四話
晴れ渡る青空の下、涼しいそよ風に吹かれながらテクラとスタリーは、人影がまったくない街道を西へ向けて歩いていた。スタリーの読みでは、テルノーナ村以外で何も騒ぎが起こっていないことから、テオドールはすでにこの領内から出ていると考え、その場合、移動しやすく、かつ血を求めて人間の多い地域を目指すだろうと踏み、町や村が多く点在する隣のサロフス領へ向かうことにしたのだった。
「誰も、歩いてませんね」
立木と野原だけの景色を見渡しながら、髪をなびかせるテクラが言った。
「君は、領境まで来るのは初めてか?」
黒い外套姿のスタリーは、かぶったフードの下から視線を向けて聞いた。
「はい。村を出る用事は、ほとんどないので」
テクラの生活は村の中がすべてであり、たとえ外へ出たとしても、数分歩いて野花を摘むくらいで、こうして領内の端にまで来るのはこれが初めてのことだった。
「ここの領主が人間でないことは、当然誰もが知っていることだ。やむを得ない事情がない限り、この領内を通る者はまずいない。遠回りになろうとも、この地を避けて通るのが常識になっているようだ」
「スタリー様を……吸血鬼を、怖がってるということですか?」
スタリーは微笑を浮かべ、小さくうなずいて見せた。
「何だか、悲しいです。スタリー様はすごく優しい方なのに」
「ありがとう。でも、かつてはそうでない吸血鬼もいたということだ。恐怖というのは、そう簡単に消え去るものではないんだろう」
苦笑しながら言うスタリーを見つめ、テクラはふと気になったことを聞いてみた。
「スタリー様、その、吸血鬼と呼ばれて、嫌ではないんですか?」
「嫌? なぜ?」
スタリーは小首をかしげる。
「だって〝鬼〟だなんて、あんまりな呼び名だと……」
「ああ、なるほどね。確かにその呼ばれ方を好まない者もいるが、私は聞き慣れてしまったせいか、特に違和感はないよ。むしろ強そうで格好いいじゃないか」
意外な感想に、テクラは目を丸くした。
「そういう感じ方も、あるんですね」
「吸血鬼という呼び方に恐怖や人外という意味が込められていることはわかっている。だがそんなことにいちいち反発していたら、人間の世界では暮らしていけない。私にとっては些細なことだ。それよりも大事なことは他にあるからね」
微笑んだスタリーを見て、テクラも同じように笑みを見せていた。領民が吸血鬼である領主を信頼する理由が、少しだけわかった気がした。彼は自分に向けられる理不尽な目ではなく、それでも留まってくれる領民だけを見ているのだ。平和な暮らしを作るのに、個人的な感情など必要ないのだろう。スタリーの言葉からは、そんな姿勢が感じ取れた。
「スタリー様は信頼できる方だと、皆が言って――」
その時、テクラの視界の景色がゆらと揺れたかと思うと、次には体が傾き始めていた。あっと小さな声を漏らすと、すぐさま横から腕が伸び、テクラの肩を支えた。
「……めまいか?」
スタリーは心配そうにテクラの顔をのぞき込む。
「はい……すみません。体調は戻ったはずなのに」
「この陽光のせいだろう。少し木陰で休もう」
言ってスタリーは道の脇にあった大きな木の下に入った。テクラは幹に寄りかかり、雑草で覆われた地面に座り込むと、しばし目を瞑り深呼吸をした。すると体がふらつく感覚はすぐに薄れていった。
「治って、きました……」
「陽光に当たりすぎたようだな。今日は雲一つない晴天だ」
腰に手を置き、スタリーは頭上の枝葉のさらに上を見上げた。言う通り、空にはどこにも雲が見当たらなかった。その中を二羽の鳥がのどかに鳴きながら横切っていく。
「でも、こんなに涼しいし、暑さはほとんど――」
「テクラ、改めてこんなことを言うのは酷かもしれないが、君はもう人間ではなく、吸血鬼なんだ。体が受ける影響や感覚は、今までとまったく変わってしまう。人間には気持ちのいい陽光も、我々にとってはそうでなくなってしまうんだよ」
吸血鬼が太陽の光を嫌うことは誰もが知っていることだった。その立場に自分が変わったのだと言われると、テクラは意識を変えられずにいる自分に気付かされ、そして若干の不安を覚えた。
「そう、でした。私はもう人間じゃ……」
「そんな顔をすることはない。確かに我々は陽光を苦手とするが、その下を歩き続けたとしても、君のようにめまいが起きたり、動きが鈍くなるだけで、命に関わることはまずない。日陰を選んで歩けば何も問題はないよ。……そうだな、君にもフードの付いた外套が必要だ。どこかで買えればいいが、それまでは私のものを着ているといい」
黒い外套を脱ごうとするスタリーだったが、テクラはそれをすぐに止めた。
「着ててください。私は平気ですから」
「そういうわけには――」
「日陰を歩けば済むなら、お借りする必要はありません。それに、私が着たら裾を引きずってしまいそうですし」
二人の背丈は頭一つ分ほど違い、テクラより外套のほうが大分大きかった。
「そんなことより、君の体のほうが――」
「とにかくスタリー様が着ててください。歩いてれば、日もすぐに暮れてきます」
頑なに断るテクラに、スタリーは困り顔になりながらも、ふっと笑いをこぼした。
「君は若いのに、歳を重ねた人間のような振る舞いをするね」
「何か、おかしいですか?」
「いや……とりあえず、君の意思は尊重するが、またふらつくようなことがあれば、その時は素直に着てもらうぞ」
「そうならないように、気を付けます」
立ち上がったテクラはその言葉の通り、道の真ん中ではなく、脇に立ち並ぶ木々の下を選んで歩き始めた。その姿を見守りながら、スタリーも静かに歩き進む。
ブランディス領から目的のサロフス領に入ったのは、空が美しい茜色に染まった頃だった。日が落ち始めれば影を歩く必要もなく、テクラは道の真ん中を堂々と歩いた。その歩みは昼間よりも明らかに速い。
「調子が出てきたようだね」
横に並ぶスタリーが言った。
「めまいを起こしたのが嘘みたいです。全身に元気が戻った感じで」
「吸血鬼にとっては、これからが活動時間帯だ。体がそれをわかっているんだろう」
「私も、夜行性になったんですね」
「夜行性というよりは、太陽の影響がなくなり、行動しやすくなっただけと思えばいい。夜だからと言って無理に意識することも、行動を変えることもない」
自分が吸血鬼に変わったことを無駄に意識してしまいそうなテクラには、何もかも変わる必要はないと言われたようで、少しだけ安堵した。
「スタリー様は、夜に起きてるんですか?」
「そういう日も、眠っている日もある。時々だ」
「他の吸血鬼もそうなんですか?」
「どうだろうな……少なくとも、あちらにいる吸血鬼は、昼間に行動することはないはずだ」
「あちら……?」
首をかしげたテクラに、スタリーは口の端を上げて言った。
「吸血鬼の世界だ。……明かりがあるな」
視線を前へ戻すと、前方に窓から煌々と明かりが漏れる大きな家が見えた。ここまで木と野原しかない変わり映えのしない景色が続いていたが、やっと人の気配を感じるものを見つけて、テクラは胸を撫で下ろした。
「この辺りには誰もいないのかと思ったけど、よかった。話が聞けそうですね」
「ああ。行ってみよう」
二人は暗くなり始めた道から明るい建物へと足早に向かっていった。
きしむ扉を開けると、中にはカウンターといくつもの机と椅子が並び、そこで四人の男達がジョッキで酒を飲んでいる姿があった。どうやらここは酒場らしい。スタリーはとりあえず、カウンターの中に立つ主人らしき男性の元へ向かった。
「旅人か? 宿泊?」
丸眼鏡の主人はパイプを吸いながら聞いてきた。ここは宿屋も営んでいるらしい。
「聞きたいんだが、最近この辺りで妙な若者を見たり、出来事を見聞きしていないか」
聞くと、主人は眼鏡の奥の目を不審なものに変えて見つめてくる。
「妙なって、具体的には?」
「そうだな、たとえば……見知らぬ男性に襲われて、噛まれたとか」
「噛む? そりゃ妙だ」
主人は鼻で笑い、パイプを吹かした。
「では、昨日か今日、ここに若い男性は立ち寄らなかったか」
「昨日も今日も、ここに来たのはそこで酒を飲んでる四人だけだよ」
顎でしゃくり、主人は男性達を示した。スタリーが振り向くと、話が聞こえたのか、男性達もスタリーを見ていた。
「そうか、ありがとう」
「酒くらい飲んでいったらどうだ」
踵を返そうとしたスタリーに主人が言った。
「悪いが、連れがいるんでね。酒以外のものはあるか?」
「つまみならあるよ」
「ではそれを」
注文を受けて主人は準備を始める。その間にスタリーとテクラは空いている席に着いた。
「ここには立ち寄っていないようだ。……少し休憩していこう。歩き通しだったからね」
テクラはうなずき、注文したものを待ちながら、物珍しげに酒場内を見渡した。木造で、やや古びた印象の、広さも見た目も至って普通の酒場ではあったが、テルノーナ村にこういった店はなく、初めて入った酒場という場所に、テクラは大人の世界を垣間見ているような気分を感じていた。
「あんたら、どこから来たんだい」
その時、酒を飲む四人組の一人が隣から話しかけてきた。
「商人には見えないしなあ、どこかへ旅でもしてんのかい」
別の男性も笑顔で聞いてきた。酒が入っているせいか、皆上機嫌な表情を見せている。
「旅ではなく、人捜しを。あなた方は?」
スタリーが聞くと、四人はさらに笑顔を見せた。
「俺らは皆商売をしててね」
「今はその帰りだ」
「上手くいった商談に、ささやかな祝杯をあげてたってわけだ」
「ここで売上、全部使っちまいそうだがな」
だははっと四人は笑い声を上げた。それを見てテクラも思わず笑顔になりそうだった。
「……それで、あんたらはどこから?」
「言うほどの場所では……」
「何だよ、もったいぶるこたあないだろ」
「田舎出がばれるのが恥ずかしいんなら、大丈夫だ。俺らも全員田舎もんだからよ」
「それとも、言えないくらい、すんごい出だったりして?」
「それだったらお近付きにならないとなあ」
冗談を言いながら四人は勝手に盛り上がるが、スタリーはその様子を静かに見つめていた。
「はい、どうぞ」
すると、主人が注文したつまみを持ってきた。皿には切ったチーズや数種類の木の実が載っていた。
「言ってみなよ。それおごってやるからさ」
どうしても聞きたい男性は、隣の席から身を乗り出すように言ってきた。それを見てスタリーは仕方なさそうに男性に目を向けた。
「あなた方が言う通り、田舎の出ですよ」
「ほお、どこの田舎だ?」
「ブランディスです」
「ブランディ……」
そう言いかけて、男性の声は止まった。
「ブランディスって、あの『吸血鬼の谷』か?」
別の男性が驚いた顔で、だがどこか嫌悪を感じる口調で言った。
「そうですが、何か?」
気に留めない態度のスタリーだったが、男性達の表情と様子は明らかに変わっていた。
「あそこは吸血鬼が治めてんだろ? よくそんなところに住んでられるなあ」
「まったくだ。あそこの領民は吸血鬼の家畜だって聞いてるぞ」
「か、家畜って……どういう意味ですか、それ」
事実とかけ離れた言葉に、テクラは思わず聞き返していた。
「どうも何も、吸血鬼の領主が自分のエサのために、住民を囲ってるっていうじゃねえか。嬢ちゃんもそのうち、血を吸われちまうんじゃねえか?」
「そんなことは絶対にありません。それと、私は嬢ちゃんと呼ばれるような歳じゃありませんから」
そんな反論をするテクラに、男性達は笑って返す。
「おお、そりゃ悪かったな。じゃあお譲さん、まだ命があるうちに早く引越したほうがいいと思うがな」
「同感だ。『吸血鬼の谷』に関しては、悪い噂しか聞こえてこない」
「ほお、どんな噂ですか?」
微笑を浮かべながら、まるで他人事のようにスタリーが聞いた。
「俺が聞いたのは、一年に一度、領主が仲間を集めて、住民達の血を吸い尽くす宴を開いてるって話だ」
「俺が昔聞いたのは、吸血鬼に変えた領民をしもべにして、近隣の村や町から人間をさらわせてる話だ。これは友人の遠い親戚が被害に遭ったらしいから、信憑性は高いぞ」
「へえ、そうなのか。俺の聞いた噂は――」
男性達は自分が聞いた噂を競うように披露する。しかしその内容はすべて、人間が抱く吸血鬼の印象をそのまま話にしただけの、ありもしない作り話だった。領民の一人として暮らすテクラにしてみれば、こんなでたらめな噂を一体誰が信じるのだろうかと思えたが、スタリーのことを何も知らない人間はあり得ない話でも、ただ吸血鬼だからというだけで信じ込んでしまうようだった。そんな浅はかな男性達の話に、テクラは苛立ちを隠せなかった。
「――で、一家全員、血を吸われたんだとか」
「うわ、恐ろしい話だな、そりゃ。……お譲さんの家族もそうならないとは限らないぞ」
「その通りだ。吸血鬼なんか俺達人間をエサとしか見てないんだからよ。早いとこ逃げたほうがいいんじゃねえか?」
たまりかねたテクラは、すっくと椅子から立ち上がると、ほろ酔いの男性達を睨むように見回した。
「私達のことを何も知らないのに、嘘ばかり言わないでください」
「テクラ、落ち着いて」
スタリーはすぐに声をかけたが、テクラは聞かなかった。
「スタリー様は私達領民のことを大事にしてくれてます。助けることはあっても、誰かを襲ったりなんてしませんから」
突然声を荒らげた少女に、男性達は少しまごつくも、苦笑しながら言った。
「あんたらを悪く言うつもりはないんだ。ただ領主が吸血鬼ってのは――」
「それの何が悪いんですか? 平和に暮らせてるのは領主様のおかげです。無責任な噂話を広めないでください」
「俺らの話が根も葉もない、くだらない噂だっていうのか」
「そうです。だから今後は――」
「あんたがそう言いたいだけだろ? ……皆、気付いてるか? 女の目の色」
一人の男性の指摘に、他の三人がテクラの目を凝視した。それにはっとして顔をそむけたテクラだったが、すでに遅かった。
「赤い……赤い目だ。まさか……」
酒の席の空気は一変し、男性達は急にぴりつき始めた。
「きゅ、吸血鬼、だったのか」
「やっぱり、ブランディスの人間は、吸血鬼に変えられちまうんだよ」
「違います! 私は領主様に――」
「うう動くな! 近付くんじゃねえ!」
テクラが口を開いただけで、男性達は椅子から跳ねるように遠ざかった。
「な、何もしません。話を聞いて――」
「化け物が! さっさと出ていけ!」
怯えた男性が手元のジョッキをテクラ目がけて投げ付けてきた。中に残っていた酒をこぼしながら、それは顔に向かってくる。避けきれないと咄嗟に両手で顔をかばったテクラだったが、その手にぶつかったのは、冷たい酒の飛沫だけだった。
「……領主様」
恐る恐る手を下ろすと、ジョッキはテクラの寸前、スタリーの片手で受け止められていた。
「おい、領主様って……あんた、まさかブランディスの……」
「テクラ、呼び方が戻っているぞ」
「あっ、す、すみません。つい……」
謝るテクラをいちべつすると、スタリーは男性達に歩み寄り、ジョッキを机に戻した。そして正面に立つ男性をじっと見つめて言った。
「ひどい噂は聞き流すとしても、私の連れに物を投げ付ける行為は見逃せない。一言、謝ってもらいたい」
詰め寄られた男性は引きつった表情でスタリーを睨み付けた。
「吸血鬼なんかに、何で、謝る必要が――」
その瞬間、胸ぐらをつかんだスタリーは、男性の体を片手で軽々と持ち上げた。天井からぶら下がるランプに、男性の頭がこつんと当たり、辺りの影を揺らした。
「彼女があなた方に何をした? 何も落ち度はなかったはずだ。吸血鬼だからというだけで物を投げるなど、あまりに理不尽だと思うが……?」
「……うぐ……そ、その、通りで、す……」
男性は小さな声で絞り出すように言った。
「よく聞こえないが、他にも言うことはあるだろう」
「……ご、ごめ、ごめんなさ、い……」
顔色が悪くなってきた男性を見て、スタリーはゆっくりと体を下ろしてやる。呼吸ができなかったのか、男性は床にへたり込み、すーはーと空気をむさぼった。
「もう行こうか」
「はい……」
テクラにそう声をかけると、スタリーはカウンターの主人の元へ行く。
「代金はこれで足りるか?」
懐の財布から銅貨を数枚出すと、それを置いた。
「あ、ああ……」
主人はパイプ片手に呆然としながらスタリーを見送った。
「あれが、ブランディスの吸血鬼――」
背後のささやきにスタリーが振り返ると、男性達はびくっと震え、じりじりと後ずさりした。そんな様子に微笑を残し、スタリーはテクラと共に酒場を後にした。
「……本当に、すみませんでした」
木々に囲まれた真っ暗な道を歩きながら、テクラはぼそりと言った。
「ああいう類の話は、なるべく聞き流したほうがいい」
「そうなんですけど、あまりにひどくて、我慢できなくて……。スタリー様のことを何も知らないくせに、何であんなでたらめを……」
「よくわかっただろう。あれが吸血鬼に対する一般的な印象だ。私が何をしようとしまいと、それは変わらない」
「スタリー様は、悔しくないんですか?」
「悔しくないと言えば嘘だが、人間の意識を変えるなど、私一人でどうにかできることではないしね。今は諦めているよ」
スタリーは寂しげな笑顔を見せて言った。
「他の人がどんなに悪く言おうと、私達ブランディスに住む者は、ずっとスタリー様の味方です。それだけは絶対に忘れないでください」
「ああ、ありがとう」
スタリーの微笑みに、テクラも笑って返した。
「それにしても、スタリー様は力持ちなんですね。大人の男の人を片手で持ち上げられるなんて」
「君にもできることだよ」
「そんな、無理です。私の力はあんなに――」
「では、そこの朽木を持ち上げてごらん」
道の脇に転がっていた倒木を示し、スタリーは言った。苔に覆われた木は朽ちてぼろぼろで、中は虫に食われて穴が開いていたが、両腕では抱えられないほど太く、男性でも引きずるのがやっとのように思えた。それを女性が、しかも持ち上げるというのは、どう考えても無理としか思えなかった。
「できるわけ、ありません」
「やらずにできないという前に、やってみたらどうだ?」
さあ、と急かされるような視線に背中を押され、テクラは半信半疑で倒木の前に立った。折れた断面に触れると、木は飴細工のように砕け、破片となって落ちていく。これでは手をかけるのも難しそうだったが、どうにか頑丈な部分を見つけ、両手でつかんだテクラは、できっこないと思いつつ手に力を込めて持ち上げてみた。すると、みしっと音を立てた木は、枯れ草や土を落としながらあっさりと地面から離れた。あまりに実感のなかったテクラは、まばたきをしたまま手を止めていた。
「……スタリー様、持ち上がりました」
「次は片手を離してみて」
それはさすがに無理だと目で訴えるが、スタリーは微笑を浮かべ、見守るだけだった。仕方なくテクラはゆっくりと左手を木から離してみる。だが、支えている右手には重さが増した感覚は微塵もなかった。この不可思議な現象に、テクラはただただ驚くしかなかった。
「これは、どういうことなんですか……?」
「単純なことだよ。君の腕力が強くなっただけのことだ」
「力が? 一体どうして……」
「あまり知られていないが、吸血鬼の身体能力は人間のものを遥かに超える。腕力を始め、敏捷性、跳躍力など、人間からすれば〝化け物〟並みの能力を備えている。それは元人間の君も同じことだ。だから、今まで無理だと思っていたことも、こんなふうに簡単にできるというわけだ」
そう言うとスタリーは、テクラの持ち上げていた木の下に人差し指を添えると、そのまま軽々と持ち上げて見せる。そして垂直に立たせた木をつんと押して倒した。どすんという大きな音と振動がテクラの足下から伝わってくる。
「さっきのように、我々が吸血鬼だとわかった途端、拒絶し、暴力を振るおうとする人間もいる。そうなる前にその場を去るのが最善だが、運悪くそんな状況になってしまったら、こちらが勝る力を見せ付けるといい。大抵の人間は怯み、逃げていくからね。だが、加減を誤れば人間は簡単に死んでしまう。あまり感情的にならず、抑制することを心がけるんだ。いいね?」
「はい、わかりました……スタリー様は、だから呼び方を変えさせたんですね。人間と、余計なもめごとを起こさないために」
「そういうことだ。そんなことで時間を使いたくないんでね。君も今後は注意してくれ」
「気を付けます……」
再び歩き出したテクラは、その胸に父と母の亡骸を思い出していた。ベッドに運んだ時の異常な軽さ。あれはすでに自分が人間でなくなったことの証拠だったのだ。まったく知らない、人間でない自分。吸血鬼になり、同じ立場だった人間からうとまれ、怖がられる側に変わってしまった自分。そして、それを受け入れきれない自分――見知らぬ新たな自分は、元の自分を迷子にさせるようで、テクラは人間でなくなったそんな己に、わずかに恐れを感じるのだった。
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