No.4 東揚屋団地と辻バスと

 混濁した意識が晴れて目の前がはっきりとしてきた。空には満月。潮時なのだった。いつものように地下道に降りようとして足が止まった。どうもおかしい。力が満ちて来ていない気がする。屠りたいという衝動が湧き上がっていないのが分かる。新月の夜、月の不在でこのようなこともあるが、満月の夜でここまでひどいことは初めてだった。今回は諦めて街中を徘徊することにしよう。地上には地上の呪われた者たちがいる。その者たちに引導を渡しに行くのだ。

 地下道の出口を後にすると、あの子が大通りの向こうでボクのことを見ていた。おそらくあの子もボクの異常を認めたのだろう、黙って後を付いてきた。

 辻沢の北東に位置する小高い丘の斜面に公営の東揚屋団地がある。半世紀前の造成で、今は住民の高齢化が進み空き部屋も増え、ベニヤで塞がれた窓が目立つ限界集落ギリギリの団地だ。そこから街中へ行く長い坂道を下ったところに大きなカーブがあって、裏山の採石場からのダンプがよく砂利を落としていく。カーブの曲がり終わりのガードレールの向こうは山椒畑で、暗闇の中、男が捜し物をしている。

「ない。ない。オレの体がない」

(捜し物はきっと見つからないよ)

 ボクがガードレールの外から声を掛けるとその男が振り向いた。ヘルメットの中の顔は蒼白で目が血走っている。着ているTシャツはボロボロに破れ、胸から下は血に染まり破けた腹から内臓がはみ出し垂れ下がっている。腰から下がどうなっているかは闇に包まれて分からなかった。団地が出来たばかりの夏、この男はバイクに乗って坂道を猛スピードで降りてきたが、カーブで後輪が砂利に取られ曲がりきれずガードレールに激突した。その衝撃で体が真っ二つになって即死。その時なくした下半身を永劫探す、地縛霊なのだ。

その地縛霊はそのままじっとこちらを見ていたが、また、

「ない。ない。オレの体がない」

まだボクが見えなかったようだ。鬼子のボクのことが見えない地縛霊に引導は渡せない。無理に滅殺したとしても、ボクに屠られたことを彼自身が得心しない限り、再びここに舞い戻り、

「ない。ない。オレの体がない」

 と始めてしまう。

 今回も他を当たることにして、その場を立ち去る。しばらく行ってから後ろを振り向くと、あの子が山椒畑に手を合わせていた。あの子も鬼子だから男の姿が見えるのかも知れない。

「鬼子使いも鬼子なんだよ。もしかしたらあの子が鬼子で君が鬼子使いだったかもしれない」

 夕霧太夫がそう言っていた。

(何がそれを決める?)

「エニシの月かな」

 どこかおぼつかない今夜の月がボクとあの子とを見下ろしていた。

 終バスが去った青墓北堺のバス停は街灯もなく真っ暗だった。ここは青墓の杜最寄りのバス停で背後に森勢が迫り鬱屈とした空気が辺りに滲み出してきている。正気の人間ならこんな時間にここにいることなどしないだろう。しかし、ボクは用事があるので時間が来るまでここで待っているのだった。しばらくそうしていると、行き先表示のないバスがやってきて停まった。車内灯は消えていて中の様子は分からない。ドアが開きステップを上ると運転席には誰もおらず乗客も一人もいなかった。

〈♪ゴリゴリーン。辻バスにようこそ〉

 そのままバスに乗り込んで、後部座席の出口に一番近い席に座る。

〈♪ゴリゴリーン。辻バスにようこそ〉

 あの子が乗ってきて先頭の座席によじ登って座った。あの子はいつもあそこに座る。フロントガラスからの眺めが好きなのかも知れない。

 ドアが閉まってバスが発車する。これから向かうのは辻沢の街中だ。このバスは夜が明けるまで辻沢を経巡っている。

車の往来がなくなったバス通りをひたすら走っていると、

「アイリ、本当にこれで海行けんの?」

 誰もいないはずの後方から女子の声がした。

「は? ミノリはウチの完璧な計画疑うのか?」

 違う声だ。

「いいや。ただどんどん周り街になってるから」

「この街抜けたら海が見えてくっから」

「そっかな、ど真ん中行ってる気するけど」

 振り向くと最後部の座席に大きな浮き輪を持った三人の若い女子が並んで座っていた。

「この間、首なし女が歩いてんの見た」

 話題が変わったようだ。

「ホラー映画の話か?」

「いんや。真夜中、元廓フキン散歩してたらいたんよ」

「は?」

「生首を小脇に抱えてて、ヤオマン屋敷に入っていった」

「マジか? あそこは警備が厳しくてネズミ一匹入れんところだぞ」

 関心は首なしより警備のほうか。

「だしょ。それがさ、門が自然に開いて、スーって入っていったの」

「はあ? それはツリだわ」

「いや、マジでマジで」

「ツリツリ。そんなでっけー釣り針、ウチ引っかかんねーから」

「ツリじゃねーて」

「てか、ミノリ。耳毛が伸びすぎて三つ編み編めそうになってから」

「うっそ、マジで? そんなじゃギャルでいられんって。カエラ、鏡貸して」

「はいよー、鏡。ホムンクルスの実験台にされた人らしいよ」

「ありがと、あ? カエラなんて。アイリどっちよ、どっちの耳毛?」

「うっそー。だまされてんのー」

「こんの。テメ、コロス」

「テメーが、クソねたブッ込むからだろ!」

 浮き輪ファイトを始めてしまった。それを笑顔で見ているカエラと呼ばれた子に目を向けるとボクに気がついて頭を下げた。そして二人を片手で指さしながら、もう片方の手を目の前で左右に振った。これはアイリとミノリの準備がまだ出来ていないことを表すボクとの符合だ。

 カエラとミノリとアイリ。彼女たちは、かつて辻沢を恐怖に陥れた女子高生ばかりを襲うシリアルキラー、エンピマンの犠牲者だ。彼女たちにとって辻バスが一番の思い出の場所だったため、霊となった今もここに居残っている。その中で最後にエンピマンと闘ったカエラだけが自分たちが死んでしまったことを理解していて、鬼子のボクが見える。

「カエラ。誰に挨拶してんの? 怖い怖い。このバス、ウチら以外誰も乗ってないから」

 ミノリと呼ばれた子がバスの中を見回しながら言った。そこにアナウンスが入る。

〈♪ゴリゴリーン。まもなく志野婦神社前です。クチナシ香る境内ではイケメンの誘惑にお気を付けください〉

 バスが停まりボクが降車した後すぐ、あの子が続いて降りてきた。そして一定の距離を取るため急いでバスの後方へ移動して行った。

ボクは通りを渡って志野婦神社の鳥居を見上げた。風に乗ってクチナシの香りがしている。境内への階段に目を移すと、その頂上に社殿の屋根だけが見えていた。そこに大きな乳白色の光の輪が輝いている。一瞬、月かと思ったが今は背後にあるはずだった。それで光の中心をよく見てみた。そこに人の姿があった。金色の瞳に銀色の牙。クチナシの精のような美しいたたずまい。志野婦だった。志野婦が笑みを浮かべながらボクのほうを見下ろしていた。

ボクは階段を上りそちらに近づいていった。もっと側でその顔を見たくなったのだ。一歩一歩石段を踏んで上っていく自分の足がもどかしかった。ひと飛びであの胸元へ。

ガッ!

踏み込もうとした所を、後ろから腕を取られて我に返った。振り向くとあの子がボクの手首を掴んで首を振っていた。こんなに近接して大丈夫なのか。鬼子使いが近づきすぎると鬼子を刺激して危険なのだ。鬼子使いが鬼子に殺されることもあると夕霧太夫から聞いた。それを一番知っているこの子がリスクを犯してボクを引き留めてくれた。

(大丈夫)

肯いてみせたつもりだったが、あの子の表情が恐怖に染まったのが分かった。刹那、あの子はボクの手を離し階段の一番下まで飛びし去って身構えた。ボクはくすぶる欲動を残して志野婦神社の結界の外に出た。夜空を見上げた。エニシの月がいつもよりはかなく見えた。

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