【078】この色の色
手を伸ばして月を掴もうとした。
なんの未練もないと思っていたのに不思議なもので、人間というのは最後の最後には生に縋り付きたくなる生き物なのかもしれない。
もちろん月に手が届くわけがない。
あの明かりが、月だったのかどうかすら分からない。
真っ暗で、冷くて、小さな、大きな泡が私の体をなめるように、月に向かって舞い上がってゆく。
朧月の今夜ぼくは、このまま深海に溶けていくのだなと、閉じそうになる意識の中で思っていた。
「マルの中には、全部同じ漢字一文字が入るんだよ」
「全部同じ?」
「そう」
「でも、クレアは漢字知らないもん」
「うーん。でも知っていると思う。小学校1年か2年くらいで習う漢字だから」
クレアはノートの切れ端に私が書いた文字を再度指で追いながら読みあげた。
〇〇の〇見る〇は多けれど 〇見る〇はこの〇の〇
この和歌を、私は塾で習った気がする。
クレアは働かないといけないから中学校には通っていないと言っていた。いくら貧しいからって戦後すぐじゃあるまいしと思ったけれども、この小さな島ではよくあることなのかもしれない。
本島の崖から海に落ちた私を助けてくれたのは、夜釣り中のクレアのお父さんだった。掴もうとした月明りは船の明かりだったのだろう。命を助けてもらい、二人と一緒に生活させてもらう代わりに、クレアに勉強を教えてあげて欲しいと頼まれ、ひと月近く経つ。
本島での私の生活や、崖から落ちた理由は覚えていないから帰ることはできない。
でも不思議と、大きく息を吸って生きているという感覚が得られるから、私はこの島が好きだと思える。
今夜は小屋の外で、さざ波を聞きながら、ビールケースを逆さにした机で、月明かりがまぶしいくらいだったから。
この和歌をふと思い出してクイズにしてみた。
「じゃあ……『人』かな?」
クレアは〇の下に「人」と丁寧に漢字で書き、当てはめて読んでみる。
「人びとの 人見る人は 多けれど 人見る 人は この人の人」
「どういう意味?」
「えーっと。マキちゃんカッコいいでしょ。だからみんなが振り返って見るの。でも残念、マキちゃんは私のマキちゃんですからーって意味。ふふ」
私の腕をぎゅうと掴んで上目遣いで見てくるクレアが可愛くて、思わず吹き出した。
「ありがと。でも違うよ」
彼女は私の着ていたブレザーの内側に「Makimura」と刺繍が施されていたのを見て、勝手にマキちゃんと呼んでいる。たぶん、産まれてからずっと「ちゃん」付けで呼ばれたことはないと思う。でもクレアは私を「ちゃん」付けで呼ぶのが自然だと言い張り、私もくすぐったいけど心地よいからそれを受け入れている。
「じゃあ……花? お花見のことかな」
「あ、違うけど、いい線いってるよ」
「ほんと? じゃあ……」
ニコニコ顔でクレアが再び空を見上げて考える。
「わかった!『色』!」
完全に「わかった」口調で、ノートに『色』とひとつ書いて、ゆっくり声に出す。
「色々な、色見る人は多けれど、色見る人は、この色の色」
自慢げなクレアの言い方は、なんだか正解を言ったように聞こえた。
クレアも「正解」という返事を待っているように見えた。
「いや、『色』と『人』がまざってるよ」
「え? あれ? やだぁ。いいと思ったんだけどなぁ」
クレアはがっくりと肩を落としながら、もう一度、色々な……と繰り返し呟き、言い訳めいた言葉をくちにする。
「いろんな色があってさ。みんないろんな色を知っててさ……」
「いろんな色」と聞いても、私の頭の中にはモノクロのパレットしか浮かばない。
色々な色があるって言いながら、でも「その色は赤」「この色は青」。どうせみな同じ答えを言う。色々な色もひとつずつ正解・不正解があって、「赤」を「青」と言えば訂正され、あなたは間違えたと烙印を押される。
これが何色かは、みんなの共通認識。多少違っても、赤っぽい色は赤の仲間。青っぽい色は青の仲間。きちんとカテゴリーが決められていて、必ずどこかに当てはまる。その色がどこに分類されるか、それもみんなの共通認識。
急に息苦しくなって何か思い出しそうになった。ぎゅっと目を瞑ると、クレアが突然解説を始めた。
「色見る人は、この色の色。それってさ、その色を見ている人にとっては、それがたとえ何色でも、その人にとって、その色なの」
「え?」
何を言っているのか分からなかった。暗闇の砂浜を横切るカニが目に入る。「たとえ何色でも?」と聞き返す。
「うーんと、だから、『この色』の色は、見る人によって違うの。いろんな色があって、白って言う人もいるし黒って言う人もいる。でも誰が何といっても、これはとにかく『この色』なの」
見る人によって違う?
私はクレアが確信を持って話し出すのをじっと見つめる。
「それが白でも黒でも。赤でも青でも。何色でもいいの。『この色』が何色かなんてどうでもいいの。何色じゃなくて、『この色』なの。それでいいの」
まくしたてるように一気に喋り、「どう? 正解?」と目をキラキラ輝かせて、また上目遣いで聞いてくる。
――この色が何色か、なんてどうでもいいの
なんて前向きで、なんて自由で、なんて無邪気なんだろう。
赤でも青でもいい。自分がいま、目の前に見えている色が、そのものの色で間違いないんだ。命名や分類する必要なんてひとつもないんだとクレアは言っている。
「どうでもいい」という一見投げやりな言葉は、私のような人間を救う言葉にもなる、と感じた。
「色々に、色見る人は多けれど、色見る人は、この色の色!」
ノートを見ながら自信満々に答えを繰り返すクレアに、私は優しく忠告する。
「だから、『人』が混ざってるって。不正解だよ」
「あっ、ほんとだ」
クレアは、いま初めて気づいたって顔でびっくりしたように私を見るから、私もびっくりして思わず笑う。
「ふふふ」
「あはは」
二人で上を向いて笑い合いながら、輪郭のはっきりしない月を、今度こそ掴めそうな気がして、私は思いきり手を伸ばしてみた。
※「月月に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」(よみびとしらず)
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(本文の文字数:2,436字)
(使用したお題:「深海」《和歌or俳句の使用》)
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