欠けたもの

三角海域

欠けたもの

 その日、珍しく彼女の方から僕を誘ってきた。

 ここ最近、といっても、ひと月に一度くらいのペースで、僕の方から彼女を誘うというのが当たり前になっていたからだ。

 待ち合わせ場所に向かう間、僕の中にはずっとある予感があった。けれど、それに対して悲観的に感じられることもなかった。 

 いつからか、彼女と会うという時間に特別めいたものがなくなり、月に一度のルーティンのようになってから、その予感は常にあったからだ。

 待ち合わせ場所は、美しい並木道のすぐ手前。強い日差しを遮る、草木の緑色。その、薄く日の差すところに彼女はいた。

「お待たせ」

 僕が言うと、彼女は無表情にうなずき、「行こうか」と言って歩き出した。迷いなく歩く彼女の背中を、僕は追いかける。彼女の足取りは速くて、時々距離があく。僕をまこうとしているのかなと思う。

 けれど、そのたびに彼女は立ち止まり、僕の方を振り返る。そして、またある程度距離が詰まると、歩き出す。

 見えているけれど、決して縮まらない距離感。

 僕らの関係性に似ているな、なんてことを思った。

 

 彼女が向かったのは、小さなカフェだった。

 花畑の中のカフェ、というコンセプトらしく、そこかしこに花やら草やらが飾ってある。これだけ草花だらけだと、虫も多いのではないか、なんてくだらないことを考えているうち、僕らは奥まった席に案内される。

「なに頼む?」

 席に座ると、すぐに彼女はそう問う。

「コーヒーがいいな」

 僕が言うと、彼女はメニューを開き、僕に見せる。

「どれ?」

 機械的な動作、機械的な言葉。血の通わないやり取り。それに悲しさでも覚えられれば、きっとマシなんだろうなと思う。

 メニュー表のブレンドを指差すと、彼女は店員を呼んだ。僕と同じものを注文する。

「ここにはよく来るの?」

「いいえ。別にどこでもよかったんだけど、ここが一番近くのカフェだったから」

「カフェでなくてはいけなかったの?」

「そういうわけでもないのだけど、なんだか、カフェで話した方がいい気がしたの」

 彼女の言葉からは、僕と同じ予感を抱えているのが感じられた。

「ねえ」

 そして、まだコーヒーもテーブルに来ていないタイミングで。

「別れましょう」

 と、彼女は言った。

 それからは、とてもシンプルな時間だった。

 なぜ、とか、そういうことはお互いにきかなかった。ただ僕らはやってきた、花弁が浮いている薄いコーヒーをゆっくりと無言で飲み、彼女が渡したぴったりのコーヒー代を自分のコーヒー代と合わせて支払い、店を出た。

「さよなら」

「ああ、さよなら」

「あなた、やっぱり欠けてる」

 彼女はそう言って、僕に背を向け歩き出す。テンポのいい速度。もう立ち止まることも、僕の方を振り返ることもなく、彼女は町の雑踏にまぎれて消えた。


 彼女と別れたあと、僕はふらふらと町を歩いていた。

 すぐに帰ってもよかったのだけど、彼女が最後に言った言葉が、どうにも心の奥で引っかかっていた。

 欠けている。

 なにが欠けているんだろうか。

 それなりの時間を歩くことと思考することに使ったせいか、疲れを感じてきた。休める場所を求め、また歩き回る。

 足が重くなり始めた時、裏路地にある小さな喫茶店を見つけた。カフェ、ではなく喫茶店と言いたくなる店構えだった。

 コンクリートに囲まれた裏路地。彼女と待ち合わせた並木道と違い、日差しを完全に遮断する、冷たい空気。けれど、日の光がない分、そこには影もなかった。それが、妙に僕を安心させる。

 洒落たガラス戸を開けると、少し狭い店内に、コーヒーのいい香りが満ちていた。レトロな小物と、年代を感じるテーブルや椅子。落ち着くためのすべてがそろっている、そんな雰囲気だった。

「いらっしゃいませ。お好きな席にお座りください」

 店主も、店の雰囲気に合った落ち着いた紳士だった。というより、店主の雰囲気がそのまま店に反映されているのかもしれない。

 あえて、店主に近い席に座り、コーヒーを頼んだ。

 コーヒーを淹れるためのカウンターの奥に、ナイフと角材のようなものが見えた。

「木彫りですか?」

「そんな大層なものでもないです。ただ、落ち着きたいときに、ああして木を彫るんですよ」

「何を彫ってるんですか?」

「決めてません。ただ思うままに彫るんです。最終的に何の形にもならなかったとしても、それが今の自分の心の形なんだと思うと、安心するんですよ。時々、思いがけずそれっぽいものも彫れたりするんです。落ち着きたいときにはおすすめですよ。時間も潰せますしね」

 コーヒーは、香りも味も濃くて、美味しかった。

「何かおかけしましょうか?」

 そう言って店主が指差した方を見ると、古いジュークボックスが置かれていた。

「専用のメダルを使って曲を流せます」

「ああいうのに入ってる古い曲は、よく知らなくて」

「適当に選んでみてはどうでしょう。1番から8番までのボタンがあります。その中から、これと思う番号を選んでみてください」

 あまり深く考えず、僕は5番と言った。すると、店主は微笑する。

「当たりですね」

「当たり?」

「ええ。5番のボタンだけ壊れていて、使えないんです。なので、それを選ばれた方には、コーヒーを一杯サービスしています。意地悪な遊びです。客商売してる身でと怒られてしまいそうですが」

 サービスで提供されたコーヒーとメダルを受け取り、僕はジュークボックスに近づく。

 5番のボタンも他のボタンと同じく、明るく点灯している。壊れているようには見えなかった。

「ボタンを押しても反応しないんですよ。試してみてください」

 メダルを入れ、5番のボタンを押してみる。店主の言う通り、ジュークボックスは反応しなかった。続けて4番のボタンを押すと、ジュークボックスはキラキラと光りだし、洋楽が流れ出した。

「直さないんですか?」

「ええ。それは、そのままで完成されている気がして」

「壊れていることで?」

「壊れている、というより、欠けていることで、でしょうか」

 僕はハッとして振り返る。僕の中で引っかかっていた言葉が、店主の口から出たからだ。

「そのジュークボックスは、5番のボタンが欠けていることで、ここだけのジュークボックスになってるような気がするんですよ。欠けていることが個性なんです。埋めた方がそりゃいいのでしょうが、欠けたものを埋めることだけが、物事の美しさとイコールではないのだと思うんです。なんで5番だけ使えないのかってのは、機械の知識があればわかるんでしょう。でも、そうじゃなくて、5番が使えないってことが、こいつがここにちゃんと存在してるってことなんじゃないかって私は思うんです」

 店主は、愛おしそうにジュークボックスを見つめながらそう言った。

「欠けていることが、ちゃんと存在しているということ」

 僕が言うと、店主は頷いた。

「そういうもんがこの世にあっても、いいじゃないですか」


 店を出ると、日はすっかり落ちていた。それなりの時間が経過していたらしい。心の中の引っかかりは、もうなくなっていた。軽くなった足で、路地裏を出る。

 上着の肩の所に、何かがくっついているのを見つけ、指で取ってみる。

 それは、小さな花弁だった。彼女と会った店でついたものだろう。

 掴む力を緩めると、花弁は風に乗って飛んでいき、すぐに見えなくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

欠けたもの 三角海域 @sankakukaiiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ