No.3 夕霧太夫

 明かりのない地下道の、緩やかに傾斜する坂の途中に電灯がそこだけ灯って白く光っている場所が合った。そこが地下横断歩道が横切っている場所だと分かるまで近づいてゆくと、その角の向こうからゴツゴツいう重い靴音が聞こえてきた。それはあの子の足音ではなかった。あの子はいつものようにずっと後ろをローファーの音をさせて付いてきていたからだ。誰か知らないがこんな真夜中に呪われた場所に降りて来るなんて。ボクは壁に体を寄せ暗がりに隠れるようにして、その光の中に現れるものを待った。

 明滅する電灯の下に現れたのは人だった。屍人ではない。ボクの衝動がそれを最初に感じ取っていた。その人はその場に少し立ち止まると、地下道の向こう側の暗闇をのぞき込む仕草をした。その後、向き直ってこちらを指さし、

「いたいた」

 と迷う様子も無くボクのいる方に歩いてきた。ボクは一瞬身構えたが、すぐにその人と分かってこちらから近づいて行く。

(夕霧太夫!)

 キツく編み込んだ黒髪に、金色の瞳と透き通るような肌、口元から銀牙が覗いている。ロゴ入りの白いパーカーに革ジャンを着て、ショートのジーンズに厚底のブーツを履いた女性が、

「ひさしぶり、どう?」

 と両手を開きボクを迎え入れた。

(元気です)

 鬼子のボクの声は人にはうなり声にしか聞こえないが、夕霧太夫には通じる。

 夕霧太夫。全ての鬼子の親と言われる人。初めて“あたし”から鬼子のボクが発現した時、ボクの暴走を止めてくれた人でもある。

あの時、目覚めたばかりのボクはすでに理性が真っ赤な皮膜に覆われていて殺戮の衝動に支配されていた。無性に何かを屠りたくてしかたなかったのだ。そして目に付いた人に飛びかかり、その喉笛に食らいついて咬み千切らんとしたその時、夕霧太夫が現れて血のように赤い糸でボクをぐるぐる巻きにした。そしてそのまま山奥の神社に連れて行き、祭壇もないがらんどうの社殿のほこり臭い床に転がして言った。

「キミは鬼子だ。今からその衝動を抑える術を授ける。いいね」

 この世に生を受けたばかりのボクにとって自分が何者かなんてどうでもよかった。とにかく屠りたい。屠って屠って屠りまくりたい。そう欲望し続けた。その時のボクは赤い糸に巻かれたまま藻掻き、喚きちらしていたに違いない。夕霧太夫はいつまでも観念しないボクを赤い糸を繰って締め上げ出した。ギリギリと体を締め付けられ、息が苦しくなって目の前がぼんやりし始める。すると夕霧太夫は赤い糸の端をボクの左の薬指に巻き付けて、さらにもう一方の端を、いつのまにか現れた、いや、ずっとそこに控えていたのかも知れない、あの子の右の薬指に結わえ付けた。そして、

「あなたはこの子の鬼子使い。二人は死んでもずっと一緒だよ」

 それを聞いたあの子は神妙な面持ちで頷いた。その時ボクはとてつもない安堵感に襲われて思わず涙があふれ出てきた。それまでは不安で不安で仕方なかったのだとやっと気がついたのだった。

 あの子と繋がれた赤い糸のことを「鬼子のエニシ」というと、後から夕霧太夫に聞いて知った。今こうして自分の薬指を見ると、うっすらと赤いエニシの糸が見えている。それはあの子がいるほうに向かって伸びているが途中で消えて見えなくなっている。あの子にもこの糸のことが見えているといいけれど、それは分からない。

 夕霧太夫が、あの子がいる暗がりに向かって頷いていた。それを機にローファーの足音が地下道の中を遠のいて行くのが聞こえてきた。今夜のボクの鬼子使いは夕霧太夫が務めてくれるようだった。

 あの子と鬼子のエニシを結んだ後も、ボクは潮時毎に目覚めては殺戮の衝動を抑えられず、いてもたまらなくなって街に繰り出しては獲物を探していた。それをあの子がエニシの力で地下道や青墓の杜に誘導しれくれなかったらボクはどれだけの人を犠牲にしたかわからない。けれども、あの子も鬼子使いになったばかりは、ボクのことを完全に制御できたわけではなかった。時にボクは暴走し、街の灯に向かって駆け出す事があった。そういう時どこからともなく夕霧太夫が現れて、ボクに真っ正面からぶつかってきた。暴走したボクにとって目の前に現れたものは屠るべき獲物でしかなく、それが自分に数十倍する力量の夕霧太夫であっても関係なかった。ボクは巨大な岩のように立ちはだかる夕霧太夫に勝負を挑んだ。夕霧太夫は、人を超えた力を持つ鬼子のボクを、いとも簡単にあしらった。何度も立ち上がり何度も挑みかかったけれど、ボクは夕霧太夫を退けることができなかった。そしてボクが闘い疲れて地面に突っ伏して動けなくなると、さっきのようにあの子に頷いてどこかへと去って行った。そうしたことが数年の間続いたけれど、ある日ボクは夕霧太夫に一太刀浴びせることに成功した。それまで闇雲に攻撃を繰り出していたのを、一歩下がって相手の隙を見極め攻撃したことが功を奏したのだった。

「できるようになったじゃない」

 夕霧太夫がボクが付けた頬の傷を指で撫でながら近づいてきた。その赤い血を拭き終わったとき夕霧太夫の頬はもとのままの透き通るような肌に戻っていた。それを見ながらボクは自分の異変を感じ取っていた。

(考えた)

 そう。ボクは初めて頭を使って闘っていたのだった。今から思うとそれまでの全ての戦いは夕霧太夫による特訓だったのだ。何度も何度も対戦することで自分の中の衝動を抑えて冷静に考えて闘う術をボクに教えたいたのだ。こうしてボクはものを考えられる鬼子になった。

 夕霧太夫以前の鬼子は、まさに獣だったそうだ。夕霧太夫自身もまた、最初は獣のように殺戮の衝動だけで地下道や青墓の杜を彷徨っていた。それがあるとき自分というものに気づき潮時にも意識を保ったままでいられるようになった。それまでの鬼子は死ぬまで獣のままだったのに夕霧太夫は自ら解脱しボクと〝あたし〟を統合した。そして今は他の鬼子たちに解脱の道筋を教えて回っている。ボクもまた、その生徒の一人なのだ。まだ〝あたし〟にはなれない出来の悪い生徒だが。

「おいで」

 そう言うと、夕霧太夫は地下道の階段を上って行った。外に出るとバイパス沿いにあるラブホテルの駐車場に降りて行く。ボクもその背中を追って行くと、そういった駐車場には似つかわしくない真っ赤なオープンカーが止めてあって、その横で夕霧太夫がドアを開けて待っていた。

「乗りなよ」

 助手席に収まる。夕霧太夫が運転席に乗り込みエンジンをかけるとその振動がお腹の底から響いきた。続いてタイヤのきしむ音と猛発進。飛び出すように駐車場を後にした。

(どこへ行くの?)

 まだ東の空は暗かったから〝あたし〟に戻る時間ではなさそうだった。

「見せたいものがあるんだ」

 夕霧太夫はそう言っただけであとは黙ったまま車を走らせた。金色の瞳で前方をまっすぐ見てハンドルを握っている。進む道は辻沢の西山地区へくねくねと伸びるワインディングロードだった。

 辺りが山林になって峠の手前まで来ると、車はジャリを敷いた駐車スペースに停まった。

「少し歩く」

 夕霧太夫について暗闇の森の中に足を踏み入れる。夕霧太夫を追って杉木立の細い道を歩いていくうち突然視界が開け、すり鉢状の窪地が眼下に広がる場所に出た。その底にみすぼらしい鳥居と社殿だけの神社が鎮座していた。

「鬼子神社。前にも来たよね」

 ボクが赤い糸でぐるぐる巻きにされて連れてこられた、あの神社だった。

 夕霧太夫とボクは、すり鉢の斜面を降りて鳥居をくぐり、社殿の階を上って中に入った。中は明かりも無く暗かったが、何かの気配を感じた。気配のする方を目を移すと、誇りが積もった床に人らしきものが二体転がしてあった。二人は夕霧太夫やボクと同じく、明けたままの瞳が金色で口元から銀牙が覗いた。

(鬼子?)

「そう」

(死んでる?)

「近づいて見てごらん」

 ボクはその一人の片脇に膝を曲げてしゃがみ胸のあたりを注視した。するとその胸は小さく上下して息をしているようだった。さらにその下、お腹を見て驚いた。

(妊娠してる)

 お腹がふっくらと大きくなっていたのだった。その隣の鬼子も同じだった。何故驚いたか。

「そう。鬼子は子を生さないのにね」

 夕霧太夫がボクの驚きを見て言った。古来子供を産んだ鬼子はいないと言われてきた。なのにここにいる二人共がその前例を破っていた。

(どうして?)

 夕霧太夫はそれには答えずに、

「この子たちは潮時が明けても元に戻ることはない。半月前の満月の時からそう」

 と言った。

(ヒダルの仕業?)

 ヒダルに体を乗っ取られたのかと思った。

「ヒダルなんぞにこんなことできないよ」

(じゃあ、誰が?)

「神以上の者」

 夕霧太夫には思い当たるふしがあるようだった。

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