【010】二月十九日、雪
深夜二時、河童が訪ねて来た。
「なべやきうどんを食わせてくれ」
戸の外は雪が舞っていた。
◇ ◇ ◇
「冷凍でいい?」私は四角く凍ったうどんを河童に見せた。
茶の間に胡座をかく河童は、小さく首を傾げた。
「分からない、任せる」
駄々っ子が口を尖らせたような、小さな
声は人間と同じだけど、見た目はやっぱり河童。黒のパーカーに黒デニムでも、露わな肌はかすかに青みがかっているし鱗がある。目鼻立ちや短い髪の生え方は人間とそう変わらなくても、頭にはシャンプーハットみたいなお皿があった。
寒い台所にブゥゥンと電子レンジの音が響いた。
河童ってホントにいたんだなぁ。信じてても、見るのと聞くのじゃ大違い。
土鍋はシンクの下にあった。所々ひびがあったけど大丈夫そう。火にかけて、顆粒だしを振った。具は何がいいかと冷蔵庫を開ける。一番上には、昨日買い直したキュウリ袋。
「……やっぱりさ、キュウリ好きなの?」
「なぜ知ってる」
「そりゃぁね」
でも今は具の用意。白菜に人参とネギ、それにしめじと卵。油揚げも。
「油揚げって大丈夫?」
「分からん」
「……元は大豆だよ」
台所と茶の間の間には硝子戸、そのすぐ脇には冷蔵庫。少し顔をずらして河童に話しかけた。「豆か。そうか」声が不安げだから少しにするか。
河童に背を向け、シンクへ。どの野菜も使いかけでラップしてある。
まずは白菜に刃を滑らせた。いつも万能包丁だから菜切り包丁は少し怖い。まな板が、高くたどたどしく鳴った。
「懐かしい音だ」
河童が台所に来たらしい。
「はは、下手でしょ?」
「シノも初めはそんなものだった」
この床が土間だった頃はよく覗いたものだ。でもシノの母親は厳しい人でな。
ぽつぽつと語り出した河童の話に、私は簡単に相づちを打つ。途中で電子レンジが呼んだけど、後回しにする。
「
「あちゃぁ」
「可哀想なことをした」
具を切り終えて、沸いた鍋に入れた。
「シノはお転婆だった。
「えっ」私は振り向いた。物静かでいつもニコニコしている祖母のイメージと全然違う。河童の声は苦笑交じりに聞こえたけど、やっぱり無表情だ。眉もないし嘴では笑うのに向いてないのかな。
「ただ、お前と同じ年の頃から変わった」
静かな丸い眼が私を見つめた。
あぁうん。私は視線を下げて、指にくっついていた小さなしめじをシンクに飛ばした。
「祖母ちゃん、嫁ぎ先でいじめられて帰ってきたんだってね。母さん連れて」
「……そうか」
しゅんと視界の端で湯気が上がった。
蓋を取ると、人参の黄色いあぶくがぐつぐつと浮いていた。湯気で顔が湿る。調味料で薄めに味をつけて、半解凍のうどんを投入した。
「座ってたら? もう少しだよ」
「座りづらい」
河童はデニムをちょいと摘まんだ。なるほど。
「昔、裸のまま出て来るなと怒られた」
「あー! 日記にあったね」
「にっき……?」
祖母は、日々のことや思い出を丹念に綴ったノートを遺した。特に河童との交流は詳しく。だから私は、河童が訪ねて来ても冷静でいられたのだ。
私はそれを仏間に取りに行って、河童に見せた。文字は読めないらしい。
「えぇと。『カッチャンが初めて服を着てきたのは、六十年も前。全然似合ってなかった。』」
河童に眉間があるなら、今寄ったと思う。
「ここも。『夏は、裸のカッチャンがトウモロコシに隠れてたのを思い出す。ニンジャみたいな動きがおかしかった。』」
「気づいてたのか」
「『猫とは仲がいいみたい。楽しそうに遊んでた。』」
「猫と? あぁ、あの黒猫は吾を魚と勘違いしていた。仲がいいはずないだろう」
読み上げる祖母の言葉に、河童はひとつずつ答える。私は合間にそっと
「『カッチャンが側に来てくれなくなった。』」
「河童といたら、いい連れ合いもできまい」
でも祖母は再婚しなかった。晩年は一人でもこの家にいたいと、私たちと同居もしなかった。友達がいるから寂しくないと。
そうして五日前の寒い朝、眠るように亡くなった。枕元に日記を広げたまま。私はそれを隅から隅まで読んで、春までこの家に残ることにした。祖母の願いを叶えるために。
「『昼寝の間に畑の草がみんな取ってあった。きっとカッチャンだ。』」
「……シノは腰が痛かっただろう」
「『今朝、また灯油缶が玄関に運んであった。』」
「だってシノは、もう重くて持てない」
「『カッチャンにお礼を言いたい。』」
「でもシノは……吾は」
河童は黙り込んだ。私はたまらず、河童に日記を押しつけた。そしてもうもうと湯気立つの中に卵を割り入れた。蓋をして火を消して――できあがり。
「なんで、鍋焼きうどんなの?」声が掠れた。
「シノが、一等好きだと言っていた。でも、食べさせないと言われて悔しく思っていた」
「どうして?」
「干からびるからだろう。吾は、河童だから」
永遠に夜が続くような静けさが冷えた台所に満ちた。
「できたのか?」
「……できたけど、あげない!」
私は河童を押し退けて冷蔵庫に向かった。わざと音を立てて物を出す。「おい、うどん」無視してキュウリを洗って拭いて、見つけておいた折詰め用の容器に入れた。「冬にキュウリが」河童は驚いたような声を上げた。
添えるアルミカップには叩き梅と味噌をほんの少しだけ。「その赤いのは?」「梅干し!」耐えきれずに鼻水が垂れた、涙も。腕で拭って、容器に輪ゴムをかけた。せっかく用意したリボンを結ぶ余裕もない。
河童に向き直り、それを押し付けた。
「『一度くらいは手作りの梅干しと味噌を食べてもらいたかった。でもカッチャンが干からびるのは嫌だ。』って!」
「シノ……?」
「『一等好きなキュウリなら、もらってくれるかな』だってさ!」
最後の頁は何度も読んだから覚えていた。日付は十三日。
河童はしばらく呆然としてから中を見た。そして梅を指で掬って少しだけ口に入れた。
「酸っぱい」丸い眼から涙が流れた。
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(本文の文字数:2,497字)
(使用したお題:「永遠」「鍋焼きうどん」「ニンジャ」「河童」「黒猫」)
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