第29話 幸福
「本当にこんなので良いの?」
ドン・キホーテのコスプレ売場で杏奈はウェディングドレスを物色している、どうやらタキシードも購入するようだ。
「本物なんて買ったら大変でしょ、それに気分だから。大切なのは気持ちよ」
二つで九千八百円、これからの事を考えると散布する訳にはいかないが、幾らなんでもこれじゃあ杏奈が可哀想だと思った。
「それに見物客がいる訳じゃないんだから」
杏奈は教会で二人だけの結婚式を挙げようと提案してきた、身よりも友達もいない蒲田は問題ないが杏奈はそれで良いのだろうか。
「思い出は東京に置いてきたから」
殺される心配がなくなったと言っても蒲田が殺人犯の息子と言う現実は変わらない、正式に結婚しようと杏奈の親にお願いしても絶対に反対される事は目に見えている、それが分かっているから杏奈は二人だけの結婚式を提案したのだろう。
「ごめんな」
下を向いて謝る蒲田に杏奈は笑顔で答えた。
「これから沢山二人で思い出を作っていこ、これはその第一歩よ」
そう言うと真剣な眼差しでコスプレ衣装を選び出す、そんな彼女の横顔を見てこれからの人生の全てをかけて幸せにしようと心に誓った。
「ちょっと勝手に入ったらまずいだろー」
夜の教会に杏奈はずけずけと入っていく、スマートフォンで大阪にある教会を調べていたが、まさか夜中に忍び込むとは思っていなかった。
「良いのよ、教会は勝手に入っても」
「それは昼間じゃないのか」
夜の教会の方が素敵じゃない、それが彼女の言い分だったが蒲田は誰かに咎められないかキョロキョロと辺りを伺っていた。
入口からまっすぐに伸びた先に十字架のモニュメントが置かれている、左右には参列客が座るのであろう木製の椅子が並ぶ。
明かりが付いていない教会には十字架の後ろにあるステンドグラスから月明かりが差し込んでキラキラと輝いていた。確かに夜の方が雰囲気が良いのかも知れないと納得していると杏奈からタキシードを手渡される。
「じゃあこれに着替えてください」
こっち見たらダメだからねと付け加えると、左右の椅子に別れて着替え始める、静かな教会の中で杏奈が服を脱ぐ衣擦れの音だけが蒲田の聴覚を刺激した。
「せーので向き合いましょ」
杏奈の掛け声で二人は向かい合う、そこにはドン・キホーテで購入したとは思えないほど美しい姿の杏奈がいた。
真っ白なドレスは月明かりで輝いている、照れくさそうに笑う彼女は大袈裟じゃなく女神に見えた。
「どうかな?」
「すごく、きれいだよ」
杏奈は微笑むと十字架の前まで蒲田を誘導した、神父もいない、祝ってくれる友人や親族もいない二人だけの結婚式。しかし蒲田は自分は間違いなく世界一幸せだと感じていた。
「新郎蒲田敦、あなたは杏奈を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、妻を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
いつの間に暗記したのだろうか、杏奈は無理やり外国人のような片言で言うと、手をマイクのようにしてインタビュアーのように蒲田の口元に持ってきた。
「誓います」
笑顔の杏奈が次はあなたの番よと催促してくる。
「えっと、なんだっけ?」
もー、とほっぺを膨らませた杏奈が可愛すぎて抱きしめたくなったが何とか我慢した。
「新婦蒲田杏奈、あなたは敦を夫として、でしょ」
「あー、そうだそうだ」
杏奈に誘導されながら神父の言葉を何とか復唱した。
「誓います」
二人は見つめ合いながら笑った。
「自前感がすごいね」
「逆に思い出になると思うわ」
「あの」
蒲田は遠慮気味に問いかけた。
「誓いのキスは?」
杏奈とはセックスは愚かキスもしたことがなかった、強姦により親友を失った彼女は今までに誰とも性行為をした事がないと言う、トラウマになった訳じゃないと言うが少なくとも結婚するまではキスもお預けなのだ。
「ん……」
それだけ言うと杏奈は目をつぶって首の角度を少しだけ上げた。月明かりに照らされた美しい妻に唇を重ねようとした時だった、後ろからハンカチの様な物を口に当てられた、すぐに抵抗したがあっという間に力が入らなくなり気を失った。
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