海辺の町で

だっちゃん

海辺の町で

「お祖母ちゃんがね、『女っていうのはね、大人になるまで髪を伸ばさない方が幸せになれるんだよ。だから、今はまだ短くしていなさい。』って言うの。」

 わたしがユウくんに伝えると、彼は「ふーん、そうなんだ。」といかにも気のない返事をしてみせた。自分から「どうして香子は女のクセに、そんなに髪の毛を短くしてるわけ?」などと訊いてきたのに。まったく勝手なやつだと思っていたのを今でも覚えている。

 

 小学生の頃、隣町にある海岸道路沿いの美容室ナギサに通っていた。月に一度、祖母に連れていって貰っていたのだ。いいや、連れていかれていたという方が正確だと思う。本当は、ずっと髪を伸ばしていたかった。当時、わたしの髪の毛は男の子みたいに短いショートヘアだったから。わたしは、長い髪に憧れていた。

 土曜日の夕方にやっていた女の子向けアニメのキャラクターはほとんど全員、腰まであるようなロングヘアの持ち主だったし、ショートヘアのキャラクターはいつだって脇役だった。

 同級生の女の子たちだって、みんなキレイな長髪の子ばっかりで、わたしのような短髪にしている子は少数派だった。

 色とりどりの髪留めを親に買って貰い、それを学校の教室で自慢し合う彼女たちの話の輪に、わたしは加わることができなかった。彼女たちが可愛くしていることを心の底から羨ましく思っていたし、そうすることを許してくれない祖母を疎ましく思ったことだって何度もある。

 

 美容室に行くと、まずわたしから「ナギサのおばさん」に髪を切って貰った。簡単な髪型だからあっという間だ。そのあと洗髪して貰うのが好きだった。どうせ帰宅してからお風呂に入ることになるのだけれど、あの何ともいえない良い匂いに包まれていると少しだけ大人になったような気がした。

「はい、終わったわよ。」

 おばさんはわたしの頭を撫でて知らせてくれる。何故かくすぐったい気持ちになる。わたしがすっかり髪の毛を短くカットされてしまうと、次は祖母の番だった。

 そしてその間、わたしはお店の前にある砂浜でユウくんとよく遊んだ。彼の本当の名前は忘れてしまったけれど、とにかくわたしは彼のことをユウくんと呼んでいた。

 ドッジボールをしたり、漂流物を拾ったり、夏場は海にも入ったり、夕陽に見とれて砂浜を歩くカップルを落とし穴にかけたり。子どもだったわたしたちにとって、時間の潰し方はいくらでもあった。

 彼はナギサのおばさんの子どもで、わたしとは別の小学校に通っていた。褐色に焼けた肌をしていて、笑ったとき頬にネコのヒゲみたいなシワができていた。わたしはそれを可愛いと思った。





 それにひきかえ、まるでアンパンマンみたいに目いっぱい張った自分の頬っぺたがあまり好きではなかった。わたしにもあのシワが欲しくて、何度か鏡を見ながら頬っぺたを潰してみたのだけれど、結局すぐに戻ってしまった。

 あるとき、彼に言ってみたことがある。

「良いなァ、そのヒゲみたいなやつ。」

「これ、『鬼えくぼ』っていうんだって、カッコイイでしょ。」

 そう言って、くしゃっと笑うのだった。その眩しさにわたしは思わず手が伸びて、彼の頬っぺたに触れた。

 彼の体温は火傷するくらい熱くて、わたしは彼の顔から手を離せずにいた。彼はわたしに顔を触れられたまま、ビックリしたような表情を浮かべ、徐々に赤くなっていった。彼の表情を見て、わたしも体温が上がっていくのを感じた。

 やがて美容室から施術の終わった祖母が砂浜にやってきて、「香子、そろそろ行くわよ。」と呼んだ。我に返ったわたしはユウくんに手を振って、祖母のもとに駆けて行った。

 ふと後ろを振り向くと、水平線に夕陽が沈もうとしていた。逆光になったユウくんの影が海辺で一人、わたしに手を振り返していた。そのことに、わたしは言いようのない寂しさを覚えた。

 ああきっと、あれは初恋だったのだと思う。

 そうでなければ、あんなに嫌がっていたショートヘアにされてしまうのに、祖母に「今度いつ美容室に行くの?」などと頻繁に訊くようになったりなんてしなかったはずだ。

「あなた、またそんなに砂だらけになって。お母さんに怒られるわよ。」

 そう言ってわたしを諫める祖母の姿は何処か楽しげだった。あんなに時間がかかった割に、祖母の見た目がちっとも変っていないのが不思議で仕方なかった。

 

 中学校に上がる頃、突然祖母が亡くなった。

 そしてわざわざ隣町の美容室に行くこともなくなった。それでもしばらくは、惰性でショートヘアを続けていた。

 女子高に上がると同時に、思い切って髪を伸ばしっぱなしにしてみた。パサパサに広がって浮浪者みたいになってしまった。近所の美容室に通って、ケアの仕方を教えてもらった。

 母はわたしの長くなった髪を見て、「まあ、そんなもんじゃない。」といってあんまり意に介している様子はなかった。わたし自身にも、さほど感慨があったわけではない。

 ある日、海辺を通りかかると、美容室ナギサが潰れてしまっているのを見付けた。廃屋を覗くと、明るかった店内がウソのように暗く荒れ果てていて、わたしは見てはいけないものを目にした気がした。二人は何処へ行ってしまったのだろう。胸の中で海風が吹きすさぶようだった。

 

 祖母はどうして、あんなにわたしをショートヘアでいさせることにこだわっていたのだろう。賢明で貞淑だった祖母は、そうして女らしさを身に付けさせないようにすることで、変な虫がわたしに寄り付くのを避けようとしていたのかもしれない。

 祖母の言っていた「大人になるまで。」とは、一体いくつになるまでのことをさすのだろう。今思えば、やっぱり女子高生は大人ではなかったのではないかと思う。それに、若いうちに変な虫が寄り付かなかったことが果たして本当に良いことだったのかどうか、わたしにはよくわからない。


 進学と同時に上京し、勤め先の上司と恋に落ちた。不倫だった。恋愛経験の乏しかったわたしは、彼の言葉巧みで柔和な振る舞いにすっかり魅了されてしまった。そうして、きっと彼はじきに奥さんと別れわたしと一緒になるものだと、愚かにもすっかり信じ切ってしまっていたのだった。

 ある日、彼の子どもを妊娠した。彼に告げると別れを切り出された。わたしは受け容れなかった。しかしそれを機に、環境は一変した。

 私が個室に入っていることに気付いていながら化粧室で私の噂話をされ、廊下ですれ違いざまに嫌味を言われたこともある。男性社員からは、露骨に性的な関係を求められた。

 きっと職場の同僚たちはわたし達の関係性に気付いていて、内心苦々しく思っていたのだろう。そして彼の後ろ盾を失った私は、彼らにとって格好のサンドバッグと化してしまった。

 次第に肌が荒れ、円形脱毛症にもなった。それを隠すように髪を結おうとすると、毎朝手が震えた。

 そんな日々を送り数か月経った頃、知らない番号から着信があった。彼の奥さんだった。このまま居辛い状態で会社に残り慰謝料を支払うか、退職金を受け取って会社を辞め彼の一切を忘れるか、彼女はわたしに二択を突き付けた。もはや選択の余地はなかった。


 そして会社を辞め、湊多を出産した。

 辛いとき、何故だか故郷の海辺の町を思い出すことがあった。あの波の音に誘われて、この子のもとに幸せが沢山やってきたら良いのに、と願いを込め湊多と名付けた。それは或いは、わたし自身への祈りのようなものだったのかもしれない。

 転職し、湊多を一人で育てようと決心していたわたしだったけれど、産後の身体を引きずって子育てと労働をこなすのは思っていた以上に苛酷だった。

 湊多の、まつ毛が長くて大きい目はあの人にそっくりで、すごく愛おしくて、それが無性に耐えられなかった。

 ある朝、湊多が食事の器をひっくり返した。わたしは思わず湊多に手を振り上げていた。それでもう、限界だと思った。

 未婚で出産したことをわたしは母に伝えていなかった。きっと怒られ、呆れられてしまうと思っていたから。

 それでも意を決して母に電話をすると、「わたしもおばあちゃんに沢山あなたのこと見て貰って、やっとあなたを育てたのよ。遠慮なんてしなくていいわ。お金は何とかなるけど、身体を壊したら元も子もないもの。」と声を掛けられ、その優しい言葉に甘えて実家に里帰りをすることにした。

 

 あんな田舎の町に、わたしに出来る仕事なんてあるんだろうか。と思っていたけれど、漁業製品を加工して販売する会社の経理事務の仕事にありつくことができた。

 それは、東京で働くことに比べたら低い給料ではあったのだけれど、実家で暮らしていれば、オートロックのマンションの家賃を払わないで済んだ。そのぶん金銭的にも、ほんの少しだけ生活は楽になった。

 ある日の残業帰り、軽自動車を海岸道路で走らせ帰路についている途中、見慣れないお店の灯りが煌々とついているのを見付けた。

 それは、新しくできたばかりの美容室だった。祖母に連れられ通っていた、美容室ナギサのあったところだ。

 ちょうど髪の毛も傷んで来ていた。遅い時間だけど、飛び込みで入ることは出来るのだろうか。お店の前に軽自動車を停め、店内に入ると新しい建材の良い匂いがした。

 精悍な顔の若い美容師が現れて、「いらっしゃいませ!」と言って頭を下げた。わたしは、すぐ彼に気付いた。

「……ユウくん?だよね。わたしのこと、覚えてる?」

「あれ、香子ちゃん?香子ちゃんだよね?ああ、ああ、覚えてるよ。おふくろのお店に来てくれて、よく一緒に遊んでたよね!」

「前のお店、無くなってたから、どうしているのかと思っていたの。」

「香子ちゃんが来なくなってからしばらくして、おふくろが身体壊しちゃって。あれから大変だったんだよ。引っ越しもしたし、オレもバイトしなきゃいけなくなったし。」

「おばさん、今は?」

「何だかんだ、今はケロっとしてるよ。拍子抜けというか。それで最近になってやっと、自分のお店を持とうって思えるようになったんだよ。」

 そうか。当たり前のことだけど、彼もずっと彼の人生を歩んで来ていたのだ。

「さあどうぞ。この時間お客さんそんなに来ないから、すぐ入れますよ。」

 彼の言葉に促されるまま、前とはすっかり様子の違う真新しい店内を進み、スタイリングチェアに腰掛けた。鏡越しに目が合い、彼は目を細めた。

「香子ちゃん、髪の毛長くなったんだ。本当に大人になったんだね。」

 施術が終わると、わたしのスマホで後ろ姿を撮ってくれた。自分の後ろ姿を確認すると、パーマをあてたウェーブの一つ一つが波間の水しぶきのように光の曲線を描いていた。

「ちゃんと、上手いんだね。」

「そりゃあもう。プロですから。」

 お会計をしながら褒めると、照れ臭そうにあの笑顔で、くしゃっと笑っていた。

「あ、鬼えくぼ。」

「香子ちゃん、よく知ってるね。」

「ユウくんが教えてくれたんだよ。」

 そうだっけなあ、と言うユウくんの頬に手を伸ばして触れると、ユウくんはビックリした表情を浮かべて私の目を見た。

「思い出した?」

「……思い出しちゃった。」

 私の手の甲に、彼は自分の手を重ねた。


 湊多を連れて彼の実家へ挨拶に伺うと、ナギサのおばさんはすぐわたしに気付いてくれた。

「雄一ね、たまに『香子、なにやってるんだろうな。』って気にしていたのよ。また会えて嬉しいわ。」

 そう言っておばさんが笑うと、ユウくんは顔を赤くしていた。

「コブ付きですみません。」

「家族が一度に二人も増えて、楽しいわよ。」

 おばさんは湊多のことを撫でてくれた。湊多も満更でもなさそうな顔をしていて、わたしは自分が撫でられたことを思い出して少しくすぐったい気持ちになった。

 湊多がこの海辺の町に導いてきてくれたのかな。それともお祖母ちゃんの言うとおり、髪の毛を短くしていたおかげかな。

(了)

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海辺の町で だっちゃん @datchang

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