五話
ジュマス――ここはサロフス領内で一番大きな街で、建物も行き交う人の数も、ブランディスとは比べ物にならないほど多く、にぎわっていた。
「テクラ、はぐれないように」
買い物客でごった返す大通りを進みながら、スタリーは横を歩くテクラに言うが、そのテクラは聞いているのかいないのか、小さなうなずきをしただけで周囲の商店に並ぶ品物を興味津々に眺め続けていた。
「……何か欲しいものでもあったか?」
「あの花屋、見たことない花ばっかりで……何ていう花なんだろう」
「君は花が好きなのか」
「前に球根から植えて育てた花があったんですけど、上手く咲いてくれなくて――あっ、すみません、どうでもいい話ですね。何か私、大きな街に来て浮かれちゃって……」
うつむくテクラにスタリーは笑いかけた。
「初めて来たんだろう? それじゃあ仕方ない。このにぎわいはブランディスでは味わえないものだからね。だがここへ来た目的は忘れないでくれよ」
「も、もちろんです!」
観光客になりかけていた自分を戒めたテクラは、スタリーの横にぴたりと付き、物珍しい品物には脇目も振らず、大通りを進んでいった。
「確か、この先を曲がったところだったと……あった」
人波を縫いながら通りを左に曲がると、その先に塀に囲まれた一際大きな建物が見えた。白い壁に赤い屋根と、どこか可愛らしくも感じる二階建ての立派な館だった。
「あれが、ここの領主様の家ですか?」
「ああ。ご在宅だといいが……」
そう言ってスタリーは入り口の門へと向かった。
サロフスの領主を訪ねるのは、領主なら各地の重大な出来事、事件などの情報を把握しているはずで、その中に吸血鬼に関するものがないかを聞くためだった。しかし、テオドールが姿を消してからまだ間もなく、誰かが目撃していたとしても領主まで情報が伝わっているかは疑問ではあったが、手っ取り早い情報収集として、とりあえず訪ねてみることにしたのだった。
大きな鉄扉の前に立つ門番に近付くと、その目が鋭くスタリーを見つめてきた。
「……何の用だ」
少々無愛想な態度に、スタリーは穏やかな表情で答えた。
「私はブランディス領を預かる者だが、テトマイエル卿はおられるだろうか」
「ブランディス――」
そう呟いた門番は、すぐにこの男性が誰なのかを察すると、姿勢を正し、足を揃えて向き直った。
「し、失礼いたしました。ブランディス様がいらっしゃるとは聞いておりませんでしたので……」
「そうだろうね。卿とは何も約束をしていない。勝手に訪ねて申し訳ないが……」
「と、とんでもございません……ご主人様はただいま、所用でお出かけになっておりまして」
「そうか……お戻りはいつになるだろうか」
「夕方と聞いております。それまで館内でお待ちできるか聞いて――」
「いや、夕方に改めてお伺いさせていただくよ。君達に気を遣わせるより、この素晴らしい街を見物するほうが有意義だ」
また後ほどと言い、スタリーは領主の館を離れた。
「いらっしゃらなかったですね。どうしますか?」
テクラに聞かれ、スタリーはちらと空を見上げた。
「時間は正午を過ぎた辺りか。まあ、夕方まで時間を潰すしかないね……。ああそうだ、君の外套を買いに行こうか。ここになら売っているはずだ」
そう言うとスタリーはテクラを連れ、再び人で溢れる通りへ向かった。
様々な商店の中に服を売っている店はいくつかあるのだが、スタリーは気に入らないのか、素通りして先へ進んでしまう。その背中をテクラは怪訝な顔で追いかけた。
「……あの、スタリー様、さっきのお店で外套は売ってましたけど」
「ああ。だが作りがよくなかった」
前を通っただけでそんなところまで見ているのかと驚きつつ、スタリーの着る上等そうな服装を見ると、そういうものにこだわりがあるのかもしれないと思うテクラだった。
「ここならよさそうだ」
大分歩いたところでようやく足を止めた前には、これまで通り過ぎてきた服店よりも明らかに大きく、高級そうな店があった。入り口の左右にある飾り窓の中には上品なドレスや小物が飾られ、誰が見ても庶民が買えるものでないとわかる。その店構えから、ここが金持ち向けの服店だということは一目瞭然だった。
「スタリー様、私はもっと安いものでいいんですけど……」
「何を言っている。安物の薄っぺらい生地では陽光を完全にさえぎることはできない。着るものは値が張っても、しっかりしたもののほうがいい」
「でも、こんな高そうなお店の外套なんて、私……」
「遠慮はいらないよ。これは君に対するお詫びの品だと思って着ればいい」
「お詫びだなんて、スタリー様は何も悪いことは――」
その時、高級服店から女性客が出てきた。つばの広い帽子をかぶり、フリルの付いた薄桃色のドレスという格好は、いかにも上流階級の人間らしかった。後ろに続く二人の供の手には、店で買ったと思われる大小の箱が重ねて抱えられていた。
すると、その女性の視線がふとスタリーに留まり、そして次には笑顔で歩み寄ってきた。
「あら、もしかして、ブランディス卿ですか?」
声をかけられたスタリーも女性に気付き、すぐに笑みを見せた。
「ああ、テトマイエル夫人」
「こんなところで会うなんて、驚きましたわ」
「こちらこそ。お買い物ですか?」
「ええ。来週のパーティーに着ていくものを注文していてね。今日はそれを受け取りに来たのよ。ブランディス様は? こちらへ出てこられるなんて珍しいのでは?」
「実は、あなたのご夫君の元を伺ったのですが、ご不在だったので、お戻りになられる夕方にまた伺わせていただくつもりです」
「まあ、そうだったの。それは失礼なことを――」
「いえ、こちらが勝手に伺っているので」
「ですがお客様には違いありませんわ。館の者には言っておきますので。私が直々にお相手をできればよかったのですが、この後は街の婦人会に出席することになっていて……」
「お構いなく。こちらも長居するような用事ではないので」
「ごめんなさいね。……ところで、そちらの可愛らしい方は?」
夫人の目に不意に見つめられ、テクラは身を固まらせた。
「彼女はテクラです。村の領民ですが、わけあって連れていまして」
すると夫人はおもむろにテクラに近付き、その顔を目を据えてじっと凝視し始めた。戸惑うテクラは逃げるわけにもいかず、夫人の化粧で隠した小じわが見える距離で動かずに耐えるしかなかった。
気が済んだのか、見終えて離れた夫人はかすかに笑みを浮かべると言った。
「ブランディス様も、長年の孤独には耐えられなくなったということかしら?」
「誤解されては困ります。彼女について話せば長くなりますが……?」
「わかっていますわ。そこまで聞くつもりはありません。少し冗談を言ってみただけよ。許してちょうだい。……それにしても、ブランディス様は昔とちっともお変わりなく。私ばかりがしおれていくようで、何だか溜息が出てしまいますわ」
「何をおっしゃるのですか。人間の真の美しさは見た目ではなく、その内面にあるのだと、すでにおわかりでしょう?」
これに夫人は苦笑した。
「そうわかっていても、鏡の中の自分を見ると、表の美しさを気にしてしまうのが女というものなのよ」
「私は、そのお話にはもう……」
「違いますわ。これはただの愚痴。聞き流してくださって結構よ」
表情を緩めると、夫人はスタリーに向き直った。
「引き止めてしまってごめんなさいね。じゃあ私は失礼しますわ」
「お目にかかれてよかった。お元気で」
笑顔を見せて夫人は立ち去っていった。
「……では、外套を買おうか」
まるで何事もなかったように言うと、スタリーはさっさと店の中に入っていく。高すぎるという意見を聞いてもらえなかったテクラは、その後に続いて仕方なく入るしかなかった。
「ふむ、自分で選んだだけあって、よく似合っているね」
紺色の外套をまとって店から出たテクラに、スタリーは満足そうに言った。
「君は、こういう落ち着いた色が好きなのか?」
「何となく、気に入って……」
今までにない、さらりとした肌触りの生地を落ち着きなく撫でながらテクラは答えた。気に入ったというのは嘘ではなかったが、この外套を選んだのは、売っている中でも一番地味で装飾もなく、値段が安そうだったからだ。領主様に高級品を買わせるのは、やはりテクラには抵抗があり、できるだけ安いもの、地味なものをと選んだ結果だった。最後は目立たない紺色を決め手にし、この外套を買うことにしたのだった。
「これでもう体調を悪くすることはなくなる」
スタリーはテクラにフードをかぶせ、その頭にぽんと手を載せた。
「若いのに、こういった目利きはできるようだね。なかなか値が張ったが、この厚くてなめらかな生地なら私も選びたくなる」
「値が張ったって、こ、これ、そんなに高いものだったんですか?」
思わぬ言葉に、テクラはあたふたしながら着ている外套を見つめた。
「一点ものだったからね。だが値段より、それがいいものかどうかのほうが重要だ」
スタリーは笑顔だったが、それを聞くテクラはしまったと言わんばかりの表情を浮かべていた。見た目が地味だから安いだろうと思ったが、必ずしもそうでないものがあることを、テクラはこの時学んだのだった。
「あの、取り替えることは……」
「なぜだ? それは君によく似合っているじゃないか」
「もっと安い外套で、私は十分――」
「だから気にすることはない。本当に君は大人のような気遣いをするね。もっと気楽に接してくれても構わないんだが」
少し呆れの混じった微笑みを見せると、スタリーは店を離れ、歩き始めた。テクラの要望は却下されたらしい。
「スタリー様」
小走りで追ったテクラが呼ぶと、その顔が振り向いた。
「ありがとうございます……」
礼を述べると、スタリーはにこりと笑みを返した。
街並みを眺めながら歩いていたテクラだが、先ほど気になったことを聞いてみることにした。
「スタリー様、さっきお会いした方ですけど……」
「テトマイエル夫人のことか?」
「はい。昔からのお知り合いなんですか? 何だか、お友達のように見えたんで」
「友達と言うほど親しくはないよ。会ったのも二、三度だ」
「そうなんですか。吸血鬼だからと恐れず、親しげに話してくれる方もいるんだと思ったんですけど……」
「私はこれでも国王陛下に任ぜられた領主だからね。あからさまに避けたり罵倒する人間は、上流社会にはまずいないよ。吸血鬼が相手でも、最低限の礼儀は皆保ってくれている。その心に何を思っていようと……。だが、夫人はそれとは少し違ってね」
「違うって、何がですか?」
聞くテクラに、スタリーは微笑を浮かべるだけだった。答えたくないのか、言えないのか――その表情から、テクラは想像力を働かせ、ある答えを閃いた。
「……もしかして、夫人はスタリー様のことを……?」
吸血鬼と人間の禁断の恋――いかにも少女らしい想像をしたテクラだったが、これにスタリーは笑いをこぼした。
「ふふっ、残念ながら夫人には、私などより愛するご主人がいる」
「じゃあ、どうして夫人はあんなに親しげに……」
恋愛感情ではないとしたら、他に何があるのか。吸血鬼への興味? それとも人懐っこい性格なだけ? あれやこれやと考えても答えは出そうになく、テクラはそれを求めてスタリーの顔を見つめた。その視線にスタリーは口を閉じたままだったが、やがて迷う素振りを見せ始めると、小さな息を吐いて言った。
「……まあ、他言しないなら、君に話してもいいだろう」
「は、話しません。絶対」
強い口調で約束すると、スタリーは口の端に笑みを残したまま話し始めた。
「夫人には昔、ある頼みごとをされてね。それは、自分の血を吸ってほしいというものだった」
テクラは目を丸くして聞き返した。
「血を? そんなことをしたら夫人は人間じゃ……」
「そう。つまり夫人は自分を吸血鬼にしてくれと頼んできたんだ。その理由はわかるか?」
テクラは首をひねる。化け物と恐れられる吸血鬼に、人間を捨ててまでなりたい者の気持ちがよくわからなかった。
「単純な理由だ。夫人は不老不死の体を手に入れたかったんだよ」
不老不死という聞き慣れない言葉に、テクラはさらに首をひねった。
「不老は老いないことで、不死は死なないこと、ですよね? 吸血鬼は老いもしなければ死なないものなんですか?」
「人間はよく勘違いをするんだ。吸血鬼は強く、姿形が変わらないことから、不老不死だと思われやすいんだが、それは違う。我々は人間のように老いれば、死もある。ただ、その時間が人間よりも長く、緩やかで、見た目には老いていないように見えるだけだ」
「それでも、夫人は吸血鬼になろうとしたんですか?」
「当初はね。私がいくら説明しても、嘘だと聞いてくれなかった。それでも粘り強く、時間をかけて説得したら、ようやく考え直してくれたよ。あの時はひどく疲れた」
「でも、どうして夫人は、そこまで不老不死を求めたんですか?」
「その数日前に、ご主人からこう言われたそうだ。「もう歳なんだ。あまり無理はするな」と。単なる労わりの言葉に過ぎなかったんだろうが、夫人はそうとらえなかった。お前は老けて、もう若くないと言われたと感じたようだ。夫人も日頃から美容には力を入れ、若々しくいようと努力をしていたそうだが、ご主人の言葉で自信を失い、一気に不安を覚えてしまったらしい。いつまでも女性として見てくれるためには、特別な方法が必要だと。それで私に頼みごとをしたというわけだ。……君には、この夫人の気持ちは理解できるか?」
聞かれてテクラは宙を睨みながら考えた。
「愛する人に女性として見てほしいというのは、何となく……。でも、吸血鬼になってまでというと、その先を想像すると、自分はやがて独りになってしまうし、そうなった時、夫人は後悔するとか思わなかったんでしょうか……」
真剣に考えるテクラを見て、スタリーは微笑んだ。
「同じ女性でも、君のように現実的だったり、盲目的に突き進んだり……人間でも吸血鬼でも、やはり女心というものは、男には永遠に理解できないのかもしれないね」
笑顔でしみじみと言うスタリーを見て、いろいろ深く聞いてみたくなったテクラだったが、相手が領主様なのを思い出し、別の質問を口にした。
「前に、吸血鬼には病がないと言われてましたけど、そうすると皆、寿命まで生きるんですか?」
「基本はそうだが、その前に死ぬ者も当然いる」
「病死がないなら、事故死、とかですか?」
「それもないことはないだろうが、ごく少数だろうね。寿命前に死ぬ理由の大体は、争いだ」
「争い? 誰とですか?」
不穏な言葉に表情を曇らせて聞くテクラに、スタリーはかすかな笑みを浮かべて答えた。
「仲間同士だったり……人間だったり」
「人間……」
うつむいたテクラは、自分が人間にとって、そういう対象なのだと思うと、複雑な気持ちを抱かずにはいられなかった。
「まあそれは大昔の話だ。最近は我々も人間について学び、余計な干渉をしなくなった。争うのはもっぱら仲間同士だけだ。あちらの世界も人間社会と同様に複雑でね。些細な喧嘩から権力争いまで、殺し合いに発展する火種はそこいらにある。だがそれでも死人は滅多に出ないが」
「人間なら大きな戦いになりそうですけど、吸血鬼の世界ではそうならないんですか?」
「もちろんなる場合もあるが、死人は出ないというだけだ。我々はどんな傷を負っても、すぐに治癒してしまうからね」
「すぐにって、どれくらいなんですか?」
これに足を止めたスタリーはテクラに体を向けると、左腕を出し、その袖をまくって肌を見せた。
「見ていてごらん」
そう言うと、出した腕におもむろに右手を載せたスタリーは、次の瞬間、自分の白い肌に思い切り爪を立てて引っかいて見せた。ギギギと音が聞こえてきそうなほど引っかかれた肌には、赤い血を滲ませた細い傷が刻まれた。痛々しい行為にテクラは表情を歪め、目をそむけたくなったが、しかし刻まれたはずの傷は次第に赤い色を薄め、その輪郭をぼやけさせていくと、まるで目の錯覚だったかのように跡形もなくなってしまった。傷を付けてからまだ五秒程度のことだった。
「これくらいの傷なら、ほんの一瞬で治ってしまうが、大怪我だと、もう少し時間はかかる」
袖を直しながらそう言うと、スタリーは再び歩き出した。
「す、すごいです……」
驚きを見せるテクラに、スタリーは笑いかけた。
「何を言っている。君にもこの治癒力は備わっているんだぞ」
「えっ、私にも?」
「吸血鬼なんだ。当然だろう。だが、私の治癒力よりは劣っているかもしれないが」
言われてテクラは自分の両手をしげしげと眺めた。目で確認できるものではなかったが、この体にそんなすごい力が備わっていると知ると、自身が不思議でたまらず、思わず体を眺め回していた。
「争っても死者が出ないのがよくわかりました。吸血鬼が不死だと思われてたのも、こういうことからなんですね。……でも、それじゃあ吸血鬼は寿命以外ではどうやって死ぬんですか? 病もなければ傷も治ってしまうんじゃ、ほとんど不死と変わらない気が……」
「生きるものには必ず、弱点というものが存在する。それは我々も例外じゃない」
確かに、動植物には様々な弱点があるだろう。水や毒などの物理的なものから、寒暖や天候など環境的なものまで、思い付くものは数あるが、それが吸血鬼となると、テクラが知っているのはただ一つ、太陽だけだった。しかし太陽の光は動きを鈍くはさせるが、死に至らしめることはない。身体的にはほぼ無敵と言える吸血鬼を、そこまで追い詰める弱点など存在するのか、テクラには疑問だった。
「吸血鬼の弱点って、一体何ですか?」
答えの想像がつかないテクラは聞いた。するとスタリーは笑みをたたえた表情で言った。
「……君の想像に任せるよ」
想像がつかないから聞いたのだが、スタリーに答える様子はなかった。元人間を警戒したのか、それとも誰にも教えてはいけないことなのか……。何だか距離を取られたようで寂しく感じたテクラだったが、それに気付いたスタリーは付け足すように言った。
「君がこの立場に慣れた頃に、教えてあげるよ」
少なくとも警戒してのことではないとわかり、テクラは寂しい気持ちから胸を撫で下ろした。
「夕方までまだある……あの店で食事でもしようか」
通りを歩きながらスタリーが一軒の料理店を指差して言った。掲げられている看板には、おいしい郷土料理と書かれていた。客もそれなりに入っていて、先ほどの高級服店よりは庶民的な雰囲気が漂っている。スタリーは食まで高級志向ではないらしい。
「いらっしゃい」
客の話し声と焼かれた肉の匂いが充満する店内で席に着くと、給仕の女性が笑顔で注文を取りに来た。二人は壁に書かれたメニューを見上げ、料理を選ぶ。
「私は、酢漬け肉のパイを。……君は?」
聞かれるが、テクラはメニューを見上げたまま、選びかねていた。どれもおいしそうで悩んでいるわけではなく、その逆で、どれも食べる気が起こらなかったのだ。そもそも空腹でもなく、食欲も湧いておらず、テクラは食事自体する気がなかった。
「私は……」
「マスのムニエルなんか、今日のは新鮮でおいしいわよ」
選ぶ料理を悩んでいると思った女性はすかさずすすめてきた。しかしテクラはそれとは言わず、困惑の表情を浮かべていた。
「……彼女は小食なものでね。数種の果物を頼む」
「はあ、そうなの……」
怪訝な顔をして女性は去っていった。それを見送り、スタリーはテクラに話しかける。
「食欲がないのはわかるが、それでも何かしら食べておいたほうがいい」
視線を向けたテクラは、まばたきをしながらスタリーを見つめた。
「どうして、私が食欲がないと……」
「私も、同じだからね」
にこりと笑ったスタリーに、テクラは首をかしげて聞いた。
「じゃあ、何で食事をするんですか?」
「吸血しない代わりだ。我々の食事は吸血に当たるが、それをしなければ栄養を取ることはできない。絶食して死ぬこともないんだが、あまりに長く何も口にしないと、まともに動けなくなる上に、血の欲求が騒ぎ出す恐れがあるんだよ。だから毎日食べろとは言わないが、時々何か食べることを癖にしたほうがいい」
「吸血鬼には、人間のような食欲はないんですか?」
「基本ない。血の欲求がそれと同じことだ」
「そうだったんですか……思えば丸一日、何も食べてないのに、まったく空腹感がなくて。それはこの腕輪のせいかと思ってましたけど、それだけじゃなかったんですね」
言ってテクラは外套の上から腕輪を撫でた。
「人間にとって食事は幸せな一時なんだろうが、我々は血の味以外は大しておいしさを感じられない。以前のような味を想像すると、その落差に驚くだろうから、少し覚悟をしたほうがいいかもしれない」
「覚悟、ですか?」
スタリーは笑顔でうなずいた。何だか大げさではと内心思っていると、テクラの前に注文した皿が運ばれてきた。そこには一口大に切られたリンゴやブドウなどの果実がまとめて盛られていた。テルノーナ村ではあまり食べることのできない、色鮮やかでみずみずしい果物達は、その見た目からして甘いおいしさを想像させたが、それを見下ろすテクラは、苦手なものでもないのに、じっと睨むように見つめるだけだった。以前なら喜んで食べただろうが、今は何も感じず、とにかく食べる気が起こらなかった。
「さあ、召し上がれ」
スタリーに促され、テクラは気が乗らないままリンゴを手づかみで口に運んだ。シャリッとやや柔らかい食感と共に、果物特有の甘さが口内に広がる――本来はそうなるはずだったが、しかしテクラの舌はまったく違う味を感じていた。
「……何か、変な味ですけど……」
口の中ではあらゆる味覚が入り混じっていた。苦味、酸味、甘味……それらが自己主張でもするように、代わる代わる前に出ては強烈な味を押し付けてくる。まるで目に付いた調味料を瓶ごと次々に放り込んだような、まったくまとまりのない味だった。
顔をしかめて咀嚼するテクラを見て、スタリーは笑いながら言った。
「我々の味覚は人間よりも繊細らしい。だから人間が口にするものは大体口に合わないんだ。だがまれに、そういう中にもおいしいと感じられるものに出会う場合がある。私が唯一そう感じるものは、バフスカ産の茶葉を使った紅茶だ。君も早くそういうものに出会えるといいね」
「それを見つけるためには、こんなまずい食事を繰り返さなきゃいけないんですね……」
「そういうことだ。まあ体のためには必要なことなんだ。次に食べるものはおいしいと信じて、食べ続けることだね」
テクラは思わず溜息を吐いた。食事は大事なことではあるが、こんな苦行めいたものでは正直続ける自信がなかった。毎日でなくてもいいようだが、食べる癖を付けるには相当時間がかかるだろうことは目に見えていた。それを想像すると嫌気が差したが、とりあえず今は目の前の皿を空にするのが目標だと、テクラは盛られた果実を一つずつ取っては、もぐもぐと我慢しながら喉の奥へ流し込むのだった。
その内スタリーの料理も運ばれ、こんがり焼けたパイにナイフを入れると、最初の一口を頬張った。テクラが視線で味を聞くと、スタリーは微笑みながら肩をすくめて見せた。自分の好きな味探しは、やはり簡単ではなさそうだった。
「……一つ聞くが、君はテオドールが毒にかかった理由を知っているか?」
共に食べ終えようとする頃、おもむろにスタリーがそう聞いてきて、テクラは顔を上げた。
「いえ、まったく……」
「最近彼が毒の類を扱っていたということは?」
「ないと思います。働いてた店でも、そういう危険なものはなかったはずですし」
「それじゃあ、見当もつかないと?」
テクラはうなずいた。
「……やはり、何者かに飲まされたのだろうか」
「えっ……兄は、誰かに殺されそうになったということですか?」
「それはまだわからないが……」
切ったパイを考えながら口に運び、それを飲み込むとスタリーは再び質問した。
「私の元に来る前、テオドールはどんな行動をしていた?」
聞かれたテクラは、当時のことを思い出しながら話した。
「えっと、あの日はいつものように、働きに行って……午後に帰ってきて、家族で夕食を食べて……あ、その後兄は珍しく出かけていったんです」
「どこへ?」
「それは聞かなかったんでわかりませんけど、約束があるとか言って……」
「誰かと会っていたのか……怪しむならその相手となるが、必ずしも他人の仕業とはまだ言えないか。彼が誤って毒を口にしてしまった可能性も消せない……」
テクラは当時の光景を振り返った。夕食後、テオドールに異変は見られなかった。少なくとも毒は出かけた後に口にしたということか。そうなるとやはり、約束して会った人物が怪しく思えてくるが……。そう言えば、兄が出かけた後に自分の体調が悪くなったのだったかとテクラは思い出した。そして、その夜に赤い目の兄がやってきて――あの時の恐ろしい感覚がよみがえり、テクラはそこで思考を止めた。
「やはり本人に聞くしかないようだな。願わくば事故によるものだといいんだが」
「どうしてですか?」
これにスタリーは微笑を浮かべた。
「私の領民の中に、毒殺犯などいてほしくないからね」
毒殺という強い言葉に、テクラは思わず息を呑んだ。それを見てスタリーはすぐに笑顔を見せた。
「さあ、食べてしまおう。太陽が傾いてきた。テトマイエル卿もお戻りになっているかもしれない」
ナイフとフォークを動かすスタリーを見ながら、テクラも残りの果実を口に入れた。やっと食べ終えた安堵を感じつつ店を出た二人は、真っすぐ領主の館へと向かった。到着する頃には、遠くの空は淡い紅に染まっていた。
領主が戻っているということで、今度はすんなり通された二人は、先ほど会った夫人のおかげなのか、手厚いもてなしを受けながら話を聞くことができた。しかし、領主はこの街でおかしな事件などは起こっておらず、またそういった報告も聞いていないという。その話から、どうやらこの辺りをテオドールが通った可能性は低いように思えた。となると、すべてを一から考え直さなければならなかった。前提として、彼は血の欲求により、人間を求めて移動していると考えたが、そうではないのかもしれない。欲求にあらがい、まだ理性を保っている状態ならば、逆に人間を避けていることもあり得た。そうなると、人の集まるこの街の方向へ来たという予想も怪しくなってきてしまう――手掛かりのないスタリーは、ここで早くも行くべき道を見失ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます