第21話
「カイン……何を言っているの?無理に決まってる」
イレリアは慌ててカインを引き起こそうとしたが、カインは固く跪いて動かない。
カインはイレリアのスカートの裾に口づけたまま、目線だけをイレリアに向けた。
「それに、あなたには婚約者がいるわ。シトロン公女がいないとあなたはもちろん、この国がどうなるか」
「そうだ。だから例え婚約を破棄しても、彼らは自分の身を守るためにジルダを差し出す」
カインは立ち上がるとイレリアを抱きしめた。
「イレリア。僕はもう君が彼らのために擦り減っていく姿を見たくないんだ。支援をと言うのなら僕がしよう。だからどうか、僕を選んでくれ」
カインの腕の中でイレリアは夢を見ている気分だった。
国王の次に高い地位にいると言ってもおかしくないエスクード侯爵家。その嫡男が自分を求めている。
抱きしめられた胸の厚みとカインの匂いに、カインの休暇の最後の日に重ね合わせた体を思い出して、イレリアの体の奥が熱を持つのを感じた。
しかし、イレリアは子供の頃から裕福な商人や貴族が、平民の見目の美しい女性を妾にし、その美しさを消費し終えると当たり前のように彼女らを捨てていたのを見ていた。
彼らにとって平民やそれ以下の自分達は、愛の対象ではなく、美しさを消費するためのものなのだ。
カインが彼らと同じとは思いたくはない。
しかし、平民以下の存在であるイレリアが、宮廷貴族の重鎮であるシトロン伯爵家の公女を押しのけて正妻になれるはずなどないと、イレリアはわかっていた。
「カイン――カイン、落ち着いて。私には無理よ。例えあなたの言う通りだとしても、そうなったら子供の頃からずっとあなたを支えていたシトロン公女はどうなるの?――あなたの名誉だって……」
イレリアは努めて冷静にカインに言い聞かせるように言った。
一瞬でも、カインの言葉を喜んだ自分が恥ずかしい。貴族であるカインがたかが貧民のために婚約者を捨てるなんてあってはならないことだ。
まして、それが国そのものを危険に陥れる選択だとなれば、国中の笑い者どころか、反逆とすら取られかねない。カインを恥知らずな罪人にするわけにはいかない。
「ジルダは僕を愛してなんかいない。彼女はその能力を利用して僕の婚約者と言う位置に収まり、侯爵夫人となる事を目論んでいるだけなんだ」
イレリアの気持ちを聞いて、カインは吐き捨てるように言った。
「僕は君が僕を選んでくれるのなら、何もいらない。国が僕の魔力を全て差し出せというなら全て差し出す」
カインの切実――むしろ必死さを感じる訴えにどう答えればいいのか、イレリアはわからなかった。
その時、二人の周りを秋の冷たい風が包み、腕の中のイレリアが小さく震えたのを感じた。
「ひとまず、僕の家に行かないか。そこでゆっくり話をしよう。君をこの寒空の下であんな粗末な場所で過ごさせるわけにはいかないから」
「ちょっ――カイン!」
カインは有無を言わさない力強さでイレリアを抱き上げると、素早く草竜に跨り屋敷への道を急いだ。
屋敷に着いたのは、地平線が白む前だったのに、女中頭がカインとイレリアを出迎えた。
「カイン様がお出かけになったのを見ておりました。お風呂の準備ができておりますが、お手伝いは必要でしょうか」
カインの腕の中にいるイレリアを見て、視線をカインに戻すと女中頭が尋ねた。
「私の恩人だ。体が冷たい。丁寧にもてなすように。――私にも風呂の用意を。あと軽い食べ物を部屋に用意してくれ」
イレリアの手を離しながら女中頭に指示するカインは、今まで見たカインとは全く違う貴族の顔をしていた。
おそらく無意識なのだろう。
まるで見た事の無い人だと、イレリアは呆然と思った。
イレリアの知っているカインは、いつも冗談めかした軽口をたたきながら、はにかむように笑う少年だった。
あれが彼の本当の姿なんだろうか。
イレリアは女中頭に誘導されて、見た事の無いほど豪華な屋敷を静かに歩いて行った。
イレリアは客人用の浴室に通されると、粗末で汚いスカートを履いた自分の姿を初めて惨めだと感じた。
浴室は、大人の男性が3人は入れる程の大きな浴槽と、乳白色の石のタイルが敷き詰められた洗い場があり、壁には神殿の壁に彫られているものと同じような彫刻が施されていた。
浴槽にはなみなみと湯が張られ、給水口から止まる事なく流れる湯が浴槽から溢れて流れ出し、浴室内を湯気で白く埋め尽くしていた。
イレリアは浴室自体生まれて初めて見るが、この浴室がどこの浴室よりも豪華なものである事は理解できた。
「失礼いたします」
いつの間にか女中頭の他にもう一人の若い女中がいて、イレリアの粗末な服をあっという間に脱がせた。
「あの、教えてくだされば自分でやりますので――」
イレリアの懇願に近い訴えは、無言で拒否された。
薬師に言われて、日頃から水浴びをして身綺麗にしていたものの、イレリアの体からは驚くほどの垢が削り取られた。
浴室の寝台に半ば無理矢理寝かされると、全身にいい香りのする油を塗られて柔らかい革で体を何度も削られた後、体中に石鹸を塗りたくられた。
イレリアの知る獣臭い石鹸とは違い、油と同じ香りがする。
イレリアは抵抗することを諦めて、彼女らに体を預けることにした。
洗い終わるまで長い時間を要したが、女中頭も女中も、一言の文句も言わずに丁寧にイレリアの体を磨き上げてくれた。
女中頭は体を洗い終えると退室し、若い女中だけが残った。
「お体が冷えるといけませんので、お湯にお浸かりください」
女中は浴槽の外でイレリアの髪を丁寧に梳いたり、体を揉み解したり甲斐甲斐しく世話をしてくれていた。
「あ……あの……私はそんな事していただく身分ではないので」
この言葉を何度目かに発した時、漸く若い女中が口を開いた。
「坊ちゃまのご命令ですから――それに、お嬢様は坊ちゃまの恩人とお伺いしております」
「そんな……あれは偶々通りかかっただけです」
「偶然にしろ、お嬢様のおかげで坊ちゃまの命が助かった事は否めません。――ジルダ様からも坊ちゃまがお嬢様をお連れになったら丁重におもてなしをするよう言い含められておりますので」
女中の言葉にイレリアは一瞬体を固くした。シトロン公女が自分の存在を知っていて、カインが自分を連れてくることを想定していたと――なぜ。
体を磨き上げられ、すっかり温まったイレリアは、なぜか用意されていた柔らかな部屋着と暖かいガウンを着せられて、カインが待つ部屋へ通された。
先に入浴を済ませて、イレリアと同じように柔らかそうな部屋着とガウンを纏い、質素だが高級そうな部屋にいるカインは本当に自分とは違う世界の人なのだと痛感せずにいられなかった。
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