第30話 偽りだけど本物の
***
「受験勉強が忙しいんだから、そんなに無理してこなくてもいいよ」
「無理なんかしていないわ。私にとってはこれが今一番大事なことなのだから」
もう九月中旬、それともまだ九月中旬というべきか。
温暖化が進む中、未だに連日の真夏日が続いている。外を出歩くのに、日焼け止めと日傘は必須だ。
「はいこれ下の自販機で買ってきたわ」
「ありがとう……ええっと」
「だからお金はいいって言っているじゃない。私が好きでやっていることなの」
沙月からスポーツドリンクを受け取った速斗は、財布に手を伸ばそうとするも途中で遮られた。
無理に押し付けようとしてもそれが意味をなさないのはもう分かっているため、茶番めいた問答が始まる前に速斗も素直に引き下がる。
学校の授業が終わって沙月が病院に到着する頃に、ちょうど速斗の午後のリハビリも終了する。
「でも勉強の方はちゃんとしないと。俺のせいで受験ミスったとかは勘弁だし」
「大丈夫、お母さんには外で勉強してくるって言ってあるから」
「そういう問題じゃ……」
「冗談よ」
沙月は微笑むと通学カバンの中から一枚の用紙を取り出して速斗の顔の前に掲げる。
「これは……夏休み明けにあった実力テストの結果…………ってええっ!? すごいじゃんこれ」
全国の中学三年生を対象とした全国模試。
夏休みの勉強の成果をどれだけ発揮できるかというテストだったが、沙月はその中でも校内およそ200人中4位という素晴らしい結果を残すことができた。
「まあ私にかかればこれぐらいどうってことないわ」
と、大人ぶった態度を見せるものの、その両頬は誰の目から見ても明らかなほど緩んでいる。
これには速斗も苦笑せざるをえない。
「神部さんがこんなに勉強できるなんて知らなかった……っていうか忘れていた」
何気なくそう言った速斗の言葉に、思わず沙月はムスッとした表情に変わった。
「だから神部さんじゃなくて沙月だって! いい加減慣れてよね」
「あっ、うん、ごめん」
照れたように下を向く速斗。当然といえば当然の反応だと、沙月も気にしていない。
なぜなら速斗が沙月の名を口にすることなど今までなかったのだから。
個室の病室に速斗と二人きり。
たった一晩のうちに全てを失い、心身ともに大きなダメージを負った沙月の想い人は、今はいくらか笑顔を取り戻すようになった。
そして、これまで通り恋人という関係を続けることができている。
事故の影響で、速斗の記憶にはいくらかの空白部分と黒く濁ったモヤが生まれていた。
その欠けた部分を補うように埋めたのが、沙月だった。
***
——夢を見ているのは私の方かもしれない。
——本当は事故にあったのは私の方で、この世界は私の望むがままに生み出された幻。
沙月が真剣にそう考えてしまうほど、何もかもが上手くいきすぎていた。
まるで毎晩寝る前に描いていた妄想がそのまま現実になったかのようだ。
たった一言のふざけたメッセージと、宝くじが当たったレベルのタイミングが重なり、今の沙月に夢の時間をもたらした。
速斗は沙月と付き合っていると本気で信じ込んでいた。
もちろん記憶の欠如という弱っている部分をつついたということもあるが、何よりも他に頼れる人のいない速斗が自分に縋り付くようにあの手この手を使ったのも事実である。
ネックなことがあるとすれば、沙月がゼロから作り出したこの関係性に速斗の中の記憶の思い出は言うまでもなく、記録としても写真の一枚もないことだった。
このことについては自然に納得させられる案がこれといって思い浮かばなかった。
なので、二人が付き合っていることは仲のいい友達にも内緒にしていた。
だから万が一のことも考えてスマホにも何も残さず、思い出は全てお互いの心の内に留めておこう。
なんていう頭の悪そうな人が考えたような言い訳をしてしまったものだった。
それを速斗に伝えた時の泣きそうな顔は未だに鮮明に思い返すことができる。
その時ばかりは、あまりにの罪悪感に押し潰されそうになったほどだ。
「——けどもう後戻りはできない」
何かを決心させるかのように、一人呟く。
沙月は病院の入り口を出ると、背後の入院病棟を最後に見上げて日傘をさした。
——私がやっていることは、世間的にも倫理的にも絶対に許されないこと。
そんなのは重々承知。
——だからいずれ、その報いは何らかの形で受けることになるでしょう。
けど今はまだ——
——もう少しこの夢の続きを見させてもらえるその権利を——
「——まさかこんな所で渋滞に捕まるとは……」
「ほら急いでお父さん! 早くしないと面会時間終わるって!」
「おいおい病院内では走るなよ舞!」
——家族のお見舞いかしら?
ちょうど日傘をさした瞬間にすれ違ったため、顔などは全く確認できなかったが、とにかく焦っている様子だけは伝わってきた。
ちなみに面会終了まだはもう五分を切っている。
病状とかにもよるけど、身内なら多少の融通はきくかもしれない。
——会えるといいわね。
沙月はどこの誰とも知らない親子の幸運を祈って病院を後にした。
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