文学少年の初恋

ことはたびひと

図書室にて

 阿部達也は図書委員の仕事をまっとうするため、学校図書館の敷居をまたいだ。

 阿部少年がこの高校の図書委員を務めてはや二年。

 入学当初こそ慣れない図書委員の業務内容に四苦八苦していた阿部少年だったが、二年目ともなるとさすがに慣れる。

 どの棚にどの本が収められているのかあらかた把握しているので、今では作者の名前やジャンルなど情報さえあれば、すんなりと棚からお目当ての本を見つけ出すことができる。

 自分の成長にハナタカである。

 図書館には生徒の姿はまだなかった。

 阿部少年一人だけである。

 季節は春の温かさがひときわ恋しくなる大寒の2月。

 いつもは人の集まる図書室も、生徒がいなければ忘れ去られてしまったように寒々としている。

 阿部少年はしんと静まりかえる図書室で、ほっと息をついた。

 生徒の息づかいが間近に聞こえるような活気ある図書室よりも、誰もいない音を吸収するような不思議な静寂に包まれた図書室のほうが、阿部少年は気に入っていたのである。

 阿部少年はみんなでわちゃわちゃ群れるより、孤の静寂を好んだ。

 そんなこともあって、阿部少年はクラスで友達がなかなかできなかった。

 クラスメイトの名前さえろくに覚えていないところを見るに、友達を作る気さえないように思える。

 他人に興味がわかなかったのだ。

 時刻は昼休み5分前。

 そろそろ図書室に生徒が集まりだす時間帯だ。

 誰も来なければいいのに。

 困ったように阿部少年の眉が下がる。

 目の前に青臭いピーマンを食卓で出された子供のような気持ちだ。

 ちょっと気が重い。

 阿部少年が気落ちしている理由はそれだけではない。

 前回インフルエンザで図書委員の仕事を休んでしまったため、今日阿部少年はいつものペアではない生徒とともに図書室で働かなければいけないのだ。

 同年代の面倒な交流関係を避けに避け続けた阿部少年にとって、面識のない生徒と一緒に共同作業をすることは、「これから無人島で一人で生活するように」と言われるのと同じくらい、阿部少年にとっては無茶難題なことだった。

 図書室のカウンターでしばらく待っていると、少したれ目の丸っこい笑顔を浮かべた女子生徒が図書室に現れた。

「君があべ君?」

 彼女のたんぽぽの綿毛のようなふわりとした声が、阿部少年の頬を撫でた。

「よろしくねっ!」

 花が咲くような笑顔で彼女は言った。

「よ、よろしく」

 阿部少年はどぎまぎしながら答えた。

はたして無事に仕事ができるだろうか。

しどけない彼女の笑顔をまじかに見て、阿部少年は不安になる。

 彼女は阿部少年の横でカウンターで図書カードの整理を始めたころ、学校の生徒たちがちらほらと図書室に集まりだした。


 図書の貸し借りがある程度落ち着いてき、寒さでペンを握るかじかんだ指先がだいぶ温まってきたたころ、肘を机の上につき、あごを乗せ、上目遣いで彼女が僕に訪ねてきた。

「あべ君、きみインフルエンザで休んでいたでしょ」

 その声は少しばかしの好奇心に突き動かされ、つい口をついて聞いてしまったというようなニュアンスを含んでおり、道端に咲いていた花の名前を調べているような何気ない問だった。

「うん、一週間くらいね」

 内心どぎまぎしつつ僕は答えた。

「ふぅん、私もなんだ。クラスでインフルエンザが大流行しちゃってさ。私もそのあおりを受けたわけ。家に引きこもっていたたら暇で気落ちするし、もう迷惑千万だよ。」

 さもわずらわしと、彼女は頬を膨らませて愚痴る。

「ねぇ、あべ君はインフルのあいだは何をしていたの?」

うーん…、困った。

 人に話して面白いようなことは特にしていないからなぁ。

 阿部少年は心の中で独り言ちる。

 すこし逡巡したあげく「本と…、小説を書いていた、かな」と自信なさげに疑問形で答えてしまった。

「へぇ!小説!何書いてんの?」

 彼女はしっぽを振る子犬みたいに、グイっと僕のもとへ近づいてきた。

 彼女のやわらかい息遣いが肩越しに聞こえる。

急に自身をとり囲む周りの温度がぐっと上がったように阿部少年は感じた。

「えーとね、現実では起こりえない不思議なことを想像するのが好きなんだ。ファンタジーとかSFとか、自分の心の中にしかない世界をね。だから、自分の書いた物語を小説投稿サイトにアップしているんだ…」

 しりすぼみになりながらもがんばって阿部少年は答えた。

 彼女の顔を見て話せなかったことに後ろめたさを感じるが、彼女はそんなこときにすることなく、阿部少年の言葉に「へえぇ、小説投稿サイトに」と頬杖をついて相槌を打ちながら、うんうんと気持ちよさげに聞いている。

「コンテストには応募しないの?」

阿部少年の話を楽しそうに聞いていた彼女が、ふと彼に尋ねた。

「コンテストかあ、いつか挑戦したいな」

「いつか?」

 隣で彼女はキョトンとした表情で阿部少年のことを見つめる。

 彼を見る彼女の目は「なんで君は挑戦しないの?」と、彼に問いかけているようにも感じる。

「うん、いつかね。小説を書き始めてまだ間もないから、短編しか書いたことがないんだ。だから、今は立派な小説が書けるように練習中」

「ふうん、じゃあ、小説投稿サイトっていうのは、君の場合、夢に手を伸ばすための練習場ってわけね」

「そういうことになるかな。あ、たまに僕の物語を読んだ人からコメントが来るんだ。ここで僕の物語を読んでくれる読者はみんな僕の先生だよ」

「じゃあ、あべ君の物語を待っている読者がいっぱいいるんだね」

 彼女は眩しそうに目を細めてつぶやく。

「いやぁ、それがね…」

「?」

「あんまり読まれていないんだよ」

「え、本当⁉」

「残念ながら」

「でも、コメントが来るって」

「たまにだよ」

 阿部少年は困ったように指であごをかきながら、柔和に答えた。

 半年前から小説を描き始めたのだが、彼の書いた小説の閲覧数はなかなか伸びていない。

 やっとだれか彼の書いた物語を読んでくれたと思っても、実は読み手は自分の母親でしたということは彼にとってよくあること。

 一つの物語を書くのにかなりの時間がかかる。

 ショックといえばショックである。

「みんなに読んでもらえないんなら、なんで小説なんか書いてんの?」

 彼女から素直な疑問がこぼれた。

 当然の疑問である。

 僕をじっと見る彼女の目は、好奇心旺盛な子猫のまなざしのように澄んでいた。

「楽しいから」

 自分でも驚くほど、阿部少年ははっきりと答えていた。

「僕はね、自分が読んで面白いと思ったものを、投稿してるんだ。自分が書いていて楽しいものを、自分が読み返して心はずむものを、そんなものを、書いてるんだ。僕の物語、一番の読者は僕だからね。みんなに読んでもらいたいとは思うけど、二の次。一番大切なことは、自分が自分の物語に満足すること。そうだと、思う」

 言葉を一つ一つ選び取るように、それでいて迷いなく。

 横で話を聞く彼女のほうをちらりとうかがうと、少し驚いたように目を見開いて固まっていた。

 まるで初めて雪を見た子供のように。

 そんな折、学校のチャイムが鳴り響く。

昼休みが終わったのだ。

 クラスへの帰りぎわ、阿部少年は彼女との会話を思い出す。

情報の一方通行だった気がする。

 僕は彼女に自分のことをたくさん話したけど、彼女は僕に何も教えてくれなかった。

 そういえば彼女もインフルエンザにかっていたというが、彼女はこの期間の間なにをしていたのだろう。

 僕と同じく本を読んでいたのかな。

 阿部少年は肩にかかる髪を耳に書き上げて彼女が本を読んでいる姿を想像した。

 想像しただけで、ページをめくる音や彼女の息づかいが聞こえるような気がする。

 胸がかぁと熱くなって、息が詰まる。

 それは久しぶりに少年が他人に興味を持った瞬間だった。

 知りたい。

 彼女と話したい。

 少年は人の名前をきちんと覚えようとしてこなかったことを久しく後悔した。

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