太陽と月と星の邦土

ぼんびゅくすもりー

第1章 青天のへきれき ①

 

 意識が白濁しはじめた時、誰かがどこかで笑った。

 知っている…――気がするのに思い出せない。

 そこに広がりはじめた白色に、自分が融けだしてゆくように思えて……

 園平そのひら大陽たいよう、中学一年の晩夏…――

 気づくと彼をとりまく世界は、みごとにひっくりかえっていたのだ。



 …ゆうぅらゆら……

 すき間なく全身にまとわりつくものと浮遊感。

 自分の髪の毛が翻弄され、うごめいているのを自覚する。

 ともなく、


 ぐほっ……かはっ…――ぐ……


 空気が彼の口と鼻から逃げて、塩辛い液体が流れこんできた。

 鼻腔がツゥンと異常を訴えたので、本能的に息を止め、体を回転させる。

 身を支えうるもなど何もない、うわついた感覚のなかにも、口と鼻を右の手で覆いながら空気が逃げにくくなるバランス。姿勢を探りあてる。

 そして、目を開いた。


(ぉ…あ、え? …水……海…の中…――?)


 彼の視界に飛びこんできたのは、青暗くゆらめく世界。

 

 どうゆうわけか踏みしめられる地面はどこにもなく、目と鼻の先を小魚の群れと思われる銀色のひらめきが回遊していた。

 目、鼻、皮膚、口……三半規管が、いま彼が、現実にどうあるのかを知らしめる。

 頭から足の先まで液体にひたされているわけだが、大陽としては、なぜ、自分がそんな状態に陥っているのかがわからない。

 理解しあぐねて、つかの間、ぼうっとした彼だが、そうしている中に、直感が知らしめる鬼気迫る予感にのまれた。

 じょじょに身をしぼられてゆくような、不可欠な何かが枯渇してゆくその感触に、我をとりもどす。


 液体の中に。水中にあるのだ。

 空気はない。

 意識したとたん、いっそう息苦しさをおぼえた大陽は、必要な素材を求めて、かいなく水を掻いだ。

 四肢を泳がせながら、ぐるりとあたりに視線をはせて、日の光を探し求める。


 一帯は、微光をふくむ闇で占められていて、上も下も、北も南もわからない。

 明度になれてきた両目を凝らして、あたりを注視すれば、遠方にうっすらと沈んで見える地形の起伏が確認できないこともなかったが、水にもぐることを想定して空気をためこんでいたわけではない彼には今、そのようなよゆうなど無かった。


 泳げないわけではないが、先だつもの――

 とにもかくにも、酸素がなくては肉体がもたない。

 いましがた、大量に逃がしてしまった気泡がおしくなる。


(――このままじゃ溺れる…、きっと、溺れる…。……)


 すでに溺れているようなものだった。


 危機感と焦燥。

 せっぱつまった状況で、彼はいま、自分が置かれている環境がどんなものなのかを必死に考え、把握しようとした。


 強い流れは感じられない。

 水の動きは安定している。

 ならば、やはり、

 力をぬいて、自然に浮く方向…――逃がした気泡が上っていく方が上か?


 大陽は、ようよう導き出した答えをこころもとなく思いながら、これと予測した方へと水を掻いた。


 頭のなかでは、ずんずんともジンジンともつかない苦痛が飽和している。

 心は窮地を知って、あせっているのに、酸欠状態に陥った体は重くなるいっぽうだ。

 手足も思うように動いてくれない。

 のぼりつめたところが岩盤に閉ざされていたら、どうすればいいのだろう?

 そんな現状を憂う以前に、限界が近すぎて、そこにすら到達できそうにないのだ。


(…なんで……? …なんで、俺……。こんなん、なって…?)


 すっと、意識が闇にのまれそうになった、その瞬間、

 一変して、常よりはるかに冴え冴えとした感覚のきわに染まった大陽の脳裏を占めたのは、鏡のよう凪いだ水面だった。


 ただっぴろい薄闇のなかに、横たわる大量の水。

 その上には、ついさきほどまで彼が求め探しあぐねていた空気がある。

 遠くに望める陸地では、ちらちら、ちらちら……

 このうえもなく果敢かかんでありながら、はかなくも虚ろな輝きをまとった人々が暮らしている――

 せまいようで広い。その荒漠とありながら凝縮された世界を、肉眼ではなく、心の目で見てとる。


 そんな感覚――境地は、過去におぼえがないのに、よく知っているもののようにも思えて……

 その時、脳内に見えた光景をと。

 違わず身近にここに今、存在するものとして受けとめ理解した大陽の内にめばえたのは、正気なら、ばかばかしくなるような思考――確信だった。



 ――問題ない……。障りもない…――



 心配するようなことは、なにもないのだと。


 瞳はひらいていても、酸欠が進み、焦点をむすぶことをしない――

 彼の周囲は、いまも変わらぬ厚い水に閉ざされている。

 そうありながらも彼は、心から安堵したのだ。



 ――ここならば…――易い…――


 ――…ここには、✴️✴️✴️…が……あるから…――



 それは瞬間的な悟りで…――


 その感覚が自分のものか、ほかの誰かのものかも理解しないままに呑まれた大陽は、限りなく無私に近い、万能感にも似た感覚の極地にいたる。



 ジジジジジ……

 いつから聞こえていたのか。

 耳鳴りとも異なる奇妙な音がしていて……いずこから湧きだしたのか知れない白金の輝きに包まれる。

 すべてを焼き尽くすような白熱の中、大陽は、それをまぶしいとは思わない。


 ――トクン…トクン…トクン…トクン…


 いぜん、水中にありながら、光を見失いかけていた両眼視覚も、ままならなくなっていた四肢も心音も、平素の活動力を…――、

 じっさいは、それの上をゆく確かな肉体機能をとり戻している。


 ジュォォオオオォ……

 密度の高い中央から、拡散してゆく輝きの芯にあって、聞こえた雑音。

 じゅわじゅわと煮えだし、はじけ、気体に変化し放たれ、消えゆくような……騒がしいまでの微音の混雑が肌の身近にあって、


 その中枢で。

 ほんの少し前まで海中をただよっていたはずの大陽の体は、徐々に下降をはじめたのだ。

 白金色の輝きに包まれたまま、深みに沈んでゆく。


 下へ…、

 下へと……。


                    ♢♢♢


 わずかに時を遡り、

 園平大陽が沈んだポイントを、少しばかり離れた水の上から見てみる。

 そこは緑に埋もれた島が、ぽつぽつと海面から顔をのぞかせる多島の海だった。

 あたりに存在する地殻のほとんどが、波のない水に占められ、いま、この世界の大部分がそうであるように、薄ぼやけた闇に包まれている。


 無音の中に横たわる水面みなもはさながら、鏡や薄黒いガラスのようで……

 変化があっても、おそろしく遅々としているだろう、そこには、未来永劫、変わることなく存在してもおかしくないような連続性、

 どうじに、いつ崩れるとも知れぬ、ありのままの静寂が横たわっていた。


 いっぽうを臨めば、なだらかな陸地が帯のように伸びているのが見てとれる。

 その方面に散りなずむ光にうっすらと稜線をさらしだされているそれは、正視すると動きのない海と暗くなじみ融けだしているかのような錯覚を起こさせた。

 海と陸の境も確認できないので、遠いようなのに異様なほど裳裾を伸ばしてくるようでもあり、まったくといっていいほど距離感が読めない。


 そんな、いまはまだ、これという変化もない静まりかえった海原の彼方。大海のどまんなかに、ぽつんとひとつ。

 鋭い光を放ち、漂うものがあった。


 遠い陸地を背景に、外海の島々に舳先をむけた舟が一艘。鏡面のような水の上をすべっている。

 その舟には白っぽい髪の若者の姿があり、そのあたりから、冷ややかなまでに厳格な光がふりまかれていた。

 照明器具のようなものは見あたらない。

 舟の横木に腰かけている男……その人物そのものが発光しているのだ。


 若者が発する輝きは、空と水しかないような茫々たる界隈にあって小さな点に過ぎなかったが、このうす暗い空間に、ただひとつともされた高出力の白熱球のごとく際立っていた。

 舟の輪郭や水に接している側面には、光にさらされた物体がかたどる黒々とした陰影が生まれている。

 水をこねる櫂も、風を受けとめる帆も備えていないにもかかわらず、その光る人を乗せた船体漂浪物は、なんの支障もなく海上をまっすぐ移動した。

 静まりかえった大気と、波打つことをしない一面の水。

 怪異は、その不可思議な小舟が舳先を向けている海のはるか前方で起こったのだ。


 現場は、ちょうど園平大陽が溺れていたポイント。

 緑のぼうしをかぶった島々が、みっつ、よっつ、海上に頭をのぞかせているあたり。

 その界隈かいわいが、ぱあっと、なんの前触れもなく、白金の輝きに包まれたのだ。


 しばし、わだかまり、停滞しているようにも見えた灼熱の光明。


 舳先を向けている方角で起きた遠方の異変――海中に潜む光のわだかまりを目にすると、小舟に揺られていた若者は、フッと。口角をあげた。


 怪光が限られたその範囲の一点に集中・停滞していたのは、わずか六秒ほどのことで、すぐにも、逆巻くように強烈な光と熱の奔流が小舟のもとに押し寄せてくる。

 その静かだった海原をおおったのは、すべてをはじき飛ばすようなふり幅を備えた偏光ポラリゼーション

 舟の上にある若者がまとった輝きが、はかなく感じられるほど強く圧倒的な光量が、うずまきながら通りこしてゆき、さらに、そこに。

 わずかに遅れて広がりおよんだのは、放射状の衝撃波だ。

 異変が起きたポイントを中心に四方八方へ流れだした反動が、海上を漂っていた若者をこともなげに呑みこみ、追いぬいてゆく。

 一帯の海の面に衝撃とともに、とうぜんのごとくもたらされた連続する大きなうねり。

 それは一点から放射状にすべてを溶かし押し掃うような、強大なエネルギー。

 爆心源から遠く、まだ、液体がそのまま大量に横たわり占めるポイントにあった白木の舟は、怒涛のようにおしよせてきたその波動にのまれて消え失たようにも見えた。

 ――けれども。

 現実には、より冷えた光をまとう人物を乗せたまま、苦もなく水の表面を漂ったのだ。

 揺さぶられ、危うい方向にかたむき、そこに横波をうけようと、返されることなく水面にはりついている。

 重力・物体の作用を無視した異様な光景。

 命綱のようなものもないのに若者は、平素の姿勢を維持している。

 通常であれば、はじかれ、海に落ちているであろう、凄まじい波の反動を悠々うけ流しながら、小舟にわたされている横板に楽に腰かけたままの姿勢で、その現象がもたらされた方角――ありきたりの視力では、確認することも叶わなぬ遠方の島々が存在した海の一点を見すえている。

 初夏の涼しい風に吹かれているような表情かおをして、何を考えているともつかない――、

 そんな若者の端整な横顔は、いぜん、確固たる独自の輝きを維持するなかに、つけいる隙がないほど美しく映え、近寄りがたくも測り知れない神仏のあり方さまを彷彿とさせた。

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