第1章 青天のへきれき ②
輝きが薄れてゆく…。
散り消えてゆく光の中心にあって、ゆるりと閉じられる黒い双眸。
瞬間的なもろもろの無我を経て、
いささか、やりすぎたというような事後感傷のもと…――園平大陽は、鮮明でありながら、どこまでもあやふやで捉えどころがないその境地からぬけだした。
うっそりと瞼を持ちあげた彼の目に映ったのは、へたっと藻類が貼りついていたりする高低差の極端な地形。
さしたる衝撃もなく、すとんと。
自ら座りこむ感覚で腰をおとした地面は、温かな水気をふくんでいた。
服を通りぬけた液体で、皮膚の表面……尻や手が濡れてしまったが、そうして乗った泥の土壌がほどよい熱をおびていたので、不快というほどではなかった。
それまで体がうったえていた息苦しさや
なごりすら残ってなかったので、じっさいにそうあったのか、わからなくなる。
たゆらぐぬるま湯……透明な液体は地表をぬかるませる
ぱっと、目に入ったのは、
合わせをぱっかりひらいた二枚貝。
近くの岩場に赤いカニがひっかかり、ひっくり返っていて…。
巻貝、
地表を庇う透きとおった液体と、ところどころに散らばっている海の生物。
その場所は、海岸のようだった。
(…ん…っと、…
たしかに、彼がもまれた水は塩辛かった。
つい、さっきまで海中にいたのだろう……けれども、
大陽の頭の中には、海に入った記憶も落ちた記憶もなければ、そういった場所を訪れた記憶もない。
わけがわからぬままに、あたりを見まわしてみると、上部が深緑色の草や木立におおわれた切りたつ地殻がさほど遠くない位置にあった。
足もとには、多量の水をふくんで、ぬかるむ土壌。
そこは泥土が堆積した、けっこうな規模の谷底……否。彼のはるか前方と後方に立ちあがる台地と台地の境目にひらけた平地のようなところで、見あげた
微妙な光をおびているが、おぼろげで、星も出てなければ月もない。
夜ではなさそうだが、昼でもないだろう。
黄昏時か日没…、もしくは夜明け前なのか――…
どれでもないような、理解しにくい予感もあったが、ともあれ、中途半端な明るさがある。
ついさっきまで彼を窒息させていた大量の塩水は、どこにいったのか、である。
いま水は、平べったい地表に、うすく漂っているばかりだ。
数瞬前にのまれた圧倒的な感覚あいまって、思考が状況に追いついていない。
目に映るものを、ただ、だらだらと観察していた園平大陽は、そこではっと、腰を浮かした。
その時、彼の足もとには、身により添うはずの影がきれいさっぱり存在しなかったのだが…。大陽が気をとられたのは別の事柄だ。
生ぬるい温泉のようだった地面が、体積を増した水にひたされて温度を下げている――
水が戻ってきているのだ。
こうして眺めているあいだにも、水嵩は確実に増していた。
とっさに、これは月の潮汐作用か何かで起きた現象……海の満ち干だろうと思いこんだ大陽は、遠い上方にうかがえる緑をふりあおぎながら、一も二もなく駆けだした。
そんな彼は、まだ思春期もはじめ。
十代の半ばにも達していない未熟な少年だった。
ぱしゃばしゃと、水しぶきをあげ、走りにくいぬかるんだ土壌を蹴ってゆく彼の体はいま、地面にじかに座ったことで濡れた部分と、駆けゆく過程で飛ばし散らかした飛沫にさらされた個所をのぞけば、すっかり乾いている。
溺れたのは夢だったのか…。
あるいは知らないうちに、けっこうな時が経過していたのか…。
そうして目に映る
そんな
くずれやすくなった身をさらす魚体が、ひとつ、ふたつ、満ちてきた水にさらわれ、ゆさぶられている。
実情を考慮すれば、ただの潮汐作用ではないことはあきらかなのに、溺れたあとで、水が戻ってきているという現状から逃れようと奔走する大陽の頭は、目に映った情報の多くを軽視し、見過ごした。
自分が水にさらわれることなく、とり残されていた理由。
溺れていたのに、服や髪がすっかり乾いていたわけも、。
不思議に思い、異常と受けとめても、深く考えるまでにはいたれずに。
――とにかくいまは、水に吞まれなければいい。
高いところへ、登らなければ……。逃れなければ! と。
しかし。
そんな彼の焦燥に曇った思考――生命重視の目減りした理性でも、無視できない重大な疑問が視界に転がっていたのだ。
(…ここ……。ここは、どこだ?)
経過を掌握できていないので、とうぜんといえば、とうぜんだったが……。
眼前に迫る黒っぽい岩場に、とりつく手がかりを探しながら思案した大陽の黒目がちな瞳が、これという情報を求めて一帯をさまよう。
溺れる前は昼間だった気がするのに、上方に展開する空は遠く、高さを感じさせはするが、薄霧にかばわれているみたいにぼやけている。
たしか…、
夏休みがあけてから、間もない九月。
台風が沖縄近海をさまよっているニュースなら見たが、そんなのは遠い海の向こうのことで…。
大陽が住む本土の街は、その日、絵にかいたような快晴だった。
真っ青な空の一角には、まばらな白雲が散らばっていたはず……。
――
ぐるりと展開する大パノラマは、自然色豊かな別天地なのだ。
上方をふりあおいでも、建物ひとつ、電信柱ひとつ、道路やガードレールさえ見つけられない。
大陽が住んでいた街とは、明らかに違う……過去の記憶にもない見知らぬ風景だ。
着の身、着のまま、身ひとつで、自分は、ここで何をしているのだろう?
悩みとまどう彼の体毛……髪や眉毛は、日中の陽の輝きを彷彿とさせる、独自性の強い金色になっていた。
さらには、
そこかしこに横たわっている岩だなの起伏には、真上から光を受けているような暗い影が生まれているのに、彼の影だけが見あたらない。
冷静に受けとめることができていたら、いくつも挙げられた異常。
現実に追われ、あたふたしている大陽は、多くを目にしながら、そこに見たおかしな事実のいくつかを見過ごしたのだ。
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