第20話
仕事に復帰してから、カインはこれまでにない忙しさを経験した。
オルフィアス領への街道の魔法陣を壊した未だに犯人は見つからない。
新たに分かったことは、魔法陣は壊されたのではなく、巧妙に壊されたように見せかけて、予め欠損したものに書き換えられていたという事だった。
街道の中に埋め込まれた魔法陣を書き換える事ができるのは、魔術師や錬金術師の中でも限られた者しか行うことはできない。
「魔力をぶつけて壊す方が簡単だろう」
「簡単に言わないでくださいよ。隊長ほどの魔力なら簡単かもしれませんが、我々程度なら全力で魔力をぶつけても壊れるものではありませんよ」
カインの言葉にダーシー卿が呆れ顔で答えた。
「つまり、犯人はそれほど強い魔力の持ち主ではないが、魔法陣を書き換えることができるほど、魔法に精通した人物という事か」
カインは、それなら容疑者は簡単に絞られると思ったが、その考えを否定するように捜査は難航していた。
ゴブリンについては森から山へと向かう途中の窪地に巣作ろうとしていたのを、第3騎士隊が発見して掃討したが、それ以外に変わったところはなかったと報告を受けていた。
カインが復帰して20日以上経っても、事件の真相は何一つわからないままだった。
「魔術師一人なぜ見つけられない!」
カインは苛立って執務室の机を力一杯殴りつけた。
最後にイレリアに会ってから――あの逢瀬を終えてから、季節は夏から秋に変わっていた。
その間、通常の設備の保守作業に加えて、街道の結界の見回りに犯人の捜査と、ろくに休みも取れず、貧民街へ近付くこともできていなかった。
時折、アレッツォに頼んでイレリアに伝言や食料の差し入れを頼んでいたので、イレリアの様子を確認することは出来ていたが、カインはイレリアに会いたかった。
ジルダの能力は魔力を吸収するだけではなかった。
カインの魔力暴走のあの時、カインの心を聞いてから、ジルダは魔力を吸収するたびにカインの心の声を時折聞いていた。
カインが心を閉ざしてからは聞こえなくなっていたが、最近は隠す気もないのか、よく聞こえる。
汗ばみ、上気する肌。荒々しい息遣い。
それが何を意味するかはジルダにもわかっていた。
ジルダはカインの手を握りながら、魔力と共にイレリアへの想いが自分の中に入ってくるのを止めることはできなかった。
「疲れているのか?」
カインが珍しくジルダの様子を気に掛けた。彼の青い瞳が自分を見るのはいつぶりだろう。
いや、それほどにうんざりした表情を浮かべてしまっていたのだろうか。ジルダは慌てていつもの無表情に戻した。
「カイン様ほどではありませんわ。ここのところ色々お忙しいようですが」
色々、に意味を含めてしまったが、カインには気付かれてはいないようだ。
それもそうだろう。すっかり夜が更けたこんな時間にようやく帰宅するほど忙しいのだ――おかげでジルダもこの時間まで待たされていたのだが。
「そうだな。――ようやく休みが取れそうだ。夜会も全て断ってしまって申し訳ない」
「夜会は別に――興味もありませんので」
こんなに穏やかに会話をするのはいつぶりだろうか。ジルダは、魔力を吸収する手を見つめた。
「断れない誘いはロメオにエスコートを頼んでくれ。あいつはいつでも暇だ」
言われるまでもなく、カインが参加できない夜会はロメオが何度かエスコートしてくれている。
ジルダは返事をする代わりに、口を開いた。
「明日はようやくお休みと聞きましたが、またあちらへ行かれるのですか」
言ってから、しまったとジルダは心の中で舌打ちした。藪をつついてしまった。
案の定、カインは気色ばんでジルダを睨んだ。
「君に断る必要があるのか――婚約者としての役割は果たしているだろう」
3日に1度魔力を吸収しに侯爵家を訪れているのは私の方なのですが……と、ジルダは言おうとして、言葉を飲んだ。口論もするだけ疲れる。
「いいえ――ただ、カイン様は私がいなければ生きていけませんでしょう?」
「どういう意味だ!――ああ、確かに私はジルダにこうやって魔力を吸収してもらわねば自分の魔力すらまともに制御する事の出来ない男だ。いくら君に教えてもらったとしても魔力制御すら身につけられない出来損ないだ。だからこうして婚約者として甘んじているじゃないか!君はそれの何が不満なんだ!」
これまで不機嫌になっても怒鳴ったことのなかったカインの激昂を目の当たりにして、ジルダは驚くでも恐れるでもなく、静かにため息をついた。
「いいえ。私に不満はございませんわ」
「そうだろうな。君は侯爵夫人と言う肩書をもう少しで手に入れる。そうなると君を馬鹿にしていた貴族たちを見返せるんだ。それで十分だろう」
ジルダはカインの目をじっと見つめると、その奥に黒い熱がいない事を確認し、ゆっくりと手を離した。
「また、3日後にお会いしましょう。薬師見習いどのによろしくお伝えください」
良くも悪くも、あの薬師見習いはカインの魔力を安定させている。その事に気が付いているのはジルダだけのようだった。
もうしばらく様子を見よう。ジルダは獣車に揺られながら、本日何度目かのため息をついた。
ジルダが屋敷を出た後、カインは居ても立っていられなくなり、屋敷を飛び出して草竜に、跨り貧民街に向かった。
首都の中心部にある侯爵邸から首都の端にある貧民街までは、人通りが少なかったおかげで半刻もかからず到着した。
薬屋の扉を勢いよく叩くと、出てきたのはイレリアではなく、薬屋の主である薬師だった。
カインより十以上は上だろう薬師は、相変わらず青白い顔を不機嫌に歪ませており、カインを見るといつも通りその不機嫌さを更に色濃く表情に乗せた。
「イレリアはここにはおりませんよ、公子。私も独身の男です。ひとつ屋根の下で暮らすという事はどういう事かおわかりでしょう」
薬師の言葉には苛立ちと呆れが混じっていた。
「申し訳ない。いつもここにいたものだから……」
カインは短絡的な行動を恥じて、薬師に夜遅くに叩き起こしてしまったことを詫び、イレリアの自宅を尋ねた。
「あの子に聞いていないんですか?」
薬師の訝し気な眼差しが居心地悪かった。
「あの子は城壁の近くにねぐらを構えているはずですよ。あの子が教えていないなら教えたくなかったんでしょう。明日まで数時間待てばここでまたお会いいただけますよ」
それすら待ちきれないんですか――と、薬師の目が物語っていたが、カインは今すぐイレリアに会いたかった。
「城壁の方だな。後は自分で探す」
カインは草竜に飛び乗ると、城壁へ向かった。
城壁付近は貧民街でも建物の破壊が酷く、人が住める様相ではなかった。
――本当にこんなところにイレリアが?
カインは灯りのスクロールで周囲を灯しながら、注意深く崩れた建物を見て回った。
屋根は落ち、壁は崩れた建物の残骸に、雨風を凌ぐように木が立てかけられて藁で覆ったみすぼらしい、小屋とも言えないほどの住居らしきものが所々に見られた。
貧民街の中でも、殊更貧しい人々が住んでいるようだった。
薬師は確かにこの辺りと言っていた。
この辺りに――
「カインーー?」
その住居らしきものの一つから、カインが求めていた声が聞こえてきた。
灯りを向けながら振り返ると、そこにはイレリアその人が立っていた。
「イレリアーー君はもしかしてこんなところで寝起きをしていたのか?」
カインはイレリアに駆け寄ると、イレリアの肩を掴んだ。
イレリアは言葉の代わりに首を縦に振って、気まずそうに答えた。
「あなたにはこんなところ見られたくなかったのに」
薬師の手伝いで得た収入の殆どは、仕事をする事ができない病気の人や、より貧しい人たちへの薬や食料などに使い、イレリア自身にはいくらも残らなかった。
そしてそれを当然とも思っていた。
それを聞いて、これまでイレリアと共に過ごして、彼女がどのようにしてきたかを見てきたはずのカインは、ここまで自分を削っていたなど想像すらついていなかった。
漸く、イレリアの献身の真実を目の当たりにしたカインの視界が潤むのが分かった。
「君は……君は幸せになるべきだ」
カインは頬が濡れるのが分かった。声も震えている。
イレリアはカインに駆け寄ると、カインの涙をそっと手で拭った。彼女には涙を拭ってやる布すらないのだ。
「君はもう十分すぎる程尽くしたじゃないか。お願いだ。全てを分け与えてしまう前に、僕にも君を与えてほしい。君を幸せにする権利を僕に与えてくれないか」
「カインーー何を……」
「僕の元へ来てくれ。イレリア。君を僕の伴侶として迎えさせてほしい」
戸惑うイレリアにカインは跪き、イレリアの粗末すぎるスカートを掴むと口づけをした。
それは貴族が求婚する際の儀式だった。
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