第15話

 カインが目を覚ましたのは、暖かいベッドでも頼もしい草竜の背中でもなく、粗末な荷車の荷台だった。

 石畳で整備された街道を、ガタガタと揺れながら走る荷馬車は、毒で意識を失った者さえ目覚めさせるほどの乗り心地だった。

 ――なぜ荷車?

「気が付かれましたか。隊長が倒れた直後に偶然通りかかった荷車が我々を乗せてくださったのです。たまたま持っていた解毒剤も分けてくださって」

 荷車と並走していた草竜からダーシー卿が声をかけた。

「ダーシー卿……」

 霞む視界に、頼もしいダーシー卿の影が見える。よかった。無事だったのか。

 魔力を纏って体を起そうとしたが、体が痺れてうまく魔力を纏う事ができない。

 喘ぎながら首を動かすと、カインの右隣に脚と脇腹を血に染めたラエル卿と、肩に傷を受けたカルマイ卿が横たわっていた。

「目が覚めました?解毒剤がこんなに早く効くなんて……もうすぐ城門に着きますから、頑張ってくださいね!」

 御者台から柔らかな女性の声が聞こえてきた。

 ――女性?

 朦朧とする頭でカインは御者台に目をやった。

 柔らかそうな栗色の髪が見えた。


 次に目を覚ましたのは、城門にある騎士隊の詰所に設置されたベッドの上だった。

「ラエル卿とカルマイ卿は……」

 開口一番、カインは側にいたダーシー卿に尋ねた。

「まずはご自分を心配してください!一番毒が回っていたのは隊長なんですよ」

「こうして生きてるんだ。無事なのはわかっているだろ。それより、ラエル卿とカルマイ卿は無事なのか」

 体を起す事もできないくせに、なぜこの人は自分よりも部下を案ずるのか。ダーシー卿は憤りを覚えたが、ゆっくり息を吐いた。

「無事です。毒で魔力もかなり消耗して危ないところでしたが、解毒剤が効いたおかげで――」

「そうか」

 ダーシー卿の報告を聞いて、カインの全身の力が抜けたのがわかる。本気で二人を心配していたのだ。

「3人とも出血も多く、かなりの魔力を流出していましたが、待機して下っていたシトロン公女が魔力を与えてくださりました。2人とも数日で回復するでしょう」

 治癒師では物理的な傷は治せても、体内に入り込んだ毒を解毒する事はできない。

 仕組みがわからないものに魔力は関与できないからだ。

 その為、解毒剤を使う以外なく、その後は自分の回復力――すなわち、魔力量次第となる。

「解毒剤が間に合っていたとはいえ、ジルダ様がおられなければ3人とも危ないところでした」

「ジルダが?」

「ジルダ様は先程お帰りになられました。本当に素晴らしいですよ。あの方の能力は」

 治癒師がジルダが出て行ったであろう扉を見つめて、溜息交じりに漏らした。

 ――あの方の能力、か。

 カインは治癒師の言葉を苦い顔で口の中で繰り返した。

「毒と言ったか。……あのゴブリンども、毒矢を使っていたのか……」

 ゴブリンは群れで生活する魔物だ。他の野獣とは違い、拙いながらも知能がある。

 その為、弓矢や剣などの武器も扱うが、毒を使うなど初めてだ。

 そして、非常に弱く人を恐れているので、普段は人里離れた山奥に生息している。

 それが街道を襲うなんて――

「街道の魔法陣はゴブリンとは無関係と思われます。あれは爆発的な魔力をぶつけて、人為的に壊されたものでした。ゴブリンに魔法陣を壊せるだけの魔力と知能はありませんから」

 声が漏れていたのか、控えていた魔道士が答えた。

「王宮への報告も済ませております。急ぎゴブリン討伐隊を派遣するとの事です。荷車の主にも謝礼を渡してあります。今はゆっくりお休みください」

 荷車……若い女性の声だった。礼をせねば。

「お身体が治ってからになさってください。隊長殿は魔力が多いので2日も寝れば治りますよ」

 治癒師の言葉にカインはまた目を閉じた。


 治癒師の言う通り、3日目にはカインの体はすっかりと回復していたが、毒によって失われた魔力は完全には戻っていなかった。

 毒を受けたのは初めてだったが、あの時あの女性が通りかかって解毒剤を与えてくれなければと思うと、さすがのカインも背中を冷たい汗が流れた。

「あなたは命の恩人です。あなたがいなければ我々はあそこで死んでいました」

 貧民街にある粗末な薬屋で、カインは店番の若い女性に深々と頭を下げた。

 思っていたよりも若い。自分と同じ年くらいだろうか。身なりは貧しいが清廉とした美しさを感じる。

 この女性こそカイン達の命を救い、全員をあの悪夢のような乗り心地の荷車で首都まで運んでくれた恩人なのだ。

 ダーシー卿の報告ではイレリアという名の貧民街の住民だった。

 貧民街の住民というだけで、人の尊厳さえ許されない扱いをされるというのに、イレリアは自分達を救ってくれた。

 カインはそれだけで、十分以上に頭を下げる理由があると思っていた。

 突然やってきて頭を下げたカインの美しさに、イレリアはしばらく見惚れていたが、状況を受け入れると笑顔で首を振った。

「とんでもないことですわ。あの解毒剤は売り物ではなくて私が練習で作ったやつで、効くかどうかもわからない博打みたいなものなのに、お礼までいただいて……」

「その練習作がとても優秀だったから、私はこうして礼を言う事ができている。あなたは腕のいい薬師になれるだろう」

「ありがとうございます……」

 まっすぐに自分を見つめるカインの青い瞳に、イレリアは胸が苦しくなるのが分かった。

 心地よい居心地の悪さを感じて、イレリアはカインの後ろにある扉を見つめた。

 イレリアの視線を追うように、カインも扉に目をやる。何度も修復された跡が伺える、大きな古びた木の扉だ。

「こちらこそ、あんなに沢山のお礼をいただいたおかげで、みんなに食べ物を分けてあげることができたんです。それに私の薬を褒めてくださって――こちらこそありがとうございます」

 何故だか彼女の顔を見るのが気恥ずかしかった。

 イレリアが礼を言ったので、カインは慌ててもう一度彼女を振り返った。イレリアはとても嬉しそうに、屈託のない笑顔を浮かべていた。

 初めて見るのに、どこか懐かしい気がするその笑顔に、カインは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 今まで人の顔なんて意識した事がなく、顔という部位はただ感情を表現する為にあるものという認識でしかなかった。

 だが、初めて――正確には母が亡くなって以来初めて、目の前の女性を美しいと思った。

 手入れがされていない、みすぼらしい姿だが、弓張の眉に深い緑の瞳、美しい鼻筋に薔薇色の唇は幸せそうにキラキラと輝いて見えた。

 どれだけ着飾った貴婦人にも、こんなに美しいと思った人はいない。

「また……来てもいいだろうか」

 カインはそれだけ絞り出すのが精一杯だった。


 カインの魔力は10日ほど戻らなかった。

 その為、ジルダはカインの魔力を吸収する必要はなかったのだが、3日に1度の務めに侯爵邸を訪れては、夜遅くまで戻らないカインを待ち、魔力量を確認して帰っていった。

 魔力が戻るまで騎士隊の仕事は休みを取らされていたカインは、毎日のように貧民街へ通っていた。

「治癒師って怪我しか治せないなんて不便ね」

「そうかい?僕は怪我だけでも治せるだけすごいと思うけどな」

 首都の周りにある農場の隅にある大きな木の影で、カインとイレリアは腰掛けて話していた。

 初めはカインの身分に緊張していたイレリアだが、3日も経つとすっかり打ち解けて、砕けた口調で会話するまでになっていた。

「治癒に必要なのは、体の情報なんだ。どこが傷つき、どこを修復するかを理解して初めて魔力を通す事ができるんだよ。きっともっと医学が進んで、病気の原因が解明できたら病気も治す事ができるようになるさ」

「それまでは、私たち薬師の独壇場なわけね」

「そういう事だね。見習い薬師さん」

「その見習いの薬で命を救われたのはどこのどなたかしら」

 イレリアが笑いながら胸を張って見せる。

 そのしぐさ一つ一つがカインには眩しく、愛らしく思えたのだった。

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