いつも通りの続き

山葵 狸

消えた日常、現れたヤツ

「おーい! 田中~!」

 

 朝の登校を済ませ、憂鬱な気持ちで教室で座る自分の右耳に、いつもと似たような高い声が響き渡る。それから数秒遅れるようにして、声の主は俺の右肩にダイブを決め、両腕を俺の右腕に絡ませる。


「だーっ! くっつくな! うぜぇんだよ!」

 

 俺はそれを力づくで振り払おうとする。全力でしがみついているのか中々振り払えないが、幸い力はこちらの方が強い。振り払われた人物はドサッと音を立てて、尻もちをついた。


 あっと済まない。邪魔が入ったせいで自己紹介がまだだった。俺の名前は田中。ごく普通の高校に通う、ごく普通の男子高校生だ。正直これ以上は何も言うことがない、自分でも悲しくなるほどのつまらない人間だ。


「ちぇ~いつもケチだな。田中は」

 

 先程、俺に振り払われた人物はイテテと尻をさすりながら、小さな頬を一杯に膨らませ、不機嫌そうにこちらを下から覗き込みながら、そう呟いた。


 こいつの名前は山坂。ごく普通の高校に通う……かなり変わった男子高校生だ。こいつは俺と違って言うべきところばかりだ。距離感がおかしく、俺に対してはいつもゼロ距離。いたずらっ子でパンツの中にいきなり氷をぶちこんできたりと加減も知らない。脳内が小学生でくだらない下ネタを言ってはゲラゲラ笑っている。その癖して愛嬌だけはあるので、嫌われるどころか愛されキャラとしてクラスに居座っているやつだ。


「おーい、また二人でイチャイチャしやがって……ショートホームルーム始めるぞ。早く座れ」


 憂鬱な空気をパンパンに詰め込んだ朝の教室に中年男性である担任の気だるさと苛立ちを含んだ声が響き渡る。教室全体が現実を突き詰められたかのように憂鬱さを加速していくが、俺の隣で尻もちをついている山坂は憂鬱なんて感情は知らないと言わんばかりの無邪気な表情を浮かべて、


「ごめんなさ~い」


 と、照れ笑いのような表情を浮かべて、無邪気に自分の席に着いた。こいつは本当に男子高校生なのか疑問符が浮かぶような純粋さである。その愛くるしいルックスとまるで声変わりしてないかのような声も相まって錯覚を起こしてしまいそうなほどだ。


「あの二人また怒られてる。ほんと仲いいな」

「ていうかあいつらできてんじゃね?」

 

 そして先程までの俺と山坂の様子を見ていた同級生がこそこそと噂話を始める。こいつが隣の席になってからというもの、あらぬ疑いを掛けられるわ、先生に怒られることも増えるわ……はっきりと言ってろくなことがない。まぁ、俺と山坂の席が隣になる前からだから、さらに加速したとでも言うべきなのかもしれないが。


「そこ、私語を辞めろ。いいから始めるぞ」


「起立」


 担任の注意で再びクラスが静寂に包まれ、委員長の一声で何度も繰り返してきた憂鬱な一日が幕を開ける。これから授業に集中せねば、と気を入れ直すが隣に座る山坂の猛攻は留まることを知らなかった。


 ある授業中にはチョンチョンと肩を触られ、山坂の方を見ると机に二人の人間と思しき正体不明の落書きを見せつけられ、謎のドヤ顔を決められる。


 ある休み時間に俺がトイレに行こうとした時は、さっと俺のもとに駆け寄り、


「田中トイレ? 僕も行く~」


「いや大きい方だから、てかついてくんな」


「そんなの関係ないよ! 田中が結構足開いてくれたら僕がその隙間から~」


「汚ねぇんだよ!」


 そしてそのツッコミが響き渡り、俺が大をしに行くことがクラス全体にバレてしまう。


 昼休みの昼食を摂っている時にも、机を勝手に向かい合わせにして、


「唐揚げも〜らい! ん! やっぱり田中の母さんが作った唐揚げおいし〜!」


「おい! てめぇ返せや!」


「しょうがないな〜はい! ブロッコリーだよ〜」


 唐揚げとブロッコリーをまるで等価交換のように扱ってくる。これには古の錬金術師もびっくりだ。


 などと見てのように学校にいる時の俺は、いつ何時でも山坂に付き纏われ、俺の平穏な学校生活は明らかに失われていた。



 ◇



「き――んこ――んか――んこ――ん」

 

 一日の終わりを告げる解放のチャイムが鳴り響く。しかしそんな解放の音色も強烈な雨によって切り裂かれてしまう。今時期は梅雨でここ最近ずっとこの様子だ。朝は降っていなかったから傘は持ってきていないのに。これではどんなことが起ころうとも心が曇ったままで喜ぶに喜べない。


「雨が降ってるけど、風邪をひかないよう気を付けるんだぞ。それじゃあさようなら」


 ようやく一日が終わった。部活にも入っていない俺は足早に帰宅しようと玄関に向かう。今日は苦手な数学があった分、とても長く感じた。もう回りそうにない頭を右手で支えながら玄関にたどり着く。靴箱を開くと、中にはなんと折り畳み傘が入っていた。いつから入れていたかは覚えていないが、そんなことはどうでもいい。ひとまず濡れずに帰れることに感謝しよう。

 

 玄関の扉を開き、傘を開く。周りには傘が無く、バッグを頭の上に乗せて帰ったり、おそらく親の迎えを待っているであろう生徒で溢れていた。今日は雨予報ではなかったので、傘を持ってこなかった人が多い、というか俺以外に傘を持っているやつが見当たらない。運よく自分だけ傘を持っていることに若干の罪悪感を感じてしまうが、こればかりはどうしようもない。卑しい視線を集めないうちに早く帰ろう。


「田中~!」


 こそこそと帰ろうとしてた時に、周りの注目を一身に集める、聞き慣れすぎてゲシュタルト崩壊しそうな声が後ろから飛んでくる。そしておそらくあと数秒で後ろからタックルが飛んでくるだろう。しかし何度も同じ手は食わない。俺はそれを見越してタイミングよく左に小ジャンプする。


「んぇ!?」


 右側を見るとヘッドスライディングの最中という体勢で宙に山坂が浮かんでいた。丸で空中を泳ぐかのような腕をジタバタさせ、まんまるにした目とぽっかり口が空いた表情でこちらを見ている。なんだかスローモーションのように感じるが、勢いは収まることなく、山坂はそのまま水だまりにズザザとヘッドスライディングを決めた。


「も~田中のせいで泥んこだよ! どうしてくれるの~」


 丸でこちらが百悪いかのようにプンプンと怒っている山坂。その制服の前部分はブレザーからスラックスまで見事に泥んこである。湿度の高いこの時期だと明日までに間に合わせるのは、はっきり言って不可能と言わざるを得ない有様だった。


「ちょうどよく雨が降ってるから泥は綺麗さっぱり落ちるんじゃないか?」


 いつもやられっぱなしなんだ。これぐらい意地悪を言っても別にバチは当たらないだろう。


「も~そんなんでキレイになる訳ないよ! お詫びも込めて傘に入れて~」


 許可を取ることもなく、傘の中にすっぽりと山坂が入り込んできた。山坂は濡れないようにとまるで恋人かのように俺の右腕に抱きついてきた。そして山坂の学ランについた泥は、自分の右腕にもべっとりと付着してしまった。


「んへへへ、これでお揃いだね」


 山坂はその特徴的で、ウザったらしい笑みを浮かべ、挑発的な上目遣いでこちらを覗いた。


「てめぇ……」


 そんな俺の苦悶の表情を見て、その八重歯をさらに輝かせ笑う山坂。やり返したつもりだったが結局俺はまた山坂に一杯食わされてしまったのだった。

 


 ◇



「それでは受け取りは明日の朝で問題無いでしょうか?」


「はい、大丈夫です。よろしくお願いします」


「ご来店ありがとうございました!」


 近所に即日で乾燥までやってくれるクリーニング屋さんがあって助かった。


「痛い出費になっちゃったね~」


 まるで運悪く出費をしたような口ぶりで財布を悲しげに見つめる山坂。もちろん全額山坂持ちだ。


「てめぇ被害者ヅラしやがって、少しは反省しろ! 明日取りに行けよな!」


 山坂のこめかみにグリグリをかます。こいつはこのぐらいやっとかないと反省しない。


「いたい! ごめんなさい! 明日取りに行くから! ごめんなさいってば~」


 泣け叫ぶように痛がる山坂。その大声にハッと正気なって後ろを見ると、店員さんがこちらを見て微笑ましそうに笑っていた。なんだか恥ずかしくなってきた俺は山坂の腰を抱えて、足早に店を出た。


 外に出ても相変わらず雨は止んでいない。普段なら蒸し暑さを感じるような気候だが、今日はびしょ濡れになり、ブレザーとスラックスも失って、薄いジャージしか着ているものがないので少し肌寒さを感じていた。


「それ失礼〜!」


 そして店を出るやいなや、山坂は先程俺に泥タックルを仕掛けた時と同じように俺の右肩に抱きつき、その小柄な身体は俺の傘の中にスッポリ入ってきている。こいつ先程グリグリをしたというのに、一切反省してないようだ。


「反省が足りねぇ」


 傘を少し左側へずらして、山坂を傘に入らないようにする。当然山坂は雨に思いっきり打たれている。


「ねぇお願いってば〜寒くて風邪引いちゃうよ〜」


「クシュン!」


 俺の右肩にしがみついた山坂はブルブルと身体を小刻みに震わせており、くしゃみをしている。元はと言えばこいつの身から出た錆だが、こうもなってしまうと冷たく当たることは難しい。


「ったく、仕方ねぇな」


 俺はサッと傘を元の位置に戻し、山坂も傘の中に入るようにする。風邪を引かれると塩梅が悪いからな。


「やった〜! 田中大好き!」


 こいつ……演技しやがった。しかしここから苛立ちのままに反撃をすると、おそらく騙されたとかおちょくられるし、さらなる反撃も有り得るので大人しく帰り続けることにした。ものすごく不毛だが。



 ◇



 しかし全くもって雨は止まない。今日の朝はさしずめ奇跡とでも言うべきなのだろうか。ループしてるのではないかと思いくらいここ最近ずっと同じ空模様で飽き飽きしてくる。


「でねでね~そしたらおじいちゃんが……」


 そしてこいつの口も雨同様止まらない。既に帰り始めてから三十分ほど、それどころか毎日俺に話しかけて来ているというのに、会話のネタが尽きないとはどういうことなのか? こいつの人生が余程濃いのか、それとも俺の人生があまりに薄いのか。なんだか悲しくなってくる。


「で、お前のじいちゃんがどうしたんだ?」


「あ! かたつむり!」


 こちらが相槌を打ってやっているというのに……相変わらずマイペースな奴だ。


「かわいい~うへへへ……」


 満面の笑みでかたつむりの殻をつんつんとつつく山坂。マイペースでウザいところもある山坂だが、こういう純粋無垢な一面には俺もドキッときてしまうほどである。そしてそれは俺だけでなく、周り大勢もだ。どれだけぶっ飛んででも誰もこいつを憎めず、可愛いなと思ってしまうのである。俺は別にそこまででは無いが。


「お前のそういう可愛いところ、結構女子に人気あんだぞ」


「そんな~僕をかわいいと思ってる人なんていないよ~」


 珍しく褒めてやっているのに照れる様子など一切見せず、相変わらずかたつむりに夢中の山坂。可愛いと言われ慣れて別に何も感じなくなっているのか? それとも本当にいないと思っているのか。? ぶっちゃけこいつだとどっちかわからない。前者なら心底憎たらしいが。


「お前がその純粋さだけでウザさが無ければ、俺からしても可愛い奴なんだけどな」


「え……かわ……」


 今度は一変、急に顔を赤らめて動揺して固まる山坂。先程までは一切照れていなかったのに。やはりこいつの思考回路はやはり理解できない。


「んへへ……そんなに僕がかわいいと思うなら、僕と結婚しちゃいなよ!」


 そう言って満面の笑みで俺の右肩をポカスカと叩いてくる。正直言って一切加減ができて無く、少し痛い。


「何を訳分からないことを言ってるんだ。前言撤回すんぞ」


 首根っこを掴んで、山坂との距離を取る。


「ふぇ~なんで~……」


 すると首根っこを掴まれた山坂は、飼い主に説教された猫のようなシュンとした表情を浮かべている。なんかこいつのこういう表情は物凄く申し訳無さを感じるから辞めてほしい。


 そんなこんなで話しているうちに気づけば山坂の家の前まで着いていた。


「ほら、もうお前の家の前だぞ。それじゃあな。山坂」


 なんと言うか、こいつと喋っていると時間があっという間に感じられる。俺が山坂のトークに圧倒されているからだろうか。まぁおかげで昼休みも短く感じてしまうのがかなりの難点だが。


「うん! あとで寝落ち通話しようね! ばいば~い」


「誰がするか!」


 その後もチラチラとこちらを見てきていたりはいたが、山坂はようやく家の中へと入っていった。こうして俺の非常に疲れる学校での一日がおわ……


「お前また後ろつけてたのか」


 俺がその発言と共に振り返っても、後ろにいる人物、即ち尾行をしていた人物は驚きや困惑を見せるどころか、堂々と仁王立ちをしてニヤッと笑っていた。


「タハハハ! 相変わらず勘が鋭いね!」


 山坂とはまた違った甲高い声。そして圧倒的な声量の暴力で俺の鼓膜を破壊しにかかってくる。こいつの名前は浜中。一言で言うと、俗に言う腐れ縁の幼なじみというやつだ。


「お前部活はどうしたんだ?」


「今日は顧問の先生の用事で休みさ」


 そう、俺と浜中は幼なじみなだけあって帰り道の方面というのは一緒なのだが、実際に帰り道に会うことはほとんど無い。なんてったって浜中はわが高校が誇る女子バスケットボール部の大エースであり、部活で大忙しだからだ。中学時代から有名で遠方の私立強豪校からも声がかかっていたらしいが、「この街を捨てて、バスケをプレーするつもりはさらさら無い」とか言って、誘いを全部断ったらしい。それで昨年、うちに女子バスケットボール部は高校設立後初の県大会出場を決めたっていうんだから大したもんだ。また性格も良く、クラスでも男女問わず頼られるスーパーマンである。こいつは山坂と違って純粋にスペックが俺と桁違いなので、一緒にいるだけで自分を卑下しそうになってしまう。


「それでさっきのは相合傘かい? たーなーかーくん」


 先程の明朗快活としたハキハキボイスとは打って変わって、舐めずるようなねっとりボイス。普段敬称なんてつけるはずもないのにわざとらしいくん付け。山坂とはまた違ったウザったらしい口調で問いかける浜中。言い忘れていた。さっき紹介したのは表の一面だけである。おそらく俺しか知らない裏の一面はと言うと超がつくほどの腐女子というやつだ。


 こいつは俺と山坂の様子を見ては興奮気味に感想を伝えてくるし、ある時はこうしたらいいとか延々と自身の妄想した話を聞かせてくるし、少しは俺の身にもなってくれと言いたいところだ。


「あ――――! 尊い! 尊い! 本当に結婚しちゃえばいいのに!」


「てめぇいつから居やがった!」


 浜中はそこそこの距離を尾行していたらしく、会話の内容を的確にキャッチして興奮している。はぁ……全く俺の周りはどうしてこんなウザさマックスのやつばかりなのだろうか……これだと1年くらい一言も喋らないやつが隣じゃないとバランスが崩壊してしまう。いや隣は既にウザさマックスのやつで埋まってしまっているのだが。


「じゃあ山坂くん嫉妬されてもあれなので失礼するぜ、バイビー」


 そしていきなり冷静になった浜中は手をひらひらと振って、曲がり角を曲がっていった。唐突に現れ、暴れて、気づけば過ぎ去る。全くもって嵐のようなやつだ。


 はぁ……とまぁこんな風に俺の疲れる一日がおわ......よし今度こそ本当に終わりだ。無事に家につけた。


 ここからの俺はこの僅かな一時だけ普通の高校生に戻れる。飯を食い、風呂に入り、軽くゲームをする。あぁなんと高校生らしい! 出来れば学校でも普通の高校生らしく過ごしたいのだが。その後寝ようと自室に戻ってスマホを開くと、画面には「電話しよ~!」と山坂からのメッセージが表示されていた。ちなみにこれはほぼ毎日のことである。


「はぁ……しねえよっと」


 もう眠気がだいぶ回ってきており、明日も学校があるので、返信を済ませ、すぐさま寝ようとする。

 

 がしかし、俺の睡眠を阻害する、スマホからの通知のバイブレーションが鳴りやまない。通知の主などスマホを見ずとも分かっているが、万が一があるのでスマホを確認する。


 案の定山坂だった。


「今日で何度目だよ懲りないな」


 いつも通り返信など返さず、通知を切って今度こそ眠りにつく。これが俺の超絶狂ったいつも通りの日常である。



 ◇



 ……目が覚める。いつも通りの朝。いやいつもより数段いい朝だ。空は混じりけのない水色に染まり、太陽が燦々と輝いている。少し空いた窓からは雀のさえずりが響き渡る気持ちのいい朝だ。昨日の反省からリビングのある一階に下りて、テレビで天気予報を確認したが一日中快晴の予報である。朝ごはんはいつもより美味しく感じ、歯を磨く音すら少しリズミカルになってしまう。学校に向かう足取りは心なしかいつもより軽い気がした。


 が、あることを思い出し、スキップをしかけていた足を止める。そう、ここは山坂の家の少し前だ。あいつは登校時も奇想天外ないたずらを仕掛けてくる。まんまと引っかかれば素晴らしい一日が台無しだ。対策として今日はあいつの家の向かい側の道を歩く。


「……」


 何も起こらない。とても不思議な気分だ。あっ、そういえば山坂はクリーニングまで制服を取りに行ってるんだったな。思えば無意識にジャージを着ている。うっかりしていた。まぁ学校まであと少しだ。


「ぴ――ぽ――ぴ――ぽ――」

 

遠くから救急車の音が聞こえる。


「こんな朝に珍しいな」


 別に病院が近くにあるわけでもないこの地域で、朝から救急車のサイレンが街に鳴り響くのはとても珍しい。学校に向かって歩を進めるごとにサイレンの音は強くなる耳に入る。どうやら学校方面で何かが起こったらしい。


「ガヤガヤガヤガヤ……」


 通学路には野次馬が集まっていた。学校までの最短通路は完全に塞がれてしまっている。


「ちっ……迂回してくか」


 せっかく気分良く登校できそうだったのに、これでは台無しだ。仕方なく遠回りをして学校に向かおうとする。


「ここの高校の子らしいよ」

「なんか道に飛び出した子供を庇ったらしくて、子供は無事らしいけど……」


 野次馬の会話が耳に入る。ここの高校……子供を庇った……

 

 そんなことをしそうなやつが脳裏に浮かんで進行方向を人だかりへと変える。すごく嫌な予感がした。出来ればその予感が外れてくれることを願いながら、人ごみをかき分け、救急車のほうを見た。




 そこには原型を留めていない山坂の姿があった。



 ◇



 「 山坂が…… 通夜は19時…… 」


 雨が降っているわけでもないのに先生の声が途切れ途切れに聞こえる。心臓の鼓動がうるさいほど耳に入る。授業も黒板にずっと集中が向かない。何もない右側にたびたび視線が移る。トイレでも足音が、液体の跳ね返る音がうるさいほど鳴り響いている。弁当に珍しく入っていたブロッコリー。激しく動揺して落としてしまう。


 今日は一日、何も集中できなかった。


 学校の玄関を出る。しばらく立ち止まり雨も降っていないのに傘を開く。

 

「……田中!」

 

 当然後ろから自分の名前が叫ばれることも体当たりが飛んでくることもない。

 

「……田中!」

 今日一日のことはろくに覚えてない。

 

「おい田中!」


「……浜中?」

 

 ぜぇぜぇと息を切らしながら浜中がやってきた。


 「お前今日は……一緒に帰ろう」

 

 そう言って右手を俺に差し出す浜中。おそらく俺に気を使ってくれているのだろう。


 「わりぃ……今日は一人にしてくれ」


 だが今はその優しさを受け取れるほどの余裕は無い、俺は振り返って家に帰ろうとする。しかし左手首を後ろから捕まれ、阻止された。


 「ダメだ。今日お前は一人で帰っちゃ……」

 

 浜中は珍しく泣いていた。はっきり言って初めて見たかもしれない。でも無理もない。クラスメイトが死んだのだから。しかしみるみると俺の視界も潤んできた。気が付けば、俺は浜中の手を掴んだまま崩れ落ち、泣き叫んでいた。


 

 ◇



「……南無阿弥陀仏」


 葬式のお経はほとんど聞こえなかった。聞きたくもなかった。目に映るのはたくさんの花。ニコッと笑う山坂の顔写真。目を向けられなかった。どこかでドッキリ大成功とか言ってあいつなら飛び出してくれる気がした。しかし何事もなく葬式は終わってしまった。


 今日はもう帰ろう。早く寝ないと変な気でも起こしてしまいそうだ。俺は意識を失いつつあるままに無理やり帰宅しようとする。

 

「……あの田中君ですか?」

 

 しかし聞きなじみのあるような声に呼び止められ、足を止め振り返る。

 

「はい……」

 

 そこには見慣れた顔によく似ている顔が立っていた。

 

「あの、すみません。息子からよく話を聞いていたので」

 

 左胸には喪章が付いていた。どうやら山坂の母らしい。顔も声も山坂にそっくりだ。

 

「あっ、こんばんわ……」

 

 自分ばかりが悲しんでると思ってはいけない。何故なら山坂の母親は十七年間、女手一つで育ててきた大事な息子を失ったのだから。おそらくその悲しみは俺なんかのものとは比べることすらおこがましいものだろう。

 

「これ、田中君の制服です。息子が昨日汚してしまったみたいで、申し訳ございません」

 

 そうだ。山坂は俺の制服を取りに行っていたのだ。土埃以外が少しついているくらいで目立った汚れは特にない。もしかして山坂、制服まで庇ってたんじゃ。もし俺が取りに行っていたら、もし二人で取りに行っていたら、もしもう少し俺が優しい言葉をあの時なげかけていれば。山坂は……

 

「普段から息子が迷惑ばかりかけていたようで申し訳ございません。以前から謝罪したかったのですが、このような場所で伝えることになってしまって……」

 

「迷惑……だなんて……」

 

 堪えていた涙が溢れ出て、止まらなかった。後悔、自己嫌悪、無念、自己嫌悪。そのようなものがドロドロと身体を蝕んでいく。

 

「うぇっぐ、ひっく、あぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 人目もはばからず俺は泣いた。泣いた。泣いた。


 もう少し山坂に対して仲良く接しておけば、もう少し受け身でなく、俺の方から山坂に歩み寄っていれば、感謝を伝えておけば、もう少し素直になっていれば、あいつとの記憶を辿っても湧き上がるは後悔ばかり。それは自分という人間を殺してしまいそうになるほどだった。


 悲しみは止まらないというのに、水分が切れたのか涙は止まっていた。このまま葬式の会場に居続けることはもちろん不可能なので、もはや感覚のない身体を無理やり動かし、家へと向かって歩き始めた。


 葬式からの帰り道は奇しくも山坂とよく一緒に帰った学校の帰り道と一緒だった。ふと横を見れば濡れた葉っぱの上にかたつむりがいる。しかしそれをツンツンとつつくやつはもういない。昨日までの雨の影響で水溜まりが出来ている。しかしそこにヘッドスライディングをするやつはもういない。


 右肩がとても軽い。


 ダメだ。今この世界の全ての情報が俺の精神を蝕む毒となってしまっている。俺は目を閉じて、闇雲に家まで走った。


 そして自宅についた。そのまま玄関に座り込む。飯を食う気力も、風呂に入る気力も、ゲームをする気力も当然あるはずがなかった。早く寝ようと思った。そして目が覚めた時、これは全部夢だったみたいなオチであることを願った。そう願う他自分の精神を保つ方法が無かった。


「お~い」


 声がする。母親のものでも、父親のものでもない、物凄く聞き馴染みのある声。もう二度と聞けるはずのない声。


「ダメだ。とうとう幻聴まで聞こえてきやがる」


 もはやどの感情から溢れてきているか分からない涙が頬を伝う。そして訳も分からず笑ってしまう。もう俺は完全におかしくなってしまっているらしい。


「も~泣かないでよ~困っちゃうじゃん~」


 その独特な間延びした声。嘘だと、幻聴だと、見たら覚める夢だと脳では分かっていても耳が心があいつだと叫び続ける。

 

「まぁとりあえず~お帰り! お風呂にする? ご飯にする? それともぼ・く?」


 そのふざけた喋り方に思わず顔を上げる。見慣れた顔。特徴的なウザったらしい笑みに映える八重歯。こんなやつ俺は一人しか知らない。

 

「何がぼ・く? だよ。この馬鹿野郎が……」

 

 その発言と裏腹に心が、身体が抱きつきに行っていた。誰がなんと言おうと目の前に山坂がいるのだ。あのウザい山坂が。あの馬鹿な山坂が。あの……大好きな山坂が。


 しかし広げた両手は山坂をすり抜けてしまい、危うく勢いそのままに階段に激突してしまいそうになる。それが意味することそれはつまり……舌を噛みちぎりそうになるほど、歯を食いしばる。しかし悲しい予想と裏腹に声は消えなかった。


「うへへへ、僕死んだんだよ? 触れるわけないじゃん。相変わらず馬鹿だな~田中は」


 そして振り向くと、目の前でぷかぷかと山坂が浮かんでいる。


「どういうことだよ……じゃあなんでお前はここに」


 冷静さを取り戻し、目の前で起こっている異常事態に対する驚きで涙が止まる。何度も目を擦るが山坂の姿が消えない。


「なんでって会いたくて化けてきたんだよ!」


 そう言って、うへへへと笑う山坂。しかし俺はその山坂の言葉を聞いても状況が理解できず、ただただ呆然としていた。

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