第29話 悪魔の気持ち(シュガ視点)


「ほんと、人間ってしつこい」



 テグスン国に潜入するにあたっての緊急事態用の集合場所へと向かっていたシュガは、人族の騎士や獣人族の戦士に執拗に追われていた。


 ここが悪魔界ならば、こんな傷は一瞬で治癒できる。


 しかし、現世で魂の器たる体を維持するだけでも膨大な魔力を消費するのに、聖魔法で焼かれていてはまともに動けなかった。



(ツダがくれた魔力、ほとんど使い切っちゃった)



 こんなことになるなら大人しく魔宮殿でツダの帰りを待っていればよかった。


 シュガは目が良いだけの下位悪魔レッサーデーモンだ。

 その目のおかげでツダの本心と、彼が鬼人族ではないことを見抜いているだけで何の力もない。


 契約の上で自分にも不利になるからこそ他言していないだけで、ツダの正体と目的が明るみになれば大問題へと発展するのは目に見えていた。


 しかし、彼女の契約者であるツダはただの人間ではない。

 それはシュガ自身も気づいていた。気づいているにも関わらず、勘違いしてしまったのだ。



 自分もツダと同じように周囲を騙せるのではないか、と。



 馬鹿だった。実際にはそんなことなかった。

 人族にとって悪魔とは相容れない存在であり、無自覚に嫌悪している。


 戦闘の心得がないただの店員だったとしても、「なんか違うな」といった小さな違和感を感じてしまうのだ。


 シュガはそれを知らなかった。


 そして何よりの敗因は魔素で満ちる魔宮殿よりも、魔力が一般的ではない人族の国の方が存在するための魔力消費が激しいということを知らなかったことだ。



「ごめん。こういう時のために、自分の魔力を食べさせてくれていたのに。アタシ……無知で……弱いから」



 悔し涙が頬を伝う。

 だが、戦場と化したこの地では悔いる時間すらも与えてくれない。



「見つけた!」



 黒装束の女が合図すると多数の足音が遠くから聞こえてきた。


 シュガは目が良い。

 だからこそ敵の数を正確に見極め、絶望した。



 ――逃げられない。



 短剣を逆手に持ったアサシン風の女がにじり寄る。


 シュガにはあと数分だけ体を維持する魔力しか残っていない。

 そんな状態で追手を振り切り、ツダと合流するなんてことは不可能だった。



「せっかく、契約できたのに――」



 大木に寄りかかるシュガの首筋に短剣が突きつけられた。



「動かないでください。あなたを拘束します」



 虫も殺さないような声の人族の女に捕らわれるなんて。


 合図を聞きつけた人族に囲まれ、多種多様の攻撃魔法が展開されると、シュガはこれが最期と覚悟を決めた。



「ツダ、もっと――」



 耳をつんざく爆発音にかき消されたシュガの言葉。



「おい、俺の悪魔シュガに何してくれてるんだよ」



 二度と彼が住む世界を、彼が見ている世界を、彼が目指している世界を、見ることができないと思っていたシュガの耳に届いた声は怒りに震えていた。



「食えるか?」



 怒っているのに、優しい声。

 しなやかな指が唇をこじ開け、口内に感じたことない甘さが広がった。



「……ツダ…………?」

「待ってろ。すぐに終わる」



 アサシンの女に短剣を突きつけられていることもお構いなしに、続けて口の中に金平糖が放り込まれていた。


 甘いなんてものじゃない。

 脳がとろけそうになる、禁断の味がした。



「女、片腕が惜しかったら剣を下せ」



 ツダが指を振ると、ガキンッと金属がぶつかり合う音に続き、人族の女がよろめいた。


 何が起こったのか理解できない人族たちと違い、シュガの目は捉えていた。



 ツダの指先に伸びる龍の爪を――



「ダグダ、振り落とされるなよ」



 背中に鬼人族を背負ったツダがシュガをお姫様抱っこして、人間とは思えない脚力で飛び上がる。


 ツダはいとも簡単に人族の包囲網を抜けたが、地上から放たれた追撃が迫り来る。



「アタシが!」

「休んでろ」

「いや! アタシが……。アタシも、ツダに世界を見せるんだから!」



 ツダから手渡された金平糖には、彼の魔力が込められている。

 たった1粒でも聖魔法で負った傷を癒せるほどの魔力だ。だが、シュガは与えられた魔力を回復には使わなかった。



 ツダはアタシを必要だと言ってくれた。

 目が良いだけが取り柄の下位レッサーのアタシを――


 真っ暗な悪魔界しか知らなかったアタシに世界を見せてくれると約束してくれた。


 たとえ、彼の目的が元の世界に帰ることだとしても。


 利用されるだけの関係だったとしても。


 いつか捨てられると分かっていても。



「視覚リンク! 人族の敵は全部で23! 待機しているのが6! ターゲットロックオン」



 ツダの戸惑った顔が、やりたくないと告げている。


 同じ人族を傷つけたくないと叫んでいるようだった。


 だけど、この窮地を抜け出すためにはやるしかない。

 ツダに他の選択はなかった。



「威嚇だけでいい」



 苦しい。

 彼の心が見えるからこそ、同じように苦しい。


 シュガは全方位の敵に目を向けながらも、ツダの瞳だけはじっと見つめ返していた。


 重力に従って降下を始めるツダの周囲に現れる黒い炎を凝縮したような球体――黒炎弾。その数は人族と同じ29個。


 彼が毎朝、隠れて魔法の練習をしていることを知っている。

 ツダがいずれ自分の権能を"こういう風"に使うことも予想していた。


 だから、無駄な言葉はいらない。


 ツダは誰も殺さず無力化できるように細心の注意を払って漆黒の炎を放った。


 シュガと視覚がリンクしているからこそ、黒炎弾はこの場にいる人族全員に向かっていく。


 威嚇射撃だったとしても黒炎弾が擦れば、ただでは済まない。消えない炎が体中を覆い、骨まで焼き尽くす。


 即死しない方が厄介な魔法だ。


 これまでツダが魔法を使用しなかったのは、自分だけでは制御できないと分かっていたからに他ならない。

 だが、今ならシュガを信じて撃てる。



「……ダークドラゴンのブレス!? 本当に鬼龍族なのだな」



 ダグダの呟いた通り、ダークドラゴン族のブレスを凝縮したのがこの黒炎弾だ。


 その気になれば地形を変えることもできる威力を誇る。そんな魔法の威力を気合いと努力で最小限に抑え込んでいた。


 シュガは黒炎弾が人族の魔法を掻き消し、誰も傷つけていないことをツダを伝えた。


 安堵した表情で着地し、悪魔と鬼を背負ったまま。ダークドラゴンとの合流地点へと向かい、走り出した。



「……タカくん?」



 しかし、さっきの虫も殺さそうにない女の声に呼ばれて、ツダが足を止めた。


 その目は驚きと、嬉しさと、怖さと、悲しさが混じり合ったようで、とても辛そうで、今すぐにでも耳を塞いであげたくなった。



「タカくんだよね!? その走り方、覚えてるもん。一緒に孤児院でかけっこしたよね!?」



 シュガに短剣を突きつけたアサシン風の女だ。

 顔の下半分を覆っていた布を外し、素顔を晒していた。



「……なんで。なんで、ナサヤちゃんが多種族同盟軍にいるんだよ」



 決して振り向かず、奥歯を噛み締めながら憎たらしく漏らす。



「貴族と養子縁組したんじゃないのかよ」



 ジリっと背後で女の足音が近づく。



「良かった。タカくんが魔族に殺されたって聞いたから。私、仇を取りたくて――」

「やめろよッ!!」



 ツダの声に悪魔も、鬼人族も、人族も、それぞれ別の種族であったとして体を強張らせた。



「そんな理由で……戦場に、立つなッ」



 足に魔力を込めて、踏みしめる。


 ツダが跳躍すると上空まで迎えにきていたダークドラゴンが超速度で三人を拾い上げた。



「タカくん!!」



 高度が上昇し、女の声が遠くなる。


 ダークドラゴンの背中にシュガとダグダを下ろしたツダは座り込み、顔を伏せたまま舌打ちした。

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