桜舞い散る境内で、君に会えるのを待っている

青時雨

綻ぶ桜

第1話 二人だけの秘密

初めての夏祭り。


神社の境内近くに沢山の心躍る屋台が並ぶ。提灯の灯りに人々の鮮やかな浴衣が照らされ、ひらひらと翻る。

二匹の妖狐が人に化けて紛れ込んでいても、きっと誰も気がつかないほど賑やかな夜。

茂みの中に身を寄せ合って隠れる、黒毛の妖狐と白毛の妖狐。



たきにぃ、人がいっぱいいるよ」


「ほんとだなぁ」


「踏まれたりしない?」


「そんなこと気にしてたのか。大丈夫、だって俺たちはこれから人の姿に化けるんだから」



小さな小さな声で交わされる人ならざる者の会話は、雑踏で誰の耳にも届かない。



「人に見られるのはこわいよ」


「お前はこれくらい慣れておいた方がいいよ」



子どもの妖狐は人と接触してはならない。仲間たちから認められる年齢にならなければ、一妖狐としての名前すら与えられない。

黒毛の妖狐、滝と違って、臆病な彼はまだその年齢ではなかった。

内気で笑顔の少ない彼を思い、この夏祭りに他の妖狐には内緒で連れ出してくれたのだ。堅苦しいしきたりは少しくらい破ってもいいだろう、と悪戯な笑みを浮かべて。

突如として鳴り響いた太鼓の音に、綿毛のような小さく儚い体を縮こまらせる。ピクリと反応した尖った耳を伏せ、目をきゅっと瞑っている。



「やっぱり大きな音は怖いか?」


「うん…」


「そのうち慣れるよ。それよりほら、目を開いてごらん。夏祭りというものは、美しく綺麗だよ」



妖狐なら誰もが身につけている〝人になる術〟は完全では無い。半人半獣の姿が精一杯のそれでは人間たちに妖狐だとすぐにばれてしまう。しかし滝は完璧な人間になるまじないを使えた。

そのまじないを滝にかけてもらった彼は、今は茂みの中でなく人混みの中心にいた。

同じく人に化けている滝の手をしっかりと握りながら不安に身を震わせていると、人々の視線が夜空へと向けられる。

それに倣った彼は、生まれて初めて夜空に咲く大輪の花を目にした。

先程まで感じていた身体を支配されてしまいそうな強い不安はどこかへと消え、静かな興奮だけが心地よく残った。

人間と同じように浴衣を着て、下駄を足に引っ掛けて歩く。そんな何気ないことが、彼の心を高ぶらせた。

この夏祭りで見る光景はどれも、彼の脳裏へと色鮮やかに焼きついた。

背の小さな彼はもっと花火が見える場所へと滝の手を放して駆け出して行った。









「滝にぃ?」



夢中になって走っていた彼だが、ふと隣を見上げて滝がいないことに気がつく。

いつの間にかはぐれてしまっていたことに、高揚感は冴えきって心細さが襲う。

泣きたくなるのをどうにか堪えながら、滝を探して神社を彷徨った。

屋台も人気もない本堂の裏へとやって来ると、ついにその小さな足が動かなくなってしまった。

人に化けている分、体力の消耗が激しい。幼いことも相まって、その身にのしかかる負担はより大きかった。

薄暗い本堂の裏。その壁に背中を預け、膝を抱えるように座り込む。唇を強く引き結んでも、耐えられず涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。滝が自分のために用意してくれた花火柄の浴衣に、小さな黒い染みが出来ては夏の蒸し暑さに乾いて消えていく。



「どうしたの?」



自分と似た幼い声に顔を上げると、目の前にすもも色の浴衣を着た人間の女の子が立っていた。

逃げなければと頭では思うのに、体が言うことをきかない。

それに、何故かひとりでなくなったことにほっとしてしまう。



「迷子に…なっちゃったんだ」



恐る恐る答えると、女の子は「わたしも」と隣にしゃがみこんだ。



「君も?」



頷いた女の子は、柄の先に赤いガラス玉のような心惹かれるまあるいもののついた物を差し出した。



「これは?」


「りんごあめっていうの」


「あめ…?」


「甘くて心がほっとするから、なめてみて」



触れる手から温もりを感じながらそれを受け取ると、じっと見つめた。

艶やかな赤の表面を舌でひと舐めすると、少しの酸味を含んだ優しい甘さが口いっぱいに広がる。



「おいしい…」



少女は彼の顔を覗くように首をかしげ、優しい微笑みを浮かべた。

安堵から力が抜けてしまったせいか、滝のかけてくれたまじないが少しばかり緩んでしまった。



「もしかして、きつねさん?」





──妖狐だとわかれば人は我々を殺すだろう。





そう教えられて来た彼は、殺される恐怖から目を強く瞑った。

しかしその予想に反して、少女はただ優しく尻尾を撫でるだけだった。



「そっか、きつねさんかぁ。わたし、初めてきつねさんに会った」



無垢な感想をこぼす少女に、彼は渇いた喉の奥がへばりついて上手く出せない声をなんとか振り絞り「殺さないの?」と尋ねた。

すると少女は要領を得ない顔で尋ね返してきた。



「ころすって?」


「え?」


「そんなこわいことしないよ」



ずっと人間は野蛮で恐ろしい生き物だと繰り返し言い聞かされて育った。人間はその昔、術を使う妖を恐れてその命を狙ったとも寝物語でよく聞かされた。

神を宿す場所へと逃げた妖たちは今も尚、かつてのような力は失ってしまったものの生き続けている。

数が減ってきていることもあり、厳しいしきたりに従って野蛮な人間との接触は認められる年齢になるまでは避けている。

恐ろしい人間の話を、彼は今まで信じて疑わなかった。

けれど夏祭りを見て回り、人の子と会話した彼は、その考えを改め始めていた。

言葉少ななこんな自分に、優しく接してくれる。兄のように慕っている妖狐の滝と目の前の少女とでは何が違うというのだろう。

彼にはその違いがわからなかった。



「こんな暗くてちょっぴり怖いところにいても、友達と一緒にいると安心するね」


「友達?」


「一緒に迷子になって、一緒にりんごあめ食べた。だから、わたしたちもう友達だよ」



桜の花が綻ぶような柔らかな笑みに、つられるように頬が綻ぶ。



「わたしの名前は夏夢なつめ



彼も少女と同じように名乗ろうとして、口を少しだけ開く。

けれど、名乗る名前がないことに思い至ると、そっと唇を引き結んだ。



「ぼくにはまだ名前がないんだ」


「じゃあわたしがつけてあげる」



突拍子もない提案に驚いている彼を他所に、少女は手頃な木の枝を拾った。

じめじめとした地面を小枝で掘って、何かを書いていく。

気になった彼も、そんな少女の手元を覗くように身を寄せた。



そう…?」


「うん。どうかな」


「すごく気に入ったよ」


「よかった」



名前をもらった喜びと、少女といる楽しさで、迷子になっていることへの不安は自然と和らいだ。

今は互いに、自分を探してくれている者の現れをひたすらに待った。



生ぬるい風に当たりながら想はふと思う。この子は優しい、けれど他の人間もそうであるとは限らない。この子の口から妖狐と出会ったことが語られれば、妖を退治しようとする人間が現れるかもしれない。

恐ろしい想像に顔を青ざめさせた想は、夏夢に願う。



「ぼくたち妖狐は人にみつかってはいけないんだ。だから夏夢ちゃん、ぼくと会ったことは誰にも言わないで」



「わかった。想くんとわたし、二人のひみつね」


「ありがとう」





──ドンッ





夕闇の花火と呼ばれている花火が、この祭り最後を彩るように美しく上がり始めた。



「花火、きれいだね」


「ね」



ぱちぱちと弾けて散っていく大輪の花の下では、生きる世界を異にする幼い二人の手が自然とつながれていた。

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