チェスボード 後編(10 / 15)

「さて、チェスのルールに則ると【手番の者は駒の移動が可能な限りは駒を移動しなければならない】とあるが、君たちは駒の移動に失敗した。つまり移動が不可能だった、ということになる。ゆえに手番は僕にまわ──」


「待てッ! なんだよ【移動失敗】って!? それに駒が反撃してくるなんて……チェスにそんなルール無いだろっ!」


俺はモーフィーを問い詰める。


……取ろうとした駒が反撃するなんてことはこれまで20手近くで無かったことだ。それがこんな突然起こるなんて、まさか──


「もちろん、僕は不正なんてつまらないマネはしてないよ?」


続く俺の思考に釘を刺すようにモーフィーは言った。


「これまで駒の取り合いにおいて戦闘行為が発生しなかったのは、それがすべてプレイヤーによる駒のやり取りではなかったから。【プレイヤーが駒を取ろうとする場合は駒との間に戦闘が発生する】……そういうルールがこの戦いにはある」


「そんなの、ルール説明では無かったぞッ!」


「そりゃあしてないからね」


モーフィーは愉快そうに肩を揺らして笑った。


「僕は『基本的なルールの説明』はしたが、何も一から十まで全てのルールを説明したなんて、ひと言も言ってない」


「くっ……!」


「だが、僕が開示したルールをよく理解していればヒントはあったはずさ……それに、だ。そもそも敵である僕に律義さを求めるなんてどうかしてる。それとも、もしかして君は本当に【ただのチェス】がしたかったのかい?」


「ただのチェス……? まさかっ!」


……そうか、そういうことかよ……!


ようやく気がつ──いや、気づかされた。そもそもモーフィーはこれまでひと言だってこの世界で俺たちと【チェスの試合をする】なんて言っていなかった。


「……ルール説明を聞いたときに違和感に気付くべきだったわ……!」


後ろでベルーナが歯噛みをした。おそらく、ベルーナも気が付いたのだ。


……そうだ、モーフィーは【チェス】と【試合】という単語を明確に使い分けていたじゃないか。だけど戦いの舞台がチェス盤であること、自分たち以外がチェスの駒を模していること、そしてルールもチェスそのものだったことから……これが命懸けの【チェスの試合そのもの】なのだと思い込んでしまった。気が付いてしまえば簡単なミスリードだったのに。


「つまり、俺たちがやっているのは最初からチェスじゃない……チェスのルールにのっとった【ただの殺し合い】ってことか……!」


「その通りだよ、テツト」


モーフィーがほくそ笑む。


アダとなったのはお前のその頭脳だよ──クロガネイバラのリーダー」


表情を歪めるベルーナへと向き、モーフィーは続ける。


「お前がこの僕に、中盤に至るまでテツトたちプレイヤーが担当する駒の使い惜しみを【できてしまった】……それが致命的だった」


「……ッ!」


「その論理的思考力には敬意すら覚える……だがそれゆえに、プレイヤーと僕の駒が戦った時に戦闘が発生するというルールの確認が遅れた。そして残念なことにもう取り返しはつかない。見たまえよ、盤上を」


モーフィーは両手を大きく広げる。


「白のルーク、ビショップはもはやひとつずつ……プレイヤーであるお前たち、クロガネイバラのメンバーが担当する駒だけだ。しかし、そのふたりには僕の最弱駒ポーンすら倒す力もない」


モーフィーに指されたナーベとマリアが唇を噛んだ。言い返すことはできない。モーフィーの言う通り、それだけ実力差は明らかだった。


「実質、お前たちは駒落ちしたも当然……いや、それよりも酷い状況かもな」


モーフィーは髪をかき上げながら言う。


「さて、僕の手番だ。e6へポーンを移動させる」


黒の歩兵ポーンが動きマリアの斜め前へと移動する。そして、その直後のことだった。


「まさか、あなた……ッ!」


サーッと顔を青ざめさせて、ベルーナが声を震わせる。その反応に、モーフィーはニヤリと口角を吊り上げた。


「さすがだね、この一手で全てを理解したか」


「そんな……やめなさいっ……!」


「ははっ、真剣勝負に【待った】なんてあるわけないだろ?」


モーフィーが高笑いする。


「さあ、試合の見せ所だぞクロガネイバラのリーダーよ! 次の手番で僕のクイーンが左辺を冒せば、続く2手目で……お前の仲間のいずれかが死ぬ!」


瞬間、ブワリと。ハリケーンもかくやという程の、逸脱者特有のどす黒い魔力の奔流が俺たちの陣地へ流れ込み──追い討ちをかけるようにベルーナたちをおびやかす。


「僕の駒ではそちらのポーンのメイスを殺すことはできないだろう。だが、クロガネイバラ、テツト、クイーンの幼女くらいは容易くヒネることができる」


「くっ……!」


「さあ選べ。誰を捨てる? 誰を見限るっ? 誰を殺すっ!?」


「いやっ……いやだっ! いやよッ!!!」


投了リザインでも時間切れでもみんな死ぬぞ? 指したまえ、クロガネイバラのリーダー! そら、役立たずのルークナーベビショップマリアを捨てればいい。歩兵ポーンすらまともに取れないそいつらは邪魔なだけだろうっ!?」


「ナーベはっ、マリアはっ! 役立たずなんかじゃ──」


「──なら庇ってテツトたちを犠牲にするかっ? 僕はどちらでもいいぞ? さあ、指せよ。仲間殺しの一手を! さあっ!!!」


「……わたし、は……っ!」


追い詰めるような言葉に、ベルーナの膝が屈しそうになる。だけど、




「大丈夫ッ!」




──俺はとっさにそう叫んだ。


「テツト、くん……」


今にも泣き崩れそうなベルーナの瞳が俺に向く。


きっとたくさん無理をしていたのだろう。トラウマである逸脱者アウトサイダーと相対して挫けそうになる心を、それでも必死に奮い立たせていたのだろう。帝国最強の冒険者チームの象徴として在るために。


……そんな気高く掲げられたクロガネイバラの旗を、こんな力任せの荒業あらわざに折られてたまるものか!


「膝なんて着いてやる必要はない。胸を張って立っていてくれよ、ベルーナさん」


「……でも!」


「大丈夫だよ、俺たちなら。きっと誰の犠牲も必要ない!」


モーフィーが舌打ちして俺の方を見やる。


「テツト、君というやつは……チェスの素人だろう? それがいったい何を根拠に」


「ハッ、急に魔力むき出しにしたかと思えば今度は饒舌じょうぜつあおりやがって。ベルーナさんの心を折ってやろうって魂胆が見え見えだぞ、モーフィー」


俺は鼻で笑って返してやる。


「つまりよ、それは裏を返せば……ここでベルーナさんを挫かなきゃまだまだお前自身が危ないってことなんじゃないいか?」


「……フン。だったらどうした? 僕は現時点での事実を羅列しただけ……いま君たちは誰かを犠牲にせざるを得ない状況、それは覆らない」


「いいや、そんなことはない」


俺は今にも崩れ落ちそうなベルーナへと振り返った。


「ベルーナさん。黒駒の攻撃が俺に向くように盤面を動かしてください」


「──っ!?」


ベルーナの目が見開いた。


「テツトくん、いったい何を言って……!」


「そうじゃぞテツト! いきなり何を言っておるッ!」


イオリテもまたすごい剣幕で俺に突っかかってくる。


「確かにお主は強くなっている、じゃが……!」


心配してくれている気持ちは痛いほど伝わってくる……だけど、俺は考えを曲げる気なんてサラサラない。


「安心してくれ、俺は死なない」


「それこそどんな根拠があってのことじゃっ! メイス、お主からも何か言ってやれっ!」


イオリテからの言葉に、しかし、メイスは腕組みをしたまま微笑んだ。


「ええんと違います? 好きなようになさったら」


「なっ!? メイスお主っ!」


「まあまあイオちゃん、落ち着きなさいな。お兄さんのこと信じられへんの?」


「そ、それは……!」


なだめるように言うメイスに、イオリテは言葉を詰まらせた。信じるか信じないか、その二択を突き付けて納得させようとするのは少しズルくもあるような気がしたが、今はメイスのフォローがありがたい。


「そんなわけです、ベルーナさん。俺を囮に使ってくださいよ」


「……そんな、そんなことっ!」


「信じてください、俺を」


「……っ。少し、他に手が無いか……考えさせて……っ」




白【01:01:53】




そして、約30分強。


ベルーナは沈黙してひたすらに戦略に思考を巡らせていた。額に大粒の汗を浮かべ、脳を絞るように熟考した。だが……


「……テツトくん」


ベルーナが、ゆっくりと顔を上げた。


「ごめん……テツトくん。他に道は……見つからなかった……」


「大丈夫です」


無力感を噛み締めるかのようなベルーナの物言いに、しかし俺は微笑んで返した。強がりではない。どれだけ全力で俺のために思考してくれていたのか、それが分かっていたから。


「俺は敗けません。きっと上手くいきます。だから、指示を」


ベルーナは苦渋の表情で、俺を見つめると、


「……テツトくん、あなたにすべてを背負わせてごめんなさい……! 前──b6へ進んで……!」


俺はひとマス進む。黒の騎兵ナイトが俺をにらんだ。


「テツト、どうやら君が最初の犠牲者らしいね……残念だよ」


モーフィーがため息交じりに、しかし迷いのない素振りで俺を指差した。


「魔王軍の栄光のため、死んでくれ。Nb6──我がナイトよ、その槍でテツトを貫いてこいっ!」


合図とともに、黒の騎兵ナイトが馬を駆け、槍を振りかざして俺に突撃してきた。

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