誤用か、否か

四辻 重陽

第1話 的を射るのか的を得るのか

ひとまず、恐らく最も耳目を引きそうである件について触れてみようと思う。


辞書的には三省堂が「どちらも誤用ではない」としたことによって解決した問題でもあるが、ここは私自身の体験と動作について考察してみたいと思う。


「的を射る/的を得る」という言葉が世に出た頃、世間一般では弓矢など滅多に手にしないだろう状態であったのだろうと思う。更に言えば、射撃といったものは滅多に行われる状況になかったのだろう。


それは、「手薬煉を引く」という慣用句について「手薬煉は引くものか、塗るものか?」といった疑問が生起しないことが十分な傍証であろうと思われる。弓の扱いが一部の層であれ日常の内にあったからこそ、「引くのか、塗るのか?」といった疑問が生じ得なかったのだろうと思う。


要するに、「的を射る/的を得る」という語は産まれる前から弓を使う習慣が失われていたためにほぼ死産だったのだろう。少なくとも私はそう思っている。


さて、私は弓を使ったことは一度きりである。より正確に言えば、大学で弓道部の勧誘に乗って「真っ直ぐ矢が飛んだら飯奢ってやるよ」といった言に乗ったはいいものの、結局真っ直ぐに飛ぶどころか矢が手元に帰って来た、そんな程度の体験と腕前である。


それを以て弓と矢について語るのは烏滸がましいところもあろうが、許してほしい。その上で、弓道には疎いとはとはいえ思うことがある。


所謂『射法八節』に於いて、「離れ」を過ぎた矢は意識のどの辺りにあるのだろうか? 残心を前提とするのであれば、的中しなかった際に備えることは当然であろう。或いは残心とは必中を期した上でのものでもあろうが、次なる標的への備えであるのではあるまいか。


これに伴って、疑義を呈さねばならないことがある。「的を射る」「的を得る」いずれにしても避け難い問題であろうと思う。


それは即ち、「偶然の命中についてはどう評すべきか」ということである。


偶然の命中を「的を得る」と「的を射る」のいずれで考えるべきだろうかと考えてみるに、偶然の命中については恐らく「的を得た」と言う方が妥当であろうと思う。


「的を射る」を用いるとすれば、「それは偶然ではあったが、的を射ていた」といった形になるのではあるまいか。或いは、「それは偶然ではあったが、的を射止めていた」とでも表現できるものだろうかと思う。


一方「的を得る」であるが、これは「偶然ながらも的を得たものであった」と表現できると思われる。


要するに、的に対して射たことと的中したことは一致しないのではないか? というのが個人的見解になるのだ。弓引かせて貰っといて散々外した自分が言うことではないが、的に向かって射ることと的を射止めることは必ずしも一致しない。しかし偶然の何かで的を射止めてしまうことはありうるだろうとは思うのだ。


故に、狙い澄ましてその通りに的を射止めるのであれば「的を射る」であろうし、偶然の意図した的中も全て含めて的へ当たることを指すのだとすれば「的を得る」の方が妥当ではないか? と私個人は思っている。


そして、私個人としては狙い澄ました命中であるならば「的を射る」では漫然と射ていることも含めるとは思えないので、「的を射止める/的を射留める」を使いたい次第である。そして、偶然を含めて命中を指すのであれば「的を得る」を使いたい。


無論、異論は大いにあろうと思う。その際には「自分ならこう使う」という基準を考えてみて欲しい。それさえ固められるなら、恐らく茫漠と「的を射る/的を得る」のいずれが正しい用法かなどと考えずに「どちらがより文脈に沿っているか」と考えられるだろうと思われる。


「どちらが誤用でないか」と考えるより前に、「どちらが書くに当たってより妥当に思えるか」という視点で見てみることは恐らく役に立つと思う。私が言えることは、最大限でその程度のことだ。


改訂:読み直して接続詞に誤りがあるように思ったので書き直すこととした

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