第48話 土海月

 なんだ? 不思議に思って、じっと目を凝らしてあたりを観察してみると……白い半透明なゼリー状のものが、ふわりふわりと、そこら中を飛行しているではないか。

 

 ゼリー状の物体は、風に揺れるスカートみたいに体を動かして、器用に空気を押し出し無数に宙を浮遊している。

 

 この形、この動き。なんだか、見覚えがあるような……。

 

 クラゲッ! ああ、そうだ。こいつらは、海にフワフワ漂っている、クラゲに違いないではないかっ!

 

 自由に宙を飛び回るクラゲ。それも、こんな山奥で……。

 

 答えは決まっている。あれは、俺にしか見ることのできない、精霊たちだ。

 

 訓練場で、土の中を泳ぐ鯉金魚にだって出会ったんだ。山で空飛ぶクラゲの集団に出くわしても、なんら不思議はない……いや、奇怪極まる話だが、この世界では、別におかしい話ではないらしいのだ。

 

 俺は、宙に浮かんだクラゲの一体に近寄ってみる。

 

 木漏れ日を薄く透かす、半透明の青白い傘。ヒダのような膜のような体が、心臓が鼓動を打つように、周期的にウネンと波打つ。

 傘の下には、雨が滴るみたく、細い繊細な糸が何本も垂れ下がっていた。

 

 そっと手を伸ばしてみる。クラゲは、こちらの存在など気にも留めずに、フワリフワリと宙を浮かんでいる。

 

 指先がクラゲに触れた。次の瞬間。

 

 クラゲが、ゼリーの表面に流線状の白い閃光を放った。まるで、ネオンサインみたく、白色の光はキラキラと、クラゲの体表を流れていく。

 

 それと同時に、ビリビリっと体全体に微弱な電流が走る感覚が襲う。

 

 しばらくすると、手を触れたクラゲは発光を止めて、自由に浮遊する群衆の中へまぎれこんでいった。 

 

 気のせいだろうか。なんだか……筋肉の疲労が消えてしまったように感じる。俺は一歩、足を前に出した。


「……!?」


 信じられない出来事に、思わず声にならない悲鳴を上げた。


 落ち葉を踏みしめる、乾いた足音が、まったく聞こえないのだ。ジタバタとその場で地団駄を踏んでみる。……足音がない! 

 どんなに強く地面を蹴りつけても、足音はしない。それどころか、落ち葉がかすかに動くことすらもないのだ。

 

 なぜだ? まるで足と地面の間に、見えない空気の層があるかのよう。

 

 俺は、喜びのあまり、その場で軽くジャンプした。


「……!?!?!?!」


 とつぜん、視界がグゥウンとせり上がり、浮遊するクラゲを見下ろせる高度にまで、体が持ち上がる。


 ただのスキップのはずが……とんでもない大飛翔! あと少しで、木々の葉に手が届いてしまいそうだっ!!


 バケツの水をこぼさないよう注意しながら、スタッと華麗に着地する。例によって、落ち葉を踏む乾いた音は一切ない。

 

 魔法使いの着地。まるで着地の瞬間だけ、重力がなくなったかのようだ。

 

 ……重力。ああ、そうか。俺の身に起こった出来事の正体が、分かったぞ。

 

 クラゲの精霊に手を触れたことで、不思議なことに、異様なまでに体が軽くなってしまったのだ。

 

 体が軽くなったということは、重力の影響が少なくなった、という事とほとんど同義である。ゆえに、まるで月面上みたいに高々とジャンプができるし、着地の足音もなかったのだ。

 

 触れた者の重さを極限までゼロに近づけてしまう、森を浮遊するクラゲ……。

 

 まったく、俺の固有スキルで見ることのできる精霊たちは、どうしてこうも揃って、奇怪なヤツばかりなのか。

 

 俺は、目の前をプウカプウカと通過するクラゲたちを眺めた。

 

 落胆する必要はない。だって、彼らと遭遇したことは、今に限っては、とんでもない幸運といえるではないか。

 

 体が軽くなるおかげで、その分、疲労も溜まりにくくなる。加えて、足音が無くなるおかげで、ゴブリンにとっての『目』である、匂いと音を完全に消すことができるのだ。

 

 俺は、ハイタッチするみたく次々とクラゲに触れて、陽気なステップをかましながら、山を登っていった。

 

 ああ、あれほど苦行に感じていた登山が、全く疲れない。

 なんだか、水の入ったバケツまでもが軽くなったようで、俺は風のような軽快さで森の斜面を駆け上っていく。

 

 これは……イケる、イケるぞっ!

 

 蒼白く発光するクラゲたちが、月明かりのように、いつまでも俺の足元を照らしてくれた。

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