睡蓮
兎原澄
その1
自分がこの村にたどり着いたのは、霧の立ち込める中ハイキングのコースを間違え、遭難しかけた時だった。激務の仕事がひと段落し、軽い気分転換のつもりで、初心者も気軽に半日ほどで歩けるコースを選んだのだが、天気予報の確認を入念にしなかったのが仇となり、1時間ほど歩いたところで濃い霧が出てしまった。道にはガイドのための印もあったはずだが、どこかで逸れてしまったようだ。念のため余分に携帯食料を持ってきておいて良かったとは思ったが、夕暮れになりこれ以上は歩き回るのも危険である。
どこか安全に休めそうな場所を探しあたりを見回すと、少し先にぼんやりと灯りが見えたので、もしかしたら民家があるのかもと、足元に気を付けながら灯りを目指した。道なき道を15分ほど歩くと、小さな集落の入口にたどり着く。先ほど見えた灯りは、村の入り口にある小さな黒い小屋の窓からこぼれる光だった。小屋の脇には小さなお地蔵様の祠がある。そのお地蔵様はよく見かけるものより少し丸みのある可愛らしい形で、綺麗な白い前掛けがかけられている。目には黒いガラス玉でも入っているのだろうか、少し輝きがあり、思わず見つめていると目があったような気がして慌てて目をそらした。
恐る恐る小屋の入口へ近づくと、中から色白で少し痩せた、穏やかな顔の中年男性が出てきた。
「どうしました?」
と尋ねられ、突然出てきた彼に驚いて言葉に詰まってしまったが、恐る恐る事情を話す。
「あ、あの...突然すみません。道に迷ってしまったので、こちらで一晩泊めていただける施設があれば...教えていただけないでしょうか?」
彼は柔らかな笑みのまま、少し心配そうな色の混じった声で答えてくれた。
「それは災難でしたね。宿泊施設はありませんが、村長の家なら泊めていただけるでしょう。でも、その前にその怪我している足を見せてください。軽い手当ぐらいならできますから」
そう彼に言われてふと自分の足を見ると、右ひざの少し下あたりから、紺色のトレッキング用のレギンスが一部血に染まって黒くなっており、驚いてまじまじと見つめてしまった。よく見れば、何かに軽く引っ掻かれた痕のように見える。動物に遭遇した記憶はないが、下山ルートや避難先を見つけるのに必死で、気づきもしなかった。
彼が用意してくれた椅子に腰かけ、レギンスを捲ると、出血をして腫れていた。傷を認知してから、徐々に痛みと熱さを感じ、それがだんだん増すものだから思わず顔を歪めてしまう。患部を確認した彼は、少し困ったような顔で、
「思った以上に炎症を起こしていそうですね。歩くのも痛かったでしょう。ここで手当をするより、村長の家で医者に見てもらった方がよさそうです。」
彼は憐れむように覗き込みながら、
「直ぐに車と医者の手配をしますので、お辛いかもしれませんが、もうしばらく辛抱してください。」
と言って急いで受話器を手に取った。
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