【なろう系と民話・神話の類似性について】
【なろう系と民話・神話の類似性について】
いままでどんな小説も、なろう系のように人々の幼年期的・無意識的欲求を満たすことはできなかった、と前項で私は述べた。
では、なろう系とはまったく新しい、いままでどこにも存在しなかった代物なのだろうか。
ある意味イエス、ある意味ノーである。
それが個人の作者から生み出され、小説と呼ばれるのは、現代の、まったく新しい現象であると私は考える。
けれど、私はとあるなろう系作品を読んでいる時、これととてもよく似たものを読んだという既視感を覚えた。
千夜一夜物語だ。(正確にはちくま文庫刊行の『バートン版千夜一夜物語』)
千夜一夜物語には、文字通り千と一つの夜を尽くして語られる無数の物語が存在する。
その中でも典型的パターンが以下のような物語だ。
①主人公はハンサムだがだらしない金持ち商人の家の息子で、父親の死後言いつけを守らず、放蕩の限りを尽くして没落する
②町の市場で売られていた見目麗しい女奴隷が息子に一目惚れし、タダで奴隷となる
③この女奴隷は武芸百般・詩歌・学問あらゆる技芸に通じたチート能力の持ち主で、主人公は奴隷のおかげで持ちなおす。
④悪い商人や盗賊が現れ、主人公に嫉妬し、女奴隷を誘拐する
⑤主人公が女奴隷を取り戻そうと旅に出ると、魔人が現れなぜか主人公を助けてくれる
⑥魔人の協力で悪い商人や盗賊を次々殺す
⑦最後は女奴隷を取り戻し、ついでに金銀財宝、魔人の不思議な力も手に入れめでたしめでたし
こんなような話が、細かなパターンを変え、シェーラザッドの口から繰り返し繰り返し語られるのだ。
どうだろう。
チート能力を持つのが主人公ではなく、奴隷の方という細かな違いはあるが、どうにもなろう系そっくりの匂いがしないだろうか。
考えてみれば、神話の中の主人公たちも生まれながらにヒトとは違う超人的な能力を持ち、自分勝手に振る舞いながらも人々からは賞賛され、敵をためらいなく殺し、美女を抱き、宝を手に入れる。(その後悲劇的最後を迎えるのは相違点と言えるだろうが)
ケルト神話の英雄クー・フーリン、フィン・マックール。
ギリシア神話の英雄ヘラクレス、ペルセウス。
日本神話の英雄スサノオノミコト。
みな、なろう系主人公的と言えば言えなくもない。
そこで、気づいた。
なろう系と民話・神話に代表される口承文学には、数多くの類似点が存在するのではないか。
このエッセイの読者の中で千夜一夜物語を熟読されている方はそう多くないだろうと推察するので、できる限り誰でも知っているようなおとぎ話を例にして話を進めたい。
類似点①
描写が簡素。
これは、小説では一般的に稚拙であると言われがちな点である。
異世界へ行ったのであればそこがどんな世界なのか、ヒロインに出会ったならばそれがどんな人物なのか。季節はいつでどんな風景がそこから見えるのか、主人公がそれについて何を感じ、どう考えたのか。
物語の進行を妨げないレベルで、それらの情報を地の文で詳述し、読者の想像を助けるのが「上手い小説」であると、特に書き手たちの間では信じられている。(このエッセイは小説の書きかた講座ではないので、これ以上の議論は止めにしたい。)
だが、口で伝え、耳で聞く口承文学にそんなものは不要であるばかりか、邪魔ですらある。
「シンデレラ」がかぼちゃの馬車で向かったお城はロマネスク様式か、ゴシック様式か、バロック様式か、城門はどんな形で門番はいるのかいないのか。魔法が切れるのは12時だが、いまはいつか。辺りには何があるのか。
そんなことはおとぎ話の聞き手にはどうでもいい。
「シンデレラ」を黙読前提の小説に描き直すのであれば、それらの描写は読者の助けになるだろうが、耳で聞く分には話の内容が頭に入ってこなくなる。
類似点②
読者の前提的イメージに依るところが大きい
前項の描写が簡素なこととも関連するが、なろう系は読者がその作品を読む前から持っているだろう原型的イメージに依拠することがしばしばある。
「シンデレラ」に登場する王子様はどんな人間か。
そう聞かれ、みながイメージする人物像はだいたい一致するだろう。
現国王が存命で退位していないかぎり、50代だろうが60代だろうが王子は王子。
見た目もいいとは限らないし、繰りかえされる近親縁者による出産と生まれながらに持つ特権階級が原因で、性格破綻者も史実では少なくないだろう。
だが、そんなリアル事情はおとぎ話では考慮されない。(悪い王子というのもしばしば登場するが)
特に何も描写されなくても、王子様といえば若くて爽やかなハンサムで、優しく、歯が白いものと相場が決まっているのである。
同様に、なろう系でエルフの奴隷娘とだけ言えば、読者は色白で健気、儚げで内気だが根は純真無垢、ご主人様のために一生懸命尽くす少女を想像するし、ゴブリンとだけ言えば、不潔で性悪、邪悪で狂暴な存在で、人間と敵対し女性を孕ませようとする存在、と言わなくても分かっているという前提で物語は進行する。(このステレオタイプなイメージを逆手に取った作品ももちろん存在するが、それも前提的なイメージがあってこそ成り立つ)
ただし、ならば前提知識がなければまったく物語が楽しめないか、というとそんなことはない。
最初は確かに慣れない単語やシチュエーションに抵抗を覚えるだろう。
だが、おとぎ話がそうであるように、繰り返し繰り返し物語に浸るうち、いつしか前提的情景は聞き手の中にもなじんでくる。ランキング上位に昇るようななろう系作品は、それが初めて出会うなろう系であっても、十分楽しめる巧みさを物語の中に持っている。
類似点③舞台が抽象的
多くのなろう系の舞台はなんとなく中・近世ヨーロッパ風異世界だが、ヨーロッパではない。
この設定が曖昧で時代考証が不十分なことを揶揄し「なーろっぱ」なる語で蔑称されたりもするが、この曖昧さは著者の考証不足やリアルな想像力の欠如が原因ではなく、なろう系をなろう系たらしめるために必要な装置だとは考えられないだろうか。
昔話のはじまりは常に「むかし、むかし、あるところに」だ。
もし「シンデレラ」の冒頭が、「時は17世紀後半、フランスはブルゴーニュ地方のとある領地のできごとである」だったら、物語は途端に普遍性を失う。重厚感は増すかもしれないが、世界的に語り継がれる物語とはならないだろう。
類似点④矛盾に寛容
一時期、じゃがいも警察なる語が一部ウェブ創作界隈で流行った。
中世ヨーロッパには南米由来のじゃがいもはまだ存在しないはずなのに、なぜなろう系作品に芋料理が出てくるのか、という難癖がついたらしい。
そんなものは、ここは中世ヨーロッパではなく異世界だからだ、と答えれば済む話だが、それに限らず、なろう系作品に対して、現実世界に即したらありえない点や矛盾を指摘する風潮は後を絶たないようだ。
彼らの指摘はこう言っているのに等しい。
「ねーねー、ママー。シンデレラのまほうはとけちゃったのに、なんでくつだけガラスのままなの?」
そもそも本当に靴がガラス製であったら痛くてたまらないだろうとか、言い始めたらキリがない。
それに対して、お話の都合上仕方ないんだよ、と一生懸命答えてあげる必要はない。
もし私が親の立場だったら、こう返せるようでありたい。
「んー、なんでだろうねー。ふしぎだねー」
物語世界において、矛盾は無理に解消するよりも、時にはそのままであるほうが味わい深い。
その他にも、起承転結が存在しない点、個の存在より原型的な普遍性を大事にしている点、大事なことが何度も繰り返される点など、まだまだ類似点は色々考えられるが、私自身飽きてきたのでこの辺で止めにする。
いささかこじつけじみた感もあり、納得いかない読者もいるのではないかとは思うが、私の感覚ではなろう系はライトノベルよりも、民話・説話・神話などの口承文学の方がよほど近いように感じている。
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