19 失

「玄関の外だな! 少なくともベランダの方向ではない」

「そうですね。わたしもそう感じます」

 ぼくと山下理緒菜は玄関に向かう。玄関に向かって靴を履いて廊下に出る。集合住宅十六階の廊下に出る。ぼくたち二人の他に人影はない。そして思わず玄関前の手摺から首を乗り出して、コの字型をした集合住宅の、そのコの字の空白部分に当たる場所の下を覗くがそこに怪物はいない。そこに見えるのは三階までが店舗になった集合住宅の僅かに蒲鉾型をしている店舗の屋根だ。昨日の雨を反映して黒く湿ったように見える店舗の屋根が、そこには広がるばかり。

「向こうだな。内階段の方だ」

 そう言ってぼくは内階段に向かい、普段は開錠されてはいるが閉められている非常用内階段の扉を開ける。何もいない。しかし気配は濃厚にある。

「何故いない? こんなに酷い吐き気がするのに……」

 ぼくと山下理緒菜が息を合わせたように非常用内階段に一緒に足を踏み入れる。すると――

「先輩?」

「ああ、ここはここじゃない?」

 ぼくと山下理緒菜が集合住宅の非常用内階段に一歩足を踏み入れた途端、非常用内階段は消失している。コンクリートブロックに囲まれた、閉所恐怖症患者でなくても数回昇降すると息が詰まってしまうような集合住宅の内階段は消失している。目の前にあるのは赤い闇だ。形容としては矛盾するが、そうとしか表現のしようのない赤くて濃厚で粘ついた闇。その赤い闇が無限の彼方まで広がって、その遥か向こうにプルプルと蠢く何物かがいる。この世界のもので喩えれば巨大なゼリーのような赤く蠕動する怪物がいる。身の丈優に数メートルを超える怪物がいる。

「ここは怪物の論理の空間なのか? 己をぼくたちの世界の論理から守るための? それともぼくたちの常識を超えた何処かなのだろうか?」

「先輩、怪物が近づいてきます」

 山下理緒菜に指摘されてぼくが彼女の指差す方向に目を向けると、さっきまで確かに怪物のいた辺りに怪物の姿はない。その代わりにぼくたち二人の僅か数メートル先に怪物がいる。この世界の物理法則を無視した怪物の移動。この世界の一般常識を嘲笑うかのような怪物の行動様式。

「くそっ、胸が悪い!」

 思わずぼくはそう叫んでしまう。ついで背骨をゆっくりと触られたときのようなぞわぞわとした感覚がぼくたちを襲う。ぼくたちを襲って、ぼくたちの何かを探ってくる。あるいはぼくたちの何かを摂食している。けれどもぼくたち二人と怪物との距離は変わらない。怪物が直接ぼくたち二人に接触しているのではない。怪物の論理あるいは非論理に従うぼくたちの目には見えない怪物の舌がぼくたちをジョリジョリと舐めているのだ。

「先輩!」

「ああ、とても良い気分とはいえないな」

 ぼくがそう山下理緒菜に答える間にも怪物の不可視の舌はぼくたち二人の人間の論理をジョリジョリ・ジョリジョリと舐めている。ぼくたち二人の淡い恋心をジョリジョリ・ジョリジョリと舐めている。それでぼくは思わず怪物に向かって叫びだしてしまう。

「いいだろう、怪物よ! いくらでも味わいが良い。ぼくたち二人の人間性をいくらでも味わうが良いさ。ぼくたち二人が抱え込んだ様々な思いを味わうが良い。だが、おまえがいくらそれを自分の中に取り込んだところで、ぼくたち二人の心の中からその想いは消えはしない。いくらおまえがおまえの論理でぼくたち二人の人間性を改変しようと思っても、ぼくたち二人の人間性は変わらない!」

 怪物を睨みつけながら、そこまでを一気に叫ぶと、次にぼくは怪物について前から疑問に思っていたことを叫んでいる。

「だが何故だ、怪物よ? 何故おまえはぼくたち二人に執着する? この前おまえと出会った航空機の事故現場でも、また今回にしても、おまえはぼくたちのわずか数メートル先に姿を現しながら、ぼくたち二人を自分の中に取り込もうとはしていない。ぼくにはその意味がわからない。ぼくには、おまえのその行動が理解できない。だから怪物よ、もしもおまえの行動に意味があるならば、ぼくたち二人にその意味を教えてくれ!」

 だが怪物の動きに変化はない。相変わらず架空の舌でぼくたち二人の何かを味わっているだけだ。だから怪物にいまのぼくの言葉が届いたかどうかはわからない。怪物がいまのぼくの言葉を理解したかどうかはわからない。と、そのとき――

「おお、ここは一体?」

 ぼくでも山下理緒菜でもない第三者の声が背後から聞こえてくる。思わず後ろを振り返ると背の高い男のシルエットが見て取れる。男のシルエットは見て取れるが、粘つく赤い闇のせいでその表情までは読み取れない。

「ミスター・上原、ミス・山下、お二人ともご無事ですか?」

 そう声をかけてきたところから判断すれば、その背の高い男がアメリカ軍関係者なのは間違いないだろう。だから、ぼくは答えている。

「ああ、気分が優れない以外は特に危害を加えられてはいない。ぼくも彼女も大丈夫だ」そう簡潔に答えてから急いで一言を付け加える。「少なくとも、いまのところはだが……」

「驚きましたね。そんなに怪物の近くにいて怖ろしくないんですか?」

 アメリカ軍関係者の背の高い男が僅かに南部訛りの混じるある英語でぼくにそう尋ねるものだから、ぼくは反射的にこう答えている。

「ああ、怖くはないよ。それに不思議だな。おそらくあいつに家族を殺されているはずなのに憎しみもない。だがもしかしたら、それはこの赤い闇のせいなのかもしれないが?」

 最後の言葉は自問だったが、それとは関係なく背の高い男がぼくたちに告げる。

「とりあえずお二人のご無事は確認しました。しかしわたしにはあなた方お二人の命を守るという任務があります。なので、これから怪物を威嚇射撃します。ですから念のため、その場でしゃがんで頭を下げてください」

 そう説明する男の方に目をやると、男のシルエットが、本来男が持っていた姿から、それに自動小銃か簡易型バズーカ砲らしき形態が加えられたものに変わっている。だから慌ててぼくは叫ぶ。

「怪物に手を出すのは止めた方が良い。悪いことは言わない。怪物に手を出すのは止めるんだ!」

 だが男はぼくのその言葉を受け入れない。

「とりあえず現時点であなた方の安全は確認しましたが、この状況が事後も維持されるという観測が得られない以上、わたしはわたしの任務に従うしかありません」

「だが、そういって怪物に捕らえられたキミたちの仲間をぼくたちは知ってるんだ!」

「おお、そうでした。この怪物はシンプソンの敵でもあったんだ! さあ、お二人とも早くしゃがんで頭を下げて…… これから怪物を威嚇射撃します!」

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