸田さんの方がこの仕事は向

いていると思うよ。僕は今でもどうでも

いいと思っている節がある。だって、僕

はモモ子さんのこと以外どうだってい

いんだもの」

初めて一ノ瀬さんの人間らしさを垣

間見た。今までこの人は仕方ないで仕事

してきたのだろう。こうなってしまった

のは自分せいだから仕方がない、と。

だけど、私には一ノ瀬さんの仕事への

想いはそれだけじゃないと思った。仕方

ない、だけじゃできないことがある。い

くら死という概念がない私たちだって

無感情のままで仕事をしていくことは

できない。仕方ない、という気持ちで隠

しているモモ子さんへの恋心が全ての

糧になっているのではないかと思う。だ

が、仕方ない、で隠さなくったって一ノ

瀬さん本来の姿でお客様のラブレター

に向き合えば、どうでもいいなんてそん

な嘯かなくてもよくなるのではないか。

「本当はどうでもいいなんて思ってな

いですよね?」

「え?」

「一ノ瀬さんは私に自分の大切に出来

なかった愛に向き合う力をくれました。

いつだってお客様の抱えてきた愛情に

耳を傾け、寄り添ってきました。そんな

人がどうでもいいって、仕事してるわけ

がありません。ただ、仕方ないって気持

ちに蓋をしてモモ子さんの愛情に、自分

のモモ子さんへの愛に向き合うのが怖

いだけなんですよ。無理に笑ったり、変

に愛を分かった気にならないでずっと

悩んでいけばいいじゃないですか。わか

るわけないんですよ、愛なんて理解しよ

うと思うのが間違いなんですよ。もっと

、人間らしい一ノ瀬さんを見せてくださ

い。そうやって、お互いの恋をこれから

も語り合いましょうよ。そうやって分か

ちあいましょうよ。一緒に働いてる二人

っきりの同僚なんですから」

初めて一ノ瀬さんに意見した、と思う

。相変わらずまくし立てるように話して

しまったが、私の思いだけは伝わってい

るだろうと思った。

「…… 本当に君を引き抜いてよかった

ノ瀬さんは私の勢いに目を丸くし

ていたが、すぐ笑顔になりしみじみと呟

き、ゴクリともうすっかり冷えてしまっ

たコーヒーを一口飲むと、また話し出し

た。

「いつからだろうね、モモ子さんへの愛

について考えるのをやめてしまったん

だ。一番は語り合う相手がいないという

のが理由だろうね。そのうちに、仕方な

い、と思うのが癖になってしまったらし

い。そうしないと怖かったんだよ。また

モモ子に会いたいと体が暴れだしそう

でね。愛をずっと考えていくのが僕たち

の仕事、なのに僕が愛を考えるのが怖く

なるなんて」

でも、忘れられたくないから皆ラブレ

ターを書くのだと一ノ瀬さんは言った。

初恋の相手に書きたかった十歳の女の

子だって、自分が彼に恋をしていたとい

うことを彼の中に残したかったのだ。ギ

ャツビー様も、千葉様も、永野様も皆忘

れて欲しくないから書いたのだ。自分が

誰かを愛していたこと、それを永遠に残

せる心へ届けるためにここに来た。

死んだ人間が生きられるのは生きて

いる人の心。

一ノ瀬さんは亡くなっているけど死

神として、人間だったころの記憶を持っ

たまま天界で過ごしている。モモ子さん

が生きていたころの愛情を大切にでき

るのは一ノ瀬さんだけだ。

「モモ子さんはいつも、僕がしたことを

キスしてくれた、抱きしめてくれたって、

~してくれたって言うんだ。僕は不思議

でね。一度どうしてそんな風に言うんだ

い?って聞いたことがあるんだよ」

「モモ子さんはなんて?」

「嬉しかったからって言っていたよ。わ

かんないよね」

「嬉しかったんですよ。ただ単純に、一

ノ瀬さんがモモ子さんにしたことは全

部、彼女にとって幸せなものだから、し

てもらったって思えたんでしょうね」

「幸せ…… だったのかな。もう確かめる

術はないんだよね」

一ノ瀬さんはまた笑っていたが、とて

も寂しそうな笑顔だった。

ガチャッ

その時、営業時間を終え、閉めていた

はずのドアが開いた。

「あの、すみません…… 今日の営業は終

了したんです」

ガタガタガタッ、と私がドアを開けた

だろう人に、声をかけたと同時に一ノ瀬

さんが勢いよく立ち上がったことで、椅

子がけたたましい音を立てて転がった。

慌てて椅子を立て直して、誰が入ってき

たのか見ようと入り口に目を凝らした。

黒髪のセミロング、袖がレース生地に

なっているタイトな白いドレスを着た、

小柄で可愛らしい女性がおずおずと扉

から顔を出し、こちらをうかがっていた

「一ノ瀬さん、彼女どうしたのでしょう

?」

「も…… モモ子さん…… !!」

私が声をかけるまで固まっていた一

ノ瀬さんは、信じられないというような

顔をして女性を凝視しながら、かすれた

声で最愛の人の名を読んだ。

その言葉に驚いて、再び私も女性の方を

振り返ると、彼女は一目散に一ノ瀬さん

めがけて飛び込んできた。

「一ノ瀬さん!!!やっと、やっと会

えました!」

女性、モモ子さんは一ノ瀬さんの首に

抱き着き、おいおいと泣き出した。

「モモ子さん!どうしてここに!?

どうして僕のことを覚えているんです

!?」

「あたし、死神の方が会いに来た時、あ

る約束をしたんです」

モモ子さんが結核にかかり入院した

直後、死神が訪ねてきたそうだ。その時

、彼女は死期を早め天界で〝その時〟が

くるまで働き続けることを条件に、一ノ

瀬さんと一緒に転生することを約束し

てもらったのだという。

「じゃあ、一ノ瀬さん転生できるってこ

とですか?」

「はい。上からも、もう彼は生きていた

時に積むはずだった徳、そして自死した

ために課せられた罪という名の徳を、十

分積みましたからもう転生してもいい

と言われました!」

一ノ瀬さんが転生する…… なら、この

郵便局はどうなってしまうのだろう。

「こ、この郵便局は一体どうなるんです

か?」

「君が局長になってこの郵便局を続け

ていってよ」

わ、私が局長に!?まだ一年も働い

てないのにいきなり局長って…… 私に

務まるのだろうか。断る理由なんてない

ので返事をしたいところだが、自分にま

だ自信が持てなくてオドオドして言葉

に詰まってしまう。

「大丈夫。君は僕がいなくたってやって

いけるよ。最近は全部自分でやっていた

し、能力も開花したことだし、何も心配

することなんてない」

それに、と一ノ瀬さんは私にゆっくり

近づいてきた。おいおい、奥さんの前で

何を…… 。

「いっ一ノ瀬さ…… !」

「誰かの悩みを解決する。というのはね

、実はとっても徳が溜まる行為なんだ。

悩み=残してきた愛する人に想いを届

けたい、ということ。それを僕はラブレ

ターに変えて解決してきた。現世の時間

で約百年だ。ここにいたからこそ早く転

生が出来たんだと思うよ」

私の肩に右手をポンと置くと、にっこ

り笑って言った。まさか、徳を早く積め

るといいうのも計算していた?にこ

にこしていてつかめないと思っていた

けれど、うじうじしたところもあるし、

人間らしい影もあると思い始めたとこ

ろだったけど、彼はほんとに読めない人

だ。もしかしてそろそろ転生できると分

かっていた?だからモモ子さんの話

をしてくれたのか。ずっと事務室に籠っ

ていたのは引き継ぎのためだったので

は?

「分かりました。私がこの郵便局を引き

継ぎます。ただ、最期に一つ聞かせてく

ださい。

一ノ瀬さん、あなたの愛は呪いですか

?宝ですか?」

これは私がここに来た初日に彼が言っ

たことだ。愛はムツカシイ。呪いという

人もいれば、宝だという人もいる、と。

あの時、一ノ瀬さんは自分の愛は呪いだ

と言った。今でモモ子さんが自分を犠牲

にして、迎えに来てくれた今でも同じよ

うに答えるのだろうか。

「僕の愛は…… 」

「あたしは、一ノ瀬さんに愛してもらえ

て幸せでした。あなたに愛してもらえた

から死ぬ時も怖くなかった。だってまた

出会えると分かっていたから。あなたと

の思い出があったから今までずっと待

つことが出来たんです」

今までずっと黙って私たちのやり取

りを見ていたモモ子さんが口を開いた。

幸せだった、とモヨコさんはハッキリ

言った。こんな風に自分の愛情の感想を

えられるひとはどれくらいいるのだろ

う。その権利を持てる人はどれくらいい

るのだろう。愛しい人からの愛の感想、

ラブレターを書いていった人たちは誰

一人感想なんか求めていない。届けばい

いから。自分の思いが、愛が間違ってな

んかいないから。私から見たらこれはち

ょっと…… と思うようなことも彼らに

とっては美しいもの。

だけど、愛を呪いだと言った一ノ瀬さ

んの気持ちは分からなかった。皆とって

も幸せそうに前を向いていくのに、どう

して呪いだというのだろう。

「僕はやっぱり愛は呪いだと思う」

また一ノ瀬さんは微笑みを浮かべて

いた。

「今でも僕の愛は醜いと思っているよ。

人の心の中なんてそんなものさ。でも間

違いだなんて思っていない。僕はモモ子

さんが全てだし、モモ子さんにもそう思

っていて欲しいとも思ってる。愛は二人

を縛るんだ。心を、運命を縛る。それは

正しく呪いだと思わない?甘くて、払

いきれない強い呪いだよ」

私は野村さんのことを思い出してい

た。進展しなかった私の最期の恋。一番

ドキドキして、死にたくなるほど愛おし

かった気持ち。

「やっぱり、私にはわかりません。私は

愛は宝物だと思うから」

私も笑って言った。

「自分で愛を考えられるようになった

証拠だよ。じゃあ、そろそろ行くね」

モモ子さんと寄り添って歩く一ノ瀬

さんはとても幸せそうだった。積もる話

も沢山あるだろう。これからゆっくりと

報告しながら来世へ旅立っていくのだ

ろうか。

ドアを開けた一ノ瀬さんが振り向い

て手を振ってくれた。

「またね、戸田さん。今度はここに客と

してくるから」

ゆっくりとドアが閉まっていく。完全

に締まり切るまで一ノ瀬さんは手を振

り続けてくれているようだった。

未来がある。彼女とまた再び歩める未

来が。

手を振っていた時に見せた笑顔は、本

当に心からのものだと思った。あんな風

に笑えるのか、あの人も。

彼が去って一人っきりになった部屋

を見て一つため息をつくと、仕事にとり

かかった。これから大変になる。今まで

二人でやってきた雑務は全部一人でや

らなければいけないし、お客さんもだい

ぶ待たせることになってしまうだろう。

あ、けれどそれは最近ほとんど一人で裁

いていたからあまり問題にならないか。

それよりも大変なのは、一ノ瀬さんの

能力で届けていたラブレターたちをこ

れからどうするかだ。

「はぁ、全く。困ったもんだよ」

と、ぼやいてみたが口元がにやけてい

くのが分かった。

局長に就任して二年。あれからどれだ

けのラブレターを届けてきただろう。今

じゃ猫が来ただけでは驚くことは無く

なった。犬、ハムスター、金魚。だけど

さすがにベンガルトラが来たときは心

臓が止まるかと思った。いや、すでに止

まっているので問題はないのだが…… 。

能力も沢山使ってきた。何度か使った

時点で死体に慣れてきてしまったのか、

最初の頃に比べて気分が悪くなるとい

うことは無くなり、そうすると結構便利

な能力だと思えるようになった。男性の

、フィルターがかかった記憶も、この能

力のおかげで簡単に真実へと辿りつけ

るようになったのでありがたい。

あの後、事務室に入ると、ファックス

のような機械と、小さなメモが置いてあ

った。

戸田さんへ

このファックスみたいな機械に僕の

力を入れておいたから、僕がいなくなっ

たらこれで届けていってね!一度に

入れすぎると詰まるから注意するよう

に。

一ノ瀬恵

なんであの人昭和初期に生まれてい

るのに機械に強いんだろう。まぁそんな

こんなで今のところ詰まらせることな

く、きちんと送信できている。

あれから何か愛について悟ったか、い

や全く悟れていない。悟れるわけがない

。そんな簡単に悟れていたらとっくに恋

愛をテーマにした物語は廃れている。い

つまでも恋愛ものに需要があるという

のはそういうことなのだ。

「愛は呪いだ」と言った一ノ瀬さんの気

持ちもやはり今でも分からないままだ

った。沢山のお客さんに関わらせてもら

ったが、憎しみも含めやはり愛は宝物だ

と思う。たった一人の人にひたむきに愛

を向けれられるって素晴らしいことじ

ゃないだろうか。

ガチャッ。

もうすぐ終業時間のはずだが、お客さ

んが入ってきたらしい。バイトの時も想

っていたが、本当にもうすぐ終われる、

と気を抜いている時に来られるお客様

って空気読めよ!って言いたくなる

くらいちょっとムカついてしまう。そん

なの、気を抜いている私が悪いのだが。

「すみません、もう終わりだって分かっ

てるんですけど、どうしても早く伝えた

くて」

「気にしないでください。転生、お急ぎ

なんですか?」

「いえ、それは全然急いでなくて。むし

ろ遅くてもいいと思っています。ただ、

あなたに早く会いたかったので」

「え?」

「こんなおじいさんになってしまいま

したからね、分からないでしょうけど野

村です。興味本位でここで働く人のこと

を聞いたら、戸田さんの名前を聞きまし

て。もしかしてと思ってきてみました。

運命ですね、死んでからこんなこと言う

のもなんですけど。あの、死神の方にラ

ブレターを書くことは可能なんでしょ

うか」

愛は宝物だ。与えられれば甘く胸の奥

ではじける。思い出せば温かく心を照ら

してくれる。それは死んでからだって、

効果は継続するのだ。

一ノ瀬さん、私も早く徳を積みたくな

りました。あなたがいなくなって退屈し

ていましたけど、永遠に続くと思ってい

た日常に、少し希望が見えてきたみたい

です。

ラブレター郵便局スピンオフ作品

バターチキンカレー

十一月のはじめ。

土曜日の夕暮れ時、2LDKの部屋に

トントントンッと、リズミカルな包丁の

音が響く。

「ごめん、なんか事故みたいで電車が遅

れてる!三十分後には着くと思う」

ブーッと鳴ったスマホを横目で見る

と、今日一緒に宅飲みをする友人、郁子

からの連絡が来たようだった。

四年前、新型ウイルスが突如世界に猛

威を振るいだした。それによって今まで

の生活は一変し、外出の際はマスクして、

常にソーシャルディスタンスを意識し、

手もアルコール消毒してお店に入るこ

とが常識になった。

今でもウイルスが消え去る気配はな

く、つい最近もこれで何度目か分からな

くなったが、飲食店などの営業時間を、

短縮する要請を政府が出したおかげで、

ハードな仕事終わりにちょっとしたご

褒美と称して、どこかへ食べに行くとい

うこともできなくなってしまった。

せっかく友人と飲めるなら、どこか行

きたかったけれど、やっていないなら家

で食べるしかない。

最近は私が飲み部屋とおつまみを提

供し、お酒を郁子が持ってくるというこ

とが恒例になってしまった。

介護士をしている私は今日珍しく一

日休みをとれたのだが、ケアマネジャー

である彼女は半日仕事だったらしく、移

動時間も含めて七時くらいに始めよう

かと言っていたが、遅れるらしいので八

時近くになるだろう。

今はおつまみをあらかた作り終えて

しまったので、締めに食べようと思って

いたバターチキンカレーを作るため、ジ

ャガイモを切っている。

郁子はお酒を飲むとカレーが食べた

くなるらしく、外で飲むときは必ず最後

にカレー屋さんに寄っていた。

だけど、バターチキンカレーは郁子の

好物ではない。罪悪感を少しでも減らす

ために、野菜がゴロゴロと入ったカレー

を彼女はよく注文していた。

じゃあ私の好物だから作ったのか、そ

れも違う。

バターチキンカレーは、半年前に別れ

た元カレ、拓馬の好物だった。

ふつう、バターチキンカレーにはジャ

ガイモを入れないのだが、私の好みでジ

ャガイモを入れたバターチキンカレー

を出したら、お店で出てくる本格的なも

のより気に入ったらしく、それ以来入れ

るのが定番になってしまった。

ジャガイモを切り終えると、IHの電

源を入れ、中火に設定する。ニンニクの

すりおろしとバターを鍋に入れ、溶け始

めたら一口大に切った鶏肉と、みじん切

りした玉ねぎ、乱切りしたジャガイモを

入れる。

パチパチとニンニクが油にはねる音

がして、同時に食欲をそそる良い匂いが

してきた。

こうして料理をしている最中に彼が

帰ってくると、鼻をヒクヒクさせて献立

を当てようとする、子供みたいな姿が見

れて楽しかった。それと同時に、『私は

仕事から帰ってきた旦那に、時間を計算

して温かいご飯を食べさせてあげられ

る、良き妻』ができる自分に酔うことが

でき、この一瞬がとても愛おしいと思え

ていた。

だけど今は違う。幸せだったころの幻

影を追っかけて、元彼の好物を作ってし

まうような、ただの痛い女だ。

トマト缶を入れる。今日は間違ってホ

ールトマトの方を買ってしまったので、

炒めながらぶちぶちと潰さなければな

らない。

拓馬はトマトが苦手だったから、細か

くしないと、と癖で考えてしまうが、こ

れは拓馬に食べさせるわけじゃない。私

と郁子が食べるのだ。

バターチキンカレーの作り方は、別に

拓馬のために取得したわけではなかっ

だ彼と付き合う前、一人暮らしした

ばかりだったころに、カレーは作り置き

が出来るからと、毎週ポークカレーを作

っていた。

だが、流石に同じ味では飽きてしまっ

たために、他のカレーも作ってみようと

試したのがバターチキンカレーだった。

拓馬と付き合って、カレーが食べたい

というので作ってみたら、ものすごく気

に入ってくれたようで、「自分と別れる

時があったら、このレシピだけは渡して

から出て行って欲しい」なんて図々しい

お願いをしてくるほどだった。

実際に別れるときは、カレーのカの字

も出ないほどレシピのことはすっかり

忘れていたようだが。

ルーと生クリームを入れて煮込む。ジ

ャガイモが柔らかくなったら完成だ。

ピンポンパーン。

うちのマンションのチャイム音は独

特だと思う。どうやら郁子がエントラン

スに着いたようだ。

オートロックを外してやり、玄関の鍵

も開けておく。

「やっほー、遅くなってごめんね!」

「いいよ、いいよ。無事にこれてよかっ

レベーターの音がした後、ドアが開

いて郁子が入ってきた。

そのまま洗面所に手を洗いに行った

らしく、壁の向こう側からガラガラガラ

と、うがい音が聞こえてくる。

「はぁ―― 、いい匂い!何のカレーな

の?」

「バターチキンカレー」

洗面所から出てきた彼女が壁にもた

れながら、嬉しそうに鼻をヒクヒクさせ

ていた。

「なに?私の顔になんかついてる?」

「なんでもない。あ、冷蔵庫からおつま

み出してって。簡単なものしか作ってな

いんだけど」

「いやいや、ありがとうだよ。あ、そう

だ。今日は色んなチューハイと、ちょっ

と高いシャンパン買ってきたからね!」

楽しみだな― 、なんて言いながらジャ

ガイモに竹串を指す。柔らかさを確かめ

てからIHの電源を切った。

テーブルの方へ行くと、郁子がもうす

でにお皿やらなんやら全て並べてくれ

ていた。

「ありがとねー。お皿とかの場所も把握

済みなんだ」

「そりゃここに来るのも、もう三回目で

すからね。ほら、飲もっ!」

長く付き合っていた拓馬と別れた私

を、郁子はとても心配してくれて、引っ

越した今の家によく遊びに来てくれる

ようになった。

三十路に差し掛かった独身女二人の

飲み会なんて、大体は職場の愚痴か、郁

子の『食事に行ったのにそれ以上の関係

に発展しなかった男の愚痴』、そして、

私の『結婚に中々踏み込んでくれない彼

氏の愚痴』が入っていたのだが、最近そ

の愚痴は無くなった。

お互い愚痴をある程度言いあって、

散々笑いあった後数秒の沈黙ができて

しまった。

切り出したいことがお互いにあるの

に、言っていいのか、言うタイミングは

ここでいいのか、悩んでいるとこうした

沈黙ができてしまう。

「あのさ、聞いてるかな。仕事辞めたっ

て」

「誰が?」

先に切り出したのは郁子だった。機嫌

を窺うように私の目を覗き込みながら、

おずおずと続ける。

「拓馬君」

「は?…… てか、なんで郁子は知って

るの?連絡先知ってたっけ?」

拓馬が仕事を辞めた?工場の仕事

あんなに気に入っていたのに。どんどん

昇給していたのに、本当は私に言えない

病気とか患っていたのかな…… 。

「いや、最近ね、悠たちが住んでいたマ

ンションの近くに、新しいデイサービス

ができたの。訪問したついでにスーパー

に寄って帰ろうと思ったら、たまたま拓

馬君にばったり会ったのよ」

「あぁ、なるほどね。ってことは、まだ

あの家にいるか、もっと安いマンション

を近場で探したか、よね」

「どうしてそう思うの?」

「前のマンションは、彼の仕事場から近

いところで選んだの。あーー、でも、も

う仕事辞めたってことは、引っ越す時に

わざわざあそこ仕事場周辺で探す必要

なくなったってわけだし、やっぱりあの

家にいるのかな」

「…… 拓馬君、別に怪我とかしてなかっ

たし、病気でやつれてるってわけでもな

かったから、よっぽど悠と別れたのがシ

ョックだったのね」

私は拓馬が仕事を辞めてしまった、と

いうショックで頭がいっぱいで、郁子と

の会話にあまり集中できなかった。

「私、後悔してるの。拓馬と別れたこと」

郁子は三角チーズのフィルムを開け

ようとしている手を止め、チラリと目だ

けをこちらに向けた。

「自分から切り出したから、復縁したい

なんて言いづらくてずっと迷ったまま

だったの。でもあの日のことを思い出し

ては、私、一方的過ぎたなって反省ばか

り出てきて」

あの日というのは…… 別れた日のこ

とだ。あと一か月で交際五年目だという

のにちっともプロポーズしてくれる気

配がない彼に、私は愛想つかして別れを

切り出した。

いや、愛想をつかしたなんて嘘だ。た

だ一人で焦っていただけで、もっと話し

合えば二人だけの答えが見つかっただ

ろう。今までだって話し合うことで、ど

んなすれ違いも解決してきた。

付き合ってばかりの頃、話合うことで

価値観の違いを知ってしまうのが怖く

て、一方的に彼を部屋から追い出すよう

な喧嘩ばかりしていた。

「一番大きな喧嘩をした時のこと、覚え

てる?」

「覚えてるよ、半年記念のデートだった

のに信じられないって、悠、めちゃくち

ゃおこってたもんね」

郁子は懐かしむように目を伏せて微

笑んだ。

半年記念のデートを私は、二週間も前

から指折り楽しみにしていた。

当日、卸したての水色のマーメイドス

カートをはいて、黒髪ボブだった髪もふ

んわりするようにアイロンでセットし、

ガラスの石がついているカチューシャ

までつけた。

半年記念のデートに、一目ぼれしたス

カートを身に着けて、今までで一番うま

くいったメイクで彼に会う。

マンションの下に着くと、彼の車があ

った。

今日の私ほどかわいい女の子はいな

いし、今日の私ほど幸せな女の子はいな

い、完璧だ。ドアを開けて、「おはよっ」

と笑いかければ、彼は可愛い私に、今日

一日メロメロだろう。

けれど、その浮ついていた妄想は、彼

の車に乗り込んだ瞬間、打ち砕かれるこ

とになる。

ドアを開けた瞬間、私の目はある一点

にくぎ付けになった。

助手席に、私の特等席だと思っていた

場所に、黒地に黒いリボン、どう見ても

女性ものの、私には見覚えのないカチュ

ーシャが転がっていた。

全身の血液が、急降下してどこかへ抜

け出て行ってしまったような気がした。

なにこれ、だれの?なんでこんなと

ころにあるの?なんで気づかなかっ

たの?私以外の女を最近乗せたの?

浮気したの?

頭の中は聞きたいことでいっぱいだ

ったのに、出てきたのは、蚊の鳴くよう

な声で一言だけだった。

「これ…… 」

「あーー、いつかの人の物みたいだね。

折ってもいいよ」

へらへらと笑う彼を見て、さらに血の

気が引いた。

この人は、私に不愉快な思いをさせた

なんて思ってない。

この人は、私もいつかの人も同じなん

死で弁明したり、自分の手でカチュ

ーシャを折ったり、私への情熱さが感じ

られない。

私もポロッと捨てられて、彼の車から

何年後かに埃にまみれて出てくる、誰の

かもいつのかもわからない埋もれたゴ

ミになるのだろう。

「私、帰る」

踵を返し、マンションへ駆け戻った。

鍵をかけてベットへ引きこもる。カチ

ューシャが掛け布団に引っかかって、髪

の毛が乱れていくのを感じたが、もうど

うでもよかった。

全部、全部どうでもいい。

別れたい。

ごめんって言ってくれなかったんだ

もん。

他の女の影が見えたんだもん。

信じてたのに。

渡した合い鍵も返してって言おう。

ガチャリと、扉が開いて彼が慌てた足

取りでベットまで走ってくる音が聞こ

えた。

「あの頃はさ、短いスパンで色んな喧嘩

しちゃってて、お互いすごく疲弊してい

たんだよね。私の家にお泊りでも、喧嘩

するたびに話し合い放棄して追い出し

ちゃってたし、だから拓馬も謝り疲れた

って感じだったんだろうね」

「でも、あれは拓馬君が悪いよ。ちょっ

と天然な部分があるけど、助手席に他の

女のカチューシャ、なんで置いとくの

よ」

「なんか、前日まで車検だったみたいで

ね。担当の人が彼女の物だろうって、気

を利かせて分かりやすいところに置い

てくれてたみたいだけど、夜に取りに行

ったから暗さに紛れて気づかなかった

みたい。ほんとかよってその時は思って

めちゃくちゃ言ったし、彼も彼でまた喧

嘩かよ、もう疲れたって言いだして。お

互い別れようとははっきり言わなかっ

たけど、危なかったなぁ」

今でこそ笑い話だが、あの時は怖くて

仕方がなかった。今までどんなに喧嘩し

ても、追い出しても別れそうになること

なんてなかった。

別れてやる!って気持ちでさえあ

ったのに、いざ彼が離れそうになると怖

くて、郁子に「どうしよう、どうしよう」

と彼が見ていない隙を見計らって相談

していた。

「悪いことは悪いから、拓馬は結局ちゃ

んと謝ってくれたし、私も今までのこと

謝って、初めて喧嘩したその日のうちに

話し合いして、仲直りしたんだよね。よ

り絆も深まったし、それから大きな喧嘩

もしなくなったしよかった」

でも、と私の顔が自然に下を向いてい

と言うほど思い知ったはずだった

のに、私は同じことをまた繰り返した。

今度はもう取り返しのつかない言葉

を使って。

「二人が別れてから今まで、拓馬君の愚

痴だけは聞いてきたけど、そういえば別

れた日にどんな話し合いがあったかと

か、聞いてなかったなって思ってたの。

二人が出した結論によっては、よりを戻

さないほうがいいと思う」

結論なんて何も出ていない、と私は郁

子を見ることなく言った。

出た結論は、『別れる』ということだ

けだ。

私の意見はすべて別れに向かって動

いていた。気持ちが冷めて別れたいから

彼を説得する、というわけでもなく、た

だ私の思い通りの意見が聞けなかった

から分かり合うことを諦めただけだっ

た。

「焦ってたの。周りの同僚も友達も、後

輩も結婚していっているのに私だけ、恋

人がいてもずるずると付き合っている

だけで、未来設計なんて全くできてない

し、結婚について話し合いたくてもごま

かされるし、もう疲れちゃったの」

入居当時から、私の結婚を楽しみにし

てくれていた方が去年亡くなった。男の

子ばかり育ててきたから、と私を娘のよ

うに可愛がってくれ、時には拓馬の愚痴

を聞いてくれたり、決して偉そうではな

いアドバイスをしてくれた。

本当に、本当に大好きな方だった。

私にとっても、彼女に結婚報告をする

のは一つの夢になっていたし、まさか彼

女が亡くなるまでに、自分が結婚できて

いないとは思いもしなかった。

結婚が幸せのゴールではない。

女の幸せは結婚ではない。

それは重々承知だ。だけど、好きな人

といずれかは結婚して、子供を産んでと

いうのが私の夢だった。拓馬とはそれが

実現できると思っていた。彼もそれを望

んでくれているとも。そうでなければ五

年も一緒にただの他人が一緒にいられ

るわけがない。

「拓馬君は、なんで結婚したくなかった

んだろ?聞いた?」

「んーー、紙一枚にこだわらなくてもよ

くない?とか言ってたような気がす

のペラペラ紙一枚に、どれだけ希望

も安心も約束も詰まっていると思って

いるのだろう。

自分は浮気をしてしまうから、とかま

だ遊んでいたい、という理由ならまだ納

得がいった。けれど、ただふわふわ話か

ら逃げているだけで、何も考えていなさ

そうなところに腹が立って仕方なかっ

た。

私はこんなに真剣で、焦っているのに、

どうして同じ気持ちで向き合ってくれ

ないの?

「結婚する気、なかったのかな?だと

したら悠と五年も一緒にいないよね。遊

んでくればいいもんね。結局浮気とかし

てなかったもんね」

「うん、『今』は結婚したくないって。

でも、じゃあいつならいいの?って感

じだしさ。あと二年で三十になるってい

うのに。男の三十と、女の三十って違う

じゃん!子供のできやすさとか、ウエ

ディングドレスだってどんどん控えめ

なのしか似合わなくなりそうだし」

私は郁子が持ってきてくれた、シャン

パンのグラスを一気にあおった。

しゅわしゅわッと爽やかな甘さが口

の中に広がった。

おぉ、これは飲みやすい、なんてのん

きなことを考えたが、あとから喉がじん

わりと熱くなってくるのを感じ、少し驚

いてしまった。

可愛らしい味をしているのに、しっか

りきついお酒のようだ。考えて飲まない

と、明日が辛いかもしれない。

『飲みすぎんなよ、また気持ち悪くなっ

ても知らねぇぞ』

ふと、拓馬の声が聞こえた気がした。

反射的に右を向くが、当然誰もいない。

急に、酔いが回った頭を動かしたから

か、はたまた拓馬がいない事実に打ちひ

しがれたのか、私の体はぐらッと傾き、

危うくテーブルに頭をぶつけるところ

だった。

「ちょっと、急に頭動かさないの!大

丈夫?」

「あ、うん、平気平気…… なんか、拓馬

の声が聞こえた気がしたの」

郁子は半ば呆れたように私を見てい

た。

「引きずってんね、思いっきり。ねぇ、

自分がなんで焦ってるのかとか、話して

みたの?」

私は目を閉じて、あの日自分が言った

ことを思いだそうとした。

そうだ、私は拓馬に一緒に居ても未来

が見えてこない、ままごとの延長戦を続

けて一生が終わるなんて嫌だ、と言って

しまったのだ。

お互い仕事して、色んな困難を乗り越

えながらやってきたのに、ままごとの延

長戦と言われて、拓馬はどう思っただろ

分たちのお金で生活して、誰の真似

事でもなく自分達のやり方でやってい

こうとしていた私達の暮らしは、全くま

まごとでは無かったはずだ。

未来だって、きっと子供が好きな彼は

良い父親になっただろう。遊び歩くわけ

でもなくちゃんと帰ってくる彼は、育児

も一緒にやっていけただろう。家事だっ

て、分担してやってきたのだから、結婚

したって何か変わるわけではない。

自分にとって、恋人から家族へ変わる

結婚はとても重要なことだった。

確かに周りと、年齢を気にして一人で

焦っていた節はある。けれど、その気持

ちもわかって欲しい!と口に出さな

いまま一人で怒って、話を解決ではなく

別れに切り替えてしまった。

「自分がどう思っているのかも、焦って

いる気持も、拓馬に対する愛情も何もか

も言わないままに、話し合いを放りだし

て、無理やり別れ話にもっていって一方

的にシャットアウトしたの」

郁子がため息をついて、肩を落とした。

一番やってはいけないことを私はや

った。それも全部分かっている。

だから中々言えなかったのだ。

でも、切り替えることも、諦めること

もできなかったのだ。

自分は切り替えができる女だと思っ

ていたのに。

いつもだったらすぐ消していた思い

出の写真たちも、「若かりし頃の自分が

懐かしいから」なんて誰に対してなのか

分からない言い訳をして、ずっとスマホ

の中に残している。

「話合いをするのも嫌なくらい相手が

嫌い、っていうならわかるけど、その終

わり方は自分のためにも相手のために

もならないんだよ。…… でもまぁ、きち

んと終わっていないからこそいいのか

絡すれば?と郁子が私のスマホ

を指さした。

私は少し考えて、スマホを手に取ると

拓馬へメッセージを送った。

『ごめん。もう一度会って、話がしたい』

その日から、一週間経った今でも拓馬

からの返事が返ってきていない。

彼はとっくに私をブロックしてしま

ったのだろうか。

この一週間、ずっとモヤモヤしたまま

んな風に誰かの返事を今か今かと

待つのは、なんだかとても久しぶりのよ

うな気がした。

まるで、付き合う前の頃のようだ。私

のことを気にしているって分かってい

る。だけど、連絡をもらわないと、自信

が持てないからそわそわしてしまう。

まだ拓馬に、こんな少女のような気持

ちを持っていたとは自分でも驚きだ。

もしかしたら手紙で返事を送って来

てくれているかもしれない。

なんて、恋に盲目の期間は、いつもだ

ったら思いつかないようなことを閃い

てしまう。

そうだ、ポストに行くついでに溜まっ

ているであろうチラシ達を取りに行こ

ストから手紙やチラシを回収する

のは、拓馬の役目だった。

回収してもらったラーメンや、お寿司

のクーポン付チラシを一緒に眺めてい

ると、

「今日はちょっと豪勢に、寿司でも行

くか」

って、必ず拓馬は言ってくる。どっち

かっていったら、ラーメンの方がいいん

だけどな、と思いつつも、私は毎回この

夜のデートを楽しみにしながら仕事に

行っていた。

手紙とチラシが一緒に入っていたら、

今度はラーメンに行こう

よって誘ってみようかな。

ポストを開けるため、ロックのダイア

ルを回す。

最近になってやっと、間違えずにすん

なり開けられるようになったのだが、未

だに手紙たちを溜まらせてしまう。宅配

物が無いと、ついポストの存在を忘れて

しまうのだ。

案の定、雪崩が起きたので慌てて腰で

落ちそうになったチラシを押さえる。

深いため息が出た。

分かっていた。拓馬が手紙なんて書く

はずない。

五年間、何かしらの記念日のたびに手

紙を渡していたけれど、返事が返ってき

たことなんてなかった。

分かっている、分かっているけれど、

チラシの束の中から手紙が出てくるん

じゃないかと探してしまう。

ラブレターなんて、待ってもいいよう

な年齢じゃないけれど、それでも、私は

やっぱり拓馬に恋しているから、ロマン

ティックな演出があったら少女時代に

戻って大声ではしゃぐだろう。

諦めと希望の半々を抱いたまま、最後

のチラシを手に取った瞬間、白い封筒に

ハートのシールが貼られている、ザ・ラ

ブレターというようなデザインの手紙

が床に滑り落ちた。 ―― 永野拓馬より

心臓がドクンと脈を打った。

飛び上がりたいほど嬉しいのに、全身

が鳥肌を立てるほどこの手紙を読むこ

とを拒んでいる。

震える手で手紙を拾い、急いで家に戻

った。

ドアを閉め、チラシの束を無造作に靴

箱へ乗せた後、恐る恐るハートのシール

をはがし、封を開けた。

何度よんでも内容に頭がついてこず、

真っ白になる。

五回ほど読んだところで、膝から崩れ

落ちた。

胸が苦しい、ちゃんと呼吸できている

のだろうか。息ってどうやって吸って、

どうやって吐いたっけ。

ねぇ、冗談でしょ?本当は生きてる

んだよね?

だって、手紙くれたじゃない。

ねぇ…… 私だって謝りたかったよ。あ

なたのお嫁さんになりたかった。

ねぇ、その話をするために連絡したの

ぇ、こんなの…… どうやってこれを

受け止めたらいいの…… 。

『今日はバターチキンカレーがいいな』

頭上から拓馬の声が聞こえた。

仕事へ行く拓馬を玄関で見送るとき、

夕飯のリクエストがあるときは、この場

所、ドアの目の前で言ってから出て行く

のが常だった。

「…… 好きだねぇ…… 」

冷蔵庫の中に生クリームはもう無か

った。

玉ねぎとバター、トマト缶に鶏肉はま

だあったはずだ。

ジャガイモは…… やはり入れたほう

がいいかな。拓馬はジャガイモが入って

いるバターチキンカレーが好きなのだ

から。

私はゆっくりと立ち上がって、靴箱の

上に置いてあるガラスの皿から鍵を取

った。

今はカレーを作ろう。彼が食べたいと

言っているから。それに、私の体もトマ

ト缶の酸味を恋しがっている。

バターも買い足そうかな。早く買いに

行かなくちゃ、体中の塩分が無くなって

しまう。

振るえる唇を噛んで、流れそうになる

ものをグッと堪えながらドアを開けて

外へ出た。

マンションから出ると、まだ十一月が

始まったばかりだというのに、雪が降り

そうなくらい寒かった。体が凍える前に

帰ってこなければ。拓馬の体も冷え切っ

てしまう。

一歩、踏み出した時だった。チラチラ

と白い粉が上から降ってくるのが見え

た。粉が当たった場所は、熱を取られて

いくように冷えていく。

その瞬間、こらえていた温かい涙が頬

を伝って落ちていった。

美しくない恋愛ばかりしてきたけれど「運命の人」

はずっと信じてる

『ラブレター郵便局』は初の長編小説を書くという、挑戦した作品だった。だが、

構想は一年生の時から考えており、自分の中の恋愛価値観や経験、そしてテーマを

書き起こせるようになるまで温め続けた作品でもある。

書きたかったテーマというのは、『運命の人と結ばれる運命を自分の手で手放して、

永遠に後悔し続ける話』というもので、一度芸大祭で出品するために同じテーマで

書いてみたことがあったのだが、しっかり構想を練ることが出来ず中途半端な作品

になってしまった。その後も何度か書き直してみようと思ったが、うまくいかず、

私はこのテーマで書くことを一度諦めることにした。

しかし、転機はその二年後突然訪れた。

小説を書きたいけれどシチュエーションやテーマが決まらない、と悩んだ私はラ

ンダムでシチュエーションを決めてくれるサイトを訪れた。そこで出てきたのが『死

にたがりの死神』。

死神なのに死にたがり?面白そうじゃないか、とすぐこのシチュエーションで

恋愛小説を書こうと思い立った。そしてこの死神の話なら温めてきたテーマを生か

せる!今なら書ける!とできたのが死神が郵便局を経営している『ラブレター

郵便局』だった。

みんな、決して幸せな恋ではなかったけど、おいしいネタにな

ってます

どうして死神は死ねないのか、どうして運命の人と永遠に結ばれなくなるのか。

当たり前にできることをさせてもらえないというのは、何か罪が課せられた時だと

考えた。そんな時に思いついた理由が「自殺」。自殺者の魂は永遠に自死した場所に

とどまり続け、死を繰り返し続けるという。これは運命を取り上げられるほどの罪

になるだろうと思った。

そんな、自分には書くことが出来ないラブレターを永遠に配達し続ける死神、そ

して私の永遠のテーマである『愛とは何だろう』を加えればきっと面白い長編作品

が書けるのではないかと考えた。

この作品には先ほども記述したように、『愛とは何か』がテーマに含まれている。

この世には、好きな人を大切にして支え合うことだけが愛として存在するわけで

は無い。憎しみや怒り、醜い感情も混ざっている愛だってある。暴力だって、モラ

ハラだって、価値観が合う者にとっては成立する恋愛なのだろうし、支配したいと

いう愛が行き過ぎた結果なのかもしれない。

実際私もお互いに大事にし合う愛から、憎悪に変わりそれでも相手に執着してし

まうという愛を幾度と見てきた。

美しいか、正しいかなんて他人から見た感想であって、党の本人たちはただ自分

の信じる愛を貫いているだけに過ぎない。

主人公である戸田ちゃんも最初のころは理解できないと嘆いていただろう。恋愛

に障害は付き物。全てがトントンと調子よく進むことは無いし、他人から「そんな

辛い思いして、この先大丈夫なの?」と問われるようなことも時には起こるかもし

れない。けれど結局付き合い続けるにしろ、別れを選択するにしろ決めるのは自分

しかいないのだ。

美しい愛かそうでないか、を考え始めたきっかけはDV彼と別れた時だった。

間違いなく彼は百パーセントの愛を注いでくれていた。けれど、私にとってはと

ても受け取れない異常な愛で、彼から逃げ出すことを選択した。「どうして私は受け

止めてあげられなかったのだろう」と未練など関係なく思うことが時々あった。

百パーセントの愛情をぶつけてくれる人なんて中々いないだろう。なのにどうし

て彼じゃダメだったのか…… それはきっと私の運命の人が彼じゃなかったから、と

しか言いようがない。私が百パーセントの愛を返せなかったのだろう。逆を言えば

私の百パーの愛じゃ足りなかったのだ。

だからこそ彼じゃなかったのだ。何度時を戻したって、彼と私が結ばれる運命な

ど訪れないだろう。彼だけじゃない、お別れした過去の人達との愛は私にとって美

しいと言えるものじゃなかった。

美しいと言える恋愛をしてこなかったからこそ、キャラクター達には美しいと胸

張って言える恋愛をして欲しいと思った。他人の戸田ちゃんから見て、決して美し

いと言える愛じゃないのかもしれない。けれど、それぞれが美しい物語として完成

しているのは、みんながそれぞれ悩んで苦しんだ末に自分だけの真っ直ぐな愛を見

つけたから、なのかもしれない。

男女で考えてること違い過ぎて、『二人の未来』という名のクイ

ズに一生正解が出ない

ここからは『ラブレター郵便局』の永野拓馬エピソードのスピンオフ作品『バタ

ーチキンカレー』の話をしていこうと思う。

この作品も以前から考えていた、『結婚目前で、同棲していた彼女に逃げられる話』

というテーマで書いた作品だ。以前書いた『桜にチューリップの花束を』のように

結婚ってどうしてするのだろう。という価値観について考えた作品だった。

しかし、拓馬君と『桜にチューリップの花束を』に登場する大樹君との違いは、

男性のリアルな考えを書いているか書いていないかにある。大樹君は、女性が理想

とする男性像が詰まった人だが、拓馬君は違う。

どうしてそんな言い方しかできないんだろう、どうしてそんな考え方になっちゃ

うの?という男女間での考え方の違いが出ることを意識しながら書いた男性だっ

樹君カップルと拓馬君カップルはどちらとも結婚について話し合っているが、

結末は正反対だ。拓馬君カップルは単純に結婚したいタイミングを話し会えなかっ

たことが別れの原因だろう。しかし、似たような理由で関係が破綻するカップルは

少なくないと考えている。

今どきは女性からのプロポーズも珍しくないが、結局気持ちのタイミングが合わ

ないと喧嘩することになってしまう。けれど、『バターチキンカレー』を読んでもら

えれば分かることだが、悠ちゃんは別れ話を本当にしたかったわけじゃないのだ。

ではなぜ別れることになってしまったのか…… それはお互い冷静じゃなかったか

ちゃんが欲しかった答えは、

「じゃあ今すぐ結婚しよう、とは俺の中のタイミング的に言えない。けれど将来

を考えていないわけじゃないから別れるなんて言わないでほしい。結婚する人は悠

しか考えられないよ」

というような言葉だったのだ。周りの知り合いから、結婚したと報告をされるた

びにどんどん焦りが芽生え始めていたのだろう、中にはスピード婚や授かり婚を果

たした友人などもいたはずだ。それなのに自分達は五年も付き合っていて、同棲ま

でしているのにいつまでたってもプロポーズされる気がしない。

彼女はただ安心が欲しかっただけなのだろう。自分と家族になってくれる意思が

彼にあるのか、自分はまだ彼にとってちゃんと女なのか、彼女にとっての本当の問

題は、今すぐ結婚をしてくれることじゃない。焦りを落ち着かせてくれることだっ

たはずだ。

けれど、そこで全く違う答えを出してくるのが男性なのだ。それは仕方のないこ

と。なぜならイキモノが違うから。

拓馬君は今まで心の余裕が無かったのだろう。だからと言って彼の態度は褒めら

れたものではなかったけれど、彼の言うように結婚を考えられるタイミングではな

かったのだ。しかし、悠が切り出した時には少しずつ悠との未来を考えられる余裕

が出てきたかも、と思い始めていた頃だったのではないかと思う。しかし、詰めら

れ正論で殴られたことで彼のライフがゼロになってしまい、別れ話を止められなか

ったのだろう。

悠ちゃんは焦りが先走り過ぎて、自分の本当の気持ちに気づけていなかったのだ。

欲しい言葉があるのなら、正しくそれを聞くべきだった。

「周りがどんどん結婚していっているから少し自信がなくなってきちゃった。拓馬

は、私と将来結婚したいって思ってる?」

これに拓馬君がどう返したとしても、「じゃあいい機会だし少し話し合ってみな

い?」という風に切り出していたら結末は変わっていたのかもしれない。

男性は別なことを同じタイミングで複数考えることや、行動が出来ない。聞きた

いことを一つ一つ順番に質問しないと、パニックになって答えを出さないかイラつ

いた感情だけで結論を出そうとする。

でもそれは、何も考えていないから追い詰められると困るのでは無くて、自分の

意見を持っているからこそ先回りされて、正論で逃げ道を潰されたことでパニック

を起こしてしまうのだ。考えていないようで、本当はしっかり考えていたから拓馬

君もヒートアップしてしまったのだろう。

別れに向けての話し合いは、パートナーと過ごした日々を思い出した時に、幸せ

と苦しさを天秤にかけて幸せの方が多すぎる、と涙が出てくるなら踏みとどまった

ほうがいい。取り返しがつかなくなってもいい、と本当に気持ちが冷めていないな

らばきっと後悔してしまうだろう、悠ちゃんのように。

女を不安にさせといて、知らぬ存ぜぬ謝らぬという男には何か

しらの罪状をつけて逮捕して欲しい

こそこそ話をさせてもらうと、作中に出てくる身に覚えのないカチューシャが彼

の車の助手席に鎮座していた話は、もろ私が昔体験した実話である。

あのままの通りの話だが、少し違うことは私は帰らずにそのままデートをしたこ

とだ。自分の身に何が起こったのか分からず、彼が浮気したのかも分からず、とり

あえずカチューシャは彼がコンビニで捨てていたけれど、私は終日無言を貫き、そ

の日のデートは二人ともお通夜状態で全く楽しめなかった。

帰宅した後、彼は荷物をまとめ始め合いかぎも返そうとしてきたのだ。その時点

で別れてしまえばよかったのに、私は彼の方が被害者顔していることにムキになっ

て、彼を引き留めてしまった。今思えば辞めておけばいいのに仲直りして、結局そ

のカチューシャの真相は彼と別れた今でも不明となっている。

何より怖いことは、最後まで彼は謝ろうとしなかったことだ。まぁ、そんな人だ

ったから私と別れる羽目になっているのだろうけど。

幸せな恋をしているかと、ダメな恋の消費期限は自分の心に聞

くのが一番正確

ここからはまたセリフを解説していこうと思う。まずは『ラブレター郵便局』か

p172

愛は呪いだよ。それも、とてつもなく強力な

これは一ノ瀬さんが戸田ちゃんの問いに対して出した答えだ。

私自身『愛は呪いか宝か』の答えは出ていない。呪いだと思う意見を一ノ瀬さん

に言わせ、宝だと思う意見を戸田ちゃんに言わせている。別れた後だけでなく、時

間が経った後もひどい扱いだったなと突然苦しくなる時がある。もし、また同じよ

うな扱いになってしまったらどうしようと、勝手に不安になるときがある。そうい

う時に一番私は、愛って呪いだなと考えてしまう。

逆に、この人と一緒に居て楽しいな幸せだな、とふとした瞬間に思えたり、好き

な人の好きなところや尊敬できるところを考えながら一日を過ごす、ということを

していると愛はやっぱり宝だなと思えてくる。

結局どちらかに決めることはできていないので、私にはまだこの問いの答えは出

せそうにない。

p182 私の両親は、自分達よりも先に死んだ娘のことをどう思っ

ただろう。

これはゆかりさんが亡くなって初めて、残していった自分の両親について考えた

気持ちである。

残していった娘のことばかりゆかりさんに考えさせていたが、彼女もまた誰かの

娘であるのだ。愛するわが子を突然失った悲しみはきっと計り知れない。私には愛

する人を突然失う、という経験がなかったのでこのシーンはとても難しいものだっ

た。何度も先生と相談し、親目線でシーンを想像するのではなく、もし私が両親よ

りも先に亡くなったらどういう気持ちになるだろう、ということを考えることにし

た。親の気持ちは親になってみないと分からない。誰かを失ったことがある悲しみ

は、失った人にしか分からない。けれど子供だったことはあるから、私はもう一度

やり直せるならまた両親の子供に生まれたいと願うだろう。ゆかりさんの次の人生

は、もっと幸せなものになって欲しい。

p197 めんどくさい、って簡単に片づけられる便利な言葉だ。

めんどくさい、というのは前の人の口癖だった。思えば無意識のうちに彼を拓馬

君のモデルにしていたのかもしれない。元カノたちの写真を消すのめんどくさい、

消す消さないを話し合うのもめんどくさい、晩酌に付き合うのもめんどくさい、お

風呂に入るのめんどくさい…… 拓馬君の言う通り、めんどくさいはパートナーを黙

らせる、便利で最強の言葉だと思う。「お前、めんどくさいんだよ」と言われてしま

ったら、全部自分が悪いように思えてきて、それ以上主張できなくなってしまう。

生きるのって確かにめんどくさい。だけど、自分が選んだはずのパートナーとの

生活事で、めんどくさいと考えることを放棄してしまうようになったら、どんどん

関係は破綻に向かっていくだろう。

p228 切り替えることも、諦めることもできなかったのだ。

自分は切り替えができる女だと思っていたのに。

悠はそれまでの恋愛と、拓馬との恋愛は全く違うものだったと自分でよくわかっ

ていた。今までの自分と全然違う。それほどまでに彼のことが好きだったというこ

とだ。拓馬君が「悠は俺の連絡先を既にブロックしているだろう」と思っていた理

由は、付き合った当初は前の恋愛について少し質問し合うものだ。拓馬は何年たっ

ても聞いていたことを彼は忘れていなかったのだろう。

今までだったら悠は、さっさと忘れて次に行くことが出来た。けれど彼と別れた

後も写真すら消せず、復縁したいと友達に語っている。きっと自分でもそんな自分

に戸惑っているのだろう。

無意識のうちに彼の好きなカレーを作ってしまったり、彼とのエピソードをふい

に思いだしたり本当に好きではないとそんなことできないだろう。付き合っている

ということに浮かれていただけではない。心の底から拓馬のことを愛していた。別

れた後、改めて相手がどれだけ特別な存在だったか気づいて戸惑いが隠せない。本

当に好きだったからこそ、忘れられない、忘れたくない。さっさと次にいける強い

女を演じたくもない。彼への気持ちには素直でいたい。そんな気持ちが詰まった一

文になっている。

『ラブレター郵便局』&『バターチキンカレー』エッセイ

愛してるって、クリームソーダの泡みたいにぱっと消えてく幻想

じゃない?

この人は、私を愛してないんだなと感じる瞬間に立ち会ってしまったことってあ

ちゃくちゃ虚しいよね。毎日気を使って暮らしているのに、あっちは私のこと

ペットくらいにしか思ってないんだなって気づいちゃったらさ。気が向いた時に数

分だけ構われて、それ以上を求めると「もう今構ったからいいでしょ」って邪険に

されて、時々散歩(デート)に連れてってくれたりご褒美(プレゼント)くれるけ

ど、日常は幸せだと思えない。なのに、私馬鹿だからたった一度、愛してるって言

われた時の幸せだけで、全然大切にしてもらえないのに尽くしてしまってたんだよ

ね。半年経てば、一年経てば苦しさに慣れる日が来るのかもしれないって。なるほ

ど、これが「愛は呪いだ!」に繋がるのかも。

傷つきたくないから諦めるようになる。もういいや、どうせ欲しい言葉は帰って

こないやって。調子に乗って質問したら絶対傷つく末路しかない。それなら何も求

めたり、期待したりしないほうがいい。そうすれば平穏に暮らせるって思っちゃっ

てたな。

だから『ラブレター郵便局』『バターチキンカレー』は前に同棲していた元カレの

影響を受けた作品だったんだな、って解説書いて初めて気づいた。拓馬君と悠ちゃ

んが一度すれ違ってしまったとしても、気持ちが変わらなかったのということが私

が彼に求めていたものだったのかもしれないなって思う。今の彼への気持ちを知っ

てしまっているから、元カレに求めていたものが愛だったのか分かんないんだけど

さ、でも悠ちゃんがいなくなった後の喪失感と同じように、私という存在がいかに

大切なものなのかを分かってくれていたらいいのにな、と思っていたんじゃないか

な。でもそれは、家事とかやってくれることがどれだけありがたいことなのか気づ

けよ、って気持ちだから恋人としての主張って言うより母親目線のものに過ぎない

よね。

「愛してる」ってさ、ほんとに別れた瞬間からぱっとなくなってしまうものなん

だなって気づいた。別れた瞬間っているより、冷めた瞬間なのかな。どこがよかっ

たんだろ、なんで付き合っていたんだろって不思議に思っちゃう。ぱちんとはじけ

てどっか行っちゃうよね。夢から覚めた瞬間みたい。「あれ、私なんの夢見てたっけ

~」て感じでさ、思い出せなくなっちゃうんだよ、昔の恋心なんてさ。幸せじゃな

かったんだから仕方ないよね。

逆に好きな人に言われる「愛してる」って何に例えられるんだろ。間違いなく冷

たい炭酸とかじゃなく、あったか~い飲み物ではあるだろうね。本当に大切にして

くれる人からの愛してるははじけて消えてく幻想なんかじゃなく、蓄積していく宝

物なんだよね。

愛が宝物だって思えることって、親子の間だけの物だと思ってたんだけどさ、無

償の愛って家族だけに言えることじゃないんだって最近気づけたよ。だってそんな

言葉両親にしか言ってもらったことないもん。あ、ここでちょっと私の両親がいか

に私を大切にしてくれてたのかを匂わせちゃうんだけど、ママは私が自信失くした

ときとか、誕生日とか「ママとパパの大切な宝物」って言ってくれるのね。そんな

ことを自分が他人に言う日が来ると思わなかったし、言われる日が来るとは思わな

かった。ほんと、びっくりドンキー。

四年間恋愛物語を研究してきて、たどり着いた物語が『ラブレター郵便局』とい

う、愛について考える作品だった。でもいつしか物語を書くにあたって、経験を積

めば積むほど作品はリアルになっていくけれど、私の恋愛と同じように影を感じる

作品ばかりになっちゃったんだよね。そして本当のハッピーエンドを迎えられる幸

せなラブストーリーがいつの間にか書けなくなって、キャラクター同士で結婚観と

か、DVとか、難しい話合いばかりさせるようになってた。

きっと私は話し合いで解決したかったんだと思うな、前もその前もそのまた前も、

今までの過去の恋愛達はきっと沢山話し合って未来を決めたかったんだと思う。意

見のすり合わせをしたかったんだと思う。「私もこの子たちのように話し合いが出来

ていたら、こんなにモヤモヤせずにいられたのかな」って、我慢するしかなかった

心の叫びを、絶対に元カレ達には届かない場所に書き留めることで、気持ちの整理

をつけていたのかもしれないね。

本当の気持ちは物語の中にしまって、「自分は幸せなんだ、間違っていないんだ」

って周りにも自分にも嘯いてた。幸せじゃないのに、私は幸せだって思いこもうと

することってさ、もう既に幸せを諦めてるのと同じじゃんね。そんなことをしてた

ら、本当の幸せはどんどん遠ざかるばかりなんだよ。

私が「直接的な愛情表現じゃない技法」を研究したいと思った理由は、ありきた

りな言葉で飾られた愛じゃなく、日常に隠れているその人にしか分からない、その

人のための本当の愛を知りたかったからなんだなって、この本を書いている中で気

づいた。

私は愛されたかったんだなってね。私が理想とする幸せを見つけたかったんだよ。

それは見つかったのかって?見つかったと思ってるよ、少なくとも今はね。嘘

偽りなく、胸張って言えるよ。

今、私は幸せ。

だから研究は終わりなのかって言ったらそうじゃないんだ。悲恋しか知らない私

が幸せを知れたのだから、もっと書ける物語の幅が広がったということだし、表現

の技法もこれからどんどん増えていくだろうと思う。だって、幸せを想像しなくて

よくなったわけだしね。

この研究に関しては、悔しいけど元カレの言葉が一番しっくりくるかな。「幸せだ

ったかどうかは死ぬときに分かる」ってね。幸せを知れたことは事実だけど、この

先何があるか分からない。

だから一生かけて私はまだまだ色んな愛と、表現について研究していきたいと思

ってるよ。

気まぐれソーダは夕間暮れに

カラン…… 一歩、コロン…… また一歩。

煙草をふかしながら、石畳にゆっくり

と歩みを進めると、軽やかな音を奏でる

木製のサンダル。

仕事の休憩時間、寂れた神社に来ては

煙草を吸うがてら、こうして歩きながら

考え事をするのが、いつの間にかアタシ

の癖になっていた。

考え事と言うのは他でもない。新しい

メニューを開発するためだ。それなのに

いくら考えても中々いい案が浮かばな

い。十分の間にもう五本も吸殻を出して

しまった。

『流果

るか

は子供過ぎるんだよ…… 』

ふと脳裏に、愛しかった相手から突き

付けられた残酷な言葉が過り、思わず煙

草を加えている歯に力がこもってギギ

ギッと音が鳴った…… その瞬間、

「煙草はダメって言ったのに」

毎度のお約束を口が覚えているのか、

あれだけ力が入っていたというのに、あ

っという間に煙草の感触が無くなった。

チッと、ここまでがテンプレだという

ように反射的に舌打ちが出てしまう。

「舌打ちもしない。全く…… 煙草は体に

悪いからダメって何度言えばわかるん

ですか」

気の弱そうなスーツ姿の男が、アタシ

から奪った煙草を、携帯灰皿の中へ押し

込めながら大きなため息をついた。

「今日はそんなに吸ってない」

何か言わないのもしゃくだと思って、

とりあえず言葉を放ったアタシに、

「そういう問題じゃないでしょ。子供み

たいな反論しないでください」

と、彼はまた二度目のため息をつく。

子供…… か。いつもだったら気にしな

い彼の言い方も、今はなんだかセンチメ

ンタルな気分に拍車をかけてしまう。

彼はアタシの地雷を踏んだことに気

づいていないのか、尚もくどくどと説教

を垂れている。

こんなうるさい奴拾うんじゃなかっ

たかな。

半年前、アタシと彼…… 『鞍馬裕壱

くらまゆういち

はここで出会った。

梅雨がようやく終わろうとしていた、

じっとりと肌にまとわりつくような暑

さだった日、アタシはいつものようにこ

の神社で休憩していた。二本ほど煙草を

吸い終わったころだったか、どこからか

男性の叫び声が聞こえてきたのだ。

ここは商店街から少し離れた、山道に

佇む寂れた神社。人なんてほとんど来な

いはずなのに、一体何事だろう…… 。

座っていた場所を離れ声の聞こえる

方に足を進めると、スーツ姿の男が賽銭

箱の前で何か喚いていた。

ただの気がおかしい人か、と元居た場

所へと戻ろうと思った時、アタシは彼の

「好きだったのに…… 僕…… バカみた

いじゃないか…… 」

という呟きを聞き取ってしまい、無意識

に自分の過去と重ね、そこから動けなく

なってしまった。

好きだった…… かは今はもう分から

ない。けれど、彼の興味を惹く努力は怠

らなかったし、色々なサイトを参考にし

た『彼に好かれる彼女』を実践していた

のに、彼は夢を捨てられないアタシを子

供と呼んで尊重してくれることは無か

った。

そしてどうしてもアタシと生きてい

きたいという姿を見せることなく、転勤

を期に別れを告げどこかへ行ってしま

った。

きっと、アタシがこだわっていたのは

彼に愛されることじゃない。努力が実ら

ないことに、年下のアタシに興味がなく

なっていくことに傷つき、いら立ってい

たのだと今なら思う。ほんと…… バカみ

たいだ。

気づいたら、アタシは鞍馬さんの手を

引っ張って、バイト先である喫茶店に連

れてきていた。

『お金は貰わないから、アタシの夢が詰

まった、クリームソーダを試食して感想

を言って』

という条件を勝手に彼に課し、それから

一週間に一度のペースで店に通っても

らうようになった。

彼に勝手に同情して、勝手に焼いたお

せっかい。それでアタシも彼も何か変わ

ったわけでもないし、何かを変えたかっ

たわけでもない。ただ気づいたらこうな

っていただけだ。試食してもらえるなら

彼じゃなくてもよかったし、そういう人

を探していたわけでもない。

ただ、ここまでアタシの言うことに何

も反論することなく素直に受け止めて、

この奇妙なやり取りを半年も続けてい

る、彼の押しの弱さにはいささか疑問を

抱く。押し通したアタシが言うのもなん

だが…… どうして彼はこんなことを続

けてくれるのだろう。

「…… てますか、聞いてますか、流果さ

ん!」

彼に名前を呼ばれ、現実に意識が引き

戻された。

「ごめん…… 考え事してた」

全く、とまたもぶつぶつと呟きながら、

彼は何やら取り出そうとカバンを漁っ

ている。

しばらくすると、彼はオレンジ色の小

さな花が沢山詰め込まれた、両手に収ま

るほどの瓶をアタシに差しだしてきた。

ふんわりと甘い香りが微かに瓶から

香ってくる。

「これ…… 金木犀?」

この神社の近くでも咲いているのだ

ろう、たまに風に乗って運ばれてくる香

りとよく似ていた。どこか懐かしくて優

しい香りがする金木犀の香りを嫌いな

人はきっといないだろう。

「特別なメニューを作るのも悪くない

んじゃないかと思って。特別な花を使っ

てね」

特別な花…… 誰にとって特別な花な

んだろうか。黙って聞いているアタシに

彼は話を続ける。

「昔、母が金木犀のジャムを作っていた

のを思い出しまして…… 新メニューの

参考になればいいんですけど」

母の思い出だから特別。特別な花…… 。

一瞬だけもやっとしたのはきっと気

のせいだ。

「…… 金木犀を乾燥させたら食用に利

用できるかも」

ボソッと呟いたアタシの横目に、彼の

顔を綻ばせた、分かりやすく喜んでいる

姿が映る。彼がメニューを提案してくる

なんて初めてだ。よほど大切な思い出な

のだろう。彼が喜んでくれるなら…… 。

「金木犀のクリームソーダが出来たら

…… 僕じゃない、流果さんが本当に飲ん

でほしい人に飲ませてあげてください」

どうやってクリームソーダにするか、

彼の母の味に似せることが出来るのか

と、また思考の海に飛んでしまっていた

アタシの耳に、思わぬ言葉が飛び込んで

きた。

「…… えッ」

驚きのあまり、思うように言葉が出て

こない。

「どうしてあの日、僕の手を引いてくれ

たのか。どうして僕とこんな条件を結ん

でくれたのか、今となってはもう、どう

でもいいと思えるようになりました」

アタシの脳裏に、彼が神社で叫んでい

た姿が思い出された。

彼の喚いてる言葉が、恋人への恨み節

だと理解した瞬間、アタシの足は自然と

彼の方へと進み、手を引いていた。

アタシも叫びたかった。アタシも泣き

たかった。もっと言うなら…… 、元カレ

には鞍馬さんのようにアタシを失って

泣き喚いて欲しいと思った。

「僕にとって、流果さんがくれた『一週

間に一度、流果さんのクリームソーダを

試飲する』という時間は、とても大事だ

ったんです。振られた恋人のことを思い

だしそうになると、あなたと会う日がや

って来て、暗い気持ちを忘れることが出

来た」

彼は、そう静かに言うと歩き出し、近

くのベンチにゆっくりと腰を下ろした。

アタシも後を追って隣に座り、再び彼の

話に耳を傾ける。

「僕の感想を待っている間の不安そう

な顔、褒めたあとの少し自慢げな顔、あ

なたは無口な人だけど、子供のように表

情がころころ変わるからおしゃべりな

女性よりずっと気持ちが分かりやすい

です」

まさか彼からそんな甘い誉め言葉が

出ると思わず、彼の方へ勢いよく顔を向

けた。ふふっ、とアタシの目を見つめな

がら微笑む彼から目と目が合う。

「今日初めて目が合いましたね」

アタシを振ったあの人の目が思い出

される。鼓動が早くなって、目頭が熱く

なってきた。無意識に眉間に力が入って

しまう。あの人の瞳に映る世界にいる自

分がひどく惨めに見えて、汚いもののよ

うに思えて、誰かと目を合わせるのがい

つの間にか怖くなっていた。

どうして…… どうしてそんな風に優

しくアタシを見つめてくれるの。彼の見

ている世界にいるアタシはとってもき

れいに見えた。それはきっと夕日に照ら

されているせいじゃないはず。

「…… なんで金木犀なの」

季節の花だから、思い出の花だから、

そうじゃない答えが返ってきたならア

タシも無垢な女の子に戻れそうな気が

した。

「花言葉が…… ぴったりだと思って」

肝心なところを濁した鞍馬さんは少

し黙った後、また口を開いた。

「僕、この街に引っ越してこようと思っ

てるんです」

この街に住んでいなかったことに驚

きを隠せない。そういえば、彼がどこか

ら来ているのかさえ知らないことに今

更ながら気が付いた。

「…… てっきり近所に住んでると思っ

てた。遠いの?」

家がどこかは置いておいて、ここは前

から彼の活動範囲には入っているのだ

ろう。店から近いのは会社なのかもしれ

ない。

「そうですね…… 乗り換えを一本挟む

ので遠い、かもしれません。ここに引っ

越せば会社からも近いですし、何より毎

日でも流果さんに会いに来れますから」

照れくさそうにしているくせに、はっ

きりとしたことは何も言ってくれない。

女性経験が少ないことが逆に彼の強み

になっているのだろう。まんまとアタシ

は翻弄されていた。

「いい年こいた三十五歳のおっさんが、

女一人に会うために引っ越しまで考え

ちゃってさ…… 花言葉まで調べてきち

ゃってさ…… もう、ほんとバカみたい」

婚約者だと思っていたあの人は、仕事

を理由にアタシのそばを離れていった。

けれど彼はアタシを理由に引っ越そう

としている。

胸が熱くなるのは、恋をしているから

だってとっくに気づいている。「この気

持ちは何?」なんて言えるほど無垢じゃ

ないし、悩めるような歳じゃない。

「す、すみません…… !やっぱり気持

ち悪いですよね」

彼がアタシから金木犀の入った瓶を

取り返そうと手を伸ばすが、身をひねっ

て阻止した。

「これは、特別メニューにしない。季節

限定にならないように、定期的に手に入

る仕入れ先を考える」

ちらりと彼を見やると、あっけに取ら

れたというような、脳が全く追いついて

いないという顔をしていて、また胸がほ

わりと温かくなった。

彼の顔を見てしまったことで、余計に

照れくささが増したアタシは、隣に座っ

ていることさえ恥ずかしくて立ち上が

ろうと、つま先に力を入れた。しかし、

あまりにも勢いよく立ち上がったせい

で多少ふらついてしまったことで、さら

に自分の羞恥心をあおる結果になって

しまった。

彼が一言も発さず、アタシの言葉を待

っているので沈黙の間に、一人で勝手に

暴れていることがされにことを気まず

くさせている。

深呼吸を一つ、しても唇の震えが止ま

らないこともあるのだな…… と変に冷

静な言葉が頭の片隅で主張してきたこ

とになんだか笑えてくる。こんな時現実

逃避に持っていこうとするんだな、アタ

シの脳は。と一人心地ることで心の余裕

が出来た気がした。

「あんたが、裕壱さ、んが…… 頼みたい

ときにすぐ飲めるよう、いつでも作れる

ように通常メニューにする」

密かに心の中では、彼のことを名前で

呼んでいた。何度も何度も、心の中で読

んでいたはずなのに、いざ口にするとま

さか噛んでしまうとは思わず、また頬が

カッと熱くなった気がした。

「それって…… 」

呆けた顔のまま、頬を少し赤く染め彼

はボソッと呟いた。

あの人と同じで年上。あの人と同じよ

うで子ども扱いしてくる。でも、なぜだ

かそれが心地いいと思ってしまう自分

がいる。

あの人と違って優しい目だから、あの

人と違って、アタシの世界事愛してくれ

そう。

あの人じゃないから、アタシは今度こ

そ幸せになれる。

四年最後の作品は、幸せな話で締めたいじゃん?

この小説は、大学の芸大祭で出品した短編集のために書いた作品だった。

もうこのエッセイがほぼ完成していた時に書いた作品だったので、エッセイ集に追

加する予定は無かったのだが、大学生最後に書くことになった恋愛小説を、載せな

いのはもったいないだろうと思い、慌てて追加することにした。

正直、この作品はすごく色んな思いを詰め込んだんだ、というものではない。た

だ、四年生になってこの卒業制作を踏まえた上で、幸せな恋愛小説をリアリティあ

る男女で書いて、最後を締めたいなと思ったのだ。

この作品で参考にしたのは、My Hair is Bad さんの、『恋人ができたんだ』と

いう歌。

「出会ってしまった通じ合ってしまったそれは消せないけど奪ってしまった

奪われていった心を返してもう眠ろう」

この歌詞を参考に、二人が引きずっている過去の恋愛を、トラウマだけではなく

相手を信じることのできる力に変えて、新たな恋へと進むことが出来たという話を

作った。

過去がなければ、新しい恋を輝かせることはできなかっただろう。

この歌と、この作品は私にとても刺さる作品となり、そして今までの価値観をガ

ラッと変える出来事になった。

いくつになったら、相手を好きだという気持ちに、他人の意見

なんて関係ないって思えるの?

友達と話していて、女性ってお付き合いする人が上でも下でも、多少気にするよ

ね、ということに気が付いた。逆に、私の出会ってきた男性たちは歳の差を気にす

るような人は居なかった。まぁ、それも人それぞれなのだろうけれど、この作品で

男女の考えの差を出そうと思った時に、ぱっと出てきたのは歳の差を気にするのが

女性で、あまり深く考えないのが男性だなというエピソードだった。

そういう、気にする感覚というのは一体誰を意識しているのだろう。と思う。両

親に紹介しづらいから?友達に紹介しづらいから?きっとどれでもないのだろ

う。ただ、単純に自分が相手にふさわしいのか、相手に幻滅されないのか、相手に

幻滅しないだろうか、が不安なのだろう。しかし、それは歳の差があるから、とい

う話ではない。それぞれの心の成長具合の話であって歳の差が交際の壁になるケー

スは極めて少ないと個人的には思っている。けれど、自分の不安の種を歳の差があ

ることに責任転嫁して考えてしまうのは、女の性

さが

と言うしかないのではなかろうか。

一人で美しく、強く、成長できる女性こそがいい女であり、大

人なんだと思ってた

『還る日』のエッセイでも話したように、完璧で一人でなんでもできてしまう、

そんな私を『私』は誇らしく思っていたのだ。けれど、実際は違うかもしれないと

思い始めた。一人でなんでもできるようになければ自分は弱くて恥ずかしい人間の

ままだと、怒られたり馬鹿にされると思うと怖くて仕方なかったのだ。

子供は恥ずかしいこと、怒られるかもしれないと思うことは隠そうとするのだ、

と誰かが教えてくれた。私は自分の不得意なこと、部屋の掃除だったり、片付けだ

ったり、気持ちの面で不器用なところがあるということを、最初は努力して、そし

ていつしか無意識に隠してきたのだと知った。

その根本は幼少期にあると自覚している。私はあまり褒められたことがなかった。

両親に出来ることは私にもできて当然だと、もっと上、もっと上と求められ続け、

どこまで頑張れば、ゴールと言わなくても着地点が見えてくるのだろうと、何度心

折れかけたか分からない。

その自分を奮い立たせるのも、慰めるのも自分しかいなかった。けれど、大人に

なって分かったことがある。絶対に、両親が求める『できて当然』には届かないの

だと。けれどここがきっと私の器用なところで、両親に求められたことはある程度

こなしていたのかもしれない。だからもっとできると思われていたのだろう。その

代わり助けて欲しいというタイミングも分からない、甘える、頼るが出来ない大人

になってしまったけれど。

作品のヒロイン流果は、『自分の夢』と『夢を諦めて恋人と結婚する』を選ばされ、

自分の夢を選んだ途端恋人に捨てられた。

私も、夢を手放しで応援してもらえたことは無い。一度賞を取ったから、今でこ

そ物書きを目指して大学に入ったことを責められることは無いが、それまでは小説

を書いていたことを親にはよく思われてなかったし、役者をしていたことも、自分

で舞台を上演したことも応援してもらえなかった。

そんなだから、とは言いにくいが私の過去の恋愛は『恋人の望む幸せ』と『自分

の幸せ』を天秤にかけられ、常に恋人の望む幸せを選択してきてしまった。みんな、

「幸せになって欲しい、幸せにするよ」という癖に、幸せそうな私も、自立してい

る私も、自分の意見を持っている私も嫌いなのだ。そうしているうちにつつくとこ

ろがないと思うのか、夢を否定し、私を否定し、見下してくるようになる。

だから私はすべてを許せるように、そうすることで傷つかなくていいように、一

人で大人になるしか、強くなるしかなかったのだ。

「気まぐれソーダは夕間暮れに」エッセイ

『もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対』っていう強がりを、

卒業出来たらいい女になれる気がする

これまでお恥ずかしい話をつらつら書いてきてしまったから、今更隠してもしょ

うがないと思って、最後に最新アップデートされたてほやほやの恋愛価値観を書か

せていただいちゃおっかな。

今更だけど恋愛の価値観って、決して過去の恋愛だけで作られていくものじゃな

いんだなって最近気づいた。

今まで、私が『強い女性、完璧な女性』にこだわっていた理由は、ママへの憧れ

だったと思っていたんだけど、心の中でずっとダンゴムシのようにうずくまったま

まの、子供時代の私がママに振り向いて欲しいからこだわってたんだと気づいたら、

なんだか納得しちゃった。

どうしてモラハラ気質のある男性にばかり捕まっちゃうのか、どうして恋人がい

ても孤独だと感じていたのか、どうして甘えたり頼ることが出来なかったのか。

思い返してみれば、皆ママみたいな人たちだった。ママもそれは認めてたんだよ

ね。ママも、元カレたちも、私の顔は無条件に褒めてくれるんだけど、何か一つで

きるようになっても、何か頑張っていることがあっても褒めてくれることは無かっ

たし、私の好きな物が自分の好きな物じゃなかったら平気で貶してくるし、私の友

人や同僚の悪口も平気で言うのね。そして皆『子供だから』『年下だから』『仕事し

てないから』『自分が一番正しいから』という理由で、『私』を人間として尊敬して

くれることは無かった。

私にとっては脅威だけど、パパにとってのママは可愛くて愛しいお姫様なんだよ。

二人はホントに仲良くて、今でも仲良しで、ラブラブで、昔から理想だとは思って

たけど、ずっと疎外感感じてた。二人の絆が強すぎて、どうしたって二人の目に映

ることが出来ないのよ。しかもお互いがお互いをリスペクトし過ぎて、二人ともそ

れを超えさせようと私の前にとんでもなく高いハードルを置くもんだから、『親』っ

ていう一生超えられない壁の前で絶望し続けるしかなかったんだよね。

私一人っ子だからさ、比べる先がみんな親なんだよ。『ママは滑り止め受けずに県

で一番頭いい高校に行ってた』とか『パパは高校生の時陸上で全国三位になってる』

とか、両親にも言われるし、おじいちゃんおばあちゃんとかにも言われるわけよ。

そうやって、親と比べられながら生きてきたし、何かできることがあっても『ママ

もできる!』って何かしら張り合われて、私の努力は結局二番手扱いされてきた。

そんな家だったから、私は遠く離れたこの場所で一人暮らしを始めたんだよね。

一番は大学のためだけど、家族とは早く離れなきゃいけないと思ってた。きっと無

意識にこれ以上は私の心が持たないって思ったんだろうね。

それでも、一人暮らしをし始めたばかりの頃は親が恋しくて仕方なかったんだよ。

一人暮らしした途端褒めてくれるようになったり、「ママとパパの宝物」とか言って

くれるんだもん。甘い言葉に弱いのよ、私。

けどね、昔から弱音は決して受け止めてくれないの。いつだって「ママの方が辛

い」みたいだから。

苦しみや悲しみを両親にすら分かってもらえないのは、天涯孤独と変わらないく

らい辛いものだよ。

今までそうやって生きてきて、紹介してきた元カレたちと色々あって、私が潰れ

ずにいるためには一人で強くなるしかなかったのね。一人で生きて行けるように、

弱音を吐かずに、甘えずに、頼らずに生きて行けるように、一人で大人になるしか

なかった。

認められなくたって、尊敬されなくたって、見下されていると分かっていても必

要とされるならその人の幸せのために一緒に居られる。それが私の運命で、私の幸

せなんだと思ってた。でも本当は、寂しくて寂しくて、認めて欲しくて、ずっと孤

独だった。私は、パパとママの二番手じゃない。二人の娘として、一人の人間とし

て愛されたかった。

けど、この寂しさを両親に埋めてもらうことは、私がいくつになってもどれだけ

大人になっても無いんじゃないかなって思うの。

そして、この『私』を愛してほしいっていう愛情を、恋人に求めていたんだって

こともやっと今になって理解した。

けれど、もっと早く気付くべきだったのは、もう既に私の欲しい愛情をくれる人

に出会っていたんだってこと。

私ね、最近彼と「別れる!」って口に出すくらいの大喧嘩をしちゃったの。理由

はホントに些細なことでね、彼が私との約束した日に「友達と遊んできていい?」

っていうLINE を送ってきたの。実はこういう友達を優先しすぎて喧嘩になること付

き合ってから今まで何度もあってね、むしろこれ以外で喧嘩したことがほとんどな

いくらいだし、その日の数日前にも同じようなことで喧嘩したのよ。

だからもう、頭パッカーンって来てさ。「遊びに行ってもいいけど、今日は家に帰

ってくるな」って返したのね。だって、一緒に暮らしてた以前なら情状酌量もあっ

ただろうけど、一緒に暮らしてない今、会うために予定を調整してるわけだからさ

友達優先にされたら悲しいじゃん。まぁ、その時もそうやって悲しいって言えれば

よかったんだけど、

「どうしてそんなに子供なの?出て行く?出て行くなら私達本当に終わりだか

ら!」

って言っちゃって。私、考えてみればいつもこんな極端なこと突き付けてばっか

りだったんだよね。ただ彼は頭を冷やしたくて外へ出たかっただけなのに、私はち

ゃんと理解しようとしなかった。

そうやって私が彼を追い詰めたから、彼は「だったら別れるよ」と啖呵切って出

て行ってしまったんだよね。

ここで、彼とお付き合いするまでの私だったら、「さぁ、次次!」って違う人を探

したり、異性の友人に話聞いてもらって慰めてもらおうとか思ったり、親友にだけ

相談するとかしてたんだろうけど、今回は「あぁ、間違えた」って思った。

彼以外の異性の言葉なんか聞かなくていいんだよね、こういう時。だって彼と話

すのが一番じゃん。そういう考えに至った時、私はどうしても彼を手放してはいけ

ない、彼と離れることなんてありえない、彼は私が人生で初めて出会った『特別』

なんだって思い知った。

そこから、親友だけじゃなくて色んな女の子に話聞いてもらって、それこそ自分

たちの作品のこと以外であんまり話さなかった友達にも聞いてもらっちゃったりし

て、沢山私の悪いとこについて怒ってもらったのね。

そこで私の悪い癖である、正論を武器にして相手を追い詰めることを直さなきゃ

いけないって気づけたんだ。そして私はいつも彼からの謝罪を、「悪いことしたんだ

から謝って当然だよね」って気持ちで聞いてて、受け入れるってどういうことなの

か分かってなかったんだって知ったの。

彼は私のためにいつだって変わろうとしてくれてたし、実際成長してくれてた。

それから彼が再び会ってくれると言った時、これも初めてだったんだけど、友達

に指摘してもらった悪かった点と、直していきたい点を書きだして一から十まで説

明して謝罪した。その時彼が「俺が悪かったのに、謝ってくれてありがとね」って

言ってくれたのを聞いて、子供っぽい彼氏だからいつだって私が大人にならなきゃ

とか、折れなきゃって思ってたけど、それはとんでもない間違いで私とは違うとこ

ろで彼も折れてくれていたし、やっぱり年上だからもちろん大人だったんだな、私

も助けられてたんだなって胸が熱くなっちゃった。

ついでに自分の過去なんかも話しちゃったんだけど、彼は感想とか意見とかは何

にも言わなかったの。ただ優しく頭をなでてくれたんだ。

これが私の欲しかった愛なんだろうね。私の弱さを否定せず、意見せず、アドバ

イスもしない、ただ私の苦しさを受け入れてくれる人を私はやっと見つけたんだと

思うよ。

私はね、きっと今までと同じって壁を作って、心の底から信用するのはダメだと

勝手に線引きを作って、自分から孤独になりに行ってたみたい。

絶対今までとは違うって分かってたのに、初めての真っ直ぐな愛に怖気づいて、

どうやって大切にすればいいのか分からなくて、心の底を見せるのが怖くて、大切

で愛しくて絶対失いたくないって認めてしまったら、失った時私は今までのように

前を向けない、強くいられないって弱くなるのが怖かったんだ。これまでと言って

ること全然違うじゃんね。

でも今回のことがあって、それって何が悪いんだろうって思ったの。言っちゃえ

ばいいじゃん、二人が一生一緒に居るだろうってこと、信じちゃえばいいじゃんっ

てね。そう思える人が出来たこと、素直に喜べばいいんだよ。

自分の間違いを考えること、人の謝罪を受け入れること、自分の弱さを人に言え

るようになること、そして彼に抱いた永遠の愛を自分が信じること。これに気づけ

た今回の事件は、私を大きく人として、大人として成長させてくれるきっかけにな

ったんだなって思って、これは今まで書いてきたエッセイと真逆のこと思ってるか

ら、是非書き足さねばと慌てて書き起こしたよね。

彼と出会ってからは、ラブラブな両親を見ても「可愛いな、うちの親」としか思

わなくなったのは、血のつながりが無くたって真実の愛を与えてくれる人がいるん

だって無意識に気付いてたからだったみたい。

きっと今の私ならママを怒らせたとして、謝ったのに一週間無視されたとしても

何事もなかったように笑えると思うし、何なら「悲しいよ~」って彼に慰めて、っ

てすり寄るかもね。彼なら私を抱きしめて、理不尽な恐怖から守ってくれると思う

から。

一人で大人になるにはやっぱり限界があると思う。じゃあ、前の人達の時も私が

考え直すべきだったのかな、と考えたことはあったけどやっぱり私が彼らのために

反省するようなことはなかったなって思っちゃう。それに、彼とのことは私を叱っ

てくれた友人たちも、過去の人の時は全面的に私の味方だったもの。私の極端すぎ

る正論が貫けちゃうくらい、相当やばい人達だったんだろうね…… 。

私ね、彼とのことや親とのこと初めて友達に話したとき、

「れみちゃんって、等身大の女の子だったんだね。もっと強い女で、完璧で近づき

がたい人だと思った」

って言ってもらったのね。これ彼にもそのまま話してみたんだけど、めちゃくちゃ

共感してたや。

彼女の言葉聞いて正直すごく肩の荷が下りた気がしたの。「あ、私ちゃんと完璧に

見えてたんだ」って。見せかけじゃなくて、憧れだけじゃなくてちゃんと強い女に

なれてたんだって嬉しかった。

「けど、彼氏と喧嘩したって落ち込むし、弱音も吐くし、弱点もある。もっと早く

気付けばよかった。れみちゃんね、もっとワガママになっていいんだよ」

そんなことを言ってくれた友達が更に言ってくれたことなんだけど、私のことち

ゃんと見ていてくれた人がいたんだって感動しちゃったね…… 。

思えばみんなそうだった。本当の私を見てくれる人、叱って励ましてくれる人、

欲しかった愛情をくれる人、人として成長させてくれる人…… ママとパパはどんな

ことを話しても「もっと色んな人と出会う、もっと色んな経験する」としか言って

くれないからまだまだなんだって自分を否定してきたけど、今私のそばにいる人、

出会ってくれた人、それで変わった価値観、大人になれたこと、全部『本物』だと

思うな。

愛の表現について研究してきて卒制として書いたエッセイだったけど、いつの間

にかすごく大きな話に発展しちゃった。

でもそれでいいんだよね。全部、全部、繋がってる話だもん。

もうパートナーは変わることないけど、私の考えは人や経験で変わっていくと思

う。でも、これまでに培ってきたものは決して廃れない。

けれど、ここで一旦後ろを振り向いてみようかなって思うの。未来のことは、き

っと乗り越えて行けると思う。だって私の心には『強くて完璧な女』がちゃんとい

るんだもん。だから今は、心の中でダンゴムシのようにうずくまっている、小さく

て幼い『れみちゃん』に向き合わなくちゃね。

今まで無理やりに背中を押してばかりでごめんね。もう大丈夫、「ママもっと私を

見て!認めて!褒めて!」って生きていた私は卒業したから。だから出来ない

こと沢山あるし、寂しがり屋だし、泣き虫だし、彼氏のこと大好きなんだって気持

ちを受け止めるよ。ありがとね、今まで負の感情を全部背負ってくれて。もう心配

ないから。一緒に背負ってくれる人が私にもできたんだよ。

これからは無理やり前を向こうとはしないよ。それより私に必要なのは、今感じ

てる痛みを相手に伝えることだと思うの。それができるようになったら、私は最強

にいい女になれるんだろうね。

epilogue

ここまでこんな長い話に付き合ってくれてありがとうございました!!

やっと自分のやりたかったことが形に出来たこと、自分の考えがまとまったこと

に私自身とても満足しております。

書き進めていく中で、どうして直接的じゃない恋愛技法を研究したいって思った

のかとか、この作品で私は本当はこういうことを伝えたかったんだとか、自分の隠

れていた本音とかにも気づけたし、本当に卒制でこの本を執筆することにしてよか

ったなと改めて思ってます!

すごい赤裸々に色々書いちゃっててお恥ずかしいけど、これが私の今の人生を作

り出したすべてなんだよね。

この本を書いてて思ったのは、元カレたちって『すごくお気に入りってわけじゃ

ないけど、昔から持ってる本に挟まってる栞』みたいなものなんだなって感じた( 笑)

そんな頻繁に読み返すことは無いけど、ふと開いたら「あ、こんな栞もあったな

ぁ」ってちょっと懐かしくなるけど、閉じたらまた存在を忘れちゃう。

この本を書き終わったら、もうきっときれいさっぱりすべてのエピソードを忘れ

るんだろうね。もうここに残すことが出来たから、私の記憶からはさっさと出て行

ってもろて。

忘れたいけれど、『青春』だったと一括りにして終わらせたくはなかったのね。本

一冊書けるような恋愛達よ?私が苦しんだ分存分に料理させてもらわないと私の

気が済まない。

でももう十分使えるものは全部使うことが出来たと思う。捨てるところなんてな

かったくらい。おかげでまだまだこの研究は終わらせられないって、ステップアッ

プできたしね。

両親に抱いてきた気持ちが、自分の結婚観に繋がっていたんだなって気づけて、

モヤモヤが晴れたのは大きいかな。決して仲が悪いわけでは無いし、認めて欲しい

気持ちがあるってことは、両親のこと大好きだって証拠じゃんね。でも私は私とい

う二人とは違う人間なんだって、自分が思ってるだけでも違ってくるんじゃないか

なって思えるようになったかな。

ありがとう、そしてグッバイ元カレ達。もう二度と夢にも出てこないでね。私は

誰一人恨んではいないのよ。君たちが生霊になって私に憑りつく前に、私じゃない

運命の相手をさっさと見つけて、一生幸せにすることを心から願っているよ。

そしてここまで読んでくださった皆様、改めまして本当にありがとうございまし

た!皆様の宝物のような恋に祝福あれ!

中嶋怜未

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愛してるってクリームソーダの泡みたいにパッと消えてく幻想じゃない? 中嶋怜未 @remi03_12

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