第16話

「え?君は祭りに行った事がないのか?」

 カインが大袈裟に驚いてみせると、イレリアは拗ねたように口をすぼめた。

 その仕草も愛らしい。

 店番をするイレリアに会いに来たカインは、広場で夏祭りの準備をしている事を告げたが、イレリアは当たり前のように「行った事がない」と答えたのだ。

「なら、行かないか?店を閉めてから2人で」

「でも……」

 貧民街の人間が祭りなどに行くとどんな目にあうかわからない。

 イレリアはそう言おうとしたが、少しだけ惨めに思い、口をつぐんだ。

「祭りなんかの日は人でごった返してる。僕と一緒なんだし、大丈夫さ」

 カインがそう言うと、イレリアは少し思案してから覚悟を決めた顔で頷いた。


 カインの言う通り、広場はいっぱいだった。

「ほら、蜂蜜水だよ」

 カインが屋台から慣れた手つきで買った蜂蜜水を、イレリアに手渡してくれた。

 一口啜ると心地よい冷たさと懐かしい甘さが喉を通り過ぎていく。

「昔、風邪を引いたりした時に師匠が薬湯に混ぜてくれてたのは蜂蜜だったのね」

 イレリアが顔を綻ばせると、カインは少しムッとした。

 数度会っただけの薬師は、青白く不機嫌そうな顔をしていたが、カインの顔を見ると更に不機嫌さを顕にしていたので、あまり印象が良くない。

 しかし、イレリアはそれに気付かず、蜂蜜水を美味しそうに喜んでいる。

 ――まぁ、いいか。

 イレリアが笑っているだけで、カインは幸せな気分に浸れた。

「カイン、あれはなに?」

 イレリアが広場の奥の人だかりを指さした。


「カイン、あれはなに?」

 小さな手を目一杯指さして、女の子がカインに尋ねる。

 小さなカインが、あれは神話に出てくる金の蔦を模した飾りだと教えると、女の子は目をキラキラさせた。

「カインはいっぱい知ってるのね」

 もう不器用な笑顔ではない。素直な、明るい笑顔の女の子をカインは幸せな気分で眺めていた。


 ――なんなんだ。

 一瞬、脳裏をよぎった記憶にカインは少し混乱した。

 だが、その記憶はすぐに薄れ、カインの目の前には好奇心に目をキラキラとさせて、楽しそうに笑うイレリアがいる。

「あれは芝居さ。建国の伝説をやるって聞いてるけど――見たい?」

「ええ!私お芝居を見るのは初めてなの」

 カインは微笑むと、イレリアの肩を抱いて人だかりへとエスコートした。


 芝居は始まったばかりだった。

 数千年前のはるか昔。始祖王アストンが争いに苦しむ人々をまとめ、国を作る話だ。

 国名をアンドレアを定め、親友であり始まりの魔法使いジュノアがアストン王を支え、敵対する国々を陥落させてく。

 30年かけてアストン王は遂にアンドレア王国の王となった。

 子供でも知っている、そんな話だ。

「カインはジュノアの末裔なんでしょ?」

 短い芝居が終わると、イレリアはカインの顔を覗き込むように見上げて言った。

「そうだよ」

「その綺麗な金の髪も、青い瞳もジュノアから受け継いだのかしら」

「まさか――確かに言い伝えのジュノアはそうだけど、僕の父は濃い茶色の髪に緑の瞳だよ。僕のこの髪と瞳は――」

 母からだ、と言いかけて口をつぐんだ。

 これまで、なんの意識もしてこなかったこの髪と瞳が、母親譲りだと意識した途端、急に疎ましく感じられた。

 ずっと冷たく、最期まで自分を拒絶した女。

 胸に黒い熱が広がり、カインの体から魔力が溢れ出すのを感じる。

 いけない。こんな人の多いところで――

「カイン――?」

 イレリアが不安そうにカインを見つめるが、カインの目はイレリアを見ていない。

 不穏な気配を感じ取ったイレリアは、両手でカインの頬を挟むと、力いっぱい自分に向けさせた。

「カインってば!」

 イレリアの声で我に返ると、頬を挟むイレリアの手をそっと握った。

 ひどく荒れた手だが、細く優しい温もりがカインの黒い熱を冷ましていくようだった。

「ごめん、イレリア。少し嫌な事を思い出してたんだ」

「もう――こんな時に嫌な事を思い出すなんてもったいないわ」

「そうだね」

 握った手が名残惜しく、離すべきか悩んでいると、イレリアは右手でカインの手を握り返した。

「次はあっちに行ってみましょう」

 その温もりが、カインを幸せにしていたとは、イレリアにはわかっているだろうか。


 祭りには珍しい品物を売る屋台がたくさん出ていた。

 香辛料や食べ物といった当たり前のものから、少し値の張る装飾品まで所狭しと並んでいた。

 カインはイレリアが目にするもの全てを買い与えたかったが、イレリアに断られてしまった。

 だが、屋台を見て回るだけで楽しいと笑うイレリアを見ると、カインの心は満たされていくようだった。

 広場の中央では、楽団が楽しげな音楽をかき鳴らし、人々が足を踏み鳴らしながら踊っている。

「踊らないの?」

 音楽に合わせて小さく体を動かすイレリアに尋ねると、イレリアは首を横に振った。

「踊れないの」

 貧民街では生きる事が最優先だ。

 イレリアはまだ身綺麗にしているが、貧民街の住民にとって身だしなみなど二の次以下だ。

 髪は脂で固まり、体は垢だらけで異臭を放つ彼らが祭りなどに行けるはずもなく、踊りを楽しむことなどできようはずがないのだ。

 それに気付いたカインは、少しばつの悪い顔をしたが、イレリアは気にしていないようだった。

 カインはイレリアの横顔をずっと眺めていた。

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