人魚の涙
百舌
第1話 人魚の涙
対馬海流が流れている。
暖流とはいうが、身を阻む冷たさだ。
満州からの寒気団が覆っているのだ。
国境を分つとはいえ海に境界線はないので、その寒気団は遠くシベリアから吹きつけてくる。春先には中国大陸からの黄砂も降り積もる。その黄砂が実は栄養分も運んでくるので、島の狭い耕地でありながら、実りは豊かなものだ。
それなのに過疎が進み、耕作放棄地があちこちに骸のように横たわっている。
波濤を蹴立てて、白浪が打ち寄せる岩壁に、水煙が立っている。
その波で磨かれている島が、太古の時代から寄り添うように並んでいる。
大豆の形をした方を
そしてそら豆の形をしている方を
その島々は並んでいても、まるで夫婦のように異質な気風を持っている。
私がその雄賀島に戻ってきて、もう五年にはなるだろう。
この島には伝説がある。
ひとつには平家の嫡流が流れてきたという伝説。
あるいは元寇において、源氏の拠点となった伝説。
後者の方は鎌倉から禅宗の寺社がいくつも渡ってきているので、事実だったのだろう。雄賀島には曹洞宗と臨済宗が、現代でも信仰が篤い。
そして人魚が棲むという伝説がある。
かつての元寇の頃から人魚の唄を聞いたという噺が絶えない。その唄に幻惑された元船が座礁したという。人魚の唄は霧を呼び、視界を奪うという。
さらに明の頃にもその人魚を捉えようと軍船を出してきて、島民と戦さになったという。人魚の血肉は不老長寿の妙薬という話が出回っていたという。その時期の島民は倭寇の流れであったので、苦もなく撃退したらしい。
実際に元船の錨や陶磁器などが海底から引き上げられている。いわゆる鉄はうと呼ばれた武器らしいものも発見されている。
私には、実はそれは伝説ではない。
かつて人魚をこの眼で確かに見た。
見たばかりではなく、一命を助けてもらった。
彼女は人間の顔と、乳房と、
乳房の白肌には静脈が網のように走っていた。
長い黒髪が水流に踊り、
しかしながら下半身全てが鱗で覆われていた。
金属が光を跳ねているかのような
そして見事な尾鰭でゆらりと水を蹴って、幼い私を抱き締めたまま海面まで届けてくれたのだ。
それは夢ではない、と今でも信じている。
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