【020】クロノスタシスと猫

 彼女は言った。


「ねえ、クロノスタシスって知ってる?」と。


 僕は顔を上げ、彼女の目をしげしげと見つめた。

「なんだっけ、それ」

「時計の針が止まって見えることがあるでしょう? そういう現象のことよ」

 針が動く。しかしその音を、彼女が認識することはない。


 実のところそのような彼女の言葉は、もう何度聞いたかわかったものじゃなかった。


 信じられないと思うが、この星に住まう全ての人間の時間は止まってしまったらしい。時計の針が進もうとすると、また一分前に戻ってしまう。

 永遠にこの一分間が繰り返されているのだ。そして誰も、そのことに気づいていない。


「ねえ、クロノスタシスって知ってる?」


 また、彼女が言う。先程と寸分たがわぬ笑顔だ。

 僕たちの前に置かれた鍋焼きうどんはすっかり冷めてしまっているが、彼女がそれに気づく様子はない。いつまでもありつけないまま、せっかくのうどんがどのような状態になったら彼女はこの異常な事態に気づくだろうか。


「なんだっけ、それ」

「時計の針が止まって見えることがあるでしょう? そういう現象のことよ」


 いつまでも進まない壁掛け時計の下には食器棚があり、新婚旅行で行ったイースター島の写真が立てられている。

 本当に随分と大きいのよ、モアイって。どうやって運んだのかしらね、と彼女はしきりにそう言っていたっけ。

 食器棚の前には、今朝がた彼女が置いた猫用の餌皿がカラになっている。

 さらに棚の横には、結婚祝いに友人から贈られた名前入りの日本酒が、贈られたままで飾られていた。飲むのを誰より楽しみにしていた彼女がこのような有り様であれば、もう封が切られることさえないだろう。


 彼女がまた口を開く。壊れたおもちゃのようである。僕はそれを飽きずに聞く。とても静かだ。


 僕は立ち上がり、彼女の真横を歩いた。それから、自分の手で外から調達してきた食事にありつく。


「あら……ねえ、あなた。クロが何か食べているわ。どこから持ってきたのかしら、こんな……」


 珍しくいつもと違う台詞を言いかけた彼女が、しかしまた前を向き直り「ねえ、クロノスタシスって知ってる?」と尋ねる。結局のところ、いつもと同じだ。


 そう。同じことの繰り返し。


 いつも通り彼女の夫は「なんだっけ、それ」ととぼけて言って、彼女はそんな夫を愛しげに見つめながら「時計の針が止まって見えることがあるでしょう? そういう現象のことよ」と答える。


 僕はそんな二人の会話を聴きながら伸びをする。真っ黒な毛並みを舌先で整え、うたうように「みゃあ、みゃむ、みゃん」と鳴いてみる。


 餌皿はカラになって久しいから、僕は自分自身で食事を調達しなければならない。だが、それだけだとも言える。元々野良育ちであった僕だ。獲物をしとめるくらいはたやすい。

 あとは僕の飼い主たる彼女らのことだが、それについても僕はあまり気にしていなかった。この人たちは少しせかせか生きすぎていると思っていたところだ。ちょっとぐらい時間が止まったとして、それがなんだと言うのか。

 繰り返しの一分間、たまにすり寄ってはその手で撫でてもらう。僕にとってはそれで十分だった。

 むしろ僕は上機嫌である。

 僕は留守番が嫌いだ。彼女らが一日中家にいるというのは大変喜ばしいことだった。


 もう一度「みゃあ、みゃむ、みゃん」と鳴く。うたうように鳴く。


 理由なんて一つもわからないが、この星に住まう全ての人間の時間は止まってしまったらしい。

 だけど僕にはあまり、関係のない話だ。



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(本文の文字数:1,407字)

(使用したお題:「永遠」「鍋焼きうどん」「黒猫」「うた」「日本酒」「モアイ像」《叙述トリックの使用》)

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