第8話 擬態

 ホワイトとルミルは、武装警察がいる場所から離れた広場でドローンを降りた。ドローンは近くのアパートの屋根の上に隠し、歩いて現場に向かう。


「何があったのですか?」


 ホワイトは野次馬たちに声をかけた。


「さあ?」「落書きした奴がいるらしいぞ」「殺人犯がいると聞いたぞ」


 彼らが正確な情報を持っているはずがなかった。するとルミルが若い警察官を探して声をかけた。


「ねえ、お巡りさん……」


「民間人は下がって……」


 彼は相手にしなかったが、ルミルがSET社の社長令嬢だと証明するデジタルデータを示すと態度が豹変した。


「……不法入国者がいるというので包囲しているのです。お嬢さん、危険ですから近づかないでください」


「あのアパートの中にいるの?」


「そうです。親子で潜伏しているようです」


「警官隊は、見ているだけなの?」


 彼が苦々しげな表情を作った。


「しばらく手を出すなという命令なのです。今、投降を促すネゴシエーターがこちらに向かっているところです」


 情報を得ると、ホワイトはルミルを連れて人ごみを離れた。


「私のせいだ……」


 ルミルが後悔に打ちひしがれていた。


「……ゼット、私のために捕まってしまうわ。ホワイト先生、なんとかならないかしら?」


 彼女のうるんだ瞳に見つめられると、ホワイトの胸まで痛んだ。


「仕方がありませんね。それほど心配ならば助け出しましょう」


「できるのね」


 彼女の顔がパッと晴れた。


 不法移民を守ることなどSET社の権力を利用すれば簡単なことだと思ったが、それではルミルが納得しないだろう。


「ルミル、お金を持っている?」


 ホワイトは自分のバッグから現金を取り出した。硬貨や小額紙幣も入れれば10万円と少しあった。それをルミルの手に乗せると、彼女が首を傾げた。


「お金が要るなら大丈夫よ。クレジットチップがあるから1千万ぐらいなら……」


 ホワイトは彼女の唇に指を当てて制した。


「ゼット救出作戦は、古代中国の三国志にもある古典的なものなの。クレジットや電子マネーではダメ。現金を持っているなら、ルミルも出して」


「三国志? なんだか分からないけど、わくわくするわ」


 ルミルが気色を浮かべ、ポシェットを探った。


「あー、ダメだ。この前ジェイにあげてしまったから……」


「ジェイ?」


「スラム街のギャングよ。赤い髪なの……」


 彼女がなおも話を続けようとするので制した。


「時間がないわ。……これから見ることもやることも、誰にも話してはいけませんよ」


 そう釘を刺してホワイトは物陰に隠れて衣服を脱ぎ始めた。


§


「先生、何をするの?」


 ルミルは驚いた。スラム街の真ん中で洋服を脱ぐなんて信じられない。


 洋服を脱いだホワイトが、皮膚の切れ込みの中に手を入れてジェル状のパッドを取り出した。それまで豊満に見えた乳房が平らになった。


「すごい。上げ底!」


 声をあげると彼女ににらまれた。


 ホワイトが脱いだ洋服をたたんでパッドを取り出した胸元に押し込んだ。それで彼女が裸ではないと思った。全身タイツなのかもしれない。その証拠に胸には乳首がないし、腹にはヘソもない。


 しかし、首周りや袖口、腰回りにも身体とアンダーウエアとの境目が見当たらず、洋服を押し込んだ場所もよく判別できなかった。


「これは入らないから持っていてちょうだい」


 指し出された靴を受け取った。


「ホワイト先生のアンダーウエアは素敵ね。体に完全にフィットしている」


「アンダーウエアではないのですよ」


 言ったかと思うと、突然、ルミルの目の前からホワイトの姿が消えた。


「え?」


 ルミルは顔に手をやり、眼をこする。その手を、ホワイトの冷たい手が握った。ルミルの筋肉が硬直した。


「私よ。安心して」


 姿が見えなくても、声はいつもの優しいホワイトのものだった。


「透明人間なの?」


「違うわ。擬態ぎたいよ。身体に背景を映しているだけ。カメレオンみたいなものよ」


「すごい!」


「すごくはないのよ。足元を見てごらんなさい」


 地面には2人分の影がある。


「影までは誤魔化せないのよ。おそらく、大空洞の幽霊の正体はゼットの擬態だと思う。屋内なら影は目立たないから。そんなことより急ぎましょう。万が一にも、ゼットが破れかぶれになって飛び出したら大変だわ。死者が出るかも。……ルミル、私の言ったとおりにするのよ」


 ヒソヒソと、ホワイトが計画を話した。ルミルがやるのは簡単なことだった。


「わかったわ」


 途端、ホワイトの気配が消えた。


§


 擬態を使って環境に溶け込んだホワイトは、建物の陰を選んでゼットのアパートに向かった。警察のヒューマノイドが出動しているので助け出せる確信はなかったが、成功する可能性は十分にあると計算していた。


 通りを渡ればゼットのアパートにたどり着くという場所で空を見上げた。指示したとおりルミルのドローンが野次馬の上空に浮かんでいる。


 今よ!……心で念じた。


 それが届いたのか、ドローンがゆっくりと動き出す。預けた現金をまきながら、警察官が包囲するアパートに向かって……。


 ――チャリン――


 最初は、硬貨が地面で跳ねる金属音に野次馬が気づいた。それから紙幣が木の葉のように宙を舞うのを目の当たりにした。


「金だ!」


 スラム街の住人達が多くはない紙幣と硬貨を奪い合い、武装警官隊の規制線を突破した。アパート周辺は大混乱に陥り、ヒューマノイドのセンサーも精度が落ちた。その混乱を利用し、ホワイトはゼットの部屋のバルコニーに移動した。


 ――コンコン……、窓ガラスを軽くたたく。すると閉じられていたカーテンが割れて真黒な瞳が現れた。


「ゼットとお母様。あなたたちなら私が見えるでしょ」


 彼らがファントムだという確信のもとに声をかける。カーテンの隙間にある目が二度三度と瞬きすると、窓が静かに開いた。


「姿を消してついてきてください」


 ささやくと、全てを悟ったゼット親子がベランダに出てくる。


「あなたは?」


 ゼットの母親が訊いた。アパートの周囲は金を奪い合う住人と、それを沈めようとする武装警察官たちのわめき声で祭りのようだった。


「それは後程。とにかく、安全な場所へ」


 ファントムの身体能力からすれば、ベランダの手すりを乗り越えることも地面に飛び降りることも難しいことではない。3人はバルコニーの手すりに上がると猫のように4軒隣のベランダに移動し、そこから平屋の物置の屋根に飛び移った。


「ン?……」


 視覚に頼る警官は、ホワイトたちの気配を感じても周囲を一瞥しただけで、捜索活動には移らなかった。


 3人はスラム街のはずれに無事たどり着く。ホワイトは胸の袋から衣類を出して身に着けたが、ゼットと母親はあたかも衣類を着ているように、肉体の表皮を衣類に似せた。


「お疲れ様」


 警察を振り切って来たルミル。彼女は意味ありげにゼットを見つめた。


 2人の間に何があったのか、もちろん、彼が杏里を殺そうとしたことは聞いていたが、詳しいことはわからない。ただ、ルミルが少女らしい憧れの気持ちをゼットに抱いていることはわかった。


「ルミル、これからどうするつもり?」


 ホワイトが問うとルミルが首を傾げた。


「ご迷惑をかけて申し訳ありません。レディー・ミラといいます」


 ゼットの母親が改めて礼を言った。


「彼女が助けたいといったのです」


 眼でルミルを指すと、ミラが改めて頭を下げた。


「本宮ルミルです」


 ルミルが名乗るとミラの表情がゆがんだ。しかし、ルミルが手を差し伸べると躊躇ためらいなくその手を握った。


「湯川ホワイトです」


 ホワイトが手を差しだすと、ミラが眼を細めた。


「助けてくれてありがとう」


 ミラは、いきなりホワイトを抱きしめた。その目には涙が浮かんでいる。ホワイトは戸惑い、しばらくされるがままにしていた。


「早くこの場を離れましょう」


 ミラの身体をそっと押して距離を取った。


「そうですね。私ったら、はずかしい」


 ミラが目尻の涙をふいた。


 結局、ルミルには何の計画もないというので、ホワイトは彼らを自分の家に連れて行くことにした。


「ゼットとお母さんも擬態が使えるんですね。うらやましいわ」


 タクシーの中で、ルミルはのんきな声を上げた。


「所詮、人の目を誤魔化すだけの目くらましです。ヒューマノイドのセンサーからは逃げられません」


「でも、今日は逃げられたじゃないですか」


「人が入り乱れていましたから。お金をばらまいてくれたルミルさんのおかげです」


 おだてられたルミルが喜んだ。


 タクシーは20分ほどでホワイトの家に着いた。それは3階建てだがルミルの家ほど大きくない。


「ご家族の方は?」


 招き入れられたミラは、まるでホワイトの暮らしぶりを探るように、3階まである玄関ホールの吹き抜けを見上げた。


「母は研究者で、大学の研究所に泊まることが多いのです。明日まで帰らないはずです。父親はいません。ずっと母娘だけの2人暮らしです。なんの気兼ねも要りませんから、ゆっくり休んでください」


「大学の研究者というのは、儲かる仕事なんだな」


 ゼットの率直な感想は嫌味に聞こえた。


「ゼット、失礼ですよ。ホワイトさんが良くしてくださっているのに」


 ゼットがそっぽを向いた。母親の態度が卑屈に感じられているのだろう。


 階段を上った3階のホールに、何の変哲もない緑の森の大きな写真パネルが飾ってある。その樹木は、大空洞の入り口近くに一本だけ立っているものと同じ葉を茂らせていた。


「これは?」


 ゼットが森の写真に目を止めた。


「オーヴァルの森よ。昔のサハラ砂漠。母と視察に行ったときに撮影したの。美しいでしょ。……その木のおかげで地球の温暖化ガスの濃度は低下しつつあるし、核兵器や化学兵器が使われた大地もよみがえりのきざしを見せているわ」


 ホワイトはゼット親子を自分の部屋に招き入れた。3階の全フロアを占めている部屋は高級マンションのような内装で、中央の大きなローテーブルを囲むように4人掛けのソファーが3つ並んでいる。部屋の奥にはキッチンもあった。


「先生の部屋はいつもきれいにしてあるのね。マンションのモデルルームみたい」


 ルミルがホワイトの部屋に入るのは4度目で、以前も同じことを言っている。


「ルミルはモデルルームなんて見たこともないでしょ。あなたの家の方がよっぽど立派だもの」


 ホワイトは笑った。


「立派過ぎて、なんだか気おくれしてしまいます」


 ミラが感心しながら広い部屋を見回し、興味深そうに調度品に目をやった。サイドボード上にホワイトと母親の麗子れいこが写ったフォトフレームを見つけた時には溜息をついた。


「遠慮はいりません。どうぞ、好きな場所にかけて休んでください」


 客にソファーをすすめ、彼女はキッチンに入った。紅茶を淹れながら、これからどうすべきか考えた。


§


 ゼットが一番奥のソファーの端に掛け、一つ離れた席にミラが座った。


 ルミルはゼットの斜め前のソファーに座ると、ゼット親子に謝った。


「私の不注意のために迷惑をかけて、ごめんなさい」


 ミラが少し驚いた表情を作った。ゼットは表情を変えなかった。


「私の方こそ謝罪しなければならないのです。ゼットが、あなたのお母さまを刺そうとしたそうですね。大変なことをしました。申し訳ありません」


 ミラが深く頭を下げると、ゼットが顔をゆがめた。


「教えてください。ママがゼットの敵というのは、どういうことなのですか?」


 ルミルは率直にたずねた。


 ミラが表情を曇らせる。が、すぐに何かを決意したようにルミルを刺すように見つめた。


「話さなければならないでしょうね。……ゼットは、あの廃墟がオーヴァルと人類の戦いのあった場所だと聞いて、そして、初等教育の歴史で、先住者である人類が侵略者の異種族と戦った末に受け入れた。そう学んで誤解しているのです」


 彼女は大きく息を吸い、「長い話になります……」と言葉を継いだ。


「……私は、スピリトゥスという者に創られたキマイラなのです」


 記憶を整理するためだろう。ミラは窓の外に広がる高級住宅街に視線を移し、再び深呼吸した。


「キマイラって?」


 驚いたのはルミルだけだった。ゼットもホワイトも、それが何なのかを知っている。


「頭はライオン、身体が山羊、尻尾が蛇。……ギリシャ神話に登場するバケモノだよ」


 ゼットが投げ捨てるように言った。


「ゼット、それじゃ理解できないでしょう」


 ミラが指摘して説明しなおす。


「遺伝子操作によって創られた人工生命体をキメラやキマイラと称することが多いのです」


「はぁ……」まぁ、異種族ということね。……ルミルはそう納得した。


「人口が120億に達し、地球環境が悪化した時代、それはほんの数十年前のことですが、と呼ばれていす。人類の発展が限界に達した時代ということです。……人が富に食料に、そしてエネルギーを求めて日々の生活が振り回されたように、国家も経済と環境問題、国家間の格差問題に振り回されていました。富を独占する僅かな人々が、貧しい者の命にも世界の行く末にも強い影響を及ぼし、一部の国家の肥大化した経済が発展途上国を圧迫していたのです。……今でもそうですが、科学技術の進歩は大国や大資本にとって有利です。そんな社会の中で、小さな国家、遅れた国家は悲惨です。まして個人は……。希望を失った人々は自殺やテロに走り、貧しい地域では紛争が絶えなかった。地球環境も悪化の一途をたどっていました……」


 ミラの話に、うわー、社会科学の勉強みたいだ、とルミルは吐息をついた。

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