転生悪役令嬢の紙の城、ならびに救聖女の守護

海野てん

第1話 セブンティーン

 窓枠が真四角に仕切る空は、区切られた一つ一つが特別な絵の具で塗られた絵画のように澄み渡っていた。枠を超えて飛びゆく一群の鳥の影を私は羨望のような、憎しみのような気持ちで眺める。

 降り注ぐ日の光を追って視線を下げれば、今日という日を特別に仕立て上げている人々が見えてくる。城下町の建物という建物の窓辺を花で飾り、祝いの酒で顔を赤らめ、即席の楽団が賑やかな広場には歌老若男女が行き交い、高らかに歌う。

彼らの一人でも、頭上に翻る臙脂と青藍の旗を見上げれば、伏せた睫毛の影が落ちる憂いの眼差しに気付いたかもしれない。更にその人に恐れを知らぬ豪胆さがあれば、一国の后となる貴人を攫うことだってできるかもしれないが、あいにく皆がみな、酒と歌と陽気に過ごすことに夢中だった。

「お嬢様ったら、こんな日にため息なんて」

 私は眉間を指で揉みながらうなる。実家から意気揚々と付き従った若い侍女は、式典用のドレスの裾から首元のレースまで、かすかなほつれも見落とすまいと目を光らせた。

「旦那様たちには、立派にお別れを告げられたではありませんか。大丈夫ですよ、いつものように胸を張って笑顔でいらっしゃいませ」

 ひとしきりドレスを眺め尽くした彼女は、今度は私の髪形を丹念に調べ始める。ドレスに最も合う造形になっているか、櫛を片手に黒髪の一本一本が間違いなく光っているか、結い上げた角度から襟足の産毛まで確かめようとする様は、まるで頑固な芸術家だ。気に入らないとなったら私の髪を頭皮ごと入れ替えるつもりなのではないだろうか。

「あら、口元が緩みましたわ。そうですよ、そのまま口の両端を上げてくださいな。口紅のお色が更に鮮やかに見えますわ」

 しかし私の唇は、片端だけを嫌味に持ち上げて動き出す。

「でもね、そう、例えばこんなお話を思い出し……いえ、思いついちゃったらどう? 王子様と結婚して、将来はともに国を治める女王になるはずの女の子が、王子様が別の女性を好きになってしまったためにないがしろにされ、やがて復讐心を胸に自分の支持者を集めて、夫である国王に反旗を翻すの」

 制止の声が聞こえた。鋭くも細い哀れな声だった。

「その子が自らの運命を知っていたら、結婚式の日にため息の一つや二つ吐いても許されるに違いないわ」

 櫛を操り、香油を塗る指が止まる。もう一度軽快に動こうとする気配はあるけれど、動かし方を忘れてしまったかのように、ぎこちなく伸びたり縮んだりしていた。

「その子のねえ、国家の反逆者がたどる末路はねえ……ああ、ヴァーチェでは断頭ではなく、くくり首でしたわね。一国の女王の首が、白目剥いて舌を垂らした、お父様もお母様も知らない顔が、大衆に晒されて嘲笑われ唾を吐きかけられ……」

「お嬢様、どうかそこまで。彼女が困っておりますよ」

 湿った低い声に制され、滑らかに回っていた私の舌はようやく大人しくなる。

侍従長じいや

 白い髭を蓄えた男はかすかな足音で近づいて、私の髪を結っていた少女に別の仕事を命じた。明らかに安堵した足取りで駆けていく少女の後に、私たちだけが残される。

「ご結婚を前に不安な気持ちになるのは仕方がありません。しかし、そんなに悪いことばかり思い描くものではございませんよ」

私はうつむき、首を横に振る。

「ご結婚のお話も、ヴァーチェ王家からたっての願いと請われたものでございます。両家に男女が揃い、ようやっと二つに分かれていた血筋が一つに戻り、共に歩むことができるのですから。両家のみならず、国民全てが望んでいたことでございましょう」

 唇を噛みしめる。

「お嬢様をないがしろにする理由など……ましてや、よその女性に女王の性(さが)を見出すなど、考えられないことでございます」

「けれど、王子はまだ十七です。いくらでも素敵な女性に目移りできる年齢ですわ」

「十七は立派な成人でございますよ」

 日本ではまだ高校生ではないか。顔を上げて結局また俯いた。

 十七。一年生の頃の気負いが抜け、大学受験に追われる三年生ほどの限界状態でもない、ぬるま湯のように心地よくゆるんだ二年生だった。王家の意思を背負って立つなど、懐かしきクラスメートたちの誰にもできるとは思えない。学級委員だって、内申点に貪欲な者がおっかなびっくり立候補するか、推薦をはにかみながら受けるのがせいぜいではないか。

「ふむ、では差し出がましいですが、一つ助言を」

 髭を撫でつける彼と、私の視線が重なる。

「靴にお気をつけなさいませ。真っ赤なぴかぴか光るほど磨かれた、小さな革の靴に」

 彼の言うものに覚えがあった。幼い時分にお気に入りだった靴だ。毎日履いていたくて、何時もぴかぴかしていないと嫌で、世話係が毎晩磨いてくれて、いつだったか癇癪かんしゃくを起こした私が世話係に向けて投げつけた靴だ。

 今の私より少し年嵩としかさのまだ若い世話係は眉尻を下げ、精一杯の笑顔で泣きわめく私の前で靴を磨き続けた。

私が顔を合わせるたびに怒り出すようになったために、いつからかその姿を見ることはなくなったのだけれど。

「……彼は、あなたの息子でしたわね」

 片手を胸に添え腰を折る男の目を、見ることができなかった。

「肝に銘じておきますわ」

 私は何も言うべきではなかったのだ。

 少なくとも“カメリア・ヴィヴァーチェ”として、駄々をこねて靴を投げるように、逃れ難い現実に対し悪態をついて、誰かの同情や親切を期待するような言い方なんて、するべきではなかった。

 赤い靴の形の陰に、献身的な世話係の、細い腕で抱き上げようとする女侍従長ばあやの、慣れない手つきであやす父の、私の成長に関わった人々の顔が浮かぶ。隙間なく並んだ石畳のように、次から次へと思い出される、今日に辿り着くまでしるべとなってくれた彼ら。

 そういえば、あの赤い靴を私はどこにやってしまったのだろう。真っ白なブライダルシューズを子供用の靴に見立てても、何も思い出せなかった。

 式典は、王城の敷地に設えられている教会で行われる。庭の池にかかる橋の向こうに、大理石のそれが見えた。暖かな陽を浴びて、蕾がほころんだばかりの花々が彩る池の端、水面には暖かな日を浴びてまっすぐに伸びる植物が影を落とす。橋の向こうでは夫となるその人、セルジオが待っていた。

「カメリア様、見違えるほど美しくなられました」

 差し出された手に手を重ね、遠慮がちに答える。かつて一つの家であったとは言え、今は身分が違う。セルジオの指がやんわりと曲がり、振りほどこうと思えば振りほどけるほどの力で、私の手を包んだ。透き通った紫の瞳が理性的に笑う。

「我がヴァーチェ家があるのも、ひとえに王国統一のために身を引かれたヴィヴァーチェ家の支えがあってこそ。分かたれた両家が再び並んで国を治めるのは、国民すべての喜びであり、曾祖父の代からの悲願です」

 私は一つだけ頷いた。せめて、彼自ら結婚を望んだと言ってくれれば、“カメリア・ヴィヴァーチェ”はもう少し救われたかもしれない。けれど共に教会の扉をくぐり、司祭の前に並び、神の名のもとに夫婦の誓いを交わす時でさえ、セルジオからその言葉を聞くことはなかった。

 神と参列者の前で躊躇いなく口づけたセルジオは、私の予想に反して大人だった。国民と、父と祖父と、自分以外の者のために笑顔で愛のない口づけを交わし、生き抜く限りの愛を誓うことができるくらいに、彼は自分を律することができたのだ。

 けれど、私は彼がそうできた理由を知っている。一つの忍耐に妥協する代わりに一つの背徳を冒したことを。その時、セルジオはどうしようもないほど、ただ一人の若者であったことを。

十七。

 今日、夫婦となる若き二人の年齢であり、私、海石榴美瑠つばきみるの享年である。


 * * *


【件名】

【本文】メールみたよー 書籍か決定おめでとー!

こんどこっち戻ってくるときに詳しく聞かせてー むしろそっちいくから!

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