【029】血の力
弟の病気は重いらしい。もはや河童の血液を輸血する他有効な治療法はない、と医師は宣言した。
「そしたら息子は助かるでしょうか」
「命は助かるでしょう。その後も人間らしくいられるかはまぁ、五分五分といったところですが」
父は唸り、母はしくしくと泣き始めた。
私はひとり、弟の病室に向かった。弟はベッドの上で点滴の管に繋がれながら、体を起こして『ニンジャ大全』なる本を読んでいた。私に気づくとちらりとこっちを見て、「姉ちゃんか」と呟いた。
「ねぇ、あんた河童ってどう思う?」
「うーん、ふつう」
弟は答えた。好きでも嫌いでもないと言った様子だった。
「自分が河童になるのは?」
「あっ、そういう話か」
弟は本から視線を上げた。「……なるのはちょっとなぁ」
「半分人間で、半分河童になるのは?」
「うーん、それもちょっとなぁ。おれ鍋焼きうどんとか餡かけチャーハンとか好きだし、きゅうり苦手だし」
「河童の血が入ったら、たぶん熱いもの苦手のきゅうり好きになるよ。自然とね」
「うーん、でもやっぱりなぁ。おれ、ニンジャになりたいし」
弟は考え込んでしまった。気持ちはわかる。「あなたは河童になるかもしれない」なんて、そんなことを急に言われたらどう思うか。
私は病室を出た。どうするかは弟が決めたらいい、と思った。完全な河童になって川に入るのも、死んでしまうのも、弟がいなくなることには変わりがない。特に私は水辺が苦手で川になんかほぼ行かない。もしも弟が川に移住してしまったら、おそらく、もう永遠に会うことはないだろう。
結局、弟は輸血を受けることになった。むろん、河童の血液である。本人は渋っていたけれど、なんとか生きていてほしいという両親の懇願に折れたのだ。
何度か検査を受けた後、輸血は実行された。
「なんだ、結構平気そうじゃん」
指の股に水かきができたものの、弟は以前とほぼ変わらないように見えた。
が、一ヶ月ほどすると様子が変わってきた。弟は好物の鍋焼きうどんが食べられなくなり、きゅうりばかり齧っている。次第に人間の言葉を喋らなくなり、話しかけると「ケケケケケ」と気味の悪い声をあげた。頭頂部に皿が、背中に甲羅が出現した頃、家にやってきた宅配便の人に相撲を挑んで尻子玉を抜こうとしたため、大問題になった。
「やっぱり河童になってしまったのね」
母は泣いた。
家族会議の結果、弟を川へやることが決まった。もう人間の社会では生きられない。周囲にとっても、本人にとっても不幸だ。
私たち一家は川に向かった。私は弟の手をしっかり握って歩いた。弟は濡れた手で握り返してきた。幼い頃に戻ったような気分になった。うたを歌うと弟はリズミカルに「ケッケッ」と合わせて鳴いた。
やがて、大きな川を跨ぐ橋に到着した。弟は待ちきれないといった様子で、お別れも言わず橋の上から川面に飛び込んだ。そのままスイスイと泳ぎ始め、見る間に見えなくなってしまった。
「本当に河童になってしまったのね」
母が寂しそうに言って、川下の方へと手を振った。それから私の方を向いた。
「あなたのときは上手く行ったから、今回も――と思ったのに」
「……そうね」
そう、そういう気持ちは私にもあった。私の弟だから上手く行くんじゃないかと。でも今更どうにもならないことだ。
私はスカートの下で、二股になった黒猫の尻尾を振った。三角の耳をピンピンと動かし、弟の消えた方角を探ると、さよならの代わりにゴロゴロと喉を鳴らした。
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(本文の文字数:1,401字)
(使用したお題:「永遠」「鍋焼きうどん」「ニンジャ」「河童」「黒猫」「うた」《叙述トリックの使用》)
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