亜黒の行く先

 電車に乗って改札を抜けるまで、僕達は一回も口を開かなかった。

 曇り空は変わらず上空を覆っていて、この町全体が、まるで水の中に灰色の絵の具を落とした時みたいな明るさをしていた。

「あっくん、家まで一緒について行っていい? 途中で具合悪くならないか心配で」

「ありがと。ごめんね……」

 今日は、亜黒に謝られてばかり。

 そんな亜黒は、僕が来た道とは違う、線路沿いの道を歩き始める。僕はそれに後ろからついていく。

 亜黒の足取りは少しおぼつかない。錆びたガードレールが、亜黒の行く先を矯正してくれているように見えた。

 ポケットに手を突っ込みながら歩く亜黒の背中を見て、僕は亜黒が今、何を思っているのかと、どうしようもないことを考えた。

 今日で、僕は亜黒に告白をして、すべてを終わらせるつもりだった。過去の自分と決別するつもりだった。なのに、亜黒は急に体調を崩した。少し間違えていれば、意識を失ってしまっていたんじゃないかというほどに。

 僕にはなんだか、その出来事で、明確ではない誰かから『告白をして元の世界に帰っていくなんて都合が良すぎる』と言われている気分だった。いつか、僕が思ったように、僕は告白を済ませて元の世界に帰っても、この世界線はずっと続いていて、この世界線での亜黒にはちゃんと未来があるのだ。未来のない僕は、その先の世界に手を伸ばせない。そのことを、自分に都合が良いなどと言われると、確かにそうだとしか言えない。僕はただ、自分に都合のいい理由でここにいるのだと、思わされている気分になっていた。

 そんなことを思っていると、目の前の亜黒が足を止めた。

「あっくん?」

 亜黒は、僕の方に振り返る。曇りの空気の中に、電車の轟音が通り過ぎる。

 亜黒はカラオケで見たときのような、申し訳なさでいっぱいになっているような悲しい顔をした。

「ねえ、まーくん……。言わなきゃいけないことがあるんだけど……」

 言わなきゃいけないこと。その亜黒の言葉に、僕の体が固まる。

「なに?」

 そう訊くと、亜黒は数秒間黙った後に、言った。


「ごめん、俺、ピアノ、もうすぐ弾けなくなるんだ……」


 そう言って亜黒は、俯いて歩道と線路を隔てる錆びた金網へと目を逸らした。

「それって……」

「そのまんまの意味だよ。もうすぐ、俺はピアノを弾けなくなる」

「え、それって、今日亜黒が体調を崩したのと、関係あることなの?」

 そう言うと亜黒は口を噤み、返答に時間をかけた。

「ごめん、それは言えない……」

 僕は、亜黒がピアノを弾けなくなる原因を必死に探る。

「ねえ、僕と一緒にいるのが嫌になったとかじゃないんだよね……?」

「うん。俺はまーくんにピアノ聞いてもらって、とても楽しかったから。でももう……」

 目元に影がかかっていく亜黒に対して、僕はこれ以上質問するのは気が引けたけど、これだけは訊きたいと思い、言った。

「ねえ、月曜日はまだ、ピアノ弾ける?」

 亜黒は少し迷って、

「弾ける……」

 と言った。

「じゃあ、聴きに来ても……」

「いいよ」

 僕の言葉の語尾を埋めるように、亜黒は答えた。

 自分勝手な願いだってことは知っている。それでも、僕は亜黒に気持ちを伝えなきゃいけない。誰でもない、自分のために。


 自室に入り、電気を付けると、いつかのようにハイイロさんが現れた。

「こんちゃ~。どうしたの? 最近ボクの事呼んでくれないじゃん?」

「……」

 そんなことをされて、驚ける気分ではなかった。勝手に馴れ馴れしく話してくるハイイロさんに、苛立ちすら覚えていた。

 ハイイロさんは、いつもの楽しそうな表情で、僕に訊く。

「あんたの目標、亜黒に告白することだっけ? 今日で終わりだったよね? 僕は表に出てないだけで、キミたちの状況把握は完璧にできているからね」

「そうなの……」

 僕はそう言うことしかできなかった。まともに話す気分ではなかった。

「その感じ、失敗したね」

「うるさいっ! だまってて!」

 僕は勝手に自室に入ってくるハイイロさんをきりっと睨みつけた。

 ハイイロさんは、わざとらしく呆れた表情で顔を左右に振った。

「はあ……。罰欲センサーを与えたボクに対して、キミはなんて言い分なんだい?」

 ハイイロさんの言葉に、僕はぐうの音も出なくなる。僕の罰欲センサーに対する、この魔法は正当な罰だという思いが、冷めていく思いがする。

「まあいいや、ねえ、あんた」

「なに……」

 僕はそれでも、怒りを含んだ震えた声で返す。ハイイロさんは全く動じず、訊いてくる。

「あんたは、まだこの世界にいるつもり?」

「はっ?」

 当たり前じゃないか、と僕は思う。僕は、亜黒に告白ができるまでこの世界に居座るつもりだ。

「まだ、いるよ」

 そう答えると、ハイイロさんは一気に真剣な表情になり、ずかずかと僕に近寄ってくる。

「それはいつまでだ?」

「亜黒に告白ができるまで……。当たり前でしょ?」

「その亜黒が、どんな奴であってもか?」

 ハイイロさんは、訳の分からない質問した。どんな意図をもって発せられた言葉なのか、僕は疑問に思う。

 どうして、どうしてそんなことを訊くんだ。なぜハイイロさんは亜黒のことを分かったようなセリフを吐くんだ。そんなことを訊かれても、僕の意志は固まっている。僕の胸の中にある、この恋心は本物だ。亜黒への恋愛感情なんて、消えるわけがない。だから、分かった口をきくな。

「うるさい……」

 僕は声に出す。

「あーあ、また怒られちゃった。まだ訊いておきたいこと、いっぱいあるんだけどなー」

 ハイイロさんはそう言って茶化す。その態度に、僕はさらに怒りを募らせていく。

「なんで、そんなに質問ばっかしてくるの……」

 今までハイイロさんは、罰欲センサーに対して訊かれたことを答えるだけだったじゃないか。

「質問っていうより、警告って言う方が無難かな」

「え、警告?」

 けいこく。その言葉の響きが、頭に引っかかる。

「あんたが思った以上に罰欲センサー使ってるからさ」

「なに……。魔法に縋ることの何がいけないの……。罰欲センサーは、正当な罰でしょ……? 何も悪いことなんか、この魔法にはないんだよ……」

 僕は、長い間この魔法を使って思ってきたことをハイイロさんにぶつける。すると、ハイイロさんは笑い出した。

「あっははははははははははっ! マジで? ふふっ、あはははははははっ! やめてよもう、おなかいたい……。あんた相当狂ってんね」

 腹を抱えて、本当におかしそうに笑う。

 違う、狂ってなんかない! と僕は心の中で反論する。僕が今まで受けてきた痛みは、僕がこの世界で生きる権利を得るに値するものなんだと、僕は本気でそう思う。

「そうかそうか! もう、そうなったら、あんたにはあんたの目で見てもらった方が早いね! この罰欲センサーが、どんなものなのかをね! ……じゃあ、ボクはここらへんで消えておくよ! お辛い片思いしてるがいいさ!」

 僕の心を見透かすようなハイイロさんの大きく開いた瞳孔。それを僕は気味悪く思い、逃げるように消えていくハイイロさんにこの上ないほどの怒りを覚える。

 僕のやっていることは正しい。僕のやっていることは間違いじゃない。僕は心の中でそんな思いを反芻する。


 この時、もう引き返せなくなっている自分を、僕は何とか正当化しようとしていただけであることくらい、本当は分かっていたはずなんだ。

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